金時鐘の詩と在日朝鮮人教育

北爪道夫(高槻南高校)

(その1)(『むくげ』101号1986.3.15より)

1.起点

解放教育とは何であったか、と正当にも自問しはじめたとき、本当は"総括"といった言葉からはみだす希求が根ざしているのかもしれない。たとえば、組合運動のなかでいうところの総括が、それまで展開してきた運動の言語体系の整備・補完とはなっても、その言語体系の問い直しとはならないのに照してみればわかる。反問の言語は自らの実践を支えてきた言語の解体線上を歩まなければならない必然をかかえてしまう。正当化に向う“総括”の志向性から遠くはなれようとすると、希求は、支える場所のないところへ出てしまう。

言うまでもなく、実践にとってこれは危険な反問である。しかし、実践主義者の"総括"の思想的頽廃につきあいつづけるわけにもゆかない。

教育を論じようとする者は、いつでも罠にかけられる。××教育論は、××とは何か、という思想上の問いから解除されてしまう。女子教育論を展開する者が、女とは何か、と考える必要はない。教師の視点から論ずれば事足りるという罠がある。教師は教育論の枠でしか思考しないという習性をかかえている。この思想的欠落を教師のプロ意識と言いかえてもよい。

解放教育は、本来こうした欠落と切れたところから出発していた。兵庫解放研の思想的突出性は近代学校の枠組みの外で思考しているところにある。学校教育の枠組みに解放教育を囲い込んでしまう教育論に足をすくわれつづけてきた、"解放教育論"はそろそろ精算されてもいい筈だ。

在日朝鮮人教育論は、教育論の中に囲い込んではならない。在日朝鮮人に向き合うことと、在日朝鮮人生徒に向きあうこととを混同し、前者の思想的課題をスリヌケルことは許されない。教育論の構造が、いかに私たちを思想的怠慢者にしたてあげていることか。そうして教育論はそのことに気付かせない装置をもそなえているのだ。「生徒の意識は今、こんなところだ。だからこのような指導が適切だ」「民族的なものが自明な一世とそうでない二、三世以降とはちがう。二世、三世の民族教育は云々」教育を生活世界と切断する発想から、我が解放教育は切れているのだろうか。

在日朝鮮人教育を考えるとき、在日朝鮮人生徒を目の前にして、教師が、さあどう指導すべきかというところから出発すべきではない。以下の小論が金時鐘論としてはじまるのは、私にとっては方法的必然である。金時鐘の言葉は1から10まで教育論の矮小化構造から無縁なところで自立している。

金時鐘が湊川高校の教師にまねかれたのは1973年の夏のことであった。兵庫の解放教育運動のただ中で、彼がどのように発言してきたか、兵庫解放研の思想的地平が、金時鐘を見いだし、金時鐘の在日朝鮮人としての戦後の思想的営為が、解放教育と出合った地点がここにはあった。金時鐘は、解放教育の高揚期にあった1977年に次のように発言している。〈少量のわが子弟たちが日本の解放教育を志向する教師集団の中に、幸いにもくるまれているということを、わたしは深く受け止めざるをえないのです。ですが、朝鮮人たらしめるその〈朝鮮〉の所在というものは、なかなかもって、定かなものではありません。行政権力との厳しい対峙の中で、解放教育を志向する学校をあげての教育実践のなかにあってさえ、〈朝鮮〉の命運にかかわりうる在日朝鮮人生徒像というのは、まだまだ論議の対象ではないのです。それがたとえ、本名を名のらすという、未だかつてない教育実践が朝鮮人を朝鮮人にたちかえらすためにくりひろげられているとしても、このこと自体が果して朝鮮人たらしめることなのか、ということには、まだまだ論をまたなくてはならない問題がありそうです。〉

「民族教育への一私見」

1977年「クレメンタインの歌」所収

解放教育を風俗小説化した潮流のなかには、こういう反問は起こりようがない。〈朝鮮〉〈在日朝鮮人生徒〉〈本名を名のらせる実践〉というのは"解放教育"を教育の地平でとらえたものにとって、自明の前提として通りすぎかねないものであった。だからこそ、金時鐘は問いかえしているのだ。この反問のあり様こそは、兵庫解放研の思想的水準に対応していたろう。

しかし、証拠は持ち合わせてはいないが、受けあってもよいことがある。金時鐘は、教育現場に機能している教育言語の秩序への異和を、たとえそこが湊川高校であろうと、強烈に感じたであろうし、その異和を、教育言語の方へなげかえす営為をつづけてきたろう、ということである。

金時鐘を論ずることが、在日朝鮮人教育論の構造を明確にする作業となりうる感性的根拠がそこにある。

2、詩人・金時鐘の方法

金時鐘の講演を聴いた人は、その圧倒する濃密な言語に、話し言葉とは異質の世界を感じるであろう。一時期、彼の散文詩の朗読のような佇立した言語に魅せられて、せっせと聴きに行っていた。金時鐘は講演で、共感の言語を聴衆になげてくるといった姿勢のない孤立した言語を展開してみせる。そういう遠ざかりを通して聴く者の内によび起こす言語というものがあったような気がする。

