実践報告

‘86年度大教組教研民族教育分科会レポート

 

「私もっと朝鮮のこと知りとなったわ。」

演劇教育をとおして

 

守口教組 寺方小分会 萼 慶典

(はなふさ・よしのり)

 

1. 子どもに表現力のつばさを!

はじめに、ボクの教育観の根底にある、演劇活動についてふれたい。子どもと劇をつくりだして5年になる。1年にクラス劇を1作と演劇クラブの作品を1作取り組むのがこの間のならわしになっている。なぜ飽きもせずに演るのかと言えば、「おもしろいから」としかいいようがない。では何がと言うと、子ども(人間)一人一人が「おもしろく」なってくることと答えよう。ある役をあてられた子どもが、ストーリーの中でいかに「生きよう」とするか、ボクの方から言えばその子の「素敵さ」をどうさぐりあてるか、というブロセスを中心にしながらも・他者とのかかわりの中で「集団」というものが見えてくる不思議さに、ボクは魅入られているのである。日常のなかでは、教師や学校というシステムのもとに手ども自身も発見しきれていなかった「自分」を見つけたときの子どもの変わりようと、そのことをクラスの仲間とともにボクも一人の人間として見とどけられる幸せをこの間幾度となく味わわせてもらった。

そんな経験から教師としてはいかに子どもの「表現」を読み取るかに、心をくだいてきたつもりである。ポツンとしか言わないケンカの理由。真一文字に結んだくちびる。あるいは、校庭のかたすみで、声を殺して泣く朝鮮の少女の姿……。はっきりと言葉では言えないけれど、その子の体の状態や動きを見つめ・それに触り、背後にある「家庭」を「個人史」をそして「差別」をつかもうとしてきた。もちろん、歴史の事実や社会の仕組みなど、学ばなければならない知識や考え方はたくさんある。しかし、「教える」側にいるボク達が一番大切にしなければならないのは、今ここで・目の前の子と、どうかかわるかなのである。何かを彼・彼女達からうけとりそれへ返していくこと、そのものが「授業」であり「運動」であり「教育」であると思う。そしてボクはそのような問題解決の視点をもった子が育っていってくれたらと願うのである。

 

2. 異文化の理解と『複合民族国家』を

先だっての我が国の「内閣総理大臣」閣下の御発言を忘れている方はおられないであろう。何せあの「ロン」チャンの国を「知的レヴェル」が低いとしたのだ力から。その理由として、「黒人」「メキシカン」「プエルトリカン」等の存在をあげたのであるから、たまったもんじゃない。「五族協和」とかいいつつ「朝鮮・満洲・東南アジア」を侵略した「日本人」は今も堂々と生きておられるのであることを、戦後生まれのボクは改めて認識した。

だがしかし、もっとおどろくべきことは、そのことを反省した「ヤス」閣下をはじめとしていっしょに反省記事を書いた新聞までもが、まだ、「日本は単一民族だ」というウソをついていることである。在日朝鮮人の存在を、G.H.Qと日本政府により民族学校をこわされて日本の学校に通っている在日朝鮮人児童・生徒の存在を、葬り去ろうというのであろうか。はたまた、琉球民族やアイヌ民族はどうなるのであろうか。

この事件が象徴するように、ボクは公立学校の教師に今一番とわれているセンスは、「違ったものを違ったままで受け入れ、そこから学び共に発展していく集団」を育てるセンスであると考える。次の世界を創造する子どもたちに、「違いを認め合う」やわらかさと「違っているから助け合う」優しきを、強くもとめたい。その意味で、まず、朝鮮文化や在日朝鮮人の歴史と存在についてを全ての学校で学んでいくべきだとボクは思う。

 

