「朝鮮人って世の中に言って

何か良いことあったら言ってみろ」

 

 

姜畢生(力ン・ピルセン)

一(『むくげ』1131988.4.20より)

 

自己紹介

民族講師の仕事をしております姜畢生ともうします。民族講師の仕事をしてるといいましてもまだ4年にしかなりませんし、ほんの始めたところっていうところでして、難しい話は何もできないじゃないかなとおもうんで、ただ自分のアボジやオモニ、父親や母親を通して在日朝鮮人二世にあたりますので、私自身の生立ちのなかで、朝鮮、自分の国がどういうことだったのかということやら、また、そんなにたちませんけど、4年間の閻に小学生、中学生そして高校生の大勢日本の学校に在籍していろ朝鮮人の子らと出会ったなかで、子供らが一体どういうことで悩み学校生活をしているのかという子供達の気持ちや、その子達の、主には在日朝鮮人二世三世にあたるんですけど、親達がね、どんな思いで日本の学校へ子供らを通わせているんだろうかという、そういうとこらへんの話をざっくばらんに、みたまま聞いたままありのままをお伝えしたいと思うんです。

 

在日朝鮮人が自分を隠す気持ちハルモニの話

子供達が集まって民族学級ていうて朝鮮の歌や文字や踊りや歴史やなんかを習ってるわけなんですが、その子供のおばあちゃん、ハルモニというんですけど、このハルモニが64歳なんです。64歳で初めて自分が朝鮮人だということを自らあきらかにしたっていうハルモニでしてね、どういうことだったんだろうかということでそのハルモニにお話を伺いについこのまえほんと行って来たんですけども、そのハルモニは8歳のときに済州島というところから君が代丸に乗って日本へ渡航してきたわけなんですね。ものすごくやはり戦前の朝鮮人の暮らしっていうのはもう想像のつかないほどやっぱり貧しいもんでして、学校3年生の一学期でもう貧しくて仕事をしなければならないので、学校をやめきせられて働きにでてたわけなんです。先生方もよくいろいろ本やいろんなことでお読みになったと思いますけれど、いろいろ差別を受けてやっぱりいろんなことを小学校時代から言われて生きてきたていってました。すぐ言われるのがやっぱり、朝鮮帰れ、って言うことと、朝鮮人なにしに来たか、それで、日本の穀潰しだ、っていうふうにいつも言われてきて、仕事住込みでいったそうなんですけどね、住込みでいった仕事ききではいまでいういじめですね、仲間同士のね、朝鮮人だということでお部屋の子達の布団を全部あげさせられたり、お膳に自分のお膳だけに御飯が抜かれてたり、そういうことをたくきんされてそれでやっぱりそうやられてるうちにだんだんだんだん自分が朝鮮人だっていうことを言えばそれで知られればこういうふうにされるんだなっていうのを感覚で覚えながら、だんだんと朝鮮人っていうてことを言わなくなったっていうふうにハルモニは言っておりました。ハルモニはいろいろな体験があるんですけどね、そのなかで、戦時中岡山へ疎開をしてたときに自分の叔父が亡くなった時に、その町で朝鮮人だということでお寺さんも火葬場もどこも手を貸してくれなかったそうです。それで自分らと自分の父親がリヤカーに叔父の遺体を布にくるんで、その朝鮮人でもお参りをしてもらえる、埋めてもらえる、そういう村を捜して48時間2日間歩き続けたといっておりました。それでやっと朝鮮人でもなんとか、じゃあ葬式のようなかたちをしてあげようという村に巡りあって、埋めてもらった、そのそういうことがもうハルモニの胸のなかにほんとにしみついている。体にね、全部しみついている。ハルモニのそういういろいろな話を膝を交えて聞きながら、話しするハルモニも泣きながら、聞く私も泣きもってね、なぜかといいますとほんとにあの私自身重なるわけです。自分の親の生きてきたそういう姿とハルモニの話しているそういうことがね。

そいで、時間のゆくのも忘れていろいろ話を伺ってきたんですけども、このハルモニ、23年前から識字学級、地域のね、識字学級へ行き始めたんです。週に1回づつ、そこで巡りあった日本人の教師にほんとに手を取り足を取り漢字を教えてもらい、やっと人並の文章が書けるようになったんですね。で、日本人の先生からいつまでもそんなふうに隠してたらあかんで、いつまでも人生なごうないんだから隠し続けてそのまま終えてしまうっていうのはどんなにしんどいことかっていわれて、すこしづつでもいいから自分の体験を書いてごらん、って言われたときに、ハルモニはもうほんとにそれを拒否したそうです。いまさら書いていまさら文にしてなにになるんや、自分の受けてきた差別なんてもんはそんな字ではとうてい表すことのできないもんやということでかたくなに拒否してきたそうなんですけども、あまりにこうね、日本人の先生が熱心に勧めてくれて、やっとなにか一つでも書いてみようかないう気になって、初めて自分の受けた差別を一枚の原稿用紙に書いて、自分は朝鮮人だということを明らかにしたそうです。その識字学級でも、自分は朝鮮人だっていうこと言ってなかったんですね。隠してて、そいでハルモニがそれを皆の前で原稿用紙一枚を発表して、自分が朝鮮人だということをその識字教室に集まっている日本人のお婆さん達の前で言えた時に、そのときの気持ちをね、ハルモニはもうなにか長い間背負ってきた、もう背中に背負ってきた重いものが一気にとれて、もう心も背中もかろうなったという言葉で表現してたんですけれど、それを言ってからハルモニがね、ものすごい元気をだしてくる。なぜかというと、その識字教室にいた日本人のお婆ちゃんやらその日本人教師のささえがあったんですね。その中で初めて識字学級で歌った。今までは日本人らしい顔をして、日本人のお婆ちゃんらと一緒に日本の民謡を、歌ってきたわけですね。初めてアリランの、朝鮮の民謡を、この前歌ったんやっていうことを私に伝えてたときにね、もう晴れ晴れした顔してたんです。