金時鐘の使う日本語は日本語の共通感性と切れた日本語だ。日本語の持つ習俗や共感の抒情とむつびあわない言語だ。日本の日常語の感性に対置すべくしくまれた世界だ。

金芝河の詩に「""を生きる思想」を読みとる金時鐘は、自らの詩の方法を重ねて語っている。〈詩は美しくあるべきだという、いつの間にかでき上がった美への志向こそ、じつは、明らかにされねばならないものなのです。私たちが「美しい」と言うとき、そこには必ず、醜いものを対置して働いている美意識があります。本当に、美しいことが詩であるとき、民族の圧倒的数量を占める民衆が余儀なくまみれた生活を強いられているとすれば、美しくあらねばならない詩は必然的に民衆を敵にする思想とはならないでしょうか……

醜を抱え切れない純一性こそ、ファシズム右はないかと思い当たるのです。日本の思想が恐ろしいとすれば、端正さを貴重がる美の思想のような気がしてなりません。……

"を裏へ裏へと押し込んでいく思想、構造は身近にいくらでもあります。……芸ごとが占める美しい"形が"を寄せつけない生理感覚ともなっていきます。美しくあろうにもありようがない生活体、意識体には思いなど及ぶことはなく、ふっきれたぶんだけ美しいことは磨かれたことともなる思想なのです。

を生きる思想」1977

「クレメンタインの歌」所収

「いつの間にかでき上がった」言語の秩序へのあらがいは金時鐘の生の根幹に根ざしている。日本語の秩序には、「詩になる」とか「詩にならない」として識別してゆく美意識がある。日本の美意識はこの""を抱えるどころか排除することによって美的秩序を確保してきたという認定が金時鐘にはある。短歌などの日本の短詩型文学の抒情に、彼は日本の思想をとりしまってきた「個人の思考を超える共同体的共感の温床」をみる。

〈和歌、俳句にみるような日本の短詩型文学の.もつゆるがしようのないリズム感は、文学の伝統としてはあまりにも、広い裾野をもちすぎており、日本人の心情を培う思惟、思考の土壌とさえいえるぐらいに巨大なものである。いかにハイカラな近代思想の持ち主であれ、この伝統的抒情に出くわすやいなや、もう「純粋」日本人の相貌と情感をかもしだすのだ。神風特攻隊員や学徒出陣兵士たちの遺書に散見する辞世の歌も、忠臣蔵の浅野内匠頭が死の間際に詠んだという悲憤の辞世も、ひとしなみに「歌」であることによって両者の違いは渾然となり、哀惜の詠嘆だけが時代を超えて読む者の情感に取りこんでくるのである。〉

「亡霊の拝情」1976年前掲書所収

スキー客で溢れたプラットホームで、駅員の指示のもとになだれてゆく乗客のうねりの中で、金時鐘が感じとる、いい知れぬ恐怖は、関東大震災時の日本人の白色の被動性に照してみれば、おしはかることは不可能ではない。しかし和歌、俳句の自明のあの抒情性が、スキー客の群集のファッショ的根幹と同質であろうことを思い到りうるだろうか。ナショナルなものが、短歌・俳句といった抒情詩を通して、生理感覚次元で日本人の皮膚感覚にくみこまれてゆくという構造は、日本語表現の秩序の外にあっては見ることができない。同時に日本語の秩序の内にくみこまれていてもみえてはこない。いや、組み込まれてあることの異和をテコとしてしか見えてこない、解体への意志にみあって見えてくる秩序だ。日本人が、日常の言語を通して日常構造を心的秩序にまるごとくるまれてゆく消失する「和」の地平を爆殺する創造の拠点がある。この吊るされた地点に在日朝鮮人としての金時鐘がいる。

抒情の質によってその人間の思想をはかることができるという金時鐘の持論は、人間を根元のところでつき動かすのは、体系的思想などではないという確信に支えられている。人間をかり立てるのは、いつの間にか血肉となってしまっている抒情であるか。自ら、そうした環境としての抒情から脱することによって獲得された抒情=思想であるか、そのどちらかであろう。人が抒情の口を不用意にあけているとき、ナショナルな天使は、すばやくはいりこんで受胎させうるのだ。生まれた作品は誰れの子か? 演歌に陶酔するマルクス主義者を、金時鐘は信用してはいないだろう。

日本語の表現秩序への異和は在日朝鮮人の位置を正確に語っている。異和としての日本語を生きる在日朝鮮人の思想的位相は正当にとりだされていないのが現状ではないのか。金時鐘が〈在日〉にこだわるのは、〈朝鮮〉に引きつけられるあまりに〈在日〉を蒸発させてしまう発想の根強よさが在日朝鮮人のなかにあるからだ。〈在日〉という情況のなかでこそ闘えるあり様が、〈朝鮮〉に似せて自己を形成する民族的慣性の蔭で見えなくなっているのだ。

金時鐘が日本語で詩作するのは、余儀なくそうしているのではない。自己の生成の拠点をはなれて人は闘うことはできないのだ。

〈この私の、揺藍期の夢がいっぱいに身籠っている日本語を、私は放擲するつもりは毛頭ない。そうではなくて、過重な規制によって培いえた日本語を・日本人に向ける最大の武器として私は駆使したい。

