「みにくいアヒルの子」アンデルセン作

美しく描かれた白鳥へのめざめ

田宮美智子

アンデルセンの童話といえば、すぐ、「みにくいアヒルの子」や「マッチ売りの少女」が思い浮かぶが、私はこの二つの話を、いつどこで読んだか覚えてはいない。しかし、幾度か、何かの絵本で読んだに違いない。最近読書嫌いな高校生(一年)たちも、何か読んでいこうということになり数人が集まってきた。初めからあまり長い忍耐力を要するものは続きそうもないので、童話なら漢字も少いし、短いし、夢もあるということで、童話から読んでいこうということになった。アンデルセン、ペローなどと読んでいくなかで、彼女たちが一番おどろいたのは、「赤ずきんちゃん」であった。ペローの「赤ずきんちゃん」は、おおかみに食べられて終りであるが、彼女たちが読んできたのは食べられた赤ずきんちゃんは、なんらかの形で助けられることになっている。私たちの子供の頃にも、すでに原作が作りかえられていたように思う。彼女たちは原作のペローの「赤ずきんちゃん」を知らなかった。なんだか夢を破られたのか、がっかりしたり驚いたりしていたが、やはりペローの話の方がいろいろ考えさせられるし、リアリティがあるという感想でおちついた。

彼女たちがこれまで見てきたのは童話の絵本であった。絵は直接的に訴える力が大きいし、理屈ぬきに分かるよさがある。絵と絵の連続の空間に表現されていないものを想像させるおもしろさもあるだろう。しかし人間の心情や内面性をこまやかに表現したり、理屈の美しさを表現することはできない。映像文化に慣らされている彼女たちは、特にその点で欠けている。直感的に何か感じて断片的に素早く表現できても、すじみちをたてて息の長い言葉をつづけて論理を発展させる力に欠けている。それだけに、そうした自分たちの欠けているものを克服したいという欲求も強いのかもしれない。なんとも、もどかしい読書会だが、彼女たちは童話の原作にふれてその表現力のすばらしさに魅せられた。ペローのおもしろさはさておいて、私自身も、アンデルセンの内面描写の素晴しさに改めて魅せられた。

私たちは「マッチ売りの少女」や「みにくいアヒルの子」をどのように読んできたのであろうか。「マッチ売りの少女」は貧しい少女が人々が幸せを生きているクリスマスの晩、一本のマッチのあかりで寒さをしのぎ、実現できないことを夢みて死ぬという、なんとも哀れな可哀想なお話ということのように読んできたし、「みにくいアヒルの子」は、アヒルの仲間から、みにくいといじめられていた可哀想なアヒルの子は本当は白鳥だったくめでたしめでたしという具合で、その筋書きしかつかめない。「マッチ売りの少女」でアンデルセンが書きたかったのは、特に最後のところであろう。一本のマッチをつけるという象徴的な行為は、想像力を暗示しているのであろう。少女は、物質的に満たされている人々には決して見ることのできない力を、死の直前に与えられる。不幸も幸福もすべて見つくしてしまうことのできる超能力、素晴しき想像力を持った者のよろこび、それは物質的な幸せにもまけないよろこびであることを謳ったもので、少女は決して可哀想な少女などではないのだ。

特に、私は、「みにくいアヒルの子」を読んで驚いた。みにくいアヒルの子(ほんとうは白鳥)はまさしく在日朝鮮人の姿そのものではないかと思った。アヒルたちの美的価値基準からすれば、白鳥はみにくいのであり、アヒルの世界に不条理にも存在させられている白鳥は、己れの真の姿が白鳥自体の美を持っていることの認識を奪われているから、アヒルたちの眼に従って自分も醜いと思いこんでいる。一般的に私達は白鳥は美しい鳥と思っているから、客観的に見れば、白鳥をみにくいと思っているアヒル達の方がいかに滑稽であるかがわかるだろう。特に白鳥賛美の北欧の作者アンデルセンも、他の鳥をではなく白鳥を選んだのは、読者が理屈ぬきに美しい鳥と認めてくれるものでなければならないと計算したからであろう。しかし、アンデルセンの意図は、アヒルたちからみにくいといじめられた鳥は、実は白鳥だったのだと、白鳥の美をひき立てたりアヒルたちのおろかさ、滑稽さだけを描くことだったのであろうか。逆にいえば、白鳥を基準にすればアヒルはみにくいということになるだろう。

アヒルたちから虐待された、みにくいアヒルの子は自由を求めてアヒルたちから逃れていくが、ネコとニワトリといっしょに住んでいるおばあさんの家にさまよい込み、そこに三週間ばかり飼われることになる。そこで次のような会話が交わされる。