で、お婆ちゃん64歳になって初めて自分の口から朝鮮人だっていうことを言った。このハルモニの言った後の気持ちと、それで隠してきてたときにはほんとに一番辛かったのは、朝鮮人だっていうことを隠すと、次から次へと嘘を言うようになるんです。そりゃもうぜったいなんですね。例えば市場で、毎日キムチ食べてるわけですけど、キムチを買いに行って、偶然日本人の識字教室のお婆ちゃん達に会うと、ああうちこないだちょっともろて食べたのがおいしゅうてなんか朝鮮のキムチって美味しいねって、そういうことを言わなきゃならない、まして朝鮮人を嫌がっている日本人のお婆ちゃんが自分を日本人だと思い込んで、朝鮮人ちゅうのはこないやねえっていうことを自分に言われたときに自分はどうもこうも言えない。黙ってそれを聞いてなきゃいけないときに、やっぱり朝鮮人として言われている朝鮮人側に悪いなあと思いながらっていうそういうくだりがあるんですけども、なにか日本人らしい日本人のような素振りをしていると、次から次へと隠きなければならないことが沢山でてくる、そのことが気持ちの上で物凄いしんどいことで、人生のもういろんな荒波を越えて生きてきたこの60代の、このハルモニにとってすら、そういうしんどいことなんですけど、このしんどさは幼くても男であろうと全然関係なく同じしんどきなんですね。

 

高校生の朝鮮人宣言

この前高校1年生の男の子がやっぱり朝鮮人であるってことをずっと隠して、そいで日本人の先生に、だけどそこには朝鮮人だけが集まる会が出来て、それで嫌だ嫌だって言うのを担任の先生に無理やりに、だけどお前そんなこと何時まで逃げて通られへんで、やっぱり自分が朝鮮人だっていうことを真直ぐ考えなきゃあかんで、っていうことで、最初は引張られて嫌で嫌で行ってて、だけどもそこでやっぱり同じように隠している学校の朝鮮人の仲間と巡り会って、それで嫌だ嫌だって言いながら国のことやいろんなこと自分の家の中にある民族のことを話できる場として何回か通ってる内に、やっぱり、朝鮮人宣言しようかなっていうことになった。その高一の男の子の短い作文なんですけどね、こんなのがあるんです。ええと、前後省酪します。確かに本名宣言する」ときは死ぬほど恥ずかしい。心臓がひっくり返りそうになった。顔が真赤になって涙が出そうになったりして、もう23日は本名宣言したけれどもそのショックから立直れそうもなかった。でも日がたってそれまで自分が背負ってきた重たい荷物を一気に降ろしたような軽い軽い気持ちになったてね、その後書いた作文の中でこういうふうに言ってるんです。日本の学校へ行ってる朝鮮人の子らが、自分が朝鮮人だってことを友達にも言わず、そして正面切って担任の先にもそういうことは触れずに、なにくわぬで全部生活してる子が多いんですけども、あのうそれはそういう表情してるだけなんでね。凄く、心の中ではもういっつもいっつもなにか絶対に揺れてるんですね。で、どういうふうに考えってるかっていうと、子供らが言うには、男の子ですよ、もう凄い怒ってそういう男の子ですら、授業中だとかテレビだとか友達の話の中でやっぱり朝鮮・韓国ていう言葉がひょいとでたときに、もう心臓が止まりそうになるっていうんです。もうドキッとする。それでピクピクってこうね、もう体が震えるっていうんです。もうそれが、もうなにくわぬ顔して学校生活してる男の朝鮮人の男の子達の本音での発言だと思うんです。それで、友達にも何時かはばれるだろうと思っている。だけど、もう仕方無い、自分からは言えない。だからばれたときはばれたときやというふうに思ってるけども、いつばれるだろうか、どういうことでばれるだろうかということは、大体心の奥にね何時もひとつ残っているっていうんです。

 

私が生徒であった頃

私は「高峰敏子」という通名で、小学校6年生まで日本の学校へ通いました。兵庫県から東京へ移ってからは、荒川区という同胞の多住違いに住み、朝鮮語が飛びかう中で自分が朝鮮人であることも、はっきり知りました。しかし、心は卑屈でした。朝鮮人がいやで日本人になりたいと思っていました。歴.史や地理の話をきらいました。それは、話の.中に、朝鮮という言葉がよく出てくるからです。「朝鮮」という表現が出ると、自然に顔が赤らんでうつむいてしまうのです。胸がドキドキと高鳴り、全身が、コチコチに固くなりました。クラスの誰かが自分の方を見て、「あの子はチョーセンよ」と、言っているような感じがするのです。その私は、無口で暗い生徒だったかというと決してそうではありませんでした。私は学校生活では、いつも明朗活発で、友達も沢山いました。しかし、心の隅では、暗い影を宿し、人知れず「自分は朝鮮人」という、マイナス意識にとらわれていました。

ある日、学校で仲良しの友達が、家へ帰ってからは、私を仲間はずれにしました。なわとびの輪に私を入れませんでした。それもみんなで申し合わせたように、無言でのけものにしたのです。私は、むしろ、はっきりといってほしかった。「あなたは、朝鮮人だから、一緒に遊びたくないの!」。正面切って、そのように言われた方が、どんなにか、ましだったか知れません。そしたら、私だって言い返しようがあったからです。その時のことは誰にも言えませんでした。言葉に出して言える、そんな、生やさしい思いではなかったのですね。しかし、その時の光景と、心の痛みは、今でも、はっきりおぼえています。

