梶村秀樹先生を悼む

住吉高校  印藤 和寛

 

故梶村秀樹氏(KAJIMURA, Hideki 1935〜1989)主な著訳書

・「朝鮮における資本主義の形成と展開」 (龍渓書舎)

・「東学史」「白凡逸志」(訳書) (平凡社)

・「朝鮮史の枠組と思想」 (研文出版)

・「朝鮮を知る事典」(共同監修) (平凡社)

・「韓国の民衆」「韓国の民衆運動」(共編) (勤草書房)

・「常緑樹」(共訳) (龍渓書舎)など

・「朝鮮史」(講談社現代新書)

 

もう五年も前、その年の「歴史講座」の第一回(841117)に梶村先生を東京からお招きし、夜、近くの中華料理店で運営委員会のメンバーと会食の後、上本町の宿舎へ先生をお送りした。そのロビーで、別れ際に、気おくれしながら「昔、竹内好さんと論争された時のことなど、もっと色々お聞きしたいことはあったのですが……」と言うと、先生は「私こそ竹内好さんの一番の弟子だと思っでいます」とおっしゃった。その言葉が妙に納得されて、いま、中国のことを聞こうにも竹内好なく、朝鮮のことを聞こうにも梶村秀樹またなしという有様で、拠り所とすべきかけがえのない人を失った無念の思いがつのる。

五年前、運営委員会では197778年の『朝鮮研究』誌上での論争を徹底的に検討していた。在日朝鮮人社会の変容を日本人としてどう把握するのか。1981年には『朝鮮研究』213号が「大阪での実践に対する批判」を述べ、私たちの『むくげ』が抗議するということもあった(77)。その結果「本名を呼び、名のる」教育実践の方向性は、揺らぐことなく深化されのだが、『朝鮮研究』176号、185号の梶村論文は、情理を尽した内容で、私たちの実践に確信を与えるものの一つになったのだった。

「講座」を企画した時、係(田村・印藤)は先生と電話で接触しようとしたが、どんなに遅く深夜になっても、自宅に帰っておられることは一度もなかった。京都で打合せにお会いした時も、夜遅く根気よくつきあって下さり、こちらが恐縮したが、その上、神奈川大学でのご自身の教育実践の一端も教えて頂いて、あとで二人で感心し合ったことだった。昨今優秀な能力をもつ研究者が、当初は期待を抱かせながらやがて極楽トンボのおしゃべりだけをまき散らす光景にがっかりすることが多いが、先生はそんな有象無象とは全く違った道を歩まれた。日本における朝鮮学の最高峯であると共に、一人の実践者・工作者として一生を貫かれた。だから、その業績はいわゆる学者の「業績」とは異なる。論争文、共著、共訳、監訳、共編、監修、等々。もち論、経済学部教授としての主著は平壌のメリヤス工業、民族資本を分析した『朝鮮における資本主義の形成と展開』(1977、龍渓書舎)には違いない。京都での打合せの夜、韓国へ行かれた話も出て、その工業発展をどう評価するかに話が及んだ。韓国民衆の視点からする柔軟な態度に圧倒され、現在の南北相方をどう把えるかについてもやがてゆっくり教えてほしいと願ったことだった。

 しかし、考えてみると、私たちの世代の人間が先生に恩恵を直接に被っているのは、先ずその時には梶村先生の仕事という意識はなく、また朝鮮に特に関心があったわけでもなかったが『東学史』や『白凡逸史』(共に平凡社東洋文庫)によって「朝鮮」についての最初の具体的なイメージを知らされたことだろう。当時学生仲間でそれはひとしきり話題になったものだった。このこと自体、先生の言われる「朝鮮人の積極的に生きていく姿が直接感じとれるような機会に、自分が一度めぐりあうこと」を提供しようというご自身の実践の一環だった。それは、今になって思い知らされる。先生の仕事がすべて日本人の意識全体を視野においた大きな戦略的意図によって貫かれていたこと、このことは竹内好に似ていなくもない。

歴史講座でのお話は、前置きが長くて、もう一つもの足りなく思った人がその時には多かった。も最後にちょっと出てきただけで、私たち教師特有の教材探しには役立ちそうもなかった。その後、朴鐘鳴先生の2回分と併せて資料冊子に作る予定が、梶村先生のテープは失われ、朴先生の分も原稿段階でストップして、そのままとなっている。しかし、梶村先生のお話の内容にどうしても執着があり、個人的なノートからそれをほぼ復元したものが本誌「むくげ」106号の「朝鮮をどう教えるか その1 日本人の立場からの総説」(題名の前半が誌上では抜けている)だった。先生はこれにていねいに目を通して加筆訂正して下さったが、固有の文体のこともあり、文責についてはこちらでということになったのだった。このお話の内容は、吟味すればするほど私たちにとって現在最高の指針となるものだ(「むくげ」98号参照)。改めてその意義を挙げるならば次のようになる。

@「侵略」だけを教えるのではなく、最初に朝鮮の自生的発展、次に、という順序の大切さを明確にしたこと。

Aそのことによって「朝鮮を教える」侵略、植民地化の本質を教える道すじが決定的に明らかになったこと。それが全朝教(教育内容)でも議論された小学校低学年と高学年以上との違いを理論的に明確にする基礎となる。

B「明るい朝鮮」と「暗い朝鮮」を対立させるような議論を克服し、関東大震災時の朝鮮人虐殺を真正面から教材化できる視点を与えられたこと。

Cそこから「朝鮮人差別」の本質とそれの克服総体を教材化する端緒を示唆されたこと。(近頃、日本の中世の観念を朝鮮人差別と関連づけるようなお喋りへの批判となる。)

個人的なことを言えば、この六年間毎年の現社授業で取り上げる1923年の出来事を、「植民地化→土地調査事業→日本への移住→虐殺・強制連行」という形で教材化するのではなく、「開化・独立協会・光武改革→独立運動(安重根)→三・一→間島の独立軍と日本軍の激突(青山里)→シベリア出兵の最後の目的→日本の弾圧と国家統合様式の変容(排外主義)という形で押さえることによって、逆に、徹底的に虐殺の事実がもつ意味を教えることができるようになった。それは、試行錯誤の末のここ四五年のことだ。梶村先生のお話は自分の授業を作る決定的なヒントになったのだった。

先生は、自己の立場にあくまでも忠実で原則を曲げられることがなかった反面、実践面では柔軟なやさしさを発揮された。政治的立場や意図を越えて、いわば何であれ少しでも「朝鮮」の役に立つことなら身を粉にされたように見える。先生が私たちの身近におられたなら、あんなふうにまですることのないようにストップをかけただろうに。全朝教川崎大会全体集会での姿、極端にまで自己抑制され、与えられた部分についてだけ語られていた先生の謙虚な様子を眼にしたのが最後になってしまった。「近年、私は「歴史学」とはかなり距離の遠い環境におかれており、……日常火急のことに手いっぱいで、……何よりも時間がほしいと悲鳴をあげている状態です」「実証史学徒らしく掘りさげてみたいモチーフが沢山ある」「「歴史学」への郷愁とでもいうか、近代実証史学の衰弱と頽廃の兆候が案じられもする」(『朝鮮史の枠組と思想』あとがき)。日本最高の実証史学者の一人が、こうして、いわば自己否定を貫いたということだろうか。私たちはこのような先生の一生に、歯ぎしりするだけではなく、先生の穏やかな笑顔に学んで朗かにその後を万分の一でも追いたいと思う。

「歴史講座」の続き、梶村先生をお招きする計画は結局何度試みても日程の調整がつかず、先生に無理をかけることを考えてとりやめになった。教科書問題の逐条検討、現代朝鮮論など、有象無象を打破る梶村節を今一度聞きたかった。残念なことには違いない。しかし私たちは今後長く手元の『朝鮮史』(講談社現代新書)を開いて先生の肉声を確めることをくり返すだろう。

『むくげ』119号1989.9.18より

     

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