抑圧者のがわの疎外からなしくずしの自滅ヘ

ドリス・レッシング「草は歌っている」

岸野淳子

 フランス領マルチニック島生まれの黒人であるフランツ・ファノンは、抑圧される側の精神の疎外情況を臨床研究としてあざやかに示したが、ちょうどその対極のところ、フランス人作家カミュの「異邦人」ムルソーがあると気づいたのは、いまからちょうど10年ほど前である。

この小説を初めて読んだのは、さらにその時をさかのぼる20年前、朝鮮戦争のころであったと記憶するが、当時、この小説をめぐって"不條理の哲学"が論じられ、広津和郎と中村光男のあいだに「異邦人論争」がおこなわれた。学生だった私に、この論争の枠がこえられるとはおもはなかったが、時間を経て、マストロヤンニ主演のこの映画を見た時、ウロコが落ちるようにわかったのだ、抑圧する側の人間にあらわれた疎外ということが。

もちろん映画はカラー。やけつくような太陽、褐色の大地。道路や空の照り返し。ひどい暑さ。昼と夜のあざやかな交替、風が塩のにおいを運ぶ紅色の夜明けの空。主入公ムルソーが暮していたのは、色が浅黒くて瞳の黒いアルジェリア人とまじりあって住み、彼らの、地からはいあがるような低いつぶやきに絶えず取りまかれている植民地の街これが「異邦人」の舞台なのだ。コロンであるムルソーを青くみ、その感性に烙印を押したのは、まさにこうした植民地の「自然」と「人」であり、この土壌をぬきにしては「異邦人」は成立しない。この映画を通して、私は、カミュの意図とはおそらく別に、コロン、即ち抑圧する側に身をおいた人間にあらわれた一つの感性、さらにいえば、その精神の深い疎外を、ムルソーの中にみたのだった。ちょうど同じころ、私は、イギリスの女性作家、ドリス・レッシング(1919)の処女作「草は歌っている」の日本訳(山崎勉・酒井格訳・晶文社刊)を手にした。舞台はアフリカのローデシア、主人公はムルソーと同じように白人植民者の娘。私はこの小説に、「異邦人」をとらえなおしたのと同じ視点から、自分の意志にかかわらなく抑圧する側に立つ人間の滅びの物語を、手にとるようにみた。

まず著者ドリス・レッシングが、小説の舞台であるローデシア(現在のジンバブエ)にやってきたのは1925年、6才のとき。ペルシャで銀行員をしていた父親が植民地での農業経営にのりだすためであった。14才まで首都ソールズベリの女子修道院の学校に通い、その時は家庭で読書をしたり、ものを書いたりして何年かを農場で過ごし、それからソールズベリに出て、主として秘書などをしながら独立の生活をおくる。その間2回結婚、1949年に無1文で、処女作「草は歌っている」をたずさえてロンドンに上京、それが成功して、以来そこに定住し、今日まで多彩な創作活動をつづけている。

この経歴をみてもわかるように、植民地において自己形成をおこなった著者の体験が色こく反映したこの小説の冒頭には、2つの引用がある。1つはTS・エリオットの「荒地」の1節、(そこに題名の"草は歌っている"1行があり、滅びのイメージが描かれている)もう1つは作者不詳の〈1つの文明がもっている弱点はその落伍者、それに適応できなかった者を通じてもっともよく判断できる〉ということばだが、ここには、白い文明、すなわち抑圧する側の弱点が、その支配の先端である植民地において、ある白人カップルの、とりわけ女主人公の破滅の姿の中に、あざやかに示されているといえるだろう。

小説は、女主人公メアリ・ターナーがアフリカ人の下男に殺されるという物語の結末すなわち、周囲の白人社会からみれば、"黒ん坊などに白人の女が殺される"という困った事件から始まる。それは、〈……"白人文明"なるものは、白人、とりわけ白人の女が、善悪いずれの目的にせよ、黒人との人間関係を結ぶことは絶対に認めないのだということを理解するだろう。1度でもこれを認めてしまえば白人文明は崩壊し、なにをもってしてもそれを救うことはできないのだ……〉という、まさに白人の掟を破った許しがたい件だったのである。こうして最初から、植民地における白黒の関係、いわば抑圧と被抑圧の関係の構図がはっきりと提示されるが、物語は、女主人公が、白人の掟から落ちこぼれてゆくプロセス、さらにいえば、白い女と黒んぼの間に本来ならば成りたつべきでない人間関係が破局へむかって成就してゆくプロセスとして展開してゆく。

