“生いたち”と“自覚・誇り”と“民族の意地”

平野南小学校教員 金相文(キム・サンムン)

(加美北小学校内研修会講演より)

はじめに

アンニョン、ハシムニカ!! お忙しい時に申しわけありません。できるだけ時間を有効に使って、僕ばかりしゃべってしまうと、あまりおもしろくありませんので、いろんなかたちでご質問とか、お腹を割った感じで、実際にはこうやけど、どんなに思うてはんねやとか、そういう話ができたらなあ、と思っていますので、どうぞよろしくお願いします。たくさんの人の前でしゃべるのは苦手なタイプなので、言葉足らずとか、早口になったりするところがあると思いますが、その点はどうぞご勘弁ください。

加美北小学校へ来させてもらって、かなり緊張しています。民族クラブのとりくみもなさっており、朝鮮人教育に真剣にとりくんでおられる先生方がたくさんおられますし……。

子どもも、先程、校長先生にお聞きしましたら300人以上在籍しているということですね。僕がしゃべったことが、何か、朝鮮人を代表してしゃべったことになってしまわないかなあといった気にもなったりして心配です。できれば、自分が接してきたことを中心に話させてもらえたらと思います。雑談とか、そういったもので、読んだり聞いたりした話ではなく、自分がここまで生きて来とって、何か思ったこととか、感じたこととかを中心に話させでもらって、その中で、先生方と一緒に一歩でも二歩でも、子どもたちのためになることをやったらええなあと思っています。

先ず最初に、“生いたち”と書いてますけど、その前に、題ですね、どんな題にしようかなと考えたのですけど、最終的に“誇りと、自覚と”がちょっと固いですけど、いっとき流行った、“意地”ですね、その“民族の意地”という、そこらへんでまとめて、ここにはポイントを置いてみたいなあと思っています。

 

1.生いたち

 

最初の民族との出会い

“生いたち”ですけど、先ず僕が最初に「ああ、これが民族なんか」と思って出会ったのが、小学校に上がる、その年のちょうど2月か、3月ぐらいだったと思うんですね。突然家ん中に、こわいオッちゃんらに、土足で踏み込んで来られて、家の荷物を全部、表へ放り出されて、ただ僕らは泣くだけで、何のことか訳もわからずに、外へ放り出されるといったこと、それが、一番最初の、「ああ、これが民族なんだな」という出会いだったんです。と言うのは、うちのハルモニ、おばあちゃんなんですが、そのハルモニが、ある民族団体の組織にかかわっとって、わりと派手好きな人で、ちょっとお金を借りたりとかしとったみたいです。その証文で、ハルモニは字が読めないし、書けないもんですから、高利貸しのおじさんに、判こをキのまま預けてしまって、ふと、何か月かして気が付くと、それがそのまま、家も、荷物も取り上げられているということになってしまってたんですね。僕が、そのことの意味を、きちんと後から知ったわけですが、それは、僕が3年生ぐらいの時だったと思うんですね。だから、その事件の時は何が何かわからんで、ただ泣いているだけだったですね。だけど、3年生ぐらいになってわかったわけですが、「ああ、朝鮮人というのは、こういうふうに、字が読めなかったり、書けなかったりする、そういったとこらへんでのハンディがあり、口惜しい思いもせなあかん、朝鮮人ということが、こういうかたちで出てきたんやなあ」と、つくづく思ったですね。そのあと、詳しい話を聞いてみると、裁判に持ちこんだらしいのですが、弁護士も頼んだそうですが、それでも、相手の弁護士の方が格がやっぱり大分上だったようで、結局は何んにもならなかったそうです。「それやったら、ワシは大きいなったら、絶対、弁護士になったんねん」と、その時はそのように思ったんですけど、まあ、サボリぐせと勉強嫌いのせいで、すぐにあきらめてしまいました。45年生ぐらいで、もうダメだったですね。1年少しぐらいはもちましたけど、もうそれ以上はダメだったですね。

 

民族学級のこと

それで、5年生ぐらいから"民族学級"というのがありました。生野区の北鶴橋小学校です。1948年、先生方もご存知の"阪神教育闘争"ですね。戦後すぐに、朝鮮人たちが自分たちの学校を作ったのですが、それをGHQと日本政府との共同作戦で、朝鮮学校を全部潰してしまったのです。そして、子どもたちは全部、日本の学校へ収容してしまうんですね。その結果、収容したはええけども、言葉は教えられへんし、子どもの気持ちをよう理解せんとか、そういうことで、「それやったら民族学級を作ろうやないかと、朝鮮人の先生を一人おいたるから、そこで、課外で朝鮮のことを学んだらええやないか」ということで、民族学級ができたんです。一

その民族学級へ僕も入りました。その頃、僕は、民族学級の勉強がある時は、もうそれは、毎日イヤでイヤで逃げまわりました。もう、うちのアボジ=お父ちゃんですけど、そのアボジと相談したら、アボジは「お前がそんなにイヤがってんのに、何んで学校はそんなことをすんねんや!」と、そういうふうに非常に理解(?)のある人で、「それやったら、ワシが先生に言うたる。子どもがイヤがってんのに、何んでそんなんすんねや。ワシが言うたるから、もうお前は心配せんでもええ。」言うてね、わりと、子どもの気持ちを汲んでくれて、非常に協力的な人でした。そういうのは、何故かというと、一つの原因は、まわりの日本人の子は、その時にクラブをしているんですね。運動クラブとかそんなんね。そやのに、僕らだけ机に座らされて、それにその当時の教育ですから、今、623才の先生ですから、机にきちっと向わされて、しばき棒でね、ちょっと悪さじたらバシッといかれるような、そんなタイプでしたから、まあいわゆる「授業」、「7時間日の授業」そのものなんですね。ところが、表からはワイワイ声が聞こえてくるしね、もう、民族学級の授業がイヤでイヤでしたけど、それでも、なんとか言葉とか、民族のいろんなこと勉強してくるんですね。そやのに、こんどは教室へ帰って来たらですね、民族学級でがんばったことと、教室の、学級の勉強とは、ほんまに何んにも関係無いんですね。担任の先生は、「民族学級でどんな勉強したんや? 民族のこと、しっかり聞いて来たか?」なんて励ましてくれるどころか、何んにも言うてくれへん。ただ、サボって帰った時だけ、翌日、「お前、昨日、民族学級サボったらしいなあ。何んでや。」言うて怒鳴りつけられるだけなんですね。だから、民族学級へ、何か、収容されてるだけみたいな、そんな感じなんですね。そやから、もう、ほんまに逃げまくっていたんですね。週に1回しか無かったんですけどね。それで、記憶に残ってることといったら、民族学級同志のソフトボール大会が楽しかったなあというぐらいですね。その時はね、近くの民族学級のある学校へ出かけてね、弁当を持って、3時間日から授業カットで、ソフトボールができるんですから、その時は、民族てほんまにええなあと、そう思いましたね。民族も、だまにはええことあんねんなあと、そう思ったぐらいです。