在日朝鮮人二・三世が海の向こうの母国に、類似している自分を探すということではなくて、民族的本質を断絶的に継承しているところの内実を思想化し、その内側に加工し乗り越え、そして編入させてゆく。自分の資質を日本的資質ととらえて、日本人の視界、日本人の感性、日本人の思惟を打砕く武器とする。そういうことによってのみ、在日朝鮮人の論難は正当である、と私は思うのです。〉

「朝鮮人の人間としての復元」1971

『さらされるものとさらすものと』所収

〈在日〉を〈朝鮮〉と〈日本〉の中間にイメージして〈在日〉を〈朝鮮〉に到りつく過程とする発想は、〈在日〉を〈日本〉へ帰順さすべき可動点とする入管行政百年の大計と、どこに差があるというのか。ベクトルが逆むきであることの差異は、〈在日〉を〈朝鮮〉と〈日本〉の間で蒸発せしめるほどの同一性にくらべれば、とるに足りないことを気付くべ.きではないのか。""の発想にからめとられて、知らぬ間に自己限定をしてしまう闘いというものがあるのだ。

金時鐘の〈在日〉の思想は、在日朝鮮人は勿論、"進歩的"日本人も入管権力をも、一網打尽に捕えてしまう、戦後の〈在日〉の知の陰謀を解体させる作業であろ。金時鐘のこの〈在日〉の解体構築の営為は、遅くとも1960年前後から孤絶の中で行なわれていた。今日でこそ、在日朝鮮人にとって〈在日〉を生きる自己が、すでに一つの(朝鮮)であるという、金時鐘の解体構築の命題は、一定の市民権をえてきてはいる。

 しかし、金石範がようやく、金時鐘の発言を理解しうるようになったのは1970年代も終りのことであろう。(『「在日」とは何か』1970年など)不幸なことに、金時鐘のメッセージを正面から受けとっていい、在日、二、三世以降が、金時鐘の思想的苦闘から思索しはじめたのは、最近のことに属する。(梁泰昊「釜山港に帰れない」(1984)在日の思想性に接近してみせる在日朝鮮人二世竹田青嗣の『〈在日〉という根拠』(1982)にしても、金時鐘の〈在日〉の変革思想は正当に理解されてはいない。日本人が、日本の戦後思想が、この在日の思想にヨタヨタと対応しはじめたのは1980年を超えてしまっていた。それもせいぜい、以下のような発言にとどまる。

〈日本の中で、ここが韓国なんだ。ここが朝鮮なんだというふうに生きられる人間がたくさんでてきて、そういう態度をもった人間にであうというのが、われわれにとって自然のというか、自然のことというよりも、生き生きした体験になるような、そういう日本の伝統をつくらなければ、くり返しくり返し排他的な国家主義にもどっていく。それは日本人の間題なんです。〉

「在日朝鮮人文学をめぐって」(座談会)での鶴見俊輔の発言。1981

前掲論文とともに金石範の『「在日」の思想』所収

日本人教師たちが、解放教育運動の中で、金時鐘の言葉に多く接していながら、金時鐘の〈在日〉の思想を受けとめることができなかったのはなぜなのか。教育論の罠との対決をぬきに、金時鐘の言葉は我々の前に現われることはないのだろう。〈在日〉が明日へ向けての創造と可能性の力オスであってみれば、自明性を前提とする教師の習性に端から逆らっているものだからだ。

(その2)(『むくげ』102号1986.4.19より)

3.〈在日〉の思想としての詩

日本人になぜ日本にいるのか、という自問はない、在日朝鮮人にとって〈在日〉とは日常である。日本人にも日常はある。しかし日常の意味から遠くへ逃げていく。日常の切実さを切り込んでゆく言葉の喪失は何だろう。意味を失った日常から切れて、詩的な修辞で世界を構成しようとする日本の戦後詩の悲劇は言ってみれば異和としての日常を本当は、根元のところで持つ契機を失なっていたからだ。日本人に、なぜ〈在日〉しているのかという問いがバカゲテいるように感じる度合いに応じて、言葉は遠心分離機にかけられたように、己の生活から飛び去ってしまう。日常の生に切り込めない詩が思想詩たりうる筈がない。現実の物や心や感情やらの配置がえ、インテリアショールームの虚構築が詩であると思い込まされている日本の読者が、ましていわんや、「私、本当に、現代詩は教えていてよくわかんないのよ」と恥部をさらして平然としている日本語教師が、金時鐘の詩を読める道理がないのだ。

金時鐘の詩は〈在日〉の位相を、この日本にかつてあったことも、今もまたありようのない日本の〈不在〉の地点に、転位させる思想詩である。

長篇詩『新潟』(1970年刊)は、なぜ〈在日〉を自分は生きようとするのか、〈在日〉を生きるとはどんな事態であるのかを反問する金時鐘の鼓動がきこえてくる詩集だ。「なぜ帰らないのか」という日本人の庶民的排外感情が〈在日〉の根拠を反問させているのではない。195912月、朝鮮民主主義人民共和国の送ってきた船は、新潟を出発した。〈つくしのようなはらからの一国〉を乗せて。共和国刀さしのべた在日朝鮮人への愛を金時鐘はうたわずにはいられない。〈春は/雨をついてくる/船のようなものだ。/雪に埋まった/北越のくにに/船は/海からの手を引いてくる〉しかし手と手が出合わない。