簡単にその筋立てを紹介すると、メアリは、英国を「本国」とよぶ南アフリカ生まれの両親をもち、父は貧しい鉄道員。彼は不十分な金しか家に入れず、いつも泥酔していて、両親のケンカが絶えない。メアリは16才で学校を卒業すると、町の会社に就職して独立、気にいった仕事と友人を手にいれて、およそアフリカ人とは関係もない平穏な生活をおくり、いつの間にか30才になった。メアリが結婚しなかったのは、両親の不幸な家庭生活のイメージから逃れられないためだったが、友人たちの目にうつるオールドミスとしての自分の噂話をたち聞きして心の平衡を失ってしまった。そんな時出会ったのが町に買物にきた農夫のディック・ターナー。こうして、町から百マイル以上も離れたタ一ナ一の農場で、2人の生活が始まる。

南アフリカではみんながそうであるように、彼女も小さい時から"原住民のアフリカ人はきたなくて恐しいことをするかもしれない"と教えられてきたが、新しい生活の中でまずぶつかったのは、アフリカ人との直接的なかかわりであった。(それはアフリカ人との闘いといってよい)夫の農場で働く労働者も下男も全部アフリカ人、彼らはすぐ近くの、柵でかこわれた原住民居住地区に住んでいたのだ。最初から身がまえたメアリは、下男に対して町の暮しの基準を押しつけ、彼らがそれに従わないといって焦立ち腹をたてた。下男はつぎつぎにやめゴタゴタが絶えない。抑圧者であるメアリが、みずからの白い文化を強制し、アフリカ人から無意識の復讐を受けて自己撞着におちいる矛盾がつぎのように表現されている。〈言ってみれば、現実にそこにいるのは彼ではなくて、命じられたことを唯々諾々と行なう黒い肉体にすぎなかった。そしてこれに対しても、メアリはひどく腹を立てた。たとえ痛い目に合わせてでも、この黒い肉体を人聞らしく表情豊かなものにすることができるならば、皿をとりあげ、顔めがけて投げつけてやりたいぐらいだと彼女は思った〉。白人からみれば、黒い肉体にすぎないアフリカ人の取扱い(一支配)に未熟練なメアリに、両者の関係の矛盾、いわばきしみが露呈してあらわれたといえよう。

さらに、彼女の破滅への傾斜にいっそう拍車をかけたのは、メアリが女性であったこと、(男対女という関係構造において被抑圧の立場にいたこと)しかも無能な農夫、ディック・ターナーの妻であったということも見落せない。彼女は最初から男性としてのディックに対して一種の軽蔑を感じていたが、農民としての彼には敬意を抱いていた。ところが、彼の無計画で無能なやり方をつぶさに見て、この点でも自分が思い違いをしていたことがわかってくる。(夫、ディックは、あまりにもアフリカの自然の中にとけこみすぎた人間として、金もうけの農業をするには不適格な、白人社会からの脱落者として設定されている。)

こうして以前の快活な、だがはっきりした形をなしていなかった彼女の顔に忍耐の線があらわれてきた。1度は家出を決心したが、以前の雇い主の態度から、自分がすでに干からびた農夫の妻になってしまったことを思い知らされて、迎えにきた夫に連れ戻される。そしてもとの退屈な生活に戻ったとき、自己崩壊の兆、(もはや感じる力も闘う力もなくなってしまったようなこの麻卑状態がその最初の兆…〉としてあらわれた。もっとも、夫のディックがマラリアにたおれ、彼女がやむなく農場に出てアフリカ人労働者を監督した時、白人のやり方を押し通してアフリカ人の憎しみをつのらせながらも、一時はあの麻卑状態が影をひそめた。しかし、夫のからだが回復すると、ふたたび無能な夫のやり方にまかせ、自分の方から闘いを放棄して身をひいてしまった。労働の主権をもたない妻としての屈服であった。

