民族名をとりもどすことは
民族性をとりもどすこと。

今宮工業高校()朝鮮語教員 鄭良二
(チョン・ヤンイ)

 

1.朝鮮名奪還

今年929日に大阪家裁へ申立てた「氏変更」が、1012日に認められた。思えば長かったような短かかったような。

私は、両親とも朝鮮人の子として生まれ、小学校から大学まで、すべて日本の学校で過ごした。その間、私が高校1年生の時、両親が「帰化」をして日本籍朝鮮人となった。名前について言えば、「帰化」前も「帰化」後も変わらず河東という姓を名のっていた。もちろん法律的には鄭から河東にはなっていたのだが。

その後、高校3年生になった'頃から、朝鮮人として意識しはじめ、大学へは朝鮮語を学べる所へいった。朝鮮語や朝鮮史を学ぶようになって民族意識が高まっていくと自分が「帰化」者であることが嫌で嫌で仕方なかった。それで、国籍を元の朝鮮籍にもどそうと考えたが、それは不可能なことだった。

 

2.本名々とりもどそう。

大学1年生のおわり頃から、あれほど嫌で嫌で仕方なかった民族名を、結局は名のりはじめた。国籍は、日本でも民族は朝鮮。このごく当り前のことに気がつくまで随分、時間がかかった。同胞からは、裏切り者呼ばわれされたことも何回かあったり、日本人からは国籍が日本になっているのだから、日本人として生きれば良いと言われたり。私自身は、好きで「帰化」をしたわけでもないのに、本当にやるせない気持ちでした。あらためて、国籍=民族の図式のこわさを認識させられた。

国籍がもどせないなら、せめて名前だけでも法的にとりもどそうと、大学4年生の頃から考えはじめ、「鄭」という名前の郵便物や名簿など、すべて資料として残すようにした。なぜなら、「氏変更」する場合、変更したい名前の実績が長く、かつ範囲が広ければ広いほど良いと専門家から聞いたからでした。

 

3.日本籍朝鮮人として生きる。

鄭という名前で生きて11年目の1985年、「氏変更」の申立てを行った。3ケ月後にみごと棄却され、即時抗告を行うも、3ケ月後に却下。怒りの気持ちもさることながら、当初は結果が信じられなかった。芸名やペンネームを本名にしてほしいという訴えなのではない。生まれながらにして持っていた鄭姓への復姓が認あられなかった。ましてや、十年以上も名のり続けた鄭姓への復姓が認められなかった。日本の単一民族幻想がいかに強いか認識させられた次第である。

実は、「氏変更」の申立ては私が初めてではなかった。東京と京都の日本籍朝鮮人がすでに申立てを行って、いずれも棄却されていた。それで、個人的な努力ではなしに組識的な動きでなければ、突破できないと認識し、8512月に、「民族名をとりもどす会」を結成した。「在日朝鮮人は、韓国籍と朝鮮籍だけではない日本籍:もいるんだ。」と訴えるとともに、日本籍朝鮮人の法的名を、まず民族名に変えていくことを会則にした。逆に言えば、日本籍朝鮮人の解放は、韓国籍朝鮮籍の者と同じように民族としての解放がなければならない。被差別の状況は、ちがっても本質的な民族差別の根っ子は同じのはずだ。むしろ、「同化」という側面から見れば、国籍=民族という単一民族国家観をテコに、より強い「同化」をしいられている。

また、「とりもどす会」は、「同化」政策の典型である現行の「帰化」制度を問題にしている。「帰化」は非難の対象にこそなれ、制度そのものを問題にした者はいなかった。日本政府は、誰からも批判されなかった「帰化」制度をテコにやりたい放題やってきたのである。

 

