金史良(キム・サリャン)作「光の中に

40年前この作品は、なお……

岸野淳子

私と朝鮮とのかかわりは、昭和10年代の小学校で、隣りの席に坐って.いた金花子という黒い目の少女の思い出をのぞけば、金史良が日本語で書いた小説「光の中に」から始まったことは、いまもほのぼのとした記憶として私の中にある。それは私にとって忘れがたく、好きな作品だった。久しぶりに本箱の一番下の段から、この小説がおさめられた「金史良作品集」(理論社・300)をとり出してみると、ザラ紙が日にやけて19596月、第一刷とある。

私が始めてこの本を読んでからおそらく20年の歳月が流れているだろう。その間に日韓条約が締結され、1967年には、私は始めての外国として韓国の土を踏んだ。その重い体験にうながされて今日まで、私と朝鮮との間に切れることのない細い糸をつないできたのだが、私が始めての外国として韓国を選んだことの心の奥に、金史良のこの作品があったことは、たしかだったように思う。当時は、岩波新書の「金史良」(安宇植著・1972年刊)という本もまだ出ていなくて、彼が、戦争中のごく短い期間、日本内地で作家活動をした朝鮮人であったこと以外は何も知らなかったが、金史良という存在が、私のまなざしを朝鮮にむける一つのきっかけとなってくれたのである。

金史良はいうまでもなく、日本語で書いた朝鮮人作家である.(もちろん朝鮮語の作品もある)。彼の系譜につづくものとして、敗戦後から今日にいたるまで、とりわけ70年代には、十指に近い在日朝鮮人文学者の作品が発表され、その世界をかいまみさせてくれている。私は、この欄で今度、彼らの作品をとりあげていきたいと思って、何をおいてもと、本箱から、ほこりをはらって、古い「金史良作品集」をとりだしてみた。そこにおさめられた「光の中に」という作品が、私の心に何を残したかを、ストーリーをたどりながら、再確認することから始めたいと思う。

読み返してみると、意外に短いこの小説(80)は、朝鮮人作家の芥川賞候補として話題をよんだようである。作品集のうしろに書かれた金達寿の「金史良・人と作品」によると−〈金史良が「光の中に」(「文芸首都」19392月号・芥川賞候補作として19403月号の「文芸春秋」に転載)をかいてひろく日本の文学界に登場してきたのは、いわゆる「満州事変」から「支那事変」へと日本帝国主義の中国侵略がすすんでおり、同時にそれが思うようにはならず、抜きさしならぬものとなって、それの解決をいっそう破局的なあの太平洋の戦争に求めてでようとする、わずかばかりの手前のところであった。〉

いうまでもなく時代は、日本が朝鮮半島を植民地として支配し、地図を赤く塗りつぶしていた時のことである。

〈私の語ろうとする山田春雄は実に不思議な子供であった〉という文章で始まるこの小説は、

 金史良=本名は金時昌(キム・シチャン)、日韓併合の4年後の1914年、平壌府に生まれた。1932年渡日、旧制佐賀高校文科乙類、つづいて東京帝大独文に学び、作家活動に入ったが、約2年後の、日本が太平洋戦争に突入した翌日、治安維持法にもとづく予防検束で検挙された。釈放後は朝鮮に帰り、報道班員になって、中国大陸にわたったが、計画どおり脱走して解放区にむかった。解放後は朝鮮民主主義人民共和国で作品を発表し活躍していたが、1950年、朝鮮戦争に人民軍として従軍、祖国の砲煙やまぬ山野で、短い生涯を閉じた。36歳。

 日朝混血児の春雄と、私として登場する朝鮮人の帝大生、南先生とのかかわりを通して、ひき裂かれた存在が、闇から、ほのかな“光の中に”むかうそのありようを描いた物語である。

南先生は、東京・江東区の工場街にある寄宿先のS大学協会で、夜間に英語を教え、そこの子供部にきている春雄と知りあうのだが、もちろん最初は、彼が日朝の混血児だとは知るよしもない。南先生にとって春雄はつぎのようにう「つっている。

〈彼は他の子供たちの仲間にはいろうとしないで、いつもその傍を臆病そうにうろつき廻っていた。始終いじめられているが、自分でも陰では女の子や小さな子供たちを邪魔してみる。また誰かが転んだりすれば待ち構えたようにやんやんと騒ぎ立てた。彼は愛しようともしないしまた愛されることもなかった。見るから薄髪の一方で耳が大きく、目が心持ち白味がかって少々気味が悪い。そして彼はこの界隈のどの子供よりも、身装がよごれていて、もう秋も深いというのにまだ灰色のぼろぼろになった霜降りをつけていた。〉そして自分の家のあかりをけして教えようとはしなかった。

南先生は子供たちに、すがりつかれ、肩にのられ、部屋を占領されるような心やさしい青年であった。同僚たちが、先づそう呼んだということで、朝鮮名の「なん」ではなく、「みなみ」先生と呼ばれ、内心ではそのことが非常に気にかかっていた。無邪気な子供たちと遊ぶためには、その方がいいかもしれないと、無理に思い込もうとし、それでいて〈この子供部の中に朝鮮の子供がいたら、強いてでも自分を南と呼ぶように主張したのであろう…〉という自己弁明も用意していた。