さて、この家では、ネコが主人で、ニワトリはおくさんでした。そして、いつも口癖のように「われわれと世界」と言っていました。それというのも、自分たちはめいめい半分だ、それも、一番よい半分だと思っていたからです。アヒルの子は、それとはべつの考えもあるように思いましたが、ニワトリにはそれががまんできませんでした。「おまえさん卵をうむことができて?」とニワトリがたずねました。「いいえ!」「そう、じゃ、黙っていたらどう!」こんどはネコが言いました。「君は背中を丸くしたり、のどをごろごろ言わせたり、それから火花を散らしたりできるかね」「いいえ」「そう、じゃ、りこうな人たちが話をしている時は、意見をさしひかえることだなあ!」そこで、アヒルの子はすみっこに小さくなってくよくよしていました。

一見ネコとニワトリは仲良く共存しているようにみえても、それ以外の者の共存を認めない。自分たちの価値だけしか認め合おうとしないネコとニワトリの、滑稽で、たわいもない言葉を聞きながら、みにくいアヒルの子は、むやみと水の上を泳ぎまわりたいという不思議な気持ちになっていく。ネコとニワトリが己れの種族を主張するなかで、アヒルの子は白鳥の本性を本能的に感じとっていく。このようにこの話は単にアヒルと白鳥の物語ではなく、己れの美や個性と同時に、他者の美と個性の素晴しさを認識させようとするねらいがある。自己と他者を同時に認めるということは、簡単にいってもジレンマであって、むつかしいことでもある。己れを美しいと感じれば感じる程、他者はそれからはずれていると感じるのが主観であろうから。しかし、他者から存在を否定されていた者が、自己の価値にめざめる時は、力強く、他者からみてもおごりのない美しさを発揮する。

ある日、みにくいアヒルの子は、本当は自分と同じ種族の美しい白鳥の群れに出会うのである。そこの描写はとても美しく感動的で何回読んでも飽きないところである。

ある夕方、お日様がそれはそれは、はなやかに沈みますと、アヒルの子が今まで見たこともないような美しい大きな鳥の群れが、茂みの中から飛びたちました。それらの鳥は輝くばかりにまっ白で長いしなやかな首をしていました。それは白鳥の群れだったのです。白鳥たちは不思議な叫び声をあげ、美しい大きな翼をひろげて、寒い土地から暖い国へと、大海原をさして飛んで行くところでした。白鳥たちは高く高く舞いあがりました。みにくいアヒルの子は言うに言われぬ不思議な気持ちになりました、そして水の中で、車の輪の中でぐるぐるまわりながら、はるかな空を飛んで行く白鳥のほうへ首をさしのべて、自分でもびっくりするような、高い、いつもとちがつた叫び声をあげました。ああ、あの美しい鳥、あの幸福な鳥を、どうして忘れることができましょう。白鳥の姿が見えなくなりますと、すぐ、水の底へもぐりました。そして再び水の上に浮かび上ってきた時は、まるで気が狂いそうでした。アヒルの子はあの鳥がなんという鳥か、また、どこへ飛んでいったのかも知りませんでした。けれども、いままで何よりもあの鳥が慕わしくなりました。

私たちは、同じ民族に出合って、民族的な自覚をとりもどしはじめた在日朝鮮人生徒たちが、水の中で、車の輪の中でぐるぐるまわりながら、まるで気が狂ったように不思議な気持にかりたてられているみにくいアヒルの子のように、感動と飛やくの一瞬を生きるのに、たびたび出会ってきた。それは他者を排斥する自己主張ではないから美しい。そんな時、惰性になっている私たちの教師生活も蘇生させられるように感じる。アンデルセンが、どのような現実に基づいてこの作品を書いたのかを、私は知らない。しかし、ヨーロッパは、ナチに荒らされた現実もあり、地続きで多くの民族が共存しなければならないきびしい現実があるから、民族問題と無関係ではないだろう。私は、この作品を小中学生用の教材に選んで、子供たちに読ませてみたらどんな反応をするだろうか興味をもった。私たちの読書会では、みにくいアヒルの子は在日朝鮮人などと指摘する者はいなかった。しかし朝鮮人生徒ならどのように反応しただろう。ある朝鮮人生徒が、「ぼくはみにくいアヒルの子だ」などというような発言がきっかけで、在日朝鮮人問題に発展するかもしれない。日本人生徒は、実は美しい白鳥をみにくいと思っている滑稽なアヒルの子だと知ってどう感じるだろう。しかし、作者の意図が、アヒルより白鳥が美しいと、いっているのではなく、それぞれの個性と美しさを認識し合うことにあるということをつかませれば案じる必要はないだろう。ただ、あの物語を読めば、白鳥をみにくいと思いいじめるアヒルだけには、なりたくないと思うに違いない。

 最近、朝文研の生徒たちが、自分たちの原点を知るために読書して、知識をつけようと努力することが少なくなっている。これは、日本人生徒と同じく映像文化に侵された姿なのかもしれないが、アンデルセンの童話なら読めるだろう。ぜひ一度試みたいと思っている。

『むくげ』67号1980.4.25より

     
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