なぜ〈在日〉を生きるのかという反問は、この〈海の/へだたりを/つきぬけた/愛〉の前で展開されるのだ。さしのべられた愛に帰することのできない、在日朝鮮人あるいは金時鐘の〈解放〉の夏以後の自己の生成にかかる生理があるのだ。祖国であり、社会主義国であり、あふれる愛をかざしもてくる手に不足があるのではない。そこに自己を渡たせぬ生成というものがあるのだ。架ける橋の、こちらの橋桁の空虚さはどうだ。どんな必然が積みあげられてきたというのか。愛されることと、愛することが出合いようもなく隔たる愛というものがあるように、社会主義の祖国はやはり海のかなたの愛なのだ。

「思想」が媒酌人であるとき「思想」は問う。君には祖国建設に役だつ持ちあわせがあるかね。君こそは、帰国すべき存在だ。帰国してこそ君を生かせる、と。金時鐘が帰還船のまわりで見た「思想」に対決しなければならなかったときに、〈在日〉がわずかに自らを語りはじめたのだ。

誰に許されて

帰らねばならない国なのか。

積みだすだけの

岸壁を

しつらえたとおり去るというのは

滞る貨物に

成りはてた帰国が

ぼくに

あるというのか。

………

あまりにも

かかわりのない蘇生が

露路うらの箱巣にありすぎるのだ。

迂回した

緯度の

たやすさに

行きつくだけの桟橋を

ただ振られている決別のように。

〈在日〉の生を、とりしきって「蘇生」させようとする「思想」への対決ではあっても、家郷めざしてなだれる在日朝鮮人のはやる希求への批判ではない。〈それが、たとえ幻の遍路であろうと〉眠りまでが安息をもたない〈在日〉からはじかれた必然なのだ。しかし「思想」にとりしきられて、陰でそこなわれてゆく在日朝鮮人の生への痛み、又、そのような「思想」への怒りが、金時鐘に〈在日〉の思想をつむがせるのだ。〈一昼夜/海をまたいだ/船だけが/ぼくの思想の/証しではない。〉在日朝鮮人の生の全体が思想の証しだ。〈またぎきれずに/難破した/船もある。/人もいる。/空漠とした/宇宙へ這いだす/昆虫すらいる。/頑迷の果てに/埋れた/丸木船の日日を/人は/自己の意義に賭けて/その無為だけを/なじってはならない。〉思想が器用に〈在日〉をさばくとき、〈在日〉はそっくり抜け落ちてしまう。〈在日〉の位相は、思想の手のひらをこぼれてしまう。すくいあげる言葉の困難こそが〈在日〉の困難であり、その創造の源泉なのだ。

整序された理や民族的感性は、帰国の側につく。〈在日〉をとることに、積極的な、理を立てて弁ずる意義があるのではない。私の生成にかかわる生理なのだ。〈ぼくが/残るのは/もぬけの殻だからだ。〉祖国につながる今を生きられてきていない。いくら橋をのばしてみても、とどきようのない空白の在日。在日を斗って来なかったのではない。しかし、帰国しようとして持って帰るものを探したとき、そこには何もない。〈ちりを払うと/行李ひとつの/中味もない〉在日の「堆積」などありはしない。いやこの胸の鼓動が、と言ってみても、祖国の闘いときれている在日の自己の斗いは、祖国にとっていかなる堆積でもない。〈魅惑の/資本主義に/尾羽打ち枯らした/自己の/ゆるがぬ純血度こそ/買われていい!〉〈どだい/まがいものの/ありあまる国で/損われることがどうだというんだ?!〉胸の鼓動は〈ぼくこそ/まぎれもない/北の直系だ!〉と叫んでみたところで、切れている。〈在日〉にひしがれた個別の闘い様など、パルチザンに比して何だというのか。何ほどの堆積でもない〈在日〉に冷やかな目がそそがれる。〈朝鮮〉という遠景を生きなければ、祖国につながりようのない〈在日〉。自己の〈在日〉がぬけがらであるからこそ、帰りようがないのだ、という金時鐘の自己規定は、在日朝鮮人社会と日本社会とに狭撃されて、蒸発してしまった〈在日〉のがらんどうの中に、自己の闘いの家郷を見定めたからにほかならない。

見定めた地点は、しかし、依拠しようのない不在の地点だ。日本社会は「帰ればいいのじゃないか」と言う。朝鮮人社会は「祖国建設のために帰ろう」とか「なぜ北なのか。祖国でないのはなぜか、南の母を捨てるのか」と言う。