ところが、ある夜南先生の生徒の1人で自動車の運転助手をしていた朝鮮人の青年・李が、挑みかかるような調子で話しかけてくる。若くてはげしい李は、先生が、朝鮮の苗字をかくそうとすることに憤りをぶつける。それに対する南先生の答えは、歯切れがわるい。

〈「例えば私が朝鮮の人だとすれば、ああいう子供たちの私に対する気持の中に、愛情というものの外に悪い意味での好奇心といっていいか、とにかく一種別なものが先に立って来ると思うのです。それは先生として先づ淋しいことです。いや寧ろ怖ろしいに違いない。……」〉

たしかに当時は、朝鮮人も“半島人”という名の日本人であり、南先生の意識のありようは、あえて異をたてることが、許されがたいという状況を反映しているのだろう。だが、窓からのぞきこんでいた春雄が、「そうれ、先生は朝鮮人だぞう!」と叫んだのを聞いた時、南先生は果然と立ちつくしながら、〈…瞬雷光のように俺こそ偽善者ではないかという考えが閃いた。〉植民地の側に生をうけた若い知識人として、民族をうばわれてひき裂かれた内心の痛みが、ここに露呈する。

この一件があって以来、春雄は南先生に、今までにもまして意地悪くつきまとう。彼はこうした春雄の態度から、彼の貧しい一家は朝鮮で移住生活をしていたのかもしれないと思う。ある時春雄は、逃げてゆく女の子を追いかけながら、朝鮮移住の「日本人がよく使う「朝鮮人ザバレザバレ=(つかまえろの意)という言葉を投げつけた。南先生は前後の見さかいなしに頬打ちをくらわす。春雄は涙をおしこらえたような声で叫ぶ。「朝鮮人のバカ」ここまでが、五章あるうちの最初の一章だが、南先生には春雄の本当のことがわからないまま、朝鮮への異常なこだわりに何かの予感を感じている……。

南先生が春雄のことを、もしや朝鮮の子供ではないかと思いいたったのは、先生が帝大の学生であることを知った時の彼の驚きの反応だった。

〈「朝鮮人も入れてくれるかい?

「そりゃ誰だって入れてくれるさ、試験さえうかれば…」

「嘘言ってらい。僕の学校の先生はちゃんと言ったんだぞ。この朝鮮人しょうがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えって」〉ここで、当時の、朝鮮人に対する小学校の側の対応の一端がうかがえるが、おそらくこの小説と同じ時代、私の隣りに坐っていた金花子も、いまにして思えば、こんな疎外感をどこかで感じていたのだろう。本人は頑強に否定するのだが、そういわれた朝鮮人の子供が、目の前の少年・春雄に違いないと南先生は思うのだった。

そのことがはっきりしたのは、S大学協会の医療部に頭を血まみれに切られた婦人が、あの李青年にかつぎこまれた時である。彼女は、博徒である日本人の夫(実は日朝混血児)に傷つけられた朝鮮の女であり、まさに、春雄の母親であった。春雄は彼女を見て悲鳴をあげながら喚く。「朝鮮人なんか僕の母じゃないよ、違うんだよ、違うんだよ。」南先生は彼の体をしっかりと抱いてやり、目頭に熱いものが、こみあげてくる。春雄の朝鮮への異常なこだわり、いわばそのアンビバレンツの根源がここにあったのだ。彼にとって、朝鮮=母親であり、それはいまのところ背拒すべき対象でしかない。そして南先生は、春雄の中に〈…日本人の血と朝鮮人の血を享けた一人の少年の中における、調和されない二元的なものの分裂の悲劇〉を考え、〈「父のもの」に対する無条件的な献身と「母のもの」に対する盲目的な背拒、その二つがいつも相剋している〉そのさまを見る。そして白い目をむけながらも自分につきまとっていたことに「母のもの」に対する無意識のなつかしさを読みとる。

この事件が一方において、春雄の本当の姿を開示するとともに、南先生自身の偽善者をもあばかずにはおかない。南先生がこの気の毒な朝鮮の女にあまり同情しないことを李青年にはげしく非難された時、彼は断末魔のような叫び声をあげる。自分も李のような時期を通ってきたと思った瞬間、「みなみ」と呼ばれていることが、電鈴のように五管の中に鳴り響くのを感じる。そして結局自分は、たとえば正体をしきりに隠そうとするおでん屋にきた朝鮮人、さらには、自分は朝鮮人でないとわめきたてている山田春雄の場合と本質的なところでは何の相違もないことに思いいたる。

そのあと、春雄の寝姿から、彼の父親が、昨年留置場で出会った日本人半兵衛(実は日朝混血児)であることがわかる。彼は監獄の中の卑怯な暴君で必要以上に看守の目を恐れていながら、新入者や弱い者に対してひどい乱暴をしていた。春雄がこのような人間になりはしないか、という予感にぞっとする南先生は、すでに春雄をわが身のように愛していたのだ。

