「ヴェニスの商人」シェークスピア

怒るユダヤ人 シャイロックの賭

田宮美智子

人がどのような形で異民族と出会うかは、人それぞれ個別な体験に基くから一概にはいえないが、現代のようにテレビや情報文化も進んでいず、戦争という閉ざされた状況に置かれた私達の幼少年時代においては、異民族との出会いは主として童話や文学の中で、であったろう。といっても私が小学校三年のとき敗戦になったから、そのとき実際に進駐してきたアメリカ兵や黒人兵、イギリス兵、ソ連兵には出会っている。それはある意味ではめまぐるしく衝撃的な出会いであった。敗戦国の国民は戦勝国の者には何をされても仕方がないし、又残虐なアメリカ兵はきっとそうするであろうと、なんとなく周囲の大人たちから教えられていたから、私達はひよっとすると自害しなければならなくなるかもしれないと思っていた。ところがアメリカ兵は日本の子供連に陽気に話しかけたり、チューインガムというめずらしいものまで与えたりしているではないか。私達の不安と偏見のまなざしを数日のうちにアメリカ兵は変えてしまったのである。日本人がそれまでに抱いていたアメリ力人像というのは、日本人そのものの人間観の裏がえしであったことを私達は知ったのである。

進駐軍との出会いは、私にとって最も現実的意識的な異民族との出会いであったが、考えてみれば、私はそれ以前に朝鮮民族と出会っているのである。幼少のころ子供たちの遊びの中で、私たちは朝鮮人や中国人を侮辱する言葉を無意識に使っていた。私は大阪の大正区に住んでいたときがあったが、その頃、中原中也の詩にうたわれている「朝鮮女」のイメージ、白い朝鮮服の紐を風になびかせながら、泣きながらついて来る子供の前を飄々と外またで歩いている朝鮮女の姿に、私もいいしれぬ哀愁を感じていたが、しか.し、それはどこか遠い国での物語りのように幻想的な感じさえして私の心の中に固定されているのである。

いずれもそれらは私にとって重要な体験には違いないが、その出会いは個人的な関わりを持ったわけではなく、その人間の内面を理解したわけではない。そのような出会いは、大人達の考えや評価がどこかで反映しているのである。そういう意味では文学の中での民族との出会いは、総体としての民族との出会いではなく、個人としての民族との出会いであり、人間の内面との出会いであろう。

中学生になってから、私は学校の図書室においてある少年文庫かなにかでシェークスピアに出会い、夢中になって読んだ時期があった。ユダヤ人シャイロックに出会ったのもその頃である。包丁をもってアントーニオに残忍に迫っていく金貸しシャイロック。ユダヤ人という民族が存在するということを知ったのもその頃だったかもしれない。シェークスピアの作品の意図がどうであれ、ユダヤ人は嫌な奴だという偏見を持ったようだ。しかしその後まもなく、シャイロックと全く異なるユダヤ人に出会うのである。それはナチスに迫害されているユダヤ人アンネである。いつ殺されるか分らない絶望的な状態の中で希望と理性を失わず、一瞬一瞬を大切に生きるアンネから、生きるとはどういうことかを問い直されることになり、私のそれまでのユダヤ人観はひつくり返ってしまうことになるのである。

私が文学を読むようになった原点でもあるシェークスピアからユダヤ人に対する偏見を植えつけられたとすると、なにか気がかりでもあり皮肉でもある。そんなことから最近「ヴェニスの商人」を読み返してみて、意外に新しい発見がいくつかあった。

まず、シャイロックが、アントーニオに金を貸したのは金儲けのためではなかったということである。アントー二オは友人バッサーニオのために三千ダカット、三ヶ月の期限でシャイロックから金を借りる。アントーニオは船を四艘持っているヴェニスの貿易王であり、シャイロックの言葉を借りれば、「言われるままにただで金を貸し、このヴェニスの利子を引下げて、おれたちの仲間の邪魔をする」憎き奴である。しかも彼らクリスト教徒はユダヤ人を目の敵にして、犬よばわりし、唾を吐きかけて侮辱する。シャイロックはそんなクリスト教徒の一人であるアントーニオに対して復讐のために金を貸すのである。しかも三千ダカットという大金をシャイロックは全部持っているわけではない。彼は同じユダヤ人の金貸しから借りてきてアントーニオに貸す。もしアントー二オが期限までに返せば一銭の利益にもならない賭をするのである。

「人肉1ポンド」を要求しで裁判をおこす。このような人肉裁判の挿話はヴェニスにはすでにあって、シェークスピアの独創ではない。シェークスピアの創作の部分は、血も涙もない金貸ユダヤ人を、シャイロックという一人の人間として造形したのである。

あくまでも「人肉ポンド」を要求して迫るシャイロックに対して、ヴェニスの市民のユダヤ人に対する憎しみと怒りは燃えあがる。ところでアントーニオが彼のために金を借りてやった友人バッサーニオは、その後ポーシャという知性と教養の持ち主である大金持の貴族の娘に認められ結婚することになる。大金持になったバッサーニオはシャイロックに三倍の金を払うというのである。ところがシャイロックは動じない。バッサーニオと同じヴェニスの貴族である裁判官(公爵)は、このかたくななる異邦人をなんとかなだめようとして言うのである。「それが神の慈悲が望めると思うのか、人に慈悲を拒むものが?」シャイロックは勝ち誇ってこういう。「どんなお裁きを恐れると思召す、身におぼえのないものが?どなたもお邸には奴隷を飼っておいでになる。それを犬馬同様、いやしい仕事に使っておられる、金をだしてお買いになったものだからだ−それを横から私がこう申したらいかがなものかな、ひとつ奴さんたちを自由にしてやり、婿に迎えて、跡をとらせておやりなさい? 奴さんたちは、なぜ汗水たらして重い荷をかつがなければいけなのだ? その寝床も、御自分のと同様、柔くしてやったらよろしい。皿にも豪勢に同じ物を盛ったらいい。そう申しあげたら、なんとお答えなさる? こうでございましょう、『奴隷はおれのものだ』とな。御同様、私もお答えいたしましょう…肉1ポンド、それが私の要求でございますが、もとをただせば高い金を出して買っている、つまり、私のものなのだ、だからきっと頂載する。それを許さぬとおっしゃるなら、法律もへったくれもありはしない! ヴェニスの掟は有名無実ということになりましょう…」