3. 今回の実践について

7月と9月の二回に、クラスをあげて朝鮮民話の劇に取り組んだ。7月の過程では子どもたちに「朝鮮」に関心を持つことをねらったが、ほぼうまくいったと思う。(指導案参照)劇のできそのものは不十分であったが(別紙)、子どもたちはねらいどおりに「朝鮮のおはなしで楽しく遊べた」はずだ。ただ2点きがかりだったことは、朝鮮人児童のうち一人が消極的だったことと、保護者の間に「朝鮮の劇などしなくてもいい。」という声がおこったことであった。しかし、9月の実践においてはTさんも積極的に参加したし、個人懇談や子どもが楽しんでいる姿をとおして、親も少しずつではあるが理解を示してくれた。子どもの中から「もっと朝鮮のこと知りとなったわ、先生」という声もきかれ、取り組んでよかったと思う。

また、ボク自身も大変勉強になった。「トケビ」というおばけやケチケチハルベをどう演じさせるのかということを通して、「朝鮮」に一歩近寄れた気がする。衣装を城北朝鮮初級学校から貸していただいたり、渡韓して買い求めたことも、良い勉強になった。

小学校の実践として、事実をつきつける中で子どもの考えを深めていく方法も大切であるが、やはり「遊び」を通して豊かな感性を育てることが基本の部分ではないかと思う。そして、そのときボク自身もいっしょに「遊び」、自分をとおして「日本」を「日本人」をさぐり、「朝鮮」と出会っていく実践を、これからも進めていきたいと思う。

 

〔補足〕現在、「大韓民国」「朝鮮民主主義人民共和国」の国籍を有する人々の総称として、また日本との歴史的経過をふまえそれを反転させる意味において、朝鮮人・朝鮮、と言う用語をボクは使用しています。

 

資料1.

祭りの空間と時間

演劇の自立公演のもつ意味

日本演劇教育連盟編集「演劇と教育」1986.11月号晩成書房

 

私服すがたの子どもが好きだ。わずかなフリルが、Tシャツの胸もと光る汗が、その子のささやかな動作とともに、ボクの目に飛びこんでくる。その意味を読みこんでいくことが、ボクたち教師の仕事だと言いきってしまいたい衝動にかられる。

 

「祭り」「保護者同伴でいくこと」「午後8時までには帰宅すること」「打ち上げ花火は禁止」「神社の中では遊ばないこと」「暗いところは痴漢が出るからいかないこと」

 

先生方ヘ……5時から9時の間に見回ってください。シンナーを吸っている子は、人のいない場所に集まります。注意して声をかけて下さい。お金の使い過ぎを注意しておいてください。学校へは入れません。

 

1.平日の放課後の自主公演に300人が集まった

そんな大それたことをするつもりはなかった。ただ、せっかく劇を作ったのに、見せることがなければ何にもならないと思っただけなのだ。198410月。前・後期制のクラブ活動。後期には「クラブ発表会」が位置づけられている。だが、前期にはその予定はない。困った。クラブの時期に、いくつかのエチュードを演じたりセリフの肉付けの勉強をしてはきたものの、やはり一つの作品を通してでなければわかってこない感覚がある。だが、どうする。「運動会」「秋の校外学習」「校内音楽会」のシーズンである。ボク自身の負担は大きい。しかし、やるっきゃない!前任校(東小)の最後の年のことである。

こうして「自主公演」の日程を決めた。教頭さんの了解をもらい、体育館の使用を確保する。子どもたちには、劇が発表できると伝えると大喜び。朝・夜の練習にはげんだ。

一週間前に、職員朝礼で連絡。子どもたちは、かんたんなポスターを作り、自分のクラスと、あと一枚はどこでもということで掲示する。公演そのものの準備はたったこれだけ。というのも時期が時期だけに子どもも忙しく、劇そのものの練習に手がいっぱいになってしまったからだ。