〈在日〉は「思想」のはざまで、不在の姿で自己をさらす。「思想」にとって危険な相貌で立ちあらわれてくることになるのだ。

ここにとどまるぬけがらが

まさしくお前の

お前だと。

ひたかくしの

奥の

ぼくのぬけがらに

むしられた少女の

ことばのかけらが散っている。

がらんどうの

部屋の

荷のない行李に

妻の手ざわりに折りたたまれた

行方不明の

ぼくがいる。

〈在日〉の位想は、この「ぬけがら」「行方不明」の「ぼく」の中に確からしいものをつめこんだ結果あらわれるのではない。ぬけがらのがらんどうの行方不明の「ぼく」に、〈目に映る/通りを/道と/決めてはならない。/誰知らず/踏まれてできた/筋を/道と/呼ぶべきではない〉〈海を/くり抜いてこそ/道だ!〉という闘い様が可能になるのだ。しつらえられ、与えられるものに命運をおしながされてきた在日朝鮮人、とりわけ〈皇国〉〈解放〉〈革命〉〈祖国〉〈帰国〉という「思想」が自己と無関係のところで与えられてきた金時鐘の生理に、「しつらえてある道の一切をぼくは信じない」があるのは自然だ。しかし〈在日〉の位相が、行方不明を本質とするのであるとすれば、この主体の保障された一切への不信は、すべての「思想」にとって危険なのだ。言うまでもなく、この危険性に〈在日〉の思想性がある。が、〈在日の行方不明性は、閉された〈在日〉の退廃と背中合わせである。〈家郷を/船底に/閉じこめたまま/ただ待つだけの/区切られた/背中が/世界につながる/海で/痴呆けてゆくのだ〉

自己が世界につながる地点で、行方不明の「ぼく」がくりひろげる闘いの根っこは、〈在日〉という生活そのものにある。同時に「痴呆けてゆく」根っ子〈在日〉という生活そのものにある。闘いの拠点としての、創造としての〈在日〉の生活体を、背中合わせの闇とともに描きだしたのが『猪飼野詩集』(1978年)である。〈在日〉の根の張り様への信頼と、行方不明性の〈在日〉の非日常の噴出とがおり重なって問うてくる。行方不明の生に耐え得る生活の根とは何なのかと。これが明かされないかぎり、「在日朝鮮人とは何か」に答えることはできないだろう。そうして、それに対置される日本人の生はどのように呪縛されているのかも見えてはこないだろう。

金時鐘の世代にとって、〈在日〉の日常をくらませるものは、あの夏からやってきて、今を不在の地点に投げ込んでしまうのだ。狎れあった日日と相似型の〈朝鮮〉がそれではない。

〈統一までが国家まかせで/祖国はそっくり/眺める位置に祭ってある。/だから郷愁は/甘美な祖国への愛であり/在日を生きる/一人占めの原初さなのだ。/日本人に向けてしか/朝鮮でない/そんな朝鮮が/朝鮮を生きる!/だから俺に朝鮮はない。〉

在日朝鮮人が思い描くとき、朝鮮人の側から提出される。この程度の〈朝鮮〉の原像しかないのだとしたら、何も在日朝鮮人教育論を改めて考える必要などないのだ。日常と狎れあって生きている〈朝鮮〉が、く朝鮮〉でないという。金時鐘の断定を、民族教育論のレベルで受けとめられうるのか。〈在日〉の日常を〈朝鮮〉たらしめる、過去からの放射に答えうる何を積みあげてきたというのか。わが日本のきみは、僕は。

俺の伸び上がる先で

そうだ! まちがいなく

その先で

照り映えていた日があったのだ!

手という手が

差し上げた先で湧きかえっていた

その熱い日射しを見なくなったのだ!

抱擁があった!

どよめきがあった!

声でない声の涙があった!

思想に命運を

あけ渡したことなどなく

兄嫁があり

いとこがおり

山が揺れて

海が光った!

うとくなった年月の果てで

俺の暮しは 延びあがる先で闇となるのだ

枢、

枢、

柩、

瓦解するダンボール箱に

おしひしがれる

夕餉

(「日日の深みで())

『猪飼野詩集』にあざやかな形象をくまどって成功している詩は、一世の実存にせまった作品だ。あるいは言われるかも知れない。「海が光った!」体験から切れている在日二世、三世の〈在日〉はどうとらえられるのだ、と。光が、現在生を不在の極に追い込む一世のあり様と光をもたない囲われの中での生育を生きる二世、三世と、その〈民族性〉がちがうのか? そのちがいは〈民族性〉という言葉ではくくれはしない。日常の手順のような〈朝鮮〉ではない〈朝鮮〉に〈在日〉のどの地点が出合うのか。その出合いの地点を金時鐘は語ろうとはしない。

〈在日〉への下降の底に見えてくるものをとらえる。〈在日〉のすべてをとらえようとする希求が、その日常から不可避にわきだす。この、〈在日〉の装置は世代を問わない一世と等しく代をついで、みあげられた箱のような〈在日〉かつづく。〈光りのうらで白んでいるのは/ものうい語りの/独白だ。見知らぬどうしが/よそおいとおした/ものぬけの殻の/がらんどうの所在だ。いつとはなしに/くらました/沼の底の/鐘の孤独よ。〉(「果てる在日())

通称名であろうと、本名をさらしていようと日常は常に〈在日〉にとって、二重化された現実だ。だからいつでも日常は装置された現実だ。だからいつでも日常は装置された仕組の中で、自己にくい込んでくる。よそおいがどんなものであったとしても、日常はいつでも異和であり、向うの存在として現前しているものだ。くらませる陰がどこにあるのか。

行方不明の〈在日〉を生きる強さこそ、日本に囲われた日本人の生に見えない不在の確固さなのだ。この前でふるえている「くに」はどこの「くに」なのか。どんなふるえであるのか。