私の受け持ちだった日本の先生方は、私を日本人の生徒と全く一緒に扱いました。区別しませんでした。先生方なりの「思いやり」だったと思われます。しかし、その「思いやり」の故に、先生方は、私が子供心に、どんなにか大きな不安と劣等感を持ちながら学校生活を送っていたのか、それが、どんなつらいことであったか、私の胸の内を知るよしもなかったのです。先生方にとって、私は優等生であり、明朗な良い子であったわけです。

そんな私が父親の強制で泣く泣く、民族学校へ転入しました。当時、民族学校は、日本人の子から、「チョーセン学校ボロ学校、雨が降ったらペッタンコ」と、はやされいやだったです糺ところが、民族の先生、民族の友達それは、ものすごい安堵感というか、ありのままの自分を出せる場所だったのです。民族の歌が流れ、ハングルの文字が書かれる中で少しもビクビクすることなく堂々と心を開くことの出来る仲間達と一緒に、私は夢中で、ウリナラ(我が国)の文字、言葉、文化、歴史を学んだのです。私の心の中に、民族の誇りがいっぱいに広がり、私は、自分が朝鮮人に生まれてよかった、本当によかったと思うようになりました。しかし、それから半年後194910月、信じられないほど実に恐ろしい出来事が起こったのです。占領軍による朝鮮人学校閉鎖令が下され、日本政府は、国家権力を使って、武力で、民族学校を包囲しました。トラックに乗りつけて来た警官は、棍棒をふりかざし、「チョーセン死ね」「チョーセン帰れ」と、半ばあざ笑い乍ら、年寄りも子供も、容赦なくなぐりつけました。同胞達は、「来たくて来たか! 誰がつれてきた」と叫び乍ら、学校を奪われまいと必死の闘いが続けられました。私は、子供心にも、民族教育を守るために、命をかけている親達の姿をまざまざとみたのです。私は民族学校がなくなったら民族のチング(友達)や民族の先生達とも、別れ別れになりハングルや、民族の勉強ができなくなると思うと、心配でじっとしておれませんでした。死んだって負けるものか、団結して、闘ってどんなことがあっても、ウリハッキョ(私達の学校)を守ろうと決心しました。私はチングと一緒に、凍りつく冬、夜中にビラ貼りに出かけたしそれは「朝鮮学校を死守する」「母国語を死守する」「朝鮮学校を守って下さい」「朝鮮学校の柱一本一本に父母の血と汗がにじんでいる」というものでした。又、紙芝居をつくって、荒川の路地から路地へとまわり乍ら、「私達の学校を一緒に守って下きい」と訴えて歩きました。私の家の裏手に住んでいた「やっさん」という日本人のお兄ちゃんが「敏ちゃん、負けるなよ」と励ましてくれ、日本の労働組合のおじさん達も、支援してくれました。私は、幼な心にも、「やっさん兄ちゃんや、労働者のおじさん達は、朝鮮人の味方や」日本人の中にも、本当の友達がいるんだと、力づけられ、どんなにうれしかったか知れません。

力一杯、闘って闘ったのに、校門の看板がはずされ、東京の朝鮮学校は、東京都立に移管され、日本人の校長や、日本人教師が、どかどかと踏み込んできて、職員室を占領し、朝鮮語を学び、書き、使うことを禁止しました。親も私達も、口惜しさと、うらみと、憎しみに、のどが、はりさけるほど、泣いて、泣いて、泣き叫びました。しかし、私達はそれからも、決してめげませんでした。奪われた校舎の中で、朝鮮語と歴史を学ぶ闘いが力強く続けられたのです。あれから40年近い歳月が流れました。しかし、私は武力で民族の言葉や文字を奪おうとしたものを決して許さないでしょう。

そして、教育闘争の嵐の中でみた、在日朝鮮人一世達の不屈の闘いと、民族教育こそが民族の心を育てる糧だという信念は、永遠に受けつがれなければならないと思うのです。そのような所が、民族講師として、立っている私自身の原点というべきものでしょうか。

 

二(『むくげ』114号1988.6.20より 

 

在日朝鮮人一世の話をしたいと思うんですけど、私のアボジ、父親はやっぱり殖民地であった当時の自分の国では、貧しくて学問の道が無くて、それでもなんとか勉強したいと思って、で、日本へ渡ったらなにか働きながら勉強できるという道があるそうだというそういう噂を聞いて、17歳の時に単身で玄海灘を渡って日本へ来たわけですけども、見事に挫折したわけです。貧困とねえ差別の中で学問ができるはずもなく、挫折したアボジは酒に狂って、飲んではまた博打をして、そしてまた女を買っていう、そういう目茶目茶なことへ挫折の後は身を委ねて、で、私達家族もあまり顧みずに自分勝手な暮らしをしてたわけなんです。そういうアボジを見ていて、私はほんとに腹の底から軽蔑してました。なんてだらしのない、ふん、こんな父親ならいらんわっていうふうにね、居ないほうがましだっていつもほんとにそう思っていたんです。私自身幼かったし、そういう父親の姿からね、異国へ渡ってきた自分の父親がどういう深い悩みの果てにこういう姿に変わりはてたのかという、そこらへんは全然、ええ、考えるよしもなく、父親アボジがもう全然見えなかったわけです。アボジが亡くなった後に、それでも、自分のそういうぐうたらな父親が物凄い国への思いを持ちながら挫折していったっていうとこらへんを知ったわけです。