4.朝鮮人の未来

「帰化」者が14万人を越え、その子孫も相当な数にのぼる。また、数十万と言われる日本籍を持つ日朝「混血」者が存在する。

在日朝鮮人の生き方の多様化とともに、朝鮮籍、韓国籍、日本籍の立場を越えていくような民族の将来展望が、今こそ望まれている時はないのではないかと思う。

いずれにしても京都の朴実さんや私の「氏」変更が問いかけた問題は、これからのひとつの道を示したのではないか。ただここで、くれぐれも言いたいのは、けっして私たちは現行の「帰化」制度によって日本籍をとることを良しとはしていない。しかし、現実に私たちのような日本籍朝鮮人がおり、それらの人々を含めた形での民族問題の提起が必要であるということだ。

「絵にかいたもち。」ではなしに、「目の前のもち。」こそ今求められている。

 

帰化しても、私は朝鮮人です

一朝鮮名奪還のための申し立て書一

1985年3月

1.「チョーセン」人としての生いたち

私は195614日目本のこの大阪の地で生まれました。父母ともやはり、この日本で生まれた二世で、祖父母の代に日本へ渡ってきたそうです。両親が二世ということで、朝鮮語をペラペラ話すことはできませんが、片言の話や、聞くことはできます。両親が生きた時代はちょうど太平洋戦争末期から、敗戦後の時代のため、朝鮮人としての教育はおろか、日本の教育においてもろくろくまともな教育はうけられなかったそうです。父は小学校6年間の教育を受けたそうですが、その間、徹底して「チョーセン人」という差別的な罵倒をよく浴び、そのたびに、暴力的にうち負かしたそうです。また、母は幼い頃、よく自分の家に村の子供たちが「チョーセン」と囃したて家の戸などに石を投げては逃げていったそうです。私は物心がついた時に両親から、「親の朝鮮人としての体験」としてよく、そのような話を聞かされました。

両親は、朝鮮の伝統的な習慣にしたがって結婚し、その結婚式においても朝鮮本国とまったく同様の民族衣装で行い、その時の写真は今でも大切に親のアルバムの中にしまってあります。両親が結婚した時代は、日本の敗戦後のたいへんな時代で、日本に住む誰にとっても生活が苦しい時でした。特に、学歴もコネも資本もない朝鮮人の新たちは死にものぐるいであらゆる仕事をしました。両親にとってもその例外ではなく、屋台のラーメン屋から始まり主に飲食関係でしたが、転々とその仕事をかえていったそうです。このような苦しい生活に追われる中、比較的朝鮮人が少ない地域で住んだたあ、私と兄は幼稚園から、小学校へと日本の学校で学ぶことになったのです。

私は小学校の2年生のころから、特別両親に教えられたわけではありませんが、朝鮮人として意識するようになりました。それは、ただ、漠然と意識したのではなく、学校で何かのひょうしで友だちとケンカをした時に、友だちから浴びせられる言葉「チョーセン」「チョーセン人」という差別的な言葉によって、いや応なく意識させられたものでした。したがって私は皮肉にも日本人によって、最悪の状態で意識させられたのでした。日本の学校では、特別に朝鮮のことを教えるわけでもなくまた、そのような差別的な発言は担任の先生などには見えない子供の世界の出来事でした。それは、当時の私の幼い心の中をどれほど傷つけたか体験したことのない人に想像できないものでしょう。いつであるかは、はっきり覚えていないのですが、あまりにも、私に対して差別的な発言をする日本人がまわりに多いので、両親にどうしたらよいものかとたずねたことがあります。そうすると両親は、私に対して、もし日本人から「チョーセン」といわれたら「ぼくはチョーセンちがう。日本人や」と言いなさいと教えてくれたのでした。それ以後私は、両親の教えにしたがって民族差別発言を浴びせられた時は、「ぼくチョーセンちがう。日本人や」と喰ってかかるように言い返していました。両親に教えられたその言葉は一時的に相手をごまかすことはできても、本質的に相手の発言をやめさせることはできませんでした。ましてや、その言葉は、相手の日本人を糺す言葉ではなく、本当に朝鮮人である私自身を否定する言葉ですから、言葉を返せば返すほど、私は悲しくなっていく自分を見つめざるを得ませんでした。

