捕はれたものは誰だ、捕えたものは誰だ

中島敦「巡査の居る風景」

                       田宮美智子

高等学校23学年用の国語の教科書に必ずといってよい程収録されているのが「山月記」であるが、その作者中島敦が、昭和初年第高等学校に入学して、文芸部員になって以来、朝鮮や中国と日本の関係を小説にし、日本の植民地政策に少なからず批判の目を向けて書きつづけていたということはあまり知られていないようである。「山月記,」は一般に教授用指導書では、芸術家の孤独で、高踏な魂、自我の在り方を描いたものとして扱われているようだが、10年程前に大岡昇平の『俘虜記』とともに戦争文学として扱う教科書があった。「山月記」は戦争そのものを題材として描いたものではない。しかしこの作品は左翼の弾圧や言論の弾圧も徹底した1941(昭和16)以前に書かれたものであり、(発表は『文学界』172月号)そのような厳しい状況のもとで、真実を描こうとする芸術家が、どのように己れの魂をもちこたえることができるかということを問いかけたもののように思われるのである。戦争文学として扱われたのもそのような意味からであっただろう。「下吏となって俗悪な大官の前に屈すること」を嫌い「俗物の間に伍することを潔しとせず詩人としての名を百年の後に残そう」とした主人公李徴の精神は、李徴自身が自嘲まじりに告白しているように、あまりにも倨傲で尊大にすぎると思われるかもしれない。しかし作品の書かれた、あの狂った軍国主義、ファシズムの時代においては、俗に伍すれば己れの魂を売ることになり、魂を護れば生命を奪われるしかない。そのような二者択一を迫られる不条理な状況の中で、真実を表現することを任務とする作家がなおかつ作家でありつづけるためには、李徴のように狼疾して虎になる以外なかったであろう。

己れが理由もわからずにある日突然虎にさせられてしまった不条理な運命をなげくところがある。その告白の部分に、作者が当時の状況をどのような意識で受けとめていたかがよくあらわれている。虎にさせられた李徴の最初の経験、それは、目の前を通りすぎた一匹の兎を食べてしまったことであった。李徴はその時の苦しみを友人袁[イ参]に次のように語る。「再び自分の中の人間の心がかえってきたとき虎としての己れの残虐な行ないのあとを見、己の運命をふりかえる時が最も情なく、恐しく憤ろしい」と。

私は、この李徴をもって語らせた言葉の裏に戦争という不条理な状況を理由もなく押しつけられ、その状況に己れを護るためとはいえ加担せざるを得なかった中島敦の加害者の痛みの意識を感じるのである。そして単に状況を被害者として告発するだけではなく加害者でもあることを認識して、その刃を己自身にも向けて、それを引き受けようとする中島敦の精神をみるのである。

その加害者意識とは、対戦国アメリカに対したものでなく、日本の植民地アジアの国々に対してのものであることは、彼の作品全体を読んでみると明らかであるが、それがよく表われている作品の一つに「巡査のいる風景」がある。「巡査のいる風景」(昭和46月刊一高『校友会雑誌』322号収録)は中島敦弱冠20歳の作品であるが、それだけに彼の植民地朝鮮に対する痛い思いが赤裸々に出ているので紹介してみたい。舞台を朝鮮とするこの作品は、総督府支配のもとで、その手先となって妻や子供のために働かねばならない巡査趙教英の眼を通して当時の朝鮮()と日本()が描かれている。

 職業柄無賃乗車できる巡査の趙教英は電車に乗るといつも運転台の側に立つのであるが、そんな趙教英を不快にさせる出来事があった。それはこういうことだった。

一人の日本人中学生が電車に乗って来て運転台の側に立っていたので、運転手が運転の邪魔にもなるから奥に入ってくれるように云った。すると彼は「オイ、其の人(趙教英のこと)を中に入れないなら俺もいやだよ」と傲然と運転手に喰ってかかった。巡査と運転手が朝鮮人であるが故に日本人中学生は生意気な口をたたき、朝鮮人が当惑するのをたのしんでいるのである。趙教英はこのことを思い出しては不快に感じるのである。

また別の電車ではこんなことがあった。粗末な姿をした日本人の女と、その前の吊革につかまっている白い朝鮮服をつけた学生らしい青年が言い争っている。
折角、親切に腰かけなさい、いふてやったのに、

と女は不平そうに言っているのだ。

併し、何だヨボとは。ヨボとは一体何だ

だから、ヨボさんいふてるやないか。

どっちでも同じことだ、ヨボなんて。

ヨボなんていやへん。ヨボさんといふたんや。

女には何もわからないのだ。そしてけげんそうな顔付をして、他の人達の諒解を得ようとするかのように、あたりを見廻して、

ヨボさん、席があいてるから、かけなさいて、親切にいふてやったのに何をおこってんのや。

車内には失笑の声が起った。青年は諦めて黙って此の無智な女を睨みつけた。

巡査教英はこれを聞いて、またしても憂鬱になってしまうのだった。そして彼はこう考えるのだ。「何故此の青年はあんな論争をするのだ。此の穏健な抗議者(日本の人)は何故自分が他人であることをそんなに光栄に思うのだ。何故自分が自分であることを(朝鮮の青年は)恥ぢねばならないのだ」と。