そして迎えた公演日。時間は授業終了後の330分〜4時。わずか半時間の予定。ボクたちの予想観客数50人。もちろんボクの親しい先生たちをふくめてのこと。したがって額縁とフロアーの両方を舞台として使用し、花道を作って客席にはパイプイスが780、という会場を設定した。この予想には自信があった。当時の6年生の担任にボクの個人的理解者が一人いた。しかし、彼女の言うには塾通いでみんな忙しく、見にいけない子がほとんどだとのこと。また、5年生は、34年とボクが担任した子どもたちがいく人かはいるが、そのうちの半数が、今日の出演者である。もちろん、彼・彼女らの保護者にも連絡はとってあるが、何せ平日のこと。多くの参加は望めない。したがってかなり自信のもてる推定人数であったわけである。

ところが、来るわ来るわ、なんと300人以上の観客が押し寄せたのである! 劇の最中にも後から後から押し寄せてきて、とうとう舞台として仕切ったフロアーにもあふれ花道なんぞはどこへ消えたか影も形もなくなってしまった。おかげでボクの役者たちも、あがるのとだんどりがくるうのとで、メロメロ。劇の方は、かろうじて一人一人の素敵さがでたかでないかぐらいのものになり、ストーリーなど観客にはほとんどわからなかったのではなかろうか。嵐が去って、気がつけば体育館は力ラッポ。時間は6時前にもなっていた。おそらく、観客の整理やら注意やらで開演時間が遅れたのだろう。また、だんどりがくるった所で時間がのびたのでもあろう。しかしその時、倒れたパイプイスの向こうにひろがる何もない空間と、窓の外に忍びよる暗闇にボクは言いようのない感動を覚えていたのだった。

2. 2回の朝鮮民話劇公演の対照的な結果

大阪の小学校から、学芸会が姿を消して久しい。もちろんまだ大切な行事として続いている学校もたくさんあることだろう。しかし、ボクの勤務する守口市の小学校を例にとれば、学芸会を行っている学校は20校のうちで1校だけである。しかも、その学校は最近になって、人形劇・影絵劇に熱心な吉川先生が中心になって復活させたものなのだ。なぜ、無くなったのかというわけはだれも知らないほど、「学芸会」についてはその議論もふくめて風化してしまっている。

そのような客観的な状況の中で「テマ・ヒマ」のかかる子どもの表現活動についての地平を切り開くのは容易ではない。ただでさえ厳しいところに、塾通いや放課後の活動の制限(5時以降は警備員さんの管理責任になる等)もあってクラス劇をやる時間がなかなか見つけられない。また、スポーツ文化の普及・低年令化ともあいまって、体育館や空き教室の使用も、剣道・ママさんバレー・インディアカ・太極拳などが月単位の契約を結んでしまっている。参観日に発表をと、前もって計画すればよいのだろうが、それでも学年の取り組みやPTAの会合とぶつかったりすると、なかなかとれない。

今年の4年生の場合も結局自主公演にならざるをえなかった。朝鮮民話「トケビの金はこび」をやろうとボクが思ったのは、クラに存在する在日朝鮮人児童に自国の文化のもつ良きを知ってほしいという願いと、日本の子どもに明るく楽しい「異文化」との出会いをさせたいという願いから創造した授業中でのことだ。病人のために貸す金をことわるケチケチハルベという人物にたくされてる人間観と、ちょっとぬけたお化けのトケビが、ボクにとってとても魅力的だった。ちょっぴり大人の夫婦関係がのぞいたり、からかいながらも心配するという村人のハルベへのかかわり方も、子どもにある世界を示し得ていたし、何よりも劇中歌のふしまわしやリズムが妙だった。柴崎卓三氏の脚色で、大阪市外国人教育研究協議会編の『サラム戯曲編(ブレーン・センター発行)に所載のこの作品に、現場の目からということで演出ノートなるあやしげな文章を書いた責任もあって、一度は上演してみたいと思っていたこともあった。