こうしたプロセスを経て、彼女におとずれたのは……〈それは前に彼女を襲った不幸せの激しい発作ではなかった。体の中心がふかふかになっていくような、骨がぐにゃぐにゃに腐敗していくような感じであった。〉いまや彼女の未来は幻想さえも無、アフリカ人の下男に対しても、以前のようなかんしゃくを起こすことはほとんどなくなった。〈…まるで昏睡状態に陥ったように、陽にやけた更紗木綿のカーテンに頭をあおられながら、ぼろぼろの古くさい長椅子に何時間も続けてよく腰かけていた。ついに彼女の内部でなにかがばきっと折れ、彼女は次第次第に色を失い、暗黒に沈んでいくように見えた。〉

こうして自滅への一歩を踏み出していたメアリが、白人としての掟を破り、決定的な破局を迎えるのは、アフリカ人下男とのかかわりにおいてである。(あるいは、白い女の身心の衰弱という状況によって始めて、ある意味で人間的といえる白黒の関係が成立したといえるかもしれない)暇をとった下男の後釜として、夫が労働者の中から連れてきた男は、以前メアリが農場でムチうったアフリカ人だった。ムチをおろした直後、彼が襲いかかってくると思ったあの恐怖の瞬間が脳裡にたえずつきまとってメアリはこの男をほかの下男のように扱うことができない。彼女はアフリカ人への制裁の結果から心理的な復讐を受けていたのだ。

アフリカ人との闘いで無意識のうちに一歩後退していたメアリが、まず平衝を失ったのはある朝、養鶏場にいって下男が体を洗っているのにぶつかった時である。白人にとってアフリ力人は犬も同じだから何の気もなく眺めていると、彼は気づいて、メアリが向こうに行くのを待っているようすを示した。彼女は無性に腹をたてた。このことは、南アフリカでは〈……白人と黒人の、女主人と下男の、正式なあるべき姿が個人的な関係によって破られてしまったことを意味していた。〉

さらに一歩すすんで、白人の掟のほころびが決定的となったこと、つまり、抑圧・被抑圧のあるべき関係がくずれたのは、次のような事件によってであった。ある日、下男が辞めたいといい出した時、彼女は夫、ディックがこれ以上下男をかえることはできないといった警告を思い出し、アフリカ人の前にもかかわらず、身をふるわしてすすり泣いてしまったのだ!。「行ってはいけません」という声が哀願となり、アフリカ人がさし出すコップの水を飲みながら、彼女は〈…彼の目が彼女の無力さをやさしく慰めているのを、彼女は新たな恐怖を覚えながら見てとった〉のである。このことがあって以来、下男は何くれとなくメアリの世話をやき、メアリは彼の力の中で自分が無力になっていくのを感じていた。抑圧する側の闘いという観点からいえば、メアリはあきらかに敗北したのであり、同時に、2人の間には、これまでとは決定的に違った、始めての、体験ではあるが人間としてのかかわりが生まれたのである。

ふたたびディックが病気になって、アフリカ人の下男が夜中の看病をかわってくれた時、メアリは夢をみた。夫が死んで、アフリカ人が近づいてくる。〈メアリはこわくて身をこわばらせ、冷や汗をかきながら待っていた。彼はゆっくり近づいてきた。みだらでたくましかった。そして彼女がおびえているその人物は彼であると同時に父でもあった…アフリカ人の声が聞こえた、ディックに先立たれた彼女をなぐさめ、守るようにいたわってくれるのだった。だが同時にそれは恐ろしい父であり、彼女を脅かし、慾望にかられて彼女にさわっているのでもあった。〉メアリは悲鳴をあげて目ざめる。アフリカ人は「奥さまは私をこわがっています、そうですね?」というが、それが夢の中の声と同じなのであった。私はこのくだりから、フランツ・ファノンの「黒い皮膚・白い仮面」のつぎの一節を思い出した。〈…今われわれの前にあるのは完全な転換ではないだろうか? 実は強姦に対する恐怖はまさに強姦を求めているのではないだろうか? 張り飛ばしてくれと言っているような情ない面つきの男がいるように、犯されたがっている女を記述することはできないだろうか?…つまりニグロ恐怖症の女性は実は推定上の性的パートナーなのだ−…。〉