政治による支配、被支配の関係が言葉の本来の意味の自立を奪ってしまう。日本の女が、ヨボさんといってどうして悪いのだと抗議するのは、一応、言葉が本来的な意味で使われるならその通りなのだ。しかし言葉が日本と朝鮮の政治の曲みの関係の上で使われたとき朝鮮人にとってヨボという愛情のこもった呼び方は、日本人の差別意識を通して逆転し、侮蔑の意味になってしまう。そのことを知っているのかいないのか、朝鮮人の傷みを無視して正当に抗議する日本の女の感性は、善意のようであって、その裏にある民族的優位を意識しての自信からくる鈍感さというものであろう。朝鮮の地に入り込んで来た日本人が、朝鮮人にとっては他人でしかないのに、他人であることがむしろ光栄に思えている日本人の自信はいったいどこからくるものであろうか。それは個人の価値とは全く関係がないだけに滑稽でさえある。中島敦の眼は徴妙な日本人の醜さをえぐり出している。

ヨボという言葉に関して、趙教英は別の出来事に出会うことになる。ある日、府会議員の選挙演説の監視に出かけた時のことであった。何人かの内地人候補者の演説についで、たった1人の朝鮮人候補の演説がはじまった。相当内地人にも人望があった彼は、巧みな日本語で自分の抱負を述べたてていた。すると1人の聴衆が立上って「黙れ、ヨボのくせに」と怒鳴った。その時彼は一段と声を高くして叫んだのである。

私は、今、頗る遺憾な言葉を聞きました。併しながら、私は私達も亦、光栄ある日本人であることを、あく迄信じるものであります。


 趙教英は、電車の中の青年とは全く別の方向に生きている朝鮮人と出会い考えこんでしまう。またそのように朝鮮人を引きさいている「日本という国」とはいったい何なのか考えてしまうのである。そして「何か忘れものをした時に人が感じる」果されない義務の圧迫感に悩まされるのである。自分を自分として生きていない不安と抑圧感、趙教英の圧迫感はそれであった。それはいずれ自分に直接にふりかかってくる刃となるであろう。そんな教英の予感が的中する日がやって来た。

総督が東京からやって来た時だった。厚い外套にふかふかと包まれて総督が降車口から現われた。出迎えの朝鮮人の役人達は一斉に機械のように頭を下げた。その時であった。白衣にハンチングを着けた男が突然群衆の中から躍り出し、ピストルを持った手を伸ばして引金を引いた。弾丸は発(で)なかった。2発目に弾丸は発(で)たが、そのすきをぬって総督は逃れ去ってしまった。男はしぱらく警官とにらみ合っていたが、自分からピストルを投げ捨てて捕えられた。趙教英の手によって。趙教英は彼の腕を捕えながら彼の口許に浮ぶ蔑すむ様な微笑と眼付に堪えられないのだった。そのとき教英の心は叫ぶ、「捕はれたものは誰だ、捕えたものは誰だ」と。

中島敦の朝鮮、朝鮮人を見る眼は、日本人のいわゆる同情的視点から描く像ではない。人間が本来自由で自立した存在であるべき姿からみると、日本によって抑圧された朝鮮と同様、当時の朝鮮()を「捕えた」かのごとき日本()は、趙教英の言葉のように「捕えられた」存在でもあるのだ。趙教英の苦しみは日本人の苦しみでもあり、趙教英は中島敦自身の分身なのだ。

「虎狩り」(昭和9)の中でも、日本人と朝鮮人が交友関係を続けながら、お互いに自立できない意識を描きだしている。朝鮮人趙大と友情関係を保ち、趙大を見ている日本人私が見ている筈の朝鮮人に見られている自分を意識する。自分とはつまり日本であり朝鮮人に鋭く批判されている日本人なのだ。そこでも優位に立ったかのような日本人私、捕える立場の様な私が、捕えられている私を意識するところで作品は終っている。

民族が他民族に支配され、本来の自由と自立を奪われることを否とし、それに抵抗する人間を肯う中島敦の姿勢は、「巡査のいる風景」の中の挿話として入っている関東大震災の時の朝鮮人殺害をどのように受けとめたかによってもわかる。

内地(日本)に出かけた夫は病死したとばかり思っていた朝鮮人の女が、地震の時日本人に殺害されたということを知らされ、狂ったように舗道を馳けまわり通りすがりの人に呼びかける。「みんな知ってるかい!?」「奴等はみんな、それを隠してるんだよ」と。髪をふり乱し、寝衣1枚で。ついに巡査が来て彼女を捕える。朝鮮本国の人たちに朝鮮人殺害のことは知らされていないのだ。巡査に向って彼女は叫んだ。


何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに。

……お前だって……お前だって……


この彼女の叫.びは、お互いに同じ民族でありながら捕えるものと捕えられるものにひきさかれねぱならないことを強要する日本に対する怒りであるだろう。またそれは中島敦の憤り、『山月記』の李徴が人間の心にかえったとき己れの残虐な姿をふりかえったときの、憤ろしさでもあっただろう。

昭和の初期から病死した昭和17年まで、戦争のまっただ中において、このような朝鮮に対する対し方、とらえ方をした中島敦は、文学史的にも貴重な存在と思われるし、その自己に対する厳しい対し方は朝鮮問題を考える上で私達が学ぶべき点が非常に大きいのではなかろうか。

『むくげ』70号1980.10.18より
    
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