そこでボク自身が、守ロ市教育研究会の中の異色の部会、「民族教育部会」の部長を3年間してきていることもあって、その研究会とダブらせて時間を確保し、権威でもって会場(体育館)をおさえたのである。その上で、校内に宣伝をして他の子どもたちも見にきてよいという形をととのえたのである。クラブの場合とちがってずいぶん楽であった。会場の設営や準備には、他の洗生も力をかしてくれるし、第一、観客の動員を意識しなくてもよい。ただ、芝居づくりを考えていればよいのだから……。

ところが、その結果は悲惨であった。自然光の中でのフロアー芝居がボクの主張する子ともの劇のありかただが、観客が散漫な状態になってしまったのである。まず、大人。劇を見ようとして来てくれてはいるのだが、反面やはり「在日朝鮮人教育」としてどうかという視点で見ている。いや、そう見られているという意識がボクにある。これが、劇の世界をつくり上げる集中力をそいだ。次に子どもの出入りが自由の体育館。しかも授業時間からその後にかけての時間帯、ランドセルをしょったまま、ちらっとのぞきにきてはパタバタと帰っていく高学年。また、幼児をふくめた低学年の子どもが遊ぴにきて走り回る。前任校と違い、クラブ発表も保障きれていない学校であるから、子どもも先生も観客として劇を作りあげるノリ方を知らない人が多いのである。そして、それをも魅きつけるほどの集中力をもてないボクたち。楽しめなかった。

しかし、この話を聞いた組合からの依頼でおこなった再公演は、バツグンのできであった。場所は門真市の小学校の体育館。在日朝鮮人教育の研究集会がその場であった。2学期が始まってわずか一週間目のことで、練習時間はたいへん少ない。その上に、作品に手を入れて、「障害児」といわれるK君もふくめた全員参加の劇に書きなおしもした。なのに、家や石や糞役のKくんが、一番ノッてアドリブ(といっても言葉がないので足をばたばたさせたり、飛びはねたりキャッキヤッと笑ったりしたこと)を連発するほど楽しい舞台となったのである。

 

3.非日常の時間と空間が演劇とともに出現

これらの取り組みが、なぜ「祭り」なのかと不思議がられる人もいるだろう。しかし、ボクはこのことをとおして、「演劇」というもののもつ力を再確認し、また「祭り」というものの本質をつかんだような気がするのである。

東小での演劇クラブでの実践は、「祭り」における空間と時間について多くのことをしめしている。学校という空間的にも時間的にもしばられたところを、無名の人々が時間も空間も勝手気ままに使うという事実。6時間という授業の延長線にありながら、まったく非日常の時間帯が「演劇」とともに出現したわけである。たった一枚のポスターに魅せられてやってきた観客がどれだけたくさんいただろう。また、わずかに並んだパイプイスや、受付けに立ついつもとは違った(異人化した)演劇クラブの子どもたちに、そしてきちっとしめられた赤い幕に、ならんだ楽器に、彼らは非日常の空間を感じとったに違いない。「体育館でおもしろいことやってるぞ」とは、2で述べた研究集会での会場で響いた声であるが、そのようなうねりが観客をおそったに違いない。加えて、いつもはおこったり諭したりする先生も(つまり学校における日常性の番人たちも)、ただの観客としておしよせる人の波にほんろうされていたのであった! ボク自身も山のようにふくれた観客に恐怖心すら抱いたことを今もわすれることができない。

また、2で述べた失敗例もこのことを逆の意味で照射していると思う。ボクをふくめた演じる側に、どれだけ「劇」を司ろうという意識があったか。いや、意識というより感覚といった方が正確かもしれない。また、空間や時間の設定にどれほどの意味をこめていただろうか。なによりも「劇」であろうとする志と言えばいいのか、ある世界をバネにして自らを異人化して輝いていき、そのことで、唯一そのことで、ある世界を「見せていこう」とする方向を見失っていたと思うのである。(実は、夏休み中に西日本セミナ一に参加して即興による劇づくりを学ぴながら、渡辺茂氏や梶本暁代氏と語り合うなかでそのことに気づかせていただいた)従って9月の研究会での公演では、短い練習時間ながらも「劇」を成立させることに集中しようとした。それが4年生の子どもたちの中で、土曜の午後という時間と知らない学校の体育館という空間とあいまって、「祭り」の創造を可能にしたのだと断言できる。