岩盤を生きるつよさがなんであるかは、彼女にとってさしたることのいわれではない。ただ、根づくことのない異郷の固さにも、どっかり腰を据えていられる場所が、自分にあることを知っているだけである。

さかしまに裸の根をかざして、わざわざ風のわたるうすくらがりを見入っているのが、よもや彼女をかかえているくにのふるえであろうとは、誰もまだ知るはずのないことなのである。(「朝までの貌」)

私は、〈在日〉の思想の困難と〈在日〉の思想的な優位性を、金時鐘の詩から読みとってきたつもりだ。だが、金時鐘の孤立の度は深い。彼のイラダチ様は、ただに在日朝鮮人にのみ向けられたものだろうか。在日朝鮮人の生を、無意識にも、意志的にも、とりかこむ日本人の「今」を明かす。意識のあっけらかんとした不在へのイラダチを感じてしまうのは私だけだろうか。『光州詩片』(1983)から、「日々よ、愛うすきそこひの闇よ」を引用しよう。

なにがあるというのですか?

今日が今日であったなんの証しがあなたの今日にあったのですか?

返された笑みでしたか?

ねじれた嫌悪のお返しでしたか?

とって返した踵ではなくそれでも求めた手だったのですか?

出会えない仕切りの向こうとここで

交わる言葉のひとひらくらいは届けましたか、届きましたか。

同胞と僑胞はどの夜の「どのようなしじまで安らいだので

同じ呼び名がせめぎあう日日のきしみはなくなりましたか?

そうも方便に在日をこなして

それでも不幸は日本暮しが仇なのですね?!

やめにしましょう、人さまのせいで耐えるってことは。

そこひの闇をまぎれていながらやせた条理の鰓だけが張るさもしい正義は棄てるとしましょう。

手なれた手順の手際のような。

(その3)(『むくげ』103号1986.4.19より)

4.「民族教育」は可能か

金時鐘に問うてみたいことがある。あなたにとって「学校」とは何であるのですか、と。何であったかは語ってくれている。在日朝鮮人にとって日本の「学校」とは何であるのかがききたい。兵庫の解放教育運動との出合いの中で、あなたの「学校」はどう変容したのか、しなかったのか、「学校」は在日朝鮮人の生きる場所に変わり得るのか、問うてみたい。それは、あなたの問題でこそあるでしょうと返されるとしても。

小沢有作が〈近代学校〉が差別構造を生みだす母体として機能していることを、解放教育の現場に密着した視線で引きずり出した(『部落解放教育論』)にもかかわらず、解放運動の側が、近代学校を越える営為としてあった解放教育運動を学校のワクの中に囲い込んでしまったという現代の教育情況の中で小沢の作業は外にほうり出されたままだ。

近代学校が差別構造を再生産してやまない根のところに、もう少し深い近代の罠を見すえる必要がある。一言でいえば近代学校は、子供たちをその生きる場から引きはがす試みであったろうということだ。農民の子を、農の世界全体から、漁師の子を海と生きる世界から、まるごと引きはなす仕かけが近代学校であったろう。人間をその生活土台から隔離してゆく近代学校の暴力性が、最もむきだしの型で、日帝の統治下の朝鮮であらわれていた。他民族の文化の抹殺としてあらわれたのは日帝の植民地支配の暴虐性の故、とだけ説明するのは誤りだ。日本の近代国家の担い手を育てた近代学校の機能の同じ顔の現われなのだ。

文部省唱歌は、日本の北から南までの子供たちの幼い日の記憶をとりしきった。日本の抒情は雪国も南国もひとしく夕やけ小やけなのだ。それぞれの祭の唄は民謡と化してフェスティバルホール入りだ。これは植民地下の朝鮮の学校と、原理的には一つなのだと言えば言いすぎだろうか。

〈私には、童謡、子どものとき唄ったわらべうたがありません。誰しも至純に想い起こさるべき、幼い日の歌がないのです。あるのは押しつけられた日本の歌ばかりです。それも押しつけられる歌とはつゆ知らずに唄った歌でしたので、無心に唄う幼い日まで失くしてしまった「歌」なのです。あり余る朝鮮の風土の中で、ほおもめげよとばかり声はり上げて唄った歌は、みながみな、日本の童謡であり、文部省選定の唱歌ばかりです。夕やけ小やけと唄うとき、かさぶたのような藁屋根の向こうに、鎮守の森を歌ごころでかぶせて唄っていたのです。それだけに歌の情景から遠い朝鮮の風土は、私の心からずんずん離れていかざるをえなかったのでした。

(「私の出会った人々」(1980)

『クレメンタインの歌』所収)