シャイロックの主張は人が人を所有する奴隷制、封建制に対する批判であり、金貸業を正統な仕事と認めないヴェニスに対する怒りでもある。シャイロックがヴェニスの市民の怒りや憎しみを燃え上らせ、読者に残忍な迫力でせまってくるのも、彼の主張が実は筋が通っているからにほかならない。シャイロックの言葉に法廷はたじたじとするほかないのである。しかし、彼は奴隷制を批判はしても、果して奴隷制の否定者であろうか。彼は人が人を所有し、物化することに対して批判しながら、それを盾にとってアントー二オの肉1ポンド所有する権利を主張する。それは目には目にの論理でしかない。

シャイロックが証文以外にもう一つ盾にとっているのが「ヴェニスの掟」の威厳である。シャイロックはヴェニスにとって異邦人である。ところが異邦人もヴェニスでは市民権が与えられている。アントーニオと彼の友人ソレイニオーのセリフに次のようなところがある。

ソレイニオー「しかし、公爵はまさかこんなかたの取立てをお認めになるまい。」,

アントーニオ「公爵だって法は曲げられない。そうではないか、たとえよそものでも、このヴェニスでは、われわれ市民と同じ権利を与えられている。もしそれが拒否されれば、国家の正義が疑われよう。この都市の貿易も利潤も、世界の国民の手中にあるのだから…」

国家の正義の威厳が疑われては国家の存立があやぶまれる。したがって世界の利益にかかわるヴェニスには世界の眼が集まっている。世界の眼の集まっているヴェニスでは、異邦人の権利を剥奪できないのである。この作品が書かれたのは、1597年頃であるが、そのことを考えると、日本では外国人の権利の位置づけがいかに遅れているかがわかるだろう。

このようにヴェニスの法廷を相手に、復讐に燃えるシャイロックは大賭をするのであるが、勿論筋書き通り敗北する。それは、エリザベス朝劇団の座付き作家であったシェークスピアの限界でもあり、ユダヤ人に反感を持っていたイギリス人を観客としていたことにもよるであろう。

さて、シャイロックは「人肉1ポンド」の紙切れ一枚の証文にものをいわせて人の命を要求するのであるが、この裁判に知恵を与えるベラリーオ博士の推薦の若い法学士(これはバッサーニオの妻ポーシャが変装)がやって来て、シャイロックにいくども「慈悲」を与えて許してやるように忠告する。ポーシャは説く。「慈悲は恵みの雨のごとく、天よりこの下界に降りそそぐもの、そこには二重の福がある。……手に持つ笏は仮の世の権力を示すにすぎぬ。畏怖と尊厳の標識でしかない。……が慈悲はこの笏の治める世界を超え、王たるものの心のうちに座を占める。いわば神そのものの表象だ。正義の一本槍では、われわれ一人として救いにあずかるものはいない…」シェークスピアはポーシャを通して現権力のもとで行なわれている法律が、自然法を超えられないことを言っているのであろう。

シャイロックはその忠告も拒否し、あくまでも証文通りの正義? を主張する。そこでどんでん返しが始まるのである。「よろしい、証文のとおりにするがよい、憎い男の肉を切りとるがよい」とポーシャ。シャイロックは「名裁判官、ダニエル様!」と喜ぶのもつかのま、「ただし、そのさい、クリスト教徒の血を一滴でも流したなら、お前の土地も財産もヴェニスの法律にしたがい、国庫に没収する!」と宣告される。シャイロックはここでこういうのである。「それが法律でございますか?」これは実に意味深なセリフである。法律とはこのようなものなのである。もうシャイロックが元金だけでも返して欲しいと要求しても遅い。正義? を主張したシャイロックは徹底的に正義? で裁かれる。彼には一文の元金も返って来ないばかりか、ヴェニスの法律により、「ヴェニス市民に非ざる者にして、市民の生命に危害を加えんともくろみしこと明白になりたる場合は、その企図の直接なると間接なるとを問わず、危害を加えられんとしたる側において、相手の財産の一半を取得し、他の一半は国庫の臨時収入として没収」されることになる。

ここで市民権を認めているヴェニスでも、やはり異邦人には不平等であることがわかるのであるが、法律そのものが公平にみえても、それを裁く者が誰であるかで法律の解釈も変ってくる。ここでは法律を裁く相手は被告と同じヴェニスの市民で、権力を握っている貴族であってみれば、その敵のど真中で闘うシャイロックもしょせん弱き子羊である。しかしそれと同時に、シャイロックが敗北した大きな原因は、既に述べたように己れの中にある。彼の正義は、より新しい価値を生きるために、他を批判したのではない。己れの利益を守るために、他の非を利用したのである。シャイロックはなかなか面白い人物として考えさせる点はあるとしても、心の底までゆり動かし感動させるところまでいかない喜劇的人物として終るのも、その智恵や正義が有限の中での真理に他ならないからである。それに比べ、アンネの知性と情熱に我々の心の中でいつまでも生きつづける質を持っているのである。

『むくげ』68号1980.6.25より

     
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