また、もう一つ観客の問題がある。詳しくは論じられないので、その端緒だけを述べておくが、そもそもタブーの解かれた空間や時間として「祭り」は人々に意識されていたはずである。少なくともそこで起こることについて、個人として責任をとわれない社会的条件が前提としてあったのだとボクは思う。この場合重要なのはそのことによって人々が獲得する無名性なのだ。(*1.)これらが人々を「祭り」にいざなうのである。人知れないからこそ、「そこで起こることに全てかかわろう」という意識をもたせ、きっかけは司祭者側だが、結果としてはそこに来る人々が創り手となっていく。そこではじめて、今ふうに言えば「全員が楽しく参加できる○○祭」が可能になるのだとボクは思う。

2.で述べた実践に即して言えば、最初の空間と時間の設定と司祭者のノリでは、ふらっと入って来た客はちっともいざなわれなかったろう。また、大人たちだって、ハナから無名でいたいと思ってもいなかった。月一度の研究授業というワクの中に入り、そこから飛び出したいとも思ってなかったろう。そこでの「劇上演」というイベントと、予想外の子どもの登場は、人々の要求を無意識にすくいとり、しかも子どもの変身によって「見よう」というエネルギーをひきおこしたのだと言える。(多くの先生にとっても、その集会の内容、空間、時間はいつもとちがう世界であったことは、もちろんのことである。

 

4.「疑似イベント」をのりこえるパワーを学校教育に

では、現実におこなわれている「体育祭」や「文化祭」が、以上の空間や時間や観客の位置づけをそれぞれおこない得ているだろうか。その空間や時間は、教師サイドの都合で「非日常」のエネルギーを有していないのではないか。はじめに示したように、地域共同体の「祭り」までもが、学校や社会の管理対象となり、「闇の空間」を、「永遠の時間」を失ってきているのである。これをして、文化的退廃とボクは呼ぶのである。あるいは、宗教がほんとうにその機能をはたして、闇と光を現実と真実を信者に示しえているのであろうか。

ここでそのことを問うのは課題が大きすぎるかもしれない。しかし、表文化の代表・仕掛け人であり・秩序の維持と再生産者であるボクたち教師がそのことに目をむけない限り、資本が行う「疑似イベント」(*2.)をのり越えるパワーは、学校教育からは生まれ得ないと結論づけるのは、早計であろうか。確かに表と裏を使いわけていくことは、教師にとって至難のわざに違いない。しかし、マダン劇のように、タルチュムのように、演劇というものはそれを取り組むものに、「仮面」をあたえるのだと信じれば、楽しくたやすいことだとボクは思えるのだが

 

*1 網野善彦氏を中心とする中世史の研究の進歩によって数多くのおもしろい事実が明らかになっている。例えば、処刑現場において、扇のかなめごしに(顔をおおって)見物している人がいることを描いた絵巻物がある。

*2. 関西においては、西武資本の「つかしん」が、実にナウいイベントをやる。この間はケチャをやった。また一流設計者による空間設定が実に良い。これをしのぐおもしろきを、ノーミソの力とセンスと時のながれを利用することで、ぜひやりたいと思う。やってやるぜ。

 

資料2.

民族教育 学習指導案

指導者 守口寺方小 はなふさ慶典

41組 男19名 女19名 計38

 

朝鮮の昔話をしろう!