学校がいかに子供を生活者の世界から隔離するものであるか。今、目前に展開してある風景からも遠ざけるものであるか、語りつくしている。子供の抒情までローラーをかける同化教育のすさまじさを、金時鐘は、日本人の文部省唱歌から引き出されるあの幼い日を奪われると対照させている。これを読むとき、日本人は、幼い日の学校で教わったわらべ歌の構成するなつかしさ、抒情に依拠して植民地教育の無惨さを思う。しかし、ちょっとまってもらいたい。唱歌に子供たちの抒情がくくられて、日本中が同じ抒情で満ちてあることは、学校の暴力性の結果でもあるのだ。夕やけ小やけを唄った子供たちが、特攻隊員の辞世の句に共感していったのではないのか。「個人の思考を超える共同体的共感の温床」を、生活世界から引き離した子供たちに育てる装置が「近代学校」にこそあるのではないか。あのなつかしいわらべ歌を奪われたとは! と受けとる感性がすでにして、損なわれたものではないのか。夕やけ小やけの風景に共感しえない個を排除する発想が、朝鮮人に向けられてきたのだ。土着の世界が個々の唄をうたっていたとき、風土は多様にきらめいていなかったか。峠からきこえる馬子唄はどの村の誰れが、どのあたりまで、帰っているかを村人に知らせもしたのだ。馬子唄は唱歌のように普遍の抒情を生徒に培う均質さとは無縁だ。和歌・俳句が、近代のナショナリズムと結合し、「国民感情」として排除をはらんだあの抒情へと遍在せしめられる過程そのものとして「近代学校」は存在してきたし、今も又、同じ機能をはたしているのではないのか。近代学校が、対象化されないとき、いつまでも「日本人」は永劫、古代エジプトの彫像のように原型のままなのではないか。近代学校が、私たちをどう形象していったか。その作業のはてに日本人が、〈在日日本人〉として、自らの世界を形成する展望がでてくるのではないのか。

金時鐘が、皇国少年として自己形成を強いられて、〈解放〉が〈解放〉として自己の内に現前してきた契機が、父が口ずさんでいた朝鮮語のクレメンタインの歌だったことは象徴的だ。天皇の赤子になろうとする皇国少年にとって、相も変わらぬ白い周衣で街を歩く父が、少年から遠ざけてゆく過程は、学校が、親をもふくめた生活の世界から子供をさらってゆく過程なのだ。そして、朝鮮人としての自己をとりもどし得たのは「父」にあった土着の生活だった。クレメンタインの歌が彼の学びになったのであって、これは、教育とくくられるべきではないのだ。まして「学校」とは無縁のことだろう。

なぜ日本の学校で「朝鮮語」を、金時鐘が教えるのか。学校教育の魔性に、これ以上ない損なわれようを生きてきた金時鐘が、である。「朝鮮語」を学習し、朝鮮の文化・歴史を学ぶことによって、〈朝鮮〉に行きつくのだ、という発想を批判する、金時鐘が、なぜに。この間いへの答の延長線上に「民族教育」の、正確にいえば、兵庫解放研の在日朝鮮人教育の困難な地平が見えてくる。

金時鐘は、自ら教職の位置にありつつ、学校教育の全体に気を許してなどいない。教師のあり様に対する大カッコのくくりの中で自ら教師をしている。このカッコがあるのと、ないのでは「民族教育」も根っ子からちがってくる。

〈朝鮮に来た日本の先生たちも、個別的にはみんないい人たちでありました。朝鮮に入植した本の人たちも、また個別的にはみんないい人たちであったに違いありません。やさしく、折り目正しい人たちでしたのに、どこかで本当のことが知らされないために、個人の善良さというのは集約すると全体のいけないことに還元されてしまう。教師は口ぐせのように強く正しく生きよと教えていながら、それを受け入れる子どもたちが、「強く正しく」生きることが現実には祖国の「朝鮮」から離れていくことでしかなかったのですから。今日の教育者たちにしたって、かつての日本の教育者たちの系譜につらなっていないとは、まだ誰れも言いきれないことのように私には思えるのです。〉(同前)

植民地統治下の朝鮮で教えていた日本人教師と、同じ系譜の教師と、そうでない教師と日本の学校の中に線を引くことができるのではない。「解放教育」派の教師の「善良さ」が、どのように「民族教育」を、自己に合わせて形象してゆくか。全体の奇形に至りつくことがある。日本の学校の同化教育に自分は組みしていない、と言えないように、「民族教育」という場が直接的な意味で、つまり、朝鮮の文化・ことばを教えることで、日本の学校に成立すると言えないのだ。

この「民族教育」が直接的に成立せしめられるとき、「解放教育」派教師の「善意」が近代学校のあり様にからみとられてしまうことを金時鐘は、その臭覚で気付いていた。

〈先生方のほとんどが、勉強した知識を分けることなく、自分個人のものにすることによってのみ有名校をめざしえた部類の人たちであったことも、またつらい事実の一つです。その知識人たちがいま解放教育に身を挺しているのです。どこかで転位してなければできないことを、いま一生懸命とりくんでいられるわけです。どこでどのように転位をとげてのことでしょうか? その転位のとげかたが問題なのです。

確実に奪われていった歴史から目かくしされ、見せかけの真実に真理を追い求めていた自己の負い目が、先進的意識を表立たせねばならない「解放教育」になだれるとき、もうれつにせかれるかたちで自分をも含めた告発者を必要としてくるのです。そして、その告発者の登場にただ服するという、誠実さだけをおう溢させる忍耐教師、もしくは善意の社会人が現出するという次第です。……