 

進路の問題にかかわって

それから、ずっと、中学校はもう民族学級はありませんでした。だけど、その時は、誰が朝鮮人で、誰が自分たちの同胞なんかということはよくわかっていました。名前で大体わかる子もいてましたし、隣りの小学校から上がって来た子でもね。だから、いろんなところで安心感みたいなものがあるんですね。そして、さあいざ高校へ進学しようかという時に、ある公立学校がね、(この話はどこへ行っても話させてもらうんですが………)ある公立高校なんですけども、そこへ地域的に近かったもんですから受験しようと思いましてね、ところが、その時に、担任の方から呼ばれましてね、「君、この学校は受けられへんねや。」と言われたんです。なんでなんかなあと思って聞きますと、「向うの学校長から直接、朝鮮人は採らへんと言うてる。」とこうなんです。そんなことがあってええんかなあと思いながらでも、うすうすそういう事実が先輩達から聞こえてきてたんで、だいたいこの事なんかなあとも思いました。それにしてもひどいなあと思いながら、担任にもう一度「なんで朝鮮人は採ってくれへんねや。」と聞いたところ、担任の先生の説明では、「実際にはどうか知らんけど、3年前に殺傷事件が起った。その中に朝鮮人がおったらしい」というんですね。「ああ成程なあ、そやけどあとの残りは何人(ナニジン)やったんかなあ。」と思ったですね。だけど、その時分の、145才の頃でしたから、それを.きちんと論理だてて先生にも言えないし、親なり先輩達から「そんな事はあって当然や。」というような雰囲気の中で育って来ましたから、ですから、「ああ、ひどいやっちゃなあ。」と思い、また、「そんなんやったら、相手の校長が頭を下げて来ても、そんなとこへ行けへんわい。なんでこんな学校へ行かなあかんねや。」という気持ちだけが自分を支えていたんですね。周りにもそういう友達がいましたね。新しく別の学校を受けました。7人の友達と一緒に受けましたけど、その中の6人が同じように、ちがう担任の先生からですけども、同じことを言われて同じ学校へ来てたんですね。そういうことを聞いた時に、「公立高校でこういうようなことをするんか、私立ならいざ知らず、その当時でしたから、いろいろウワサを聞くこともあったけど、公立高校でさえこんなことがあるのんか。」と、友達といろいろ話をしながら、腹立つなあといった感じだけで終わってしまっているんですね。

高校時分は、だんだん進んでいくに従って進学や就職の問題がかかわってくるんですね。こうなると、いろんな経過の中で、「あっ、僕らの民族、朝鮮人は、どうせ企業は採ってくれへんし、どこも相手にしてくれへんねんから。」ということで、もう、ほとんど勉強する気にならなかったですね。なんぼしたってどうせいっしょやねんから。もう一つは、3年生ぐらいになると、周りの日本人の友達がどんどん、どんどん、進学が決まったり、就職が決まったりしていってるんですね。そんな時、進学先や就職先について悩んでいる友達が、「お前、どないすんねん。」と相談してくるんですね。だけど、僕らとしては、ほとんど、どうせ、親の仕事を手伝わされるか、そこらの町工場しか行かれへんのんわかってましたから、そういう現実でしたから、どうせあかんやろ思うて、勉強はせえへんし、横で悩んでいる友達を見ながら、あきらめ半分、一方で「腹立つなあ。」と思い、すごく、日本人との溝を感じ、対立を覚えさせられるんですね。こういう状況の中ではね。「なんでやねん、俺らだって行きたいとこあるし、やりたいことだってあるわい。」と思いながらも、「これはこんなもんや。日本の社会なんてこんなもんや。」というようなかたちで、あきらめざるを得なかったんですわ。実際の問題としてわね。たくさん、そういう人たちと話させてもらっても、こういうことが事実としてあったんですね。勉強はしないですから、どんどん、どんどん、目の先になんにも無いんですから、例えばね、100メートルこれぐらいで走ったら、タイムがちょっとでも良くなったら、先生に賞められるとか、リンゴがもらえるとか、参加賞もらえるとか、そんなもん何んにも無いでしょう。走るだけ走っても「ほんならサイナラー。あんたらダメなんや。あんたら、なんぼがんばってもダメですよ。」と言われるんやったら、もう走らないですよね。もう、それ以上、がんばれないですよね。

そういう中で、一所懸命、がんばっている日本人との間に対立心を持つし、やっぱり子どもですから「日本人ええのう。ワシら損やなあ。」という具合に、対立心を覚えざるを得ないんです。そんな中で、もっともっと、対立心以上に淋しかった、辛かったんは、友達が一所懸命、自分にね、本心で、いろいろな悩みを打ち明けてくれるんですね。そやのに、このことについては、自分は悩みを打ち明けられないんですね。「オレ、朝鮮人でなあ、就職先無いねん。」と、話すかたちにはならんのですわ。そういう日常会話とか、学級でのホームルームとか、担任からの指導とか、そんなもん一切ありませんから、自分から言うというのは非常に怖いわけですね。ひょっとして、こいつ、友達で無くなってしまうんちゃうか。ええ加減にごまかされてしまうのんは、一番怖いですから。「なんやねん、そんなん一緒やないか。」と言われたら一番怖いですから。そう意味では、日本人の友達とホンマに、相手の方は、僕のこと日本人やと思いながら、一所懸命、悩みを打ち明けてくれたと思うんやけども、僕の方がやっぱり、そういうこだわりなり、そういう"朝鮮""民族"の部分を表に出せない実情がありますから、「ウン、ウン、そうやなあ、オレもそれを考えてんねんけどなあ。」といった生返事ばっかして、その日本人の友達との間に、だんだん、だんだん、距離が広がっていくことを感じるんですね。だから、あとはどないするか言うたら、冗談半分やったり、イチビつたり、おちよくったり、ふざけたりするしか、友達になれへんのですね。実際、真剣に話をすればよかったのでしょうけど、そういう状況に包まれてこなかったですね。「個人の努力が足らんかった」と言われたら、そうなんでしょうけど、実際、.その怖さみたいなもんを知っていましたから、そうはならんかったですね。

 

2."誇りと自覚"

 

同胞の集まりと本名宣言

そうこうしながら高校を卒業して、仕事もせなあかんかったんで、親の仕事を手伝いながら夜でしたけれど、大学へ通うようになりました。その中で、朝鮮人の同胞の集まりがあって、小学校の頃の思い出がありますから、集まってるところを、ちょっとのぞいてみたいなあ、何をしてるんやろなあ、といった好奇心がありましたから、そこへ行ってみて、その中でも一所懸命、本名で、自分の国なり、自分のことを、また、親のことを、ほんまに一所懸命勉強している子が何人かいてて、それに、どっちか言うと影響されて、2回生ぐらいの時に、「お前も本名で行ってみいひんか。」「うん、別にええけどなあ。」そんな調子で、軽く本名で行ってみようかなあと思ったんです。本名で行くようになる中で、それまでの自分が、何か、片意地張っとったなあ、そう思ったんですね。「別に、本名なんてどうでもええやん。うまいこと生活するには、本名なんて邪魔やんか。」そういう感じで、すごく友達との間にも、距離を置いていたし、自分自身の物の見方、考え方乱、親とか周りの見方がひねた、いがんだ見方しかできなかったんですね。

本名を名のって、自分のことをしっかり知っていかなあかん、ただ、本名を名のってますねんでは終わらないんですね。自分のことを、どんどん、どんどん、知っていこう。国のことも、どんどん、知っていこう。何んで僕はここにおるねんや。何んでウチのアボジオモニはこないして、日本におんねや。どんなことがあってんや。そういうのを、どんどん、勉強していく中で、わりと自分が、ここにいてる存在みたいなんがね、否定するだけのもんでもないなあ、ということがわかり始めたんですね。

 

アルバイト先で本名にただわって

それから、勤め出して11年ぐらいでしたでしょうかね、日本人の友達の中に教師をしているのがいましてね、その彼が、学校で朝鮮の歌を歌っているとか、チャンゴを叩いているとか、そういう話を聞くと、「日本の学校の中でも、こういうことができるようになって来てんのかなあ。それやったら、いっぺん国籍条項も何年か前にとり払われてると聞いたし、いっぺん、3年計画ぐらいで教員試験を受けてみようか。」と思うたんです。それでうちの可愛い彼女にも相談して、「3年間、ヒモにならしてくれへんか。食べさしてくれへんか。教師になるための勉強すんのに、3年間の猶予が欲しい」と頼んだんですね。その時には、既に、もう、子どもが2人もいましたので、3年以上は無理を言えなかったんですね。そしたら、彼女も、「やるんやったらしようないなあ。」ということで協力してくれたんですね。

その時に、まあせめて自分の食事代ぐらいは、自分で、どっかで稼がなあかんなあと思うて、東部市場がありますけど、そこでアルバイトをしようと思ったんですね。朝早い目に起きるようなね。性格的にどうも朝起きひんかったら、そのまま、ずるずるべったりの性格なんで、朝しっかり起きなあかんようなバイトについて、自分が食べる分ぐらいは働いて、それで勉強したいなあということで探したんですね。「アルバイトニュース」が出てましたんで、その中に『アルバイト急募』と書いてあったんです。それ見て、すぐに電話して飛んで行くんですね。そしたら、「とにかくすぐ来てくれ。履歴書持ってすぐに来るように。」と言うんです。ところが履歴書出したとたんに、「ふ一ん。まあ、また明日でも電話するわ。」と言うんですね。そいで次の日に電話がかかって来ますとね、「あのなあ悪いけど、先に決まってん。」と言うわけです。まあ、しょうがないなあ、先に決まったんかいなあと思いますわね。次にまた、『配達人募集!!』とかありますわね。それで、また電話して、履歴書持って行くんです。そしたら、「あのなあ、ちょっとまずいねん。あの広告、実は、あれ、大分前の広告やねん。」と言われたりして、3件ほど断わられましたかねえ。4件目に行ったところで、何んでそうなんかというのが、まあ、それまででも、うすうすはわかってましたけど、その4件目の会社の人が言う「名札を変えてくれへんか、」という、その言葉ではっきりわかるんですね。僕は、もう、その時は、「金」でいってましたから、店の者がつけるその名札も、当然、「金」でいこうとしてたんですね。だから、それを「変えてくれへんか。」とこういうわけですね。「何んでですのん。」言うたら、「いやあ、まあ、得意先との関係とか、いろいろあるからなあ。」と言うんですわ。別に、僕は職業を差別する積りは無いんですけど、その仕事いうたらね、ただ、頼まれた荷物をトラックに積むだけの仕事なんですわ。それだけの作業すんのでも、「名札を変えてくれ」と言う。ほんまに、本名で生きるというのんは、言うならば、一杯の飯も食えへんようになってしまうことなんかと、つくづく思うたですね。それほどまでに、その人たちは、一体、何を怖がってんねやろう。そんなに朝鮮人に本名で生活されることが、ほんまに怖いことなんやろかとね。まあ、それでも、その4件目の店長さんは、いろいろ、僕が話してみる中で、「まあ、ええわ。ほんなら、まあ、いっぺんやってみいやあ。」ということになったんですがね。それほどに、本名でもって、仕事をする、食べていくということが、この社会では閉ざされてるんですね。「それでも、先生、今、本名で先生やってるやないか。」言われたら困りますけど、一般の企業、一般の日本社会では、実際、こんな状態なんですね。国籍条項が撤廃されて、そういう運動があるところは、まあ、別としましてね。そうでないところは、まさに、本名で、というのはしんどいんですね。本名というのは、まあ、ご存知とは思いますが、人間誰しもが名前あるんですね。それで、その名前というのは、親が、親なりに我が子に夢を託してつけたもんですわね。その本名、自分が、こう名のりたいと思うているその人の本名を、名のらせないという状況があるんですね。こう生きて行きたいと思っている人間をも、そうはさせないという現状を、僕は体験しました。本名で生きることの怖さというのを、すごく、感じさせられたんです。

 

朝鮮人教員として、日本学校に

そんなふうにバイトしながら勉強して、それで教員試験を受けたら、たまたま運がよくて、僕が、一夜づけで憶えたところが試験に出たんか、何んとかテストに通りました。その時に、いろんな自分の思いなんかを、子どもたちや観たちと話し合えればなあと思いながら教師になりました。今年で7年目ですかね。病欠講師の時も入れたら、8年になります。

教師になってから、いろんなエピソードがあるんですが、そうですね、一番最初にいった学校でのことです。病気の先生の後に、6月から赴任したんです。そして、教壇に立って、子どもたちを前にして、「金です。朝鮮人です」とあいさつしました。「何か聞きたいことありますか?」と、2年生の子らに言ったら、子ども達が質問するんですね。「先生、朝鮮から通ったら、一体、何時間かかるんですか。」「先生、朝、何時に出るん?」といった調子ですね。その時、通勤時間は1時間ぐらいでしたけど、そしたら「朝鮮から、そんな、1時間で来られるのん」と、僕が説明しても、説明しても、何んぼでも、くり返して、自分が知らないこと、わからないことを、一所懸命、質問してくる。こういう状態を見て、「ああ、子どもっておもしろいんやなあ。わからんことを、ほんまに真面目に、真剣に聞いてくるんやなあ。」と思いました。何んのてらいというか、他人を意識せんと質問できる子どもの姿を見て、すごいなあ、学校ておもしろいなあ、と思いましたね。

ほかにも、「先生、ほんなら、日本で生まれて、日本に住んでて、それで、何んで朝鮮人やのん。」と聞くんですね。「先生の、お父ちゃん、お母ちゃん、アボジ・オモニが朝鮮で生まれて、日本に来たんやで」などと、いろんな歴史的なこととがね、あんまり難しくなく、簡単に、説明したりしながら子どもたちと話をして、ほんまに、子どもって、気がついたこと、思ったことを、ポンポンと質問してくるんですね、非常に嬉しいんですね。変にわかってるような顔をしないでね。大人だったら、どうしてもね、これ聞いたらあかんやろなあとかね、これ言うたら傷つくやろなあとかね、そんな先きのことを考えて、ほんまにわからないことをわかろうとしにくい場面て、結構、多いでしょう。そう思うたら子どもって、ええなあと思いましたね。僕もそういうところを沢山持ってるやろうしね。できたら、わからんところはわからん言うて素直に教えてもらえたらなあ、そんなふうに子どもから教えられましたね。

もう一つのエピソードというのは、その学校には音楽朝会というのがあるんですね。週1回ありました。朝鮮の歌とか、そんなこともするんですね。ある時、朝鮮の歌をしてたら、終わった途端に、職員室の方へ電話が56本ジジーンとかかってくるんですね。「何んていう歌を教えてんねや。何んちゅう歌を教えてくれるんや。」というふうにね。それでも、この学校はかなりのとりくみをしてて、朝鮮人子ども会があったりとか、いろんな授業実践とかもやられてるんですけど、地域はやっぱり、それほど、そう簡単.には変わらないですから……。それでね、ある日、学校の隣りが保育所なんですけど、その保育所でね、曲の名前はちょっと忘れたんですけど、あの外国の曲の、お遊戯の、原語そのままのね、もちろん、外国言うてもヨーロッパのね、アジアじゃないんですよね、その曲が流されたんですよね。その曲を蘭きながら、「ああ、あすこへも、電話してるかなあ」と思うたんですよね。きっと電話してんへんやろう。電話してたとしたら、「いい教育をしてくれてますね。」という電話だったと思うんですよね。それぐらいに、アジア、特に、朝鮮というものに対しては、すごい拒絶感があるんやなあ。不思議なことにね、僕は、いつも音楽の教科書開いて不思議に思うんですけど、これほど近くて、歴史の関係が深くて、そういう朝鮮なのにね、それが、その音楽の教科書の中にね、無いんですねえ。朝鮮の曲が……。1曲も無いですね。小学校なんかね、教科書の中の曲の、先生方、きっとご存知やと思いますけど、その、70%近くが外国の曲なんですね。それは、それなりにいいことだと思いますよ。しかし、それが、すぐ隣りの、近くて、歴史的関わりが深い、そういう外国の曲を、何故載せないんやろう。普通に考えたら非常におかしな現象だと思うんですね。そういう中で、僕らが、ずうっと、教育を受けて来たから、まあ、親の方も、拒絶せざるを得んねやろなあと思うんですね。

 

."民族の意地"

 

平野南小のK児のこと

2年目に、平野南小へ行きました。K児の母親は、朝鮮からの帰国子女なんです。で、曽祖父が、日本人で、曽祖母が朝鮮人なんです。その曽祖父が植民地時代に、朝鮮に行って、曽祖母と結婚されて、祖母が生まれて、その祖母が、母を生みはって、その母が、7才の時に、日本にきはつたんです。その時に、母親の話では、「すごく差別を受けた、言葉が、分からない、生活も保障されていない。学校へ行くのが、嫌で嫌でたまらんかった。」

国籍は、日本人なんですけどね、それで、大人になって結婚した相手は、朝鮮人だった。でも、離婚しはったんで、K児は、日本籍なんです。

僕が、赴任したのと同時にK児も転入してきたんです。それでお母さんの顔見て、あ、朝鮮人やなあ、顔で判断したらあかんのですけど、そう思ったんです。

それで、僕が黒板に、ハングルでキムサンムンて書いたら、Kが手を上げてるんです。「先生、僕前の学校でそれやったわ」どこの学校かなあと思ったら、小路小学校で、民族学級があったんですね、そこで、やってるんです。で、家へ行って、話をしたら、さっき言った家系を話してくれて、そんでどうしましょうとか言うてたら、土曜日の放課後にセピヨルの会いうて、民族学級みたいなのがあるんですけど、そこで、一番積極的なのが、このKなんですけど、母親が近所付き合いが、すごいしんどいて言いはるんです。

前は、生野区の朝鮮人が、一杯いてるところに住んでたんやけど、そこで、しゃべってたら、すっと受け入れられたことを、ここで、しゃべったら、なんか白い目で、見られんねん、それで、セピヨルの会のことを、「なつかしいわあ、子どもにも、私が7つまで過ごした朝鮮のことを教えて欲しい」て言う話で、今このKとは、土曜日ごとに、活動してるんですけど、チャンゴたたいたら、もう喜んで喜んで、とにかく金曜日になったら、「先生、明日あるのんか」言うて、毎週聞いてくるんです。それで、たまに用事で、「ない」て言うたら「う一ん」て言うて、せっかく行きたいのにという表情をしたりするんです。

 

F児のこと

もう一人、F児という子がいまして、女の子なんですけど、この子のことは、一番最初の学級懇談会の時に、懇談の後に、おかあちゃんが、僕の方へ、だあ一と走ってきはつたんです。

「先生、絶対内緒やで」言い出しはるんです。で、こっちは要録見て分かってるんです

けど、なんのこつちゃなという顔をしてると、「実は、今年の6月で、帰化申請おりんねん、(その時は、5月だったんですけど)子どもには、一切しゃべってないねん、こんな時になんで先生担任するのん、もう3年早かったらなあ」というのは3年前に帰化申請出しはったんです。

一番上の子が、外国人登録をせなあかんようになる日までに、許可がおりるように、実は、10年も前にも帰化申請を出しはったんですて、ところが、あまりにも、めんどくさくて、あまりにも屈辱的なので、途中でやめてしまったそうです。

それでも、子どもが16才になって外国人登録をせなあかんで朝鮮人と分かるまでに、許可を取りたいということで、又申請して、「3年間ずう一と待って、やっとおりんねん。そやから先生、子どもには絶対言わんといて」ということだったんですが、僕は、「まあ、言う言わんは別として、僕も、色んな話聞きたいねん、僕とアボジ・オモニが生きてきた経過が違うし、僕は、生野で民族学級があって大学でたまたま活動している人に恵まれて、という影響を受けていますから」で、話を聞いたら、「朝鮮人のチョでも言うたら、田舎の方やったら、近所にもそうないし、そら先生がなんぼ言うたとしても、わたしら変われへんから、おとうちゃんもそうやねん、うちら、そこで気が合うてんから、そやから子どもには、そんな思い絶対さしたないねん、それわからんか先生」て。

「そら分かりますけど、どこまで、隠し通せんねんやろ、子どもが気付いた時に、親はどう説明すんねやろ」いう話をずうっとくり返して、で結局親は、僕が親やったら思いますわ、なんでこんな悪い時期に、せっかくうまい事、帰化申請ももうじきおりんのに、その時に担任が金でしょ、自然と朝鮮のこと出してきますわねえ、毎日生活してるだけでも、金という名前が出てくるしね、そやから親は、僕とこに走ってきたんやと思います。

そんでも、「まあ色んな話聞かせて下さい、おかあちゃんが生きてきたこととか、アボジが生きてきたこととか、子どものことどう考えてんのかとか、」て言うてたんですわ。

そしたら、ある日、またおかあちゃんが走ってきはつて、「先生どうしょう、うちの上の子が、朝鮮人のことバカにして笑てんねん」涙流しながら「どないしたらええねんやろ、私らわからへんわ」って言いはるから、「おかあちゃんな、自分のことが、はっきりわからへん子っていうのは、自立せえへんで、大人になられへんで、少なくとも自分がどういうものか、その親の責任ちゃうかな、ちゃんと勇気もって話したらなあかんわ、今晩でも、とにかくその話し、したりいな、もしなんやったら、僕もはいってもいいけど、できたら親が、自分の力でやる方がええんちゃうかな」で、次の日、また学校来たんです。

「先生、やっぱりできひんかった、うちの主人にまず話したら、おれ、そんなん怖あてよう言わん、どんな顔して言うたらええかわからへん、それで私もよう言わんかってん」で、そうこうしているうちに、6月に帰化申請がおりてしまったんです。で、「先生」言うてまた、くるわけです。

「先生、帰化申請おりてん」言うて、それで、オモニとアボジと話したら、わんわん泣くわけです。「帰化申請おりたら、もっとつらいし、さびしいわ、なんでここまでしてしたんかな、て思うようになる、申請する時は、とにかくハイハイ言うて、頭下げたし、何でも言うこと聞かんと申請おりんと思うし、書類もたくさんあるし、ほんでも、帰化申請おりたとたんフーッと力抜けてもうた、ここまでしで日本人ならなあかんねやろか」で、あんまり言われへんかってんけど、「人間、書類でそんな変われへんやん、変われるもんちゃうやん。おかあちゃんは、書類では、日本国籍やけど、おかあちゃんが生きてきた歴史はそんなもんじゃないんちゃうかな。」それしか言えんかったんです。

僕らも、おかあちゃんのこと、色々考えるし、子どもにも色々教えたらなあかんし、もっともっと肩の荷を降ろして生きていった方がいいんちゃうかな、と思って、自分の話とか、家に行って色々話したりしたんですけど。

この2つのパターンを見た時に、わからんもんやなあ、国籍ちゅうのは、自分でも、まとまりつかんのですけど、それでも少なくとも、子どもが自分の生きてきた道、親の生きてきた道をしゃべれるようになって欲しいな、正面向かってね。

親の話が出たとたんに下向いたり、自分の過去が出たとたんに横向いたり、友達から距離離れていったり、そういうことは、無くなって欲しいなあ、とつくづく思いました。

 

4日本人教職員に望むこと

僕も、クラスの子どもに、今年は、4年生ですから、歴史的なことにはなりませんが、僕のオモニやアボジの話は、するんです。アボジ、オモニの子どもの頃の話とか、僕との関係での話なんですけど、56年を担任した時は、もっと広い話もしていけたらいいなあと思っています。

あと、僕が、生きてきて思ったのは、本名と自覚とのつながりがすごくあったなあ、ということです。

本名で生きないと、通名だと、やっぱり隠して生きてるんですね。まあ、そうせざるを得ない状況があるんですけど、僕は、本名をなのった時、初めて肩の荷を降ろせたんです。

その時、今までようこんな窮屈な生活しとったなあと思いました。通名で生きてたら、今こうして、みなさんの前でしゃべっているようなことはなかっただろうし、自分の国がどうあったんか、これからどうあって欲しいのか、自分との関係で言えば、本名はすごく大きなものをもっていました。

本名をなのっていたら、隠せないですから、常に、例えばクラスで「キムです」て言うでしょ、そしたら、「先生、これ教えて」てくるんです。その時に、「それ、知らんわ」とは、そら知らんこともありますけど、何にも知らんではすまないでしょ。自分と国との関係をまず、僕が、知っていかなあかんということになるんです。

それと、自分だけの問題でもなくなってき、隣のパク、隣のチョンとのいろんな関係、全体との関係の中で、のびのび生きていっていい存在やな、全ての存在がそうだと思うんですけど、そういうことが、わからなかったんです。

日本に生きてんねんから、遠慮せなあかん。日本の学校やから遠慮せなあかん。だって、僕ら子どもの頃、誓約書を書かされましたからね。「学校には、一切文句を言いません。文句を言った場合は退学させて下さい。」というね。

戦後すぐに、民族学校閉鎖して、その時点で学校行かんでもええということになったんですから。で、日本の学校にほおりこんどいてから、サンフランシスコ講和条約ですか、52年にあんたら学校こんでもええねんで、それでも来たかったら、誓約書かけ言われて、書かされとったんですわ。

そんな中で、生きてきたんです。

最後に、生活と意地ということで、話をするんですが、実際の生活は、自覚と誇りみたいにきれいごとやないんですわ。

それこそ、ムカーッとくるから生きてるみたいなところが、たぶんにあります、マケヘンゾみたいな。

高校入試の時も思ったんですけど、「こんなことでつぶされてたまるか」と思ったんです。そやから、たとえ校長さんが、なんぼ謝ってきたとしてもそんな学校行けへんぞ、という攻撃的な意地になって出てくるんです。

護りの意地かもしれませんけど、生活体験の中で、絶対負けへんぞ、という意地みたいなものを、もってます。

今やったら、名前、通名にしてくれへんか、て言われたら、ちょっとはええかなあ、うまいこと使いわけたろかなあ、と思うんですけど、そやけど、ここで通名使うたら負けやと思うから、でも、使わざるを得ん状況はいっぱいあるから、みんなそうしてますけど、僕は、教師やってるから言いやすいですけど、通名は使うまいと123年前に自分に誓ったんです。

たまに通名何でしたか、言うて聞かれることあるんですけど、何やつたかなあ、て言いながら、御要望に応じて言うたりしますけどでも、使わない、そういう意地が自分の生活をすごく支えてきたなあという気がします。

特に、子どものころは、自覚とか誇りよりも、意地の方がいるなあ、と思います。

もう一つは、やっぱり民族学級があったってことが、大きな支えになってます。その時は、嫌で嫌でたまらんかったけど、中学3年の時友達と話してたんですけど、「あいつ本名で卒業しよるぞ、えらいやっちゃなあ」いうて、心の中では、拍手してるんです。自分は、出来なくても。

それとか、新聞なんかで、たまに本名で出てくる人いますね、悪いことで本名出ることは前からありましたけれど、ええことは、通名でしたから。最近は本名で出てくる人がいるんですね、その時、ヤッターッと、思うんです。「そう言えば、民族学級の時も本名のヤツぎょうさんおったなあ、あのころは楽しかったなあ、少なくとも自分のことが、色々しゃべれたなあ」、いうのがすごい支えであの時の、ソンセンニムの情熱というか、思い入れみたいなのをすごく感じるんです。

何か、しんどいことがおこった時にね、入試の時とか、就職の時とかに、民族学級では、仲間がおったなあ、という気持ちを支えにやってこれましたね。

1回の2年間でしたけど、大きかったで

す。

最後に、僕は、今在日朝鮮人といわれている様々な問題は、日本だけの問題だとは思っていません。朝鮮人の問題でもありますから、この問題は、日本の社会の問題だととらえていいと思います。僕らも含めてです。日本の社会にいてますから。

例えば、就職の問題にしても、僕らは、就職したいんです。就職できるんやったら、一生懸命頑張ります。そやけど、さしてくれないんです。

家に住みたいんです。でも、入れてくれない所がたくさんあるんです、朝鮮人やったら。

僕が、結婚して家を借りる時にも言われたんです。大家さんが、仏壇の前で合掌しはってから、こっち向いて、「向こうの人にはかせへんから、これ内緒やで」て、言いはったんです。

ほんまゾーッとしました。

まさに僕達が、がんばらなあかんところもたくさんあるとは思いますけど、少なくとも、日本人も含めた、日本の社会の問題やな、という風に思いますし、外国人として尊重して欲しいなと思います

そのことは、即、明日からみんな本名でよぶということとは違いますよ、通名なのってる人には、その人の生活があるし、それをこわすことになりますから。でも、通名で呼ぶことは、外国人である人間として尊重できていない、ということを知っておいて欲しいなと思います。

もう一つは、僕は、日帝時代の話とかは、あんまりしたくないんですけど、せざるを得んことがあるんです。

戦後、自主学校がベチャッとつぶされて、日本人の学校に入れられて、反対闘争はすごくて、戒厳令が出されたぐらいですから、でも戦争終わって、解放されて、自分らの子は、自分らで教育しよういうてバラック小屋で、自主学校はじめたのに、23年したら「閉鎖や」言われて「おまえらの教育はあかん」言われて、強制的に放り出されて、それに反対したら、大阪では、16才の少年が、撃ち殺されているんです。これは、事実なんです。

これを、しゃべらざるを得ん時ありますね。その時に、日本人は、自分が責められているように思うんですね。でも、決してそうではないんです。例えば、侵略戦争の話をすると日本人の方が、そんなきつく言わんでもええのに、と思いはるのが非常に困るんです。例えば、ヒットラーの話やったらきっちりと捉えてはると思うんです。それ以上にえげつないことが、日本と朝鮮の間に山ほどあったんです。

だから、二度とこんなことがないように、事実は事実として、はっきりと、とらまえて欲しいと思います。誰も消すことができないことなんですから。

ただ、そのことで、今の日本人が悪いと言ってるんではないんです。そのことを理解して欲しいと思います。

日本の歴史、まさに日本の歴史ですから。

朝鮮人の立場にたって歴史を見るのは、無理とは思いますけど、一歩でも、朝鮮人の立場に近づいて見て欲しいなと思います。

時間ですので、終わります。

 

〈質問・意見〉

 

先生が生きて来られた過程の中で、本名を名のるとか、名のれないとか、いろいろあっただろうということはわかるんですが、民族学級があったということ、また、仲間がおったということ、それだけであったのかどうかということ。先生のまわりの日本人の仲間とのかかわり、日本人の仲間が、

「別に、朝鮮人やからいうて、ええやないか。どういうことないやないか。」

と、そう言われたら、それをもう

「ワシらのことをわかってくれてない。」というようにとらえてこられたのか。

わたしは、朝鮮の子と日本の子が互いに人権というものを認め合うということが大事で、「やっぱり、友だちやなあ。」

という関係が大切だと思うから、何か、先生の受け取り方は、日本人は敵やというようにとらえておっしゃっているように聞こえるのですが、その点はどうですか。

もう一つは、先生の生きて来られた時代から、今日では、もう何年も経っているわけで、今のその高校入試についての話にしても、今は、もうない話で、今の状況というのは、かなり 変わって戦後の民主主義というか、その中で育ったわたしたちの世代になって来ているわけで、だから、今の日本人が、朝鮮人を差別したり、そんな入間ばかりではないという認識は、もちろん、おもちだろうと思うのですが、そうした中で、朝鮮人と日本人が、どのように接点をもってやっていくのか、特に、学級の子どもたちとのかかわりの中で、どのように実践しておられるのかを聞きたいです。

また、名前のことですが、親が通名を望んでいても、それをそのまま通名で、担任が呼ぶことは、子どもを外国人として尊重していないことなのだとおっしゃったわけですが、親が、家庭で子どもに本名を教えたり、本人が知っていき、民族的な自覚をもつ中で本名を名のっていく場合は、これは、いいことだと思うのですが、教師が、頭から、

「君の名前は○○なのだ。通名なんか嘘の名前で、本名の ○○が本当の名前なんだ。」

と押しつけるようなやり方には反対です。

「わたしは朝鮮人として、このように生きていきたい。だから、本名で生活したい。」

といった自覚がないところには、何も育たないと思うのです。そうでないと、本名を名のっても、また、もとにもどってしまうことになると思います。だから、子どもの認識というのは非常に大切にしなければいけないと思います。それを、小学校の小さい時から、自然に名のればいいんだといった論議もあると思いますが、わたしは、そうではない!と思うのです。自然に名のってて、自覚がつくかと言ったら、親の考え方を自然に受けついでいる場合は別としても、そんなことで、自覚が生まれる筈がない。そのような点で、もう少し、説明を欲しいのですが……。

 

〈金相文氏の答え〉

民族学級が、僕にとって、どのように心の支えとなったのかとういうことを、もう少しわかっていただけないかと思います。そのことのウラハラな問題として、日本人の仲間たちとの、どうもしっくりいかない、そういう関係があったのです。

日本の子たちとのつき合いはあったし、表面的には、それは仲良くしていましたけど、だから、(日本人はイヤ)というような、そんな考え方はなかったです。しかし、心のつながりということでは、それは、しんどかったです。

民族学級はあったわけですが、それは、民族学級に行っている、その時の心の支えはあるのですが、だけど、その中でのことなのです。それには、あえて言えば、日本学校の中の仮りの場であるわけです。そこの場を、学級のみんなの前で、担任がどう伝えてくれているのか、僕らが民族学級へ行っていることを先生はどのように見てくれているのか、そういう点がいつも不安でした。だから、

「アイツら、あそこへ行かなあかんねん。」というような見方しかありませんから、(なんで朝鮮人が民族学級へ行くのか。民族学級で何を学んでいるのか。)そういう、きちんとした位置付けが、学級の日本人も含めた友人たちの中に確立されてな'いんですね。だから、

「民族学級へ行ってんねん。」

という話はできても、その内容について話せるかと言うと、まだ、幼い子どもですから、まだ、とてもやないけど話し切れません。

小中学校は3割近くの多在籍校でしたから、そんなに重荷でもなかったのですが、高校へ行くようになって、1割未満のそんな在籍の学校へ行くと、もう、それは、世界がガラッと変わってしまうんです。とてもやないけど、今まで、自分達がかいできた臭いを、知らん友達には話せないんですよね。それでも、やはり、友達つき合いはしなければならない。そうすると、日本人との接点というのは、麻雀をしたり、パチンコをしたり、仲良く遊んで、そういう形での接点はあるんですがね。ところが、自分の悩み、本当の悩みについてしゃべれたかというと、それは、やっぱりしゃべれなかったですね。ほんまに、ひっかかっている所のことはね。たとえば、

「ちょっと、小遣い無いから貸しといてや。」

そんなんは言えても、

「オレ、今度、就職するねんけど、朝鮮人やから、会社の方で、なかなか採ってくれへんねん。何でやと思う。オレには納得いかんねん。お前、どう思う。」

そういう話は、どうしてもできんわけです。

僕が本名でいきだして、僕が朝鮮人やということ、それが、みんなにわかってしもうたでしょう。わかってますから、僕の方から、自分の悩みもしゃべれたし、初めて、日本人との友達ができるようになったわけです。ほんまに、心のつながりのある日本人の友だちができたらなあと思います。(教師になろうかなあ)と思ったのもそのへんのつながりから、そう思うようになったのです。自分があからさまにしていかないと、どうしても、自分の方から一歩引いてしまうことになって、みんなと距離をおいてしまうんですね。

名前についてですけど、たしかに、教師が朝鮮人の立場を、保障し切れないということは事実ですね。日本人教師でなくても、僕のような朝鮮人教師でも、

「先生、本名、本名ていうけど、うちの生活保障してくれはるんですか。」

そう言われたら、たしかに、保障なんてできっこないんですよね。そやけど、少なくとも、親として子どもがどのような生き方をして欲しいのか、子どもが、親である自分のことを隠して生きるような、そんな子どもになって欲しいのかどうか、そんなふうに、親

に対して話し、接点をもっていくこと、それはできると思うんです。親の方も、まあ、僕の親でもそうですが、あんなに反対していたのにね、僕ら夫婦それに子どもたち、孫たちですよね、その子らが、今は、もう朝鮮バリバリの生活していて、それはもう、キムチみたいに染まった、そういう生活している姿をみてね、

「ホンマによかった。オマエも、小学校の時、民族学級イヤがっとったのになあ……。」と、こう言うんですよね。

僕は、朝鮮人でよかったと思ったことの一つにね、僕が大学の三回生ぐらいのときやったですがね、アボジと一対一で話したことがあったんです。恐くて、それまでは、なかなか一対一で話す場面はなかったんですね。でも、その時は、ようやく僕も、親が生きてきた道なり、朝鮮人の生活の臭いなども、だいぶん、わかるようになってきていましたから、「ホンマに、ご苦労さんやったなあ。」とは、まあ、そう恥ずかしくて言えなかった

ですけど、まあ、そういう気持ちだけは、持って、「お父ちゃん、大変やったなあ。お父ちん、僕ら、決して、不幸やなかったでえ。」そう言った時には、アボジがポロポロっとね。

僕は、アボジの涙を見たのは、それっきりですね。

そういうことが、親の生き方を認めながらね。そういうふうにあって欲しいなと思うんですね。そんな子どもを育てたいなと思うし、日本の先生たちも、教育は、なかなか、理屈通りにはいかんのですけど、そういう理想というか、願いというか、そんなものを持って、僕ら朝鮮の子どもを育てて欲しいな、かかわっていって欲しいなと思うんです。

たしかに、本名を名のった子が、また、通名にもどることも、それはあるかもしれません。だけどね、自分の本名を知っているかどうか、あるいは、教師から呼ばれたことがあるかどうか、そういう経験をした子と、していない子とでは、それは違うんです。生き方

の上で、経験のある子は、やっぱり、民族にかえっていき、民族を取り戻す道を歩こうとするのです。民族学級へ行ったり、本名を知ったりしている子は、大きくなっても、(ああ、この臭いは、昔、嗅いだことのある臭いやなあ)と、民族の臭いを嗅ぎ分けていくのです。そんなふうにして民族へかえっていくのです。そうでない子は、否定して、否定して、隠して、隠して、そのまんま、その方向へ突き進んでしまうことだってあるのです。

 僕は、ほんとに、自然に名のれたら、日本人が、自分の名前を自然に名のっているように、朝鮮人も、本名を自然に名のれたらそれは最高だと思っています。そうあるべきやと思います。だけど、自然に名のれるような状況にないのも事実です。その時、教師の手がいるわけです。教師が、朝鮮人の子どもとの接点を作りだし、かかわっていき、その中で名のっていくような、そんな手助けがいるのです。

『むくげ』117・118号に連載(1989.1.11〜6.12)

     
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