「トケビの金はこび」と[ウサギのきも]のクラス劇の取り組み

 

1.目標

劇を楽しみながら「朝鮮文化」に親しみを持つ

☆朝鮮独特の昔話を知り、他者理解への興味をもたせる。

☆日本の昔話と似ている話を取り上げて、両国の近親性に気づかせる。

☆過去において多くの朝鮮人が渡来し、日本の文化の基礎を築いたことを認識させる。

2教材観

「トケビの金はこび」は、朝鮮独特のおばけのトケビがでてくる話です。トケビは、不思議な力をもち、火の玉になったり身体が伸びたり縮んだりします。すもうが大好きですが。朝はこわい。少しおっちょこちょいでユーモラスなおばけです。このおはなしはケチケチハルベとトケビの知恵くらべの様相を描いています。おもしろいことに、極悪非道ともとれる登場の仕方をしているハルベが、実は人一倍働きもので知恵者であることが次第にわかってきます。「安易」に人にたよらす自力で精一杯生きてゆく人物を尊敬してゆく価値観が朝鮮民族の中にはあるように思います。

「ウサギのきも」は「くらげのほねなし」という日本の昔話と大変よく似ている話です。これまた・知恵者のキツネにだまされて生きぎもをぬかれそうになったウサギが、頭を働せて窮地を脱して、逃'げ帰る話です。放送劇の台本でしたが、ペープサートにしてみました。これらに加えて「トラよりこわいくしがき」の話を読み聞かせるとなお効果的です。 「劇」というスタイルは、最も確実に「世界」を理解する手段だと思っています。身体の動きと心の働きをあわせて、ものごとを考えていくからです。また、その「世界」で生ききることは、相手とかかわりきることを要求されますし、自分のなかの思いやそして生きるエネルギーをほりおこしてゆかねばとうていできません。それは、「自立」をめざすという意味では最も教育的なことだと思います。そして、それは子ども達にとっては「楽しい」仕事であり、必ず「仲間」とともにしかできないという「おまけ」つきです。ボクはそこで「劇」をとりあげたのです。

3児童観

41の子ども達は、去年1年「障害児」とともに勉強してきてお互いを認めあう雰囲気が少しずつ出てきたようにおもっています。ただ、なんだか狭いオリに閉じ込められてきた末のような「ここ一番」の集中の弱さとか、自分を解放していけない固さだとかは、なかなかとれてゆきません。感情の素直な表現をそのままキャッチボールしてゆける「仲間」関係に育っていって欲しいと願っています。クラスの中には「朝鮮籍」の子どもが2名、日韓のハーフの子が2(いずれも日本国籍)います。この4人のうち2人の子ども比較的明るくこの問題を受け止めています。ただ気になるのは、自身の親が「韓国籍」であることを知らない子が、冗談であれ「朝鮮人」という言葉をからかいの対象として使ったことです。また、親からあまり積極的に知らされていない子どもの表情が暗かったのも気になっていました。国際社会を生きてゆく子ども達ですので、偏見のない事実としての「朝鮮」に向かいあわせて、他者の理解・異文化との共存ができる日本人として育っていって欲しいとおもいます。

4.指導計画

 1次 劇づくり(1015時間)

2次 日本と朝鮮の昔話(3時間)

・似ている話をさがそう(1時間)

・なぜ似ている話があるのだろう

・話し合い(1時間)

・朝鮮から日本へ来たもの(1時間)

・感想文

3次 4-1の学習発表会(本時)

.学習発表会(2時35分〜3時20分)

A目標

※街元さんのいる4-1としての集団の力を精一杯表現しよう

※劇・歌を楽しもう

Bプログラム

  @司会あいさつ

   Aペープサート「ウサギのきも」 Bグループ+音楽グループ

  B合奏「コヒャンエポム」 音楽グループ

   C劇「トケビの金はこび」 Aグループ+音楽グループ

   D指導者あいさつ

 

児童の感想文(2次終了時)

 

 わたしたちは先生から、朝鮮の話を聞いて、昔話が似ているわけを聞きました。前は、日本と朝鮮がつながっていると聞いてびっくりしました。それと家の建てかた(建築)も教わったとは思いませんでした。()

 

ぼくは朝鮮からこんなにきたとは、知りませんでした。だから、朝鮮の人は天才とおもいます。印刷も漢字も朝鮮だったです。ぼくはときどきつまるけど、声は大きいとおもいます。本番のとき、きんちょうするかもしれないから、がんばりたいです。()

 

最初似ている話があってびっくりした。そのあとぼくらの住んでる街やつかっているものは全部朝鮮の人が作ってたとわかってすごく勉強になった。もっといい勉強の話をして欲しい。劇をするのはどきどきする。なんでかというと、あんまり劇をしていて、なんかまちがえそうだから。それに、はずかしい。でも、明日の劇はがんばる。()

 

朝鮮人が日本にやってきてその人々がつくった、漢字とか建築とか神社とか。大昔から伝わるものを、先生が言ってくれたおかげで、よくわかっておもしろかった。()

 

6月から今まで、朝鮮のお話で劇の練習をしたり、紙人形劇を練習して、楽しかったりいやだったりしたけど、あしたは本番だから、がんばりたいと思います。朝鮮のべんきょうをして思ったことは、昔は日本と朝鮮がくっついていたことを知ってびっくりしました。また、日本と朝鮮がくっついたらいいのになあと思っています。これから朝鮮と日本がなかよくして戦争をやめたいです。(女・朝鮮籍)

 

わたしは、この勉強をして、朝鮮から日本へいろいろな物が入ってきたことを知りました。それに大昔には朝鮮の人々が日本へ来たし、この日本も朝鮮の人がつくったし、「なら」という言葉も、もともとは朝鮮語だからです。それに朝鮮と日本はしんせきみたいなものです。いろんなことがわかってよかった。()

 

朝鮮の勉強をして思ったことは、朝鮮と日本が昔はつながっていたなんて思ってもいなかったから、びっくりした。朝鮮からつたわってきたものが、すごくたくさんあるなんておどろいた。朝鮮と日本の話がすごくにていて、ほとんど同じだったからおもしろかった。朝鮮のげきをしておもしろかったのは、例えば「トケビの金はこび」でいくと、ハルベとトケビたちがだましあうことが、おもしろい。また「ウサギのきも」でいったら、ウサギとカメがだましあうのがおもしろかった。朝鮮のお話の勉強、おもしろかったです。()

 

私は劇で、トケビのやくをしています。トケビはおばけ(ようかい)です。おばけは、人間よりはげしいうごきをします。私は、セリフがあんまりないのですぐおぼえました。「金さん」とゆうところで、とぶからこけそうなかんじがします。でも本番のときは、こけないようにがんばります。朝鮮の話の勉強は、日本の人が朝鮮の人からいろんなことを教えてもらっているとは、思ってもみなかった。私は、その反対で、日本の人が朝鮮の人におしえていると思っていた。(女・朝鮮籍)

 

朝鮮のお話を勉強して、朝鮮と日本が、なぜなかよしなのかわかりました。この勉強をしてよかった。ぼくはそれまで、朝鮮と日本がなぜなかよしなのか、なやんでいました。わかってとってもよかった。劇をやってとってもうれしい。みんなも楽しくやっているし、おもしろいからだと思う。でも、先生がおこると、みんなは楽しくなくなる。だから、先生おこらないで。()

 

私は休みの日、学校で劇の練習があるときに、「学校で劇の練習があるから行ってくる」とおとうさんに言ったら、「なんでちょうせんの劇なんかやりにいくの?」と聞かれます。それで、「いますぐちょうせん人と、ともだちになろう思っても、むりや。おとうさんなんか、昔から、朝鮮人と(友だち)なかがよかった。」と言っています。(毎日毎晩です。)なぜ、朝鮮の劇をしたらいけないのか? 私には、よくわかりません。私は、なにも先生は朝鮮の劇だけやろう! とは、思っていないと思います。学校から帰ってとか、休みの日にやるから、お父さんまたお母さんがいけないと言うのかな? でも、お母さんは残ってやるのもいけないといいます。()

『むくげ』107号(1987.3.3)より

    
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