在日朝鮮人といえば、はなから「差別」の対象でしかないような意識。もしこのような視点をそのまま延長させるとなると、このような意識とか、視点、感性を差配しているのが、実は、おのれの信条のために朝鮮人の主体的な自我登場を釘づけにする独善であったとしたらどうなるのでしょう? その所為は日本人の思想証明の場に一方的な証人の座を朝鮮人に押しつけ、くくりつける今日不在の朝鮮人強要とはならないでしょうか。〉

「「差別」のなかの起点と視点」(1974)

『きらされるものとさらすものと』所収

日本人教師が在日朝鮮人生徒に、「あなたは朝鮮人である。よって、母国語を学び母国の文化・歴史を学び、損なわれた君の朝鮮を回復すべきである。通称名をやめて、本名を名のるべきである」と迫る。この教師が持っている在日朝鮮人像の限定のされ様に不満なのだ。教師が在日朝鮮人を生徒の内に囲い込むとき、生徒は教師の"指導"の下に変容さるべき、"きたえ"られるべき存在になる。教育論の枠組みが在日朝鮮人を限定してしまう構造がある。

在日朝鮮人は「差別」され、同化の中で自己を損なう生育を生きてきたのであり、その自己回復への道を教師たる私が支えてやるのだという庇護意識のなかの朝鮮人の原像が、生徒としての在日朝鮮人の自己イメージを規定してくるのだ。

〈在日〉であるが故に見えてくる世界の風景、〈在日〉であるが故に日常構造をズラしうる自由! 可能性。いまだ自覚されていないとしても、代をついできた〈在日〉の行方不明性が照らす実存の確かさ。

創造さるべき〈在日〉の生存を、ひとしなみに、自明なるものとしての〈朝鮮〉に囲い込み、差別−被差別の構造にあてはめる。そして、反論しようのない正当性をもって「本名を!」と迫る。これでは、損なわれた生の回復すべき自己は、あなたまかせにつくられてしまっている。

「民族教育」は、金時鐘の次の発言に答えうる自己をどこに見定めうるのか。〈在日朝鮮人にとって〈朝鮮〉とは「在日」のことなのだ。「在日」を生きることに、若い在日世代たちよ、確信を創りだそう。固有の伝統慣習から切れているとして、それがただちに負い目となるのではなく、本国にすらないものを私たちが持っているのであり、それが持ちこまれることによって豊かになるべき伝統を、慣習を、はては思想までをも、私たちは始まるべき「在日」のはじまり"に据えるとしよう。本国に併せて〈朝鮮〉に至るのではなく、至り得ない朝鮮を生きて〈朝鮮〉であるべき自己を創りだそう。

「展望する在日朝鮮人像」1976

『クレメンタインの歌』所収

「至り得ない朝鮮を生きて〈朝鮮〉であるべき自己を創りだす。」在日朝鮮人に、学校の教師が、学校の構造を、即自的に引きずったままで、向きあいうるのか。勝手な限定と思い込みでも強く正しく"生きよと言うことの裏には、負い目としての朝鮮の教え込みがあるのを知るべきではないか。

金時鐘が、朝鮮語の教師として湊川高校に位置したとき、「民族教育」が始まったのではない。母国〈朝鮮〉からも、在日朝鮮人集落からも、孤絶して生きている〈在日〉に朝鮮語がはいることによって〈朝鮮〉が近づくのではない。日本の学校体系の中で、又日本社会の意識の中で、異和としてしかありようのない朝鮮語がはいり込む。「なぜせんならんね?」という日本人生徒の叫び。「なんでさらしものになんのや!」と泣きじゃくる朝鮮人生徒。自明な教材を自明な手順で、世にある様な手順で、変わりようのない関係のなかで、互をかくしとおして、教師−生徒である「学校」。そういう近代学校の前提を超えてしまう関係、せめぎあいが現出してしまうのだ。たかが、〈朝鮮語〉をかかえただけで、それほどに「学校」は整序されつくしていたのだ。近代学校の秩序にくるまれてある感性が、朝鮮語を排除するのだ。朝鮮語を朝鮮人生徒や日本人生徒が習得することによって、日朝連帯だ、というのではないのだ。学校教育の自明の前提をゆるがせることによって、朝鮮と日本が出合う。在日朝鮮人の自己回復がはじまる。

〈さらしものになっているのではない。さらさねばならないことをさらしあっているのだ。……K君よ、考えてもみてくれ、君たちが「朝鮮語」に出会っただけで、朝鮮人がふるえるのだ。同じふるえでも、歓喜のふるえがあることも知ってくれ。私のこの思いが、湊川高校へ来させ、またいきさせていることのすべてだ。〉

「さらされるものと、さらすものと」1975

『さらされるものと、さらすものと』所収

 兵庫解放研の、近代学校の解体を思想的にくぐらせたところで実践をつくってきた質が、「民族教育」落ち込む罠を明確にした金時鐘と出合ったのだ。今は?! と思えば、この罠は、教師か学校にくるまれて、学校を意識しえないまでに教師であるとき、教育論としての〈在日〉しか見ようとしないとき、いつでも、我々をのみこんで、安住の地に往生させようとするものなのだ。金時鐘の詩を借用しよう。

葬るな人よ、

冥福を祈るな。

(「光州詩片」) 了

     
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