白い掟の代弁者のような隣人スラッターは、メアリと下男の虚的な関係をみて慄然とする。「なんじ、仲間の白人を一定限度以下に零落せしむべからず、しからずんば、黒人はみずから白人と同等なるものとみなすにいたらん」という白人の掟にてらして、彼はターナー夫妻を(メアリの精神の異常を口実に)一刻も早くこの土地から離れさせようとする。旅立つディックの畑の管理のために急ぎ雇われた英囲の青年は、メアリがアフリカ人に服を着せてもらっている異様なさまを見てしまう。青年は、敵意を浮かべて2人を見守るアフリカ人に「出ていけ」というと、メアリもこの時は青年を楯にして、すでに失ってしまったアフリカ人への支配権を取り戻すように「出ていって」といった。下男は女主人に「奥さまは、この旦那がいるから私に出ていってもらいたいのかね?」と念を押してから立ち去った。メアリは安心のあまりヒステリックに泣き呼んだかと思うと、こんどは急に青年を押しやって「あんたが追い出したんだ。彼はもう戻ってこない! あんたが来るまでうまくいってたのに!」ととめどなく涙を流すのだった。

出発の前、狂ったメアリは"木立のどこかに彼が侍っている、それで何もかも終りになってしまうだろう"という予感に導かれて夜明けのヴェランダにさまよい出る。近づいてくるアフリカ人を見てメアリは異常なほどの罪悪感−英国人の言いなりになってアフリカ人を裏切ってしまったという思い−を感じる。メアリは予感どおり、当然のこととしてアフリカ人の手で殺された。

すでに正気を失った彼女を破局に追いつめてゆく心理的な核は、いうまでもなくさきにあげたファノンの黒い恐怖である。ここには少くとも、正気を失った白い女のある種の安らぎと、黒い男の慈愛といった、白と黒のかかわりがある。それは、"傷ついた愛"とすらよべるかもしれない。しかしこの関係は、白人の側の自己崩壊という負荷によって成立したわけで、それこそ、抑圧者の側の疎外の一つの形でなくて何であろうか。そして、その到達点は死……(…そのわざわいとは何だったのか? 彼女は何をしたろうか?何もしなかった、自分から進んでは。11歩、彼女はここまで来てしまった。ほこりっぽい臭いのする古ぼけてこわれたソファにすわり、一生を終らせてくれる夜の来るのを侍っている、意志をもたない、ひとりの女となってしまった。しかもそうなるのが当然だったのだ彼女にはそれがわかっていた。しかしなぜなのか?彼女はどんな罪を犯したというのか。自分は自分でも理解できないあるものに駆り立てられただけで、清廉潔白であるという気持が相争い、彼女の幻影全体を打ち砕いてしまった。…)

メアリの破局の意味抑圧者の側にたっているという罪を、その中での弱い環(落伍者の、しかもその妻)であるが故に一身にひきうけざるを得ないというその意味を、もちろん本人は何もわかっていない。ただ破局の直前に、かすかに、かつ無意識に"真理"を手さぐりする。その時、メアリの無意識の存在は、死において、抑圧者の贖罪の羊となった。

抑圧と被抑圧の関係において、抑圧の側のなしくずしの自滅という形は、被抑圧の側の疎外からの解放という、いわば、あらあらしい闘いのイメージと対応する。女性作家の手になるこのなしくずしの自減の物語が、いまから30年も前に、暗黒の大陸といわれたアフリカを舞台に、しかも、抑圧者の側の弱い環である女性において形象化されたことは、意味深いことであった。

『むくげ』71号1980.12.25より

     
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