アボジの故郷は済州島の高内里という村なんです。海辺のその済州島の高内里の村の真中には「こうないほう」っていう、たかいうちにみねと書くんですけど、高内峰という丘があって、実は私の通名は高峰なんですけどもその父親がなぜ通名を、強制的に変えられたけども、高峰にしたか、やっぱり忘れがたき故郷の高内峰のそれを思い、高内峰の内というね一字を省いて高峰という通名を付けて、ずっとその自分の通名に故郷への思いを託してきたんだなあっていうことは、アボジが亡くなってから私に分ったわけです。それでアボジ自身26歳の時に東京で関東大震災に巡り会って、回りの朝鮮人が皆殺きれて、たまたま日本語の発音の良かった、日本人らしい顔してたアボジが、発音が良かった、じゅうにえんごじゅっせんというのをきっちり言えたばかりに自分は生残れたという、そういう九死に一生を潜り抜けたですけども、決してそのことを私らには語らなかったわけです。それも亡くなった後にそういう話を聞いたわけです。で、在日を生きる自分の父親がそういう中で挫折をせざるを得なかった。それでもやっぱり国への思いを持って、日本で一生過ごしていったそういう、その在日一世達の国への思いと言いますか、生きてきた歴史の凄まじいものといいますか、そういうものを父を通してはっきりと自分が見えるようになったのが、ほんとに恥ずかしいんですけども、私自身が40を過ぎてからのことなんです。

いま在日朝鮮人70万と言われておりますけども、次々と一世が亡くなって一世の数が70万の中の15%いま残っているといわれております。その残っている15%の一世達がさっきの64歳のハルモニじゃありませんけど、形は様々違うけれどもこういうなかで異国暮しをしてきたけれども、やっぱり死ぬまで国への思いは捨て切れないっていうのは、ついこの間親戚の私の叔父が亡くなって、それでもどうしても自分の遺体だけは故郷へ埋めて欲しいという遺言だったんですね。それで家族が無理をして大阪空港から遺体をそのまま故郷の済州島へ運んでいったんです。それで向こうの土に埋めたんですね。在日朝鮮人、残り少ない二世達ですけどもそういう思いが、今祖国を知らない三世四世に受継がれていかなければならないのではないか、またそういう一世達の姿を本当に真直ぐに見れるように今の三世四世の子供達をしてあげなければいけないんじゃないかという、そういう思いも込めて今私自身が民族講師として立ってるわけです。

 

オモニの不屈の姿

アボジはそういう生き方をしてきたんですけども、私の母親ですね、オモニはやっぱりアボジといっしょでだいぶ遅く日本へ単身渡って来てるんですけれど、一番苦労したのが日本へ来て言葉が分らなかったこと、もう最初それが一番辛かったっていっておりました。買物にいってもなににいっても喋れない。で、日本のブラウスとかそんなのが無かったんで、来た当時は、まして大阪は朝鮮人の一番多いそういう所ですので、白いチマチョゴリを着て買いもんなんか行くと、ある日魚屋へ魚を買いに行ったときに、こう手で押え教えるんだそうですね。これいくらかって、これこういうふうに聞くわけです、字も分らないわけですからね。そうすると、ええと50銭とか20銭とかっていうふうにこう魚屋のおじさんがやるわけですけども、混んでる時行くとねもうすごい朝鮮人を邪魔扱いをされたんやというんです。こうシーていうふうにね。もう犬や猫が払われているように追い払われ、その時の悔しい気持ちはもう忘れられへんっていうんです。でもう悔しくて何か言いたいけれども、言い返したかったけれども、日本語が喋れないから一言も言い返すことが出来なかった。

そういう生活の中で、戦時中、私ども兵庫県へ疎開をしてたわけです。その村には朝鮮人の家族は私らしかいなかったわけです。で、私はずっと自分が朝鮮人だっていうことをしらなかったんです。もう母親が全部隠しておりましたからね。そのときに村の、何かあのう違うなあとおもってたんです、日本人の友達とね。ほんで違うことが二つあったんです。一つは、母親がね、日本の曽根と言う村なんですけどその村の人達と一緒に田んぼいって働くわけです。けどね、もんぺ姿で村のおばさん達は皆髪を丸めて櫛を刺してたんです。だけど私の母親だけが櫛を刺さずにかんざしを一本、銀色のこの位の大ききのね、.櫛一本ぱっと刺してたんです。どこのおばちゃんもそんな姿してないわけです。母親には聞けなかったですけれどもね、何やろうって、何なのかなって、何時も何時も思ってたわけ。あれえ違うな、私達姉妹がはかされるスカートの丈がね、もう何時も長いんです。村の子達は大体膝の真中だとか膝の上位のワンピースだとかスカートはいてるんですけど、私等姉妹はいつも膝下何センチっていう長たらしいスカートやワンピースはかせられて、何かそれが何時も恥ずかしかったですね。だけども何でっていうことは聞けなかったです。けれどおかしいなおかしいなと思ってたんですね。後で分ったことは朝鮮の国は長いスカート、短い丈の物をはくのははしたないという感覚が母親の中にもずっとあるもんですからね、だから短いものをはかせられない。だから朝鮮人のはくスカートから生みだしたワンピースの丈なんですね。そういうとこらへんにやっぱり母親の民族衣装に対する思いがあったのではないか。国から持って来たたった一本のそのカンザシが、なかなか母親にとってはクシに替えられないその一本のカンザシのなかに、何か何時も自分の去ってきた置いてきた故郷への思いを、朝鮮への思いを込めて、捨てられないというね、託してたんではなかっただろうかなあということをその後わかったわけです。けども、勿論朝鮮漬も食べてなかったし、朝鮮語も喋ってなかったし、どこの家でも朝鮮人の家では必ずやってる法事もやってなかったんです。何もやってなかったんです。母親がとても日本語が達者になっていて、ええ、その言葉からでは朝鮮人だということ知ることできなかったですね。で、ひたすら隠して、一つ思出すのは日本人の村の人達よりもね、もう何倍も働いてました、黙々と。それから戦時中ですから役場へ米の供出をするわけで孔そうすると必ず誰よりも沢山供出するんです。お国の為にといって、やっぱりね、うちの母親が、オモニがそういうふうにして生きたっていうのは本音じゃなかったんですね。後で分ったことは。もう朝鮮人誰もいない所で、朝鮮人だって指をさされずに、朝鮮人だっていう陰口を叩かれずに暮らしていくには、朝鮮っていうものを全部捨てて、そいで日本人よりも何倍も頑張って、それで生きてゆくしかオモニにとっては生きる方法がなかったんだっていうことを、後になって私は分るようになったんです。

その母親が戦争を終えて東京へ行くことになるわけです。東京へ行ったときにね、東京へ行って私も自分が朝鮮人だっていうことを知るわけなんですけど、天気の良い秋の日に家の中に何本も何本も綱を引いて虫干し、服の虫干しをするわけなんですけども、その時にどこから出してきたのかもう何着も何着もね、チマチョゴリ、田舎では一回も見たことのなかった朝鮮服を取出してね、バーと虫干ししたわけなんです。そいで私はもうそれがえらいショックだったです。ほんとにどこにしまってあったのかと思うんですね。行李から出してきてほいでバーと朝鮮服の虫干しをして、東京はそれでも朝鮮人が居た地域でしたから朝鮮人ともう流暢な朝鮮語で話を始めたんです。だからあの兵庫県の曽根で暮らしてた母親っていうのはもう完全に隠しきってた母親であって、やっとあの朝鮮人のいる地域で安心して、朝鮮人の生き方が出来るなという地域に来て母親が自分の持ってる朝鮮をぱっとだして暮らしたっていうとこらへんは、朝鮮人が日本で生きてゆく時に何時も建前と本音があって、それでもう本音では生きて行けない状況っていうのが何時も自分の回りにあって、それで本音だせる、どこで出せるのかっていうのを朝鮮人はいつも見てて、出せない所へんでは決してださない、隠し通すっていうね、そうしなければ日本で朝鮮人は生きていけない、そういう暮らしなわけです。

その母親や父親を見てて、今仕事をしてるところでの朝鮮人の姿を見てて、やっぱり見事に、私としては見事に生きてるなって思うんです。そういうとこらへんが朝鮮人っていうのはなかなか日本人の前ではそれは本音をださない、出してはなるまい、出しては生きて行けないという、そういう一世を見て生きてきた二世がそれを思い、また二世を見て生きてる三世がそれを思い、ひたすら隠していく朝鮮人っていう、そういう私も含めてですよ、そういう朝鮮人の生き方っていうのをなぜそうしなければならないのかっていうとこらへんをね、多くの日本人の子供達にそして日本人の先生がたに考えていただければなっていうのを一つ思うわけです。

そういう中で私自身は、オモニもついこのまえ亡くなったんですけども、やっぱり自分のアボジ・オモニを思い出すときにすごいそういう国への民族魂って言いますかね、そういうもの、そして父親のようなタイプのグチャグチャに生きてもうどうしようもない朝鮮人、そういう中にすら持ってる民族への思い、そしてかたや私のオモニのように肩を張ってシャッキッと、こうね愚痴一つ言わずにそういう苦しい中を乗越えて生きてきた朝鮮人の姿の中にみるなにか不屈と言うとおかしいですけどね、もう決して何者も恐れず負けないというそういうものを私自身は糧にして今自分の生き方の中に、まだまだそういう一世からは距離の遠いとこらへんで自分はまだ生きてるんだなっていう、自分のなんか弱さと言いますかねそれにぶつかるたんびに、そういう一世のことをおもうわけです。まだ負けてるなっていうそういうものが自分の今エネルギーに成ってるわけです。私のオモニ・アボジだけではなしにね、そういう、一寸話があれですけど、そういうことを思いながら初めて私が民族講師として民族の子らと勉強するようになったんです。

 

三 民族学級の子供と親達(以下『むくげ』1151988.8.15より)

 

それでも私は大変思い上がって一人勝手なことを考えてたわけです。民族学級があってそこでやってる子供達っていうのはさぞ生き生きしてて、そこの親達も何か朝鮮人っていうのを誇りにしてやってるから民族学級なんかが出来るんじゃないかなって。そういう所で一回やれてみたら、という物凄い甘いことを考えていったわけです。最初の日からね、もう凄い頭を打たれました。民族学級へ行って勉強したわけですけども、全然子供ら言うことを聞かないし、それで私がいくら一生懸命に夜も寝ずに準備をしていっても、何も聞いてもらえないんですね。自分ら勝手なことをやるんです。もう、日毎に私もしんどくなってしまって、すぐ辞めよかなって、すぐ弱音をだしてね、もうやめようかなって思ったんです。こんな所ではやっていかれへん、こんなに子供がね何も聞かないし、これ、どこの子やろなって、これで朝鮮人の子かなってね。朝鮮人がやってることすら受け入れないで何が朝鮮の子やろって。もう全然授業なんかならないわけです。それで、かたやでは、やめちゃおうかなと思って何時も弱気でおって、それでも子供等がやってくるわけでしてね。やっぱり子供等が見えないっていうのは一番苦しいことでして、どうしたらこの子等の本当の心っていうか、民族に対して何を思ってどういうことに悩んでいるのかってね、子供らの本当の心がどうやったらみえるのかというのをもんもんと考えてて、やっぱりこの子等の家でどんな生活しててそいでこの子等を日本の学校へ寄越しているこの親達が一体なにを考えて生きてるのかなっていうとこらへんを分らなければ子供等が見えないで終えてしまうんちがうかな、もうここは一つ勇気を振りおこして親達と膝を交えて話してみるしか仕方がないんじゃないかなっていう決心をして、その後家庭訪問やったんです。集中的に、毎日毎日、夜民族の親達の中へ話を聞きにいって民族学級きてる子供達の親と全員に会ってみたんですけど、あのう、いらんて言うんです。皆民族の親達が。先生ね、ほんとにご苦労さんや、うちの子朝鮮人の誇り持って生きていくように頼むよって言ってくれた親は、韓国から渡って嫁にきた母親しかいませんでした。後は皆いらんて言いました。何の為にやるねんて言われました。民族学級有るから子供等も行くし黙認してるけども、いらん、余計なことするなっていわれました。親達は、あのう先生ね、本名だとか民族とか言って日本で暮らしていくのに何か得することあるんか、そんなこと言って損することばっかりやんかって言うんです。かたや、もう帰化したいと思ってるのに今更何が民族や、そっとしておいてくれと言います。ある親は、うちではもう先生余計なことせんでも法事もやってる、朝鮮人だって言うことは家でもちゃんと教えているから学校でまでそんな余計なことやってもらわなくて結構や、まして日本人の先生が今更何が朝鮮人の誇り持てって言うねやって。私に対してもね、先生自身朝鮮人っていって世の中に言って何か良いことあったなら言ってみろっていうんです。そういうことも一杯叱られて叱られて、どの家行っても叱られて、愚痴を一杯聞いて、やらんといてくれって言うものですからね、アボジ・オモニ、アボジはお父さんでオモニはお母さんのことなんですけどね、アボジ・オモニ達の話しを聞いて歩き回ってる間私にはもう凄いそれは衝撃でした。同じ朝鮮人としてすらね。ものすごい衝撃でした。アボジ・オモニの話を聞きながらなにかめちゃめちゃ言ってる気持ちがよう分かるんです。それで家庭訪間してる間毎日帰り一人泣いたりしてね、なんていいますかね、親達の言ってる、何か良いこと有るんかっていうのがよう分るし、それでもやっぱり完全に、そういう被害者っていうか、日本で生きてる被害者意識っていうか、朝鮮人としての完全に埋もれて生きてるんだけども朝鮮人っていうのは捨てられへんっていうそこらへんの狭間で、もう揺れながら朝鮮人の思いと、それから、なんでやもうどうしてくれんねっていう日本社会への私自身の憤りと言いますか、そういうことで物凄い衝撃的で辛い家庭訪間の毎日でした。

私はそのなかで、民族学級のアボジ・オモニ達の二つの顔を、しっかりと見ることが出来たんです。かたやではもうすごい私に攻撃するわけですけども、かたやまた違った顔をすっとだすわけですね。この前子供がねハングル、朝鮮の文字でね名前書いてたでっていうわけです。実は親である私も子供の名前朝鮮語で書かれへんのやって、生れて初めて民族で習ってきた子供が自分の名をハングルで書いた。子供が自慢してたって言うんです。それを見たときやっぱり嬉しかったなあって言うんですね。非常に矛盾した話なんですけど。歌も歌ってたでって言うんですね、それで嬉しかったって言うんです。それを言うときにはね、もう全然別の顔なんです。もうアボジ・オモニの顔がさっとこう笑顔に変わってね、明るい顔してね、それをまた私に伝えるわけなんです。だから私はその後思いました、やっぱり朝鮮人の親は、あの要らない要らないって言ってるのはね、やっぱりこれは建前なんですね。日本で生きながら付けてきた技と言いますか、だけどもそんなに要らないって言ってる親がそこまで要らなかったらね、我が子がハングル習ってきて嬉しい顔するはずありません。それも要らんっていうはずです。だけどやっぱり民族のものに触れた時の喜びと言おうか、自分の心の中に埋まっている物と触れたときの喜びっていうのは、やっぱり朝鮮人は本音で持ってる。私はこの4年間の間ね、1軒の家なんか百回以上行かなきゃならなかったんです。だけどもう自信をもって私は確信しました。どんなに民族要らないっていって拒否している親達も本音で拒否してるのではないということ、それは建前であってなにか本当の物にふれた時には自分のほんとの思いが出していけるんだっていうこと、本当に確信しました。で、そのことが私をものすごく勇気づけてくれましたし、そういうことに希望を繋いで細々と今やってるわけです。

一人ね、ある子が居ましてね、混血なんです。親は行くな行くなって言って、本人が何故民族学級に来てるかって言うと、偶々この子は音楽が好きでね、音感が良いんです。朝鮮の楽器の中のチャンゴってね、あのう、ええと日本の鼓のようなのがありますけど、そのチャンゴという太鼓を叩きたくて、それ以外何もないんです、それにこだわって民族学級へ来るわけなんです。うちのお父ちゃん韓国人お母ちゃんは日本人やでって私に言うわけです。この混血の子がもう目茶目茶すねるんです。もう原学級でも気に食わないことあると机の下に座ってるしね、あれとおもうともう泣いてるしね、友達関係もしんどいし、もう目茶目茶ですね。この子がやっぱり自分のお父ちゃんは韓国人っていうところのこだわりがあって民族学級へ来ててこのチャンゴを習って、で、発表会でね、もう叩いて叩いて叩きまくったわけです。それを見てた日本人のお母ちゃんが、それまでまたこのお母ちゃん元気が良くてすごうきついんですわ、私なんか行っても戸ピシャと閉めて最初なんか入れてくれない。結構です一言なんですね。ピシャと閉めちゃうんです。何回か通っているうちにやっと民族学級でこんな頑張ってますよっていう話をちょっとだけできるようになったんですけども、四年間この子供が頑張ってきてもう今では発表会とか何かやるっていうと、この日本人のお母ちゃんがパートを休んでカメラ抱えてね、いそいそとやってくるんです。もう実に明るい顔してね、うん、やっぱり我が子がね、どんなに要らんと言っててもやっぱり自分の旦那の民族へ繋がって、全部がこういうふうにはならないと思いますけど、晴れ晴れとね、こうチャンゴを叩いている我が子を通してやっぱり自分の主人への主人の国へのなんか違うおもいがこのお母ちゃんの心の中に出来てきたんではないかと思うわけです。こういうふうにして、子供が親を変えまた親が子供を変えていくケースが沢山あるんです。

 

四 在日朝鮮人高校生を支えるもの

 

高校生の場合は又小学生の場合と違うと思います。高校生の朝鮮人の場合、多住地域生野だとか西成だとか東成だとか朝鮮人のいっぱい暮らしている所から来てる高校生の生徒の場合は、地域へ帰ると何も隠さずにそのものずばりで生活出来るわけです。学校へ来るとピシャリと隠さなけきゃならないってふうに完全に二重生活してるわけです。けども全然朝鮮人の少ない校区から来てる朝鮮人の高校生の場合は、それはもう地域へ帰ってからも学校へ来てからもひたすら隠しまくることでね、すごくもっともっとしんどい思いをしてると思います。この前ある商業高の文化祭が有りましてね、その朝文研をやってて、.あのう、やってても決してうまくいってるわけじゃないわけですよ、来てても何か皆ぼうと

しててね、どこにこだわり持って来てんのかなあっていうのも多いですし。しかしその中で一人の子が文化祭で朝鮮人宣言をしたんです。やっぱりいろんな思いが有って泣きながらそれでも自分は朝鮮人です朝鮮人を隠しでいた時の自分のしんどい気持ちと今朝鮮人宣言をすることによってやっぱり身が軽くなる思いと両者を込めて宣言したわけです。途中でね、もう言えないわけです。もう涙が出てしもてね、今までのいろんな思いが一度に、胸に詰まったんだと思います。その時に一緒に公演をしてた日本人の生徒がね、パッと前へ歩み寄ってその子を支えて、最後まで支えきってその朝鮮人の子がやりきったわけですね。で、終えてその日本人の子等に聞いてみたんです、あんたどういう気持ちで宣言してた朝鮮人の子を支えてたのって。聞いた時にその日本人の生徒がこう言ったんです。あんたね朝鮮人のあんたがね、朝鮮人の気持ちや思ってる事を言わへんかったら日本人は誰も分ってくれへん、ガンバラなきゃあかんのはあんた朝鮮人であるあんた自身やで、うん、あんたらが最後までガンバラなあかんねんよ、そういう気持ちで自分らは両方から腕を持って支えてたって言うんです。やっぱり日本の学校で朝鮮人が朝鮮人として立って行けるにはこういう日本人の友達、支えてくれる日本人が居なければまたこれ出来ないことなんですね。そういうことを強く思いました。

日本人の先生方にお願いしたいといいますのは、やっぱり多数校でなしに特に少数校の場合は朝鮮人の子を持たれて、そいで朝鮮人として向かいあってあげるっていうのは、すごくいろんなしんどさがあると思うんですけど、私はあえてね、少数校ならばこそもっとそれをちゃんとやっていって欲しなあっていうのが朝鮮人のおもいなんですね。多数校よりも何故かというと少数校の朝鮮人生徒は、何倍も重い圧力を感じて生活してるんです。自分一人という孤立感物凄いんです、これはね、自分の目の前にいる朝鮮人の子等とやっぱり朝鮮ということを伏せずにしっかりと触れてあげて欲しいと思うんです。で、その子と向合ったときに日本人の教師として朝鮮人自身嫌がっている、朝鮮人の親すら嫌がっていることを日本人があえてお前は朝鮮人だがんばれなんていう事を言って一体ね、どこまでその子を自分は責任を持てるのか、どこまで自分はその子と付合えるのかというそこらへんを考えてしまうと何にも出来ないとおもう。私、同じ朝鮮人ですらそれを考えると出来ないわけです。いったいね、どこまでこの子ね責任おえるかなんてね、おいきれるはずがありません。日本の社会で。ですけれど、今まで色々高校生と付合ってて思うことは、日本人の先生で朝鮮人として自分と向い合ってくれた日本人の先生というのはたとえ何をしてくれなくてもね、朝鮮人の生徒にとっては一生心に残る日本人として胸の中へ残っていくもんなんです。何かがあるときに必ず、あっ、高校時代に、どれそれの先生がお前は朝鮮人、朝鮮の国はこうやでっていうことを言ってくれたなっていうことが人生を生きていく節々で必ず子供等が思い出してる訳なんです。そういうことが日本人への信頼になっていくわけです。

そういうことでしんどいとは思いますが避けずに少しずつやっぱり関わっていってほしい。それも担任されてる先生がどうのこうのでなしに出来るだけ教科を通して沢山の先生がたがいろんなかたちでまずはその子の生活の中にある民族的な話を聞いてあげたり、必ず有るはずなんです、それを無いといっても話を聞いていくと絶対あります。朝鮮人の法事しているし、朝鮮人の結婚式なんか行くとやっぱりチョゴリチマ着てる人もいっぱい来てるし、それで子供によっては韓国から親戚の者が来てるとこもありますし、ましてハラボジ・ハルモニね、お祖父ちゃんお祖母ちゃんいる家庭ではそういうことで、日本語ようでけへんからしょうもないって思っている子もいますしね、何等かのかたちで良いこだわりにしろ悪いこだわりにしろあるはずなんです、そういうところから話を始めて引出していって欲しいな、そして関わってあげて欲しいなと思うわけです。

で、高校卒業して巣だっていく朝鮮人の子等がどういうときどういう子達がね、いま卒業生のなかで生き生きと前向きに生ききってるか、これはね、もう一つしかないんです。高校卒業していろんな日本人の企業へ就職して人言えずしんどさもあるわけですね。聞くと無いって言うんです。うん、一緒やでっていうんです、別に差別も無いし何にも無いって言うけど絶対嘘なんです。聞き出して聞き出していくとやっぱりね、色々あるわけです。例えば販売業だとかね、いろんな所で子供達が一番言うのは、朝鮮人の客が来るか朝鮮人の取引先があった場合必ず帰って日本人が朝鮮人の悪目を言う。自分の職場の人達が必ず一言あるっていうんです。朝鮮人どうやこうやって言う。自分は職場の仲間には隠してほとんど隠してるわけですから、そういうときには一番やっぱりこたえるて言いますね。それから選挙なんかくると朝鮮人は選挙権ありませんのでね、色々職場でいろんな話題に登ったときも自分は話題に入れない。聞かれたら、今考えてるわなんてね、そういう返事をしたときに、後ものすご空しい。やっぱり隠してる間はほんとの友達は出来ないんだっていうのを職場でも感じるんだっていう、そういうしんどさを背負って社会生活をしてる朝鮮人の子供達ですけども、その子達が一番生き生き出来るのは地域でもいいし朝鮮人の同胞の先輩達青年達の組織で生活してる子供達が一番生き生きしてるんです。どういうところでもそこでいま通って生活をしてる子が何人もいるわけですけど、もうすごく生き生きしてるんです。やっぱりそういうなかで、沢山の朝鮮人の青年の先輩達と出会って同じようななやみをどういうふうに切抜けて考えていってるのかとか、そういうところらへんでものすごいエネルギーを得て朝鮮語を習ったり歴史を習ったりしながら生きていってる卒業生達っていうのはものすごく前向きなんですね。ですからかたや考えればなんか閉鎖的だと思われるかもしれないけれども決してそうでなくて、自分の思いを本音で語れる場所、うん、何の気兼ねもなしに自分の話をざっくばらんに出来るというのはやっぱり同胞の仲間の中なんですから、そういう意味で高校の中にもたとえ何人かでも気兼ねをせずに家の事や親の事を喋れるそういう朝鮮人だけの場所があったらどんなにか良いだろうかなあと思います。朝鮮人の同胞と触合えることのできるそういう場所へね、どんどんどんどん出ていって、めげずに頑張ってる同胞や青年達先輩達と巡り会えた時に、ああ自分も負けてはならないんだ、あのように頑張っていこうという力を、そういうところから得て生きていけるっていうそういうことが、朝鮮人にとってはすごく大事だなあっていうふうに思うわけです。

 

*在日朝鮮人の現状と日本人への願い

 

最後になりますが、在日朝鮮人様々な生き方をしてます。朝鮮人としての誇りを全面に出して堂々とめげずに生きていってる姿もあれば、かたやではやっぱり日本では帰化をしなければ自分の息子も良いところへ就職もできないし、もう親戚だとか国へは申し訳ないけどやっぱり日本で暮らして行くには、帰化をしなきゃあかんなというふうに帰化をしていってる数も増えてるのも事実です。かたや日本人と朝鮮人の結婚が増えて混血の子が増えていっております。そういうなかで祖国を国を知らない世代が85%、世代交替がひしひしとなされていってるわけですね。もう一つ政治的に南北が別れている国の事情からして思想的に北や南やというそういうものが絡んでの複雑性もあるわけで、物凄い在日朝鮮人の精神生活、そして経済生活・家庭生活なんてものは複雑そのものなんです。ですけどそういう中で北を支持している朝鮮人も、南を支持している朝鮮人も、帰化をした朝鮮人も、どこでやっぱり思いを一つに出来るかというと、やっぱり一日も早く国が統一して欲しい、国が一つに成れば何とか日本にいる朝鮮人の生活も変わっていくんではないかっていう統一への思いだけは、もうこれは思想と理念を越えて一つの訳ですね。私自身もそうなんですけど、そういうことで私は朝鮮人の在日を生きている子供達がせめて自分の国の統一を願い統一を思いながら生きていけるそういう朝鮮人に育って欲しいし、そしてその子達と一緒に学んでいる日本の学校の子供達も朝鮮の平和的統一を一緒の隣の国の友人として願ってもらえるそういう日本人の生徒に育ってほしい。そして、一人でも多くの日本人が祖国の平和的統一の為に力を貸してもらえるそういう日本人がね、増えてくれることを願っています。


姜畢生先生は一昨年度大阪市立西商業高校と此花工業高校で相い次いで職員の現職教育会の講師として貴重なお話をされた。ここに連載したものは、その講演内容を此花工高の山田倍男氏がまとめられたものに一部姜先生の加筆を頂いたので、文責は編集委員会にある。

     
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