朝鮮人として意識しだしてから、大きくなるにしたがって、朝鮮人であることが嫌で嫌でたまらなくなっていきました。揚句の果てには親をうらみ、ふとんのなかで「なんでまわりのみんなが日本人やのに、ぼくだけ朝鮮人や」と泣いたことも何度かありました。このような意識はずっと心の中に存在し続けました。たとえば、歴史の授業の中で、朝鮮のことがでてくると、「朝鮮」という言葉がでてきただけで自分のことを言われているのではないかと思い、顔を下に向け先生やまわりの友だちに気づかれないようにしたことが何度かありました。

中学生になった頃から両親は帰化の話を夫婦でよくするようになりました。朝鮮国籍を持っていると社会保障もうけられないし、銀行などの融資もうけられないし、ずいぶん悩んでいたようです。その頃は、おじいちゃんもまだ生存していましたし、私の父も朝鮮人としての民族的な気持もあり、あくまでも会話の話題でしかありませんでした。

 

2.両親と一緒に帰化

しかし、私の高校受験と兄の大学の受験の問題が目の前にせまった頃、両親は兄の高校受験の時を思いだしては深刻に帰化の話をするようになっていきました。兄の高校受験の時の話というのは、兄が高校の受験校を担任の先生と相談している時、兄は、希望していた高校へ行く学力があったにもかかわらず、担任の先生からは、朝鮮人差別があるというので念のため一ランク下げて高校を決めなさいと言う指導があったということです。その時、兄はかなりショックをうけました。両親はいたいけな兄の姿を見て帰化を考えだしたのでした。このようなことがあって、今度いよいよ二人の息子の受験の問題にぶつかってしまいました。当時の両親の気持はまるで人質をとられた親の心境ではなかったでしょうか。あれほど帰化に反対していた父はとうとう母の話の中で子供のことを思い、帰化を決意しました。両親から帰化を申請することを言われた私と兄は、何の事情も知らずただ朝鮮人から逃げられるという一心で親の帰化申請を喜びました。

帰化申請してから、しばらくして帰化は認められました。その時は私の高校1年生の時でした。不思議なもので、あれほど帰化申請時に喜んでいたのに、帰化が認可されても全然うれしくありませんでした。それもそのはずで、帰化しても私には直接的には何の関係もありませんでした。公文書上は別として、学校では初めから通称=日本名で通してきたので、学校へ戸籍謄本をわたしてもなんの変化もありません。逆に、帰化しても結局、「帰化した朝鮮人」として差別をうけるではないかと、考えたくらいです。その気持は高校3年生になってもかわりませんでした。高3になってすぐ、担任の先生から進路についての個人面接があった時、自分が「帰化朝鮮人」で将来就職差別をうけるだろうと言ったのを今でもよく覚えています。担任はそのとき初めて私が帰化者であることを知り本当に驚いた様子でした。特に担任は朝鮮文化研究会の、クラブ顧問をされていたくらい朝鮮人生徒のことをいろんな形でバックアップされていたので、まさか自分のクラスに朝鮮人が自分の知る以外に存在するとは思ってもいなかったのです。そして、進学希望とはいえ、あまりにもあっけらかんと「帰化者であっても就職差別をうける」ということを言ったので度胆を抜かれたのでした。その頃の私は、日本国籍を持っていることについての屈折した安堵感と、帰化者であっても差別を受けるという絶望感が交互に支配していたようでした。

 

3.目ざめ

そうこうしている内に2学期になって自分の進路を決定しなくてはならない時になってしまいました。その頃、学内では、学校が決めている制服を自由化しようという運動が起こり、学内集会やクラス討論が全校規模で展開されていました。既成の学内秩序や高校教育のあり方までも議論されるという事態が生まれていきました。私も、他の日本人生徒に混じって真剣に討論などに参加していました。また、社会的な問題にも自分の目が向き始め、公害問題などの本をむさぼるように読んでいきました。そんなある日、ふと自分自身のことを考えるようになり、「一体自分が朝鮮人であることにコンプレックスを持っているのに他の問題のことなど言える立場じゃない」と考えるようになったのです。それから、朝鮮についての本を手当り次第に読みました。朝鮮のことを知れば知るほど今まで心の奥に隠していたマイナスのイメージがうそのように解き放たれていき、その頃まで知らないでいたことを何度も悔やみました。もっと小さい頃から正確に朝鮮のことを教えていてくれれば、こんなに苦労しなくてもよかったのにと。