その翌日、病院に春雄の母を見舞った南先生は、そこに意外な朝鮮の女の姿を見出す。本名のことではげしく迫る李が、朝鮮の側からのプラスのメッセージとすれば、もう一方、春雄の母である朝鮮の女の存在は、当時の状況をそのままに反映して、朝鮮と女であることの二重の負性を背おわされたものとして重要な意味をもつ。彼女は、自分を傷つけた夫の日本人に、はげしい憎悪をもっているのではなくて、「私の主人ですもの…」とむしろかばい、「…でもあの人、妾を自由な身にしてくれました。…そして妾、朝鮮の女です…」と、いかにも悲しく言った。南先生は肩をすかしを喰わされ、〃奴隷のような感謝の念をたよりに生きてきているのだろう〃とさえ思う。同じ朝鮮人でも李青年と対極のところを生きているこの女は、そのうえ南先生に、春雄を相手にしないで下さいと懇願する。

〈「春雄は日本人です……春雄はそう思っています…あの子は妾の子ではありません…それを…先生が邪魔するのは…妾悪いと思います…」〉朝鮮というみずからの存在を、極北のところにおいて全否定する、それが朝鮮の母の、わが子への愛情であった。そこには朝鮮という言葉だけでもおこる日朝混血児の夫の存在があり、それはおそらく、支配者日本の民衆の意識をうつしだしているのであろう。春雄の中の「父のもの」への献身と、「母のもの」への背拒の相剋は、この父と母のありように根をもち、〃不思議な子供〃としての春雄をつくっているのだ。

しかし、この朝鮮の母は、極北の存在そのものにおいて、はかりしれない意味をもった。春雄は南先生のところがら盗んだきざみ煙草の「はぎ」をもって(途中で先生にみつかるのだが)病院の母親を訪れる。そして、母を見舞ったあとの春雄は、南先生が始めて見るような素直な子供らしい表情をして立ちあらわれる。母と子の間に何がおこったのか−。春雄はそのきざみ煙草を、血の傷を治すために持っていったのだ。彼は、朝鮮の母親がいつもそうしていたように、血がでた時、きざみ煙草をつばでねって傷口にはりつけるのを見ていたのである。

この日、はれて運転手の免許をとらた李青年は、新車で二人を動物園まで連れていってくれた。その途上、春雄は舞踊家になりたいという夢を明かるい声で言う。そして作品の最後は美しい〈「先生、僕は先生の名前知っているよう」「そうか」私はてれかくしに笑ってみせた。「言ってごらん」「南先生でしょう?」そう言ったかと思うと後は私の手に自分の脇にかかえていた上服を投げ附けて嬉々としながら石段をひとり駆け下りていくのだっだ。

私もほっと救われたような軽い足どりで倒れそうになりながら、たたたっと彼の後を追うて下りていった。〉

厳然たる被支配の現実そのままに、ひたすら朝鮮を背拒していた春雄に、ここに一つの転生がおこった。母なる朝鮮への自己同化によって、ひき裂かれていた春雄は始めて、まったき人間として自己を回復し、本来の子供らしい輝きをとり戻すのだ、おそらく意識の上ではみずからを否定し、わが子にさえ、それを伝えまいとしていた朝鮮の母は、きざみ煙草に象徴されるように、存在そのものにおいて(おそらく自分の意識を裏切って)息子とつながる。こうして朝鮮の母なる存在は、母斑そのものとして、わが子の全き人聞としての甦りをうながしさらに、このことに照らされて〃見えない人〃であった南先生が、見える人・朝鮮人として自己回復することを助ける。そして、ひき裂かれて闇の中にたたずむわが子と、それにかかわる朝鮮人青年の二人を光の中にむかわせるのだ。

金史良は、193911月に出た最初の作品集「光の中に」(小山書店刊)のあとがきにつぎのように書いている。

〈こう書きながら各々の作品の内容を考えてみれば、現実の重苦に押され、私の目は未だに暗いところにしか注がれていないようである。だが私の心はいつも明暗の中を泳ぎ、肯定と否定の間を縫いながら、いつもほのぼのとした光を求めようと齷齪している。光の中に早く出て行きたい。それは私の希望でもある。だが光を拝むために、私は或はまだまだ闇の中に体をちぢかめて目を光らしていかねばならないのかもしれない。〉

 敗戦後35年、つまり朝鮮半島が解放されてからの歳月は、すでに植民地としての36年に迫ろうとする時間である。その間、日本・朝鮮の、支配・被支配の関係が変ったことはあきらかだが、それでは、日本の民衆の朝鮮をめぐる意識構造は、どのように変化し、あるいは変化しないか。たとえば、一点にしぼっていえば、在日朝鮮人の子供たちをめぐる状況はどうであろうかということを考える時、約40年前に書かれたこの小説はなお、本質において、私たちに大きな示唆を与えつづけているのではないだろうか。

『むくげ』69号1980.8.25より

     
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