424阪神闘争40周年にあたって

朝鮮高級学校 高奉淀(コ・ボンジョン)

 

8・15解放・帰国・在留・学校建設〉

ご紹介にあずかりましたコ・ボンジョンです。まず初めに、平素のわたしたち朝鮮学校との協力、わたしたちの民族の子どもたちへの暖かいご配慮に感謝申し上げ、今後も、より一層、共に力を携えて、民族教育を推進していただけるようお願いを申し上げます。

話を始める前に、わたし日本語がへたでね、発音が悪いんですよ。そういう意味で、非常に聞き苦しい面があると思うんですが、そこのところは一つ、ご了承願います。何しろ、1世でございましてね、青少年時代は、ほとんど、ウリナラね、故郷でね、チョルラド、日本語で全羅道で過していたんです。

わたしが渡日したのは、戦前、まだ、ウリナラが日帝の植民地支配を受けていたときのことです。そして、終戦、ウリナラの解放を1945年に迎えるわけです。その頃、200万を越す朝鮮人が、日本に住んでいたわけです。そのほとんどは、徴用、徴兵です。わたしもその1人なのです。ところが、解放を迎えますとね、みんな非常に嬉しくてたまらないわけです。そこで、われ先にと、みんな祖国へ帰るんだと、多くの人たちが帰国して行ったわけです。その時には浮島丸事件といった事件もありましたがね。たくさんの朝鮮人が乗った浮島丸が舞鶴港の沖合いでね、機雷に触れて沈没してしまうという事件ですがね。それでも、ポンホン船のような船も含めて、みんなが、どんどん、祖国をめざして帰っていったわけです。

ところが、そのうちに、ウリナラに38度線が引かれましてね、南の方はアメリカ軍が進駐して来る。そして軍政が布かれる。また、北の方はソ連が入って来る。そう言うことで38度線が引かれるわけです。そうなってくると、南朝鮮が、今の韓国ですがね、その状況が非常に悪くなってくるわけですね。特に、左右の対決、例えば、済州島の43事件とかね、そういうのが、方々で起るし、帰るに帰れない状況が生まれてくるわけです。43事件なんかは、済州島の左翼事件なんかで20万の人口で8万人が死んどるんですわ。8万人ですよ。済州島だけでなく、麗水・順天とかね。1945年解放直後から、1950年、いわゆる朝鮮戦争が始まるまで、ともかく、それは、めまぐるしく情勢が変化していたわけです。

と同時に、帰るとなった時に、マッカーサーの当時の占領軍は、朝鮮人が持って帰る荷物は30貫、そして、お金は1000円、あの時代のお金ですから、1000円でも、まあそこそこのお金でしょうが、ともかく1000円、それだけしか持って帰ってはいかんと言うわけですね。1945年、46年、47年、ずっと、そうですわ。そうなるとね、日本へ来て、苦心に苦心を重ねてね、るいるいと築き上げた財産が持って帰れないわけですよ。お金1000円と、荷物30貫、これじゃあね。おまけに、生活の土台が、故郷にあるわけじゃあない。日本に来てる1世の中には、大正時代からずっと暮らしとる方もおりますしね。特に、徴兵や徴用で引っぱられた方なんかは、みんな、もう貧しいんですわね。日本に来るということは……。だから、生活の土台が故郷にもないわけです。

そういうことで、帰ることを前提としながら、ともかく、われわれの子女に、朝鮮の民族の魂を宿らせよう。みんなは、日本学校に通ってたわけですからね。そういう朝鮮の、自分たちの子どもたちにね、民族の歴史とか、特に、言葉、朝鮮語を教えなければならない。そういうことで、澎湃として、雨後の筍のようにね、たくさんの学校ができるわけです。1945年から、67年と、解放後3年の間にね。国語講習所という名前でね。あとから、それは正規の学校となっていくわけです。参考に申しますと、1948年の時代には、朝鮮学校がこれだけあるんですわ。初等学校が566校、生徒の数は53000人。中等学校は7校で、生徒の数は3300人。青年学校が33校、生徒数が1800人、これだけの学校ができたわけです。初等学校566校ですよ。そのうち、大阪だけで66校です。