とりたてて、行きたい大学もなかった私はたまたま従姉が大学で朝鮮語を専攻していたこともあって、同じところへ進学することを希望し入学することができました。大学の勉強は自分にとって初めてやりたい勉強であったので、本当に嬉しくて嬉しくて仕方がありませんでした。朝鮮語も朝鮮史も、朝鮮人としての私を取り戻してくれる大きな要素でした。

そのような大学生活を送る中、私の名前もかわっていきました。当初は「河東(かとう)」と呼ばれていたのですが、先輩たちが私を帰化者と知ると私の名前を「河東(ハドン)」と呼ぶようになったのです。私も別段ハドンと呼んで下さいといったことはないのですが、悪い気はしませんでした。それで、しばらくの間、私は大学の先輩や友人から「河東ハドン」と呼ばれていました。しかし、ある朝鮮人の先輩からは「いくら帰化者であってもそのような中途半端な名前はおかしい。もとの朝鮮の名を名のるべきだ」という指摘をうけました。私もその指摘をうけると、言われて見ればその通りで、世界的にみても国籍がかわっても名前は変わらないのがむしろあたりまえではないかと思うようになりました。それで、私は、大学1年生頃からもとの朝鮮名である鄭を名のるようになったのです。不思議なもので、幼い頃からあれほど嫌で仕方のなかった朝鮮名を18歳にして名のる様になったのです。しかも、法律的には朝鮮名がなくなってしまってからです。

私は、この頃から親が帰化したことに対して悲しくて仕方ありませんでした。なぜ、子供の国籍は大人になってからその選択をさせてくれなかったのか。なぜ、親だけで帰化しなかったのか。何度か両親との話し合いの中で言いあいになったことがありました。もちろん両親の帰化への動機は充分に知っていましたが、納得できませんでした。

大学2年頃になると大学内の朝鮮人や大阪のいろんな立場の朝鮮人へと交友関係が広がっていきました。私と付きあっていた朝鮮人はたいてい堂々と本名=朝鮮名を名のり、国籍は韓国か朝鮮籍でした。まぎれもなく国籍によって朝鮮人であることが証明出来る人々。私はその頃それらの朝鮮人をうらやましく感じました。当時は国籍と民族が同じでなければならないという意識が私の中にあったからです。この意識は残念ながら今でも朝鮮人にも日本人にもあるように思います。今まででも、何度か朝鮮人から、「日本国籍をもっているならば日本人じゃないか。民族の裏切者だ」と言われたことがありました。また、日本人からも「日本国籍をもっているなら無理して朝鮮名を名のらなくても、日本人と一緒に同じ様に生活していったらいいのでは」と言われたこともありました。その頃それらの意見に対して、うまく反論できませんでしたけれども、「私の気持とちがう」、「なぜ帰化者の気持を理解してくれないのか」と焦りを感じていました。今でこそ国籍と民族は異なるものでアメリカの日本人が国籍は米国籍でもジャネット・山田などのように日本の名前を名のっていることがあたりまえだと言えるようになりましたが。

 

4.「鄭良二(チョン・ヤンイ)」として生きる−永年使用の事実

高校3年間必死で山岳部をやり通し、大学に入ってからもいわゆるOBという形で高校の後輩たちの面倒を見るようになりました。もちろん高校時代は河東を名のっていたのですが、大学生になってからは鄭を名のるようになりました。したがって、今では山岳部顧問の教員や山岳部員からも「沢登りの鄭」という形で呼ばれるようになり、山岳部の沢登り山行には必ずといっていいほど連絡があり、毎回同行しています。

また、私は高校山岳部時代から沢登りが好きだったので、大学に入学した1年後、日本でも有名な沢登り専門の社会人山岳会「大阪わらじの会」に入会しました。このころは完全に鄭という名前を名のっていましたので、鄭という名前でいくようになりました。入会当初から「親が寿司屋をしている朝鮮人のおもろい学生さん」というイメージで会のみんなからは、当然のこととして「鄭さん」という呼び名で呼ばれ、日本中の沢登りに同行しました。

大学の3年時には、朝鮮史研究に興味を強く持つようになり、3年時のゼミの選択コースは迷わず朝鮮史を選択しました。それとあいまって日本の朝鮮学の二大団体である朝鮮学会と朝鮮史研究会に所属するようになり、朝鮮史研究会では関西部会において発表したこともあります。当然、これらの団体においても鄭という名で通していました。

大学を卒業するころになると、知らず知らずの内に鄭と言う名前が、生まれてからずっと名のりつづけてきたぐらいに身についてしまい、むしろ、河東と言う名前が何とも言えない違和感を伴って聞こえてくるようになっていました。それもそのはずで、一部の法律的に仕方がないものを除いて、私の郵便物をはじあ、あらゆるものは鄭でとおっていましたので、河東という名は日常的には存在しなかったからです。

知人の紹介があって、私は卒業後すぐに府立今宮高校定時制へ朝鮮語の教員として就職しました。大学の専門を生かせることができること、そして、何より嬉しかったのは日本の公教育の中で朝鮮語を通して朝鮮文化を教えることができることでした。名前については、当然のように学校側から鄭で紹介され、自分でも戸籍では、河東であるが、朝鮮名でいくことを説明し現在に至っても朝鮮名でやっています。法律上、どうしても仕方がない場合以外はすべて朝鮮名を使い、このことは当初から校長先生をはじめ職場の仲間から同意を得ています。今年4月で今工に来て8年目を迎えようとしているのですが、この間、新しく着任されてきた先生方の中には、私の戸籍上の名前が河東であることや、帰化者であることすら知らない先生が増えつつあるほどです。給料をもらう時以外はすべて鄭といってもよい位なので、当然説明しないかぎり知りようがないのです。生徒も鄭という名前しか知らないので、どの生徒からも「鄭先生」と呼ばれています。特に朝鮮人生徒にとっては、同胞の先生だということで親しみを感じ、心の励みになっているようです。

 

5.帰化しても、私は朝鮮人です。

私は、両親が帰化することによって日本国籍と日本名を持つようになりました。これは日本の帰化行政に広く見られる「家族ぐるみ帰化」と「日本式氏名の強制」によるものでした。今となっては、国籍の変更はともかく、せめて生来受け継いでいた祖先の名前を戸籍上の名前としたいのです。これは、日常的にもまったく問題のないことですし、また将来生まれてくるであろう我が子に対しても必要なことだと考えます。

少し歴史的な話になりますが、1592年、1597年におきた文禄・慶長の役の時に豊臣側の兵隊によって強制的に連行されてきた朝鮮人の中に陶芸家の集団がいました。その中には、現在においても鹿児島の薩摩焼を守り続ける人々が存在します。その陶芸家の中に祖先の名前を守り14代目に至っても朝鮮式名称を戸籍名としている沈寿官さんという方がおられます。この事実は、作家司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」になったぐらいに、知る人ぞ知る有名な話であります。400年近くたった今日においても、戸籍名として朝鮮の名前を名乗っているすばらしい例ではないかと考えます。

また、私とは歴史的な経過は少し異なりますが、19834月、日本に帰化した元ベトナム人が、神戸家庭裁判所に戸籍法107条にもとづき、元のベトナム名に改名(復帰)することを申し立て、許可された事例があります。このことは貴裁判所もよく知っておられることでしょう。在日朝鮮人三世とベトナム人との状況は異なりますが、帰化した者が元の名前にもどるという意味では、まったく同じ例ではないでしょうか。

本年11日から「国籍法及び戸籍法の一部を改正する法律」が施行されるようになったのは誰もが知るところです。この改正によって外国人と婚姻した者が、その外国人の称している氏を称しようとする場合には家庭裁判所の許可を得ないでも氏変更をすることができるようになりました。また、日本人の親が氏の変更をしない場合でも、その子については、外国人の親の名乗っている氏を名乗ることが許可されるようになりました。このことによって、朝鮮人や中国人の本国式の漢字の氏名を戸籍に記載することが認められるようになりました。その場合において、用いる漢字はいわゆる人名用漢字には限定されず日本文字であればよいという通達がでています。私はこのような法改正は、日本社会の国際化にとって非常に意義深いものと考えます。今回のこの法改正は日本人と外国人の国際結婚における諸々の規定をしたものですが、この法の精神は、私のような両親共朝鮮人で帰化によって日本名を名乗らざるを得なかった者の氏改正についても適用されるべきではないでしょうか。

以上のように私は「鄭」姓を永年使用し、現在に至って職場においても完全に定着しています。また、学校現場において「鄭」姓を名のることは教育的にみて極めて重要なことだと言えます。従って現在、戸籍上の姓が異なることによりむしろ支障があるほどです。

 

6.結論

申立の趣旨記載の通り、氏の変更の許可を申立てます。

 

申立人本人による申立事情補充書

1987年9月29

 

1.はじめに

私は1985年の春に氏変更の申立を行い、却下されました。そして、納得できず、即時抗告も行いましたが、棄却されました。今回、再度申立てるにあたって、まず申し上げたいのは、日本社会の国際化の現実についてよく考えてほしいのです。

たとえば、裁判所が準備されている申立書の申立理由について、気になる点があるのです。申立の理由の中に「外国人の名と紛れ易い」とあり、一般的にはこの理由で氏変更が認められる事例があるそうです。この点について何も言うことはないのですが、私の場合は、あえて言うならば「日本人の名と紛れ易い」となってしまうのでしょうか。

民法や戸籍法の制定時は、外国人姓などの出現は思いもよらなかったことでしょう。しかし、今日においては日本籍朝鮮人などの出現によって、戸籍名が外国姓であることが現実のものになっています。

1985年国籍法が改正され、日本籍者であっても外国姓を称することができるようになりました。このような法改正は、日本が国際社会の現実をふまえ、到達したきわめて当然の処遇であると思います。このことは在日朝鮮人をはじめ、多くの外国人が住んでいる日本が従来の排外的処遇をやめ、内なる国際化に向けての歩みであったはずです。

よくよく考えてみれば、私のような事例も、今まで戸籍法の概念の範疇にはなかったものでしょう。どうか、審判するに当たってそのことをよく考えてほしいと思います。日本社会の国際化の現実にあった判断を下されるようお願い申し上げます。

 

2.奪われてきた私の名前

私は、両親とも朝鮮人の子として生まれ、両親が「帰化」するまでは当然のことながら朝鮮籍を持ち、法的にも「鄭」姓を持っていました。まず、この事実を見てほしいのです。「帰化」は両親が申請したのですが、私自身は納得したわけではありませんでした。とりわけ18才の頃から両親が「帰化」したことや、そのことによって私も日本籍者になったことを何度悔やんだことかわかりません。それで、元の朝鮮籍にもどそうと考えたのですが、この日本に住んでいる限り元の朝鮮籍にもどすことは事実上不可能なことでした。

一方、名前についてはどうでしょうか。「帰化」するまでは通称として「河東」という姓を名乗っていたのですが、あくまでも通称としてでした。法的には「鄭」であり、「鄭」という姓を名乗っていました。日本人には大変わかりにくいのですが、この通称というのは、何も朝鮮人が好き好んで名乗っているわけではありません。

そもそも朝鮮人が通称として日本的姓を名乗り始めたのは、日本の朝鮮植民地支配によるものです。当時の日本政府は1939年にいわゆる「創氏改名」という世界に類を見ない非人道的な政策を強制しました。これによって日本的「氏」の強要をする一方、「氏」を変更しない朝鮮人については、あらゆる社会的制裁や暴力を使って圧力を加えました。これによってその後、すべての朝鮮人は日本的「氏」を名乗らざるをえなくなりました。その後、日本が敗戦してから今日にいたるまで、陰湿な民族差別の状況が通称名を強制してきました。まさに、日本社会は朝鮮人の名前すら奪ってきたのです。

その結果が「帰化」行政だったのです。日本政府は朝鮮人の「帰化」申請者に対し、現代の「創氏改名」とも言うべき日本的「氏」を強制してきました。この事実は、今回提出した法務省の「帰化許可申請の手引」の中の条文にもはっきりと見ることができます。

「なお、氏名は従来の通称名をそのまま用いてもよいが、任意に新しい氏名を用いても差し支えない。ただし、常用漢字、人名漢字、片仮名又は平仮名を用い、日本的氏名を用いる。」

このような世界に類を見ない非人道的な「帰化」行政の「日本的氏名」の強制が、私の名前を奪ったのです。

 

3.京都の朴実さんの事例

今年6月中旬に新聞などで報道され、多くの人々が知るところになったのですが、今年1月、京都の朴実さんという方が氏変更の申立を行い、日常的に使っている元の朴という姓に変更することを認められました。朴さんは、私と同じ「帰化」者で、「帰化」申請時にやはり「日本的氏名」を強制されたそうです。しかし、本人は納得できず、「帰化」後も元の朴という朝鮮名を名乗ってこられました。それで、京都家裁へ氏変更の申立をされ、認められました。

家裁の審判文は、朴さんが「帰化」申請時において日本的氏名の強制を受けたことを明確に認めています。

「所轄官庁より交付された帰化許可申請書作成の手引書に『帰化後の氏名は日本的氏名を用いる。』旨の記載があったことから、申立人実としては何ら考慮の余地もなく帰化後の氏を前記通称の『新井』とした。」

このような司法の判断は、1982年に、神戸在住ベトナム人「帰化」者トランさんの氏変更を認めた神戸家裁の審判においても見ることができます。

また、京都家裁は朴さんらが「朴」姓を称して6年という比較的短い使用期間に対して、「その使用期間は比較的短期間ではあるが、(中略)本件申立ては戸籍法1071項所定のやむを得ない事由に該当するものとして認容するのを相当と認める。」と認めました。

そもそも朴さんにしても私にしても、法務省による人権無視の「日本的氏名の強制」が、なかったならば、わざわざ氏変更の申立をする必要がなかったのです。

 

4.元の名前を返してください。

私の本名=「鄭」姓は、「帰化」するまでの16年間と大学1年からの13年間、あわせて29年間の本名として存在しでいます。今や私を知っている人々は、私が鄭以外の何者でもないことを信じて疑いません。

たとえば今宮工業高校定時制の職場においては、1978年赴任当初から教育委員会と職場の同意を得て、教職員や生徒が目にふれる住所録、様々な名簿などには、「鄭」姓を使っています。また、戸籍名でしか使えなかった保険証や公文書に捺印する印鑑の名前は、説明資料のとおり19863,20日の職員会議決議によって教育委員会と協議し、承認の上、昨年春からすべて「鄭」姓に変更しました。したがって、出勤簿はもちろん給料受領印についても「鄭」でよいと認められました。

「鄭」姓は、芸名やペンネームではありません。私が生まれながらにして持っていた本名なのです。ですから、私の氏変更の申立は、法律的には「氏変更」なのかも知れませんが、単に「元の本名を返してほしい。」という訴えなのです。

どうか、現在もごく自然に名乗っている本名に、変更していただけるよう御願い申し上げます。

 

1987927

鄭良二
『むくげ』111号1987.10.31より

(HP製作委員会注)文中、薩摩焼の家元である「沈寿官」氏が今も戸籍名が「沈寿官」だというところがありますが、
「 沈寿官」さんの戸籍上の苗字は、「大迫(おおさこ)」であるということです。 ただ、ここでは、沈家に限らず、
朝鮮陶工の子孫たちが、300年以上ものあいだ朝鮮の姓を名乗りつづけたこと、日本風の苗字を名乗るようになったのが
やっと韓国併合以降のことであることのほうに注目する必要があります。


     
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