 

〈民族の恨=ミンジョゲハン〉

そのようにたくさんの学校ができて、その中で民族教育が出発するわけです。正式には、民主主義的民族教育と言っております。これは、朝鮮人としてはせざるを得ないわけですよ。1世の気もちとしてはね。みなさんの中には若い方もいらっしゃるようですが……。僕らは、戦前、日本の学校に通っている時、朝鮮人であるわたしたちに対して、こんなふうによく言われました「鰯が魚か、朝鮮人が人間か。朝鮮人が人間ならば、電信柱に花が咲く。」こう言われとったんですよ。そういう時期に、日本の学校に押し込められて、創氏改名でしょ。わたしも、コ・ボンジョンがね、高村文三郎になりましたわ。少年時代にね。これは、朝鮮におってもそうだったんですよ。国民学校でね。そして、民族文化抹殺ということですよね。朝鮮語が、自分の国の言葉なんですが使えないでしょ。そういう時代ですから、これを、民族の、ウリマル(朝鮮語)でね、「恨(ハン)」というんですよ。李朝500年の圧政に継続して、36年間の植民地時代、押さえに押さえられて来たからね、これを「民族の恨」「ミンジョゲ・ハン」と、こういうんですよ。「恨」って、聞いたことありますか。「恨み」ですね。植民地支配に恨みを持って生きてきたわけです。だから、ともかく、われわれに言葉を返してもらおう、子どもたちに言葉を与えようということで、学校を、どういうことがあっても、われわれの力で建てて、やりぬいていくんだと、そして、二度と、われわれの子どもたちには、そういう、同化教育をさせてはいけないんだと、いうふうに、なるわけですよ。これが、1世の気もち、決意なんですね。

 

G・H・Q、日本政府による弾圧〉

 ところが、その時の占領軍とね、それに追従する日本政府は、朝鮮語で民族教育をすること、民主主義的民族教育はいけない、とこう言ってきたわけです。南朝鮮は軍政が布かれているわけだから、朝鮮人は独立した国民とは認めない、こういう式ですわね。占領軍はこうですね。そして、日本の政府は政府で、戦前の同化政策を、そのまんま、持ってきとるわけです。そんな状況でして、1948年ぐらいになりますと、朝鮮学校というのは、眼の中のとげみたいなもんだと、こういうふうになってくるわけですよ。朝鮮戦争を前にして、朝鮮学校閉鎖命令を、まず、山□県の学校から出してくるわけです。そして、神戸・1948412日になると、大阪、「大阪の66校のうちの17校は、設備が不備である。」と言ってね、「朝鮮学校はいらない、日本学校で学びなさい。」と、閉鎖命令が出るわけです。(HP編集委員会注:警官隊が授業中の教室からこどもを排除し、閉鎖を実行した。右の写真は愛知県でのものという。)

そうなると、先ほども言いましたように、朝鮮人が自分の言葉を取り返してね、ほんとうの朝鮮人になろうとしてきたにもかかわらず、また、同化しようとすることは、決して許されないということで、大阪在住の12万の朝鮮人が立ち上がるわけです。神戸でもそうです。岡山もそうです。朝鮮の学校のある所はみんな、和歌山でもそうです。こういうふうにして立ち上がって、闘争をするわけです。すなわち、423日になると、15000名のわれわれ同胞が、大阪府庁前に集まりましてね、「閉鎖命令を撤回せよ!」と要求したわけです。その時は、赤間文三という方が、大阪府の知事さんだったんですが、どっかへ行ってしまいましてね、副知事さんと交渉を持ちました。その方がね、「朝鮮語で民族教育をすることが、治安に悪い。だから、朝鮮学校は閉鎖しなければならない。」こういう、まさに、奇怪な論理で説明するわけですね。こうして、撤回をしないわけです。本質的には同化政策をしたいわけです。今でもそうですね。その観点に立って、「朝鮮学校は閉鎖し、みんな、日本の学校で勉強しろ!」こういうわけなんですね。

 

〈同胞の決起・府庁前集会〉

これに対して抗議し、たくさんの活動家や、民主主義的民族教育を支援する民衆、父母たちが逮捕され、留置場に入れられるわけです。また、翌24日には、それに抗議して、15000名の人々が、その日は、前日逮捕された人たちの留置場に、それぞれ分かれて、釈放を要求して、闘争を広げていったわけです。これにびっくりした占領軍の神戸のアイケルバーガー司令官が24日の日に、非常事態宣言を出したわけです。いうところの戒厳令ですね。そして、タンクを始め、装甲車を出して、弾圧を始めるわけです。これにね、おめおめ引き下がるわけにはいかないわけです。さっきも言いましたようにね、これは、民族の魂を取り戻す闘いでもあったわけですからね。だから、大阪府のわれわれ同胞たちが結集して、45000人が、大阪府庁前の、今、大阪城公園のところですね、その辺りに全部集まりまして、大阪府庁を取り囲んだようになったわけです。だもんだから、もう、それこそね、非常事態宣言でしょう、警察の方も、占領軍の指示によって、8000名が出動して、その45000名と対峙するわけです。そうした熾烈な闘争が繰り広げられたわけです。

 

〈金太一君射殺さる〉

われわれは、わたしも参加しとったんですがね、まさに、整然とね、手に武器を持ってるわけでもなしね、われわれの権利を守るということであって、何も、対決して、ケンカしようというわけでもないから、きしっと、スクラムを組んで、声で要求をしとったですよ。彼等が暴力でこようが、どうしようがね。われわれは、その時、府庁の3階まで座り込みをしておったわけですが、どうしても彼等が暴力を使おうと言うなら、一旦退去しようということで、退去しようとするんですが、それはもう無茶苦茶で、「5分以内に退去せよ!」とかなんとかね、それはもう、挑発やら、いろんなのが出てくるわけです。しかし、そこでね、45000人が解散しようと思ったら、そう簡単にいかないですわな。時間がかかるわけですわね。そういう中を、ホースで、消防車のホースでこれをぶっかけたりね。そうなると、やはり、混乱が起こりますわな。そういう中で、私服を着た挑発分子が紛れこんで、暴れるんですね。そして、待ってましたとばかりに、「デモ隊が暴れとる」ということで、鉄砲を撃ってきたんですよ。ピストルをね。その警官たちがね。そして、少年、金太一(右の写真、1948年4月27日、大阪赤十字病院で撮影。この40分後に死去)という16才の少年がね、亡くなったんです。後頭部を撃たれてね。それだけじゃなくて、警察の弾圧で、3000人ぐらいが逮捕されたんです。

犠牲者は、キム・テイル少年が射殺され、また、神戸のパク・チュボムという、この方は先生でしたが、捕まって、獄中で死にました。そして、重軽傷者が数100人、裁判を受けて、33人が追放になりました。もちろん、占領軍の軍事裁判です。この時に、闘争に参加した動員数は、延べで120000人になるんです。こういうふうにして、弾圧されたわけです。その後も、市内のデモ・集会は、全て禁止。それはもう、話にならん弾圧ですわ。討論会をしてもならん。行列作ってもならん。あ、非常事態宣言ですからね。

 

〈民族教育に関わる覚書〉

そのようにして、19491019日ですか、学校が弾圧されるもんですから、動きがとれないようにさせられて、正式の学校閉鎖命令が出て、警察隊が、トラックに分乗して、朝鮮学校に押しかけて来るわけです。われわれは、学校の窓とか、門の所に板をはりつけてね、彼等が入って来られないように。そして、父母や、子どせたちと一緒に抱き合って、学校を死んでも守るんだと闘ったんです。警官隊は、ガラスを割ったり、戸を潰したりして、突入してきて、わたしたちをつまみ出そうとするのです。そして、閉鎖の赤紙をはられてしまうわけです。このようにして、ついに、朝鮮学校は閉鎖されてしまったわけです。

しかし、いろんな協定を結びました。覚書という形でね。その後も、交渉はずっとしたんですよ。だからね、194853日に文部大臣と、朝連ね、その頃は、総連と言わないで、朝連と言ったんですよ。いわゆる、在日本朝鮮人連盟ね、その代表との間で、次のような覚書が交わされたわけです。

・閉鎖後は、付近の日本学校に所属させ、朝鮮人教育の自主性を生かす。

・朝連が推薦する教員を認める。

・国語・社会・地理・歴史・音楽などは、朝連教科書編纂委員会で作成されたものを使用する。

・認可手続き過程では、日本学校と全く同じように行う。」

このようなものですね。

 

〈民族教育空白の3年間〉

東京とか神戸あたりは、比較的に、分校という名目で、継続して民族教育を実施したんですよ。一応はね。ところがね、恥ずかしいことに、大阪だけはそれができなかったんです。というのは、われわれの活動家、われわれの幹部たちの中でも、いろいろな意見がありましてね。中には、「在日朝鮮人は、日本の平和と民主主義をめざす日本教育の一翼である。」というような観点で指導した連中もおったわけです。だから、すなわち、「民族教育は日本教育の一翼としてやれ!」「日本の学校で勉強させてもいいんだ。」と、こういう方向にもっていった連中もおったわけです。だから、言葉を換えて言うならば、「富士山を眺めて、白頭山の方は見なくてもよろしい。」「日本の民主化のためにこそ、在日朝鮮人は闘えばよい。」と、こういうわけです。

こういう観点から指導して、結局、大阪では、19491019日の朝鮮学校閉鎖令が出る時点で、集団的に、日本の学校へ転学させてしもうたんですよ。.だから、いっぺんに鶴橋小学校とか、巽の学校などへ、全部行ってしまいましてね。だから、結局は、大阪では、朝鮮学校というのが無くなったも同然ということになってしまったわけです。民族教育の空白時代が生まれるわけです。それが後遺症となって、いろいろ、民族教育の発展の阻害ということになるわけなんですがね。「とにかく、3年間は、日本の学校で勉強しろ!」というように指導を受けて、たくさんの朝鮮学校は門を閉じ、たくさんの朝鮮の子どもたちが、日本の学校で勉強するということになってしもうたんです。

 

〈港・泉北朝鮮学校は死守〉

 しかしね、港の朝鮮学校と、泉北朝鮮学校は、そのまま残りましたよ。わたしは、港の学校で教鞭を取ったんです。港朝鮮小学校でね。今は、もうないんです。残念ですがね。昨年、統合してしまいました。生徒の数が余りに少なくなってしまいましてね。……あの頃はね、みんなバラックの学校です。これ、こういう学校です(写真を掲げて説明)。大阪朝鮮人港初級学校と言いました。これは、1956年の写真ですがね。だけど、解放後の校舎と同じです。こういう、バラックみたいな校舎ですよ。話が余談になりますがね。ここに、これ、写っとるでしょう。これがわたしですよ。昔はね、こんな頭ではなくて、もっと若々しい頭でしたよ。青年時代、20代でしたからね。

 そういうことで、424の阪神教育闘争は、結局、学校閉鎖ということで幕を閉じるわけです。

 

〈李東準氏の言葉〉

阪神教育闘争の意味は大きいんですよ。特に、朝鮮人がどれだけ民族語、我々の国語、朝鮮語による民族教育をね、言葉を取り返し、朝鮮の魂が息を吹き返すという、その教育の意義ですね。

ここにね、リ・ドンジュン(李東準)という方がいるんですが、この人が書いた「朝鮮の子ども」という本に、このように書いていますよ。

「子どもたちが、自分の国の言葉、国語を知らなかったので、出発(帰国の)までに、片言でもしゃべれるようにしてやらなければならない。このような朝鮮人の願いがかなって、朝鮮の子どもたちに朝鮮語を教える講習会ができた。民家の空室や工場、そして、倉庫の片隅などを作り替えて教室にした。そこに、自分たちの作った机やいすや、黒板が持ち込まれた。若者たちがこしらえたガリ版刷りのプリントで授業が始まった。いわば寺子屋ができあがったわけである。その頃、日本の学校は全て荒れ果てて、青空教室で授業が続けられるという混乱振りのせいもあって、朝鮮の子どもたちは、ほとんどが学校に行ってなかった。だから、子どもたちは喜んで、朝鮮語の講習会へやってきた。」

こういうような、バラックみたいな学校で勉強したんですよ。全く、「朝鮮学校、ボロ学校」なんてね、そういうように言われたもんですよ。それでも、こういう学校で勉強して、民族性守って、がんばってきたんですよ。それが、港と泉北をのぞいて、66校あった学校が全部閉鎖されました。ただ一つね、西今里公立朝鮮中学校がね、いま、本庄中学校というのがあるでしょう、その分校としてありましたよ。今は、中大阪朝鮮中級学校となっていますがね。その、西今里朝鮮中級学校でも日本の先生がほとんどでしたね。講師みたいで朝鮮人の先生がおりましたけど、日本の先生が授業してたんです。

 

〈金太一のオモニの話〉

私が、今から約30年程前、第3初級学校の教師をしていた頃のことを話しましょう。あの頃は、中西朝鮮初級学校と言っていましたがね。そこに赴任したときのことです。19491019日から、3年間の空白の時期があったのですが、しかし、これはほんとに民族の恥ですから、これはもう、骨の髄まで身にしみて、民族教育をせにゃあならんという一世のわれわれの切実な願いがあったわけですから、弾圧されて、一部のよくない指導者のために日本の学校に入れられてしもうたけれども、やはり、朝鮮語で、朝鮮の教育をしなければいけないんだ! 朝鮮人の手で教えなければいけないんだ! 朝鮮語・歴史・音楽を教えなければいけないんだ! こういう願いがありましたから、また、学校再建運動が始まったんですよね。そして、1952年にね、今の第3初級学校、あの頃の中西朝鮮初級学校ができたわけです。もちろん、校舎はバラックですけれどもね。それでも学校を始めたわけです。それにならってね、生野の第1、第2、第4、第5、どんどんできましてね。今のように15校ですか、中級学校が東大阪・西成・北大阪・南大阪・中大阪と5校ですか、そして朝高ですね、こういうようにできたわけです。1952年のことですね。

そのときに、私は第3初級の校長をしとったんですが、そのときに、この写真(遺族が柩に別れを告げるところ)の死んだキム・テイル君の、彼の母親に会ったんですよ。彼は布施の子でしたよね。第3初級に近いんですよ。この母親に会いましてね。そのとき、お母さんはこんなことをおっしゃっていましたよ。

「あの子はかわいそうな子です。6つのとき父を失い、勉強も他人様のようにさせられませんでした。学校といえば、小学校4年で中退して、7人の家族を養うために工場で働き、行商に出歩いたり、辛いことばかりでした。26日の朝、(4月26日ですね、4・24というのは非常事態宣言布告の日ですから、その後も25、26、と闘争が続いたんですよね)その日は、『人民大会には行かない』とわたしたちを安心させておいて、自分たち、友達同士では『学校を守るために参加しなくてはならん』と言って出かけたんですよ。」

そして犠牲になったんですね。だからね、阪神教育闘争というのは、血塗られた闘争であったわけですよ。われわれが、私が教えた、教え子が死んでいったんですよ。

 

〈「韓日協定」「外国人学校法案」〉

今年は、阪神教育闘争40周年です。あれから40年になるんですよ。そういう意義ある年でもあるわけです。そのときに、日本の、皆さん方のように民主的な方々に、こうして話をさせていただいていることに、ほんとに感謝しております。皆さん方に知ってほしいんですよ。何故、われわれ朝鮮人がこんなに民族教育に執着するのか!

その後もね、朝鮮学校は再建されましたけど、いろんな形で弾圧はあったのです。韓日協定締結の頃ですね、あの頃の大統領や首相などは、こんなふうなことを言いましたね。「日本における韓国の子女たちは、将来、逐次同化されるだろう。」とね。そんなことを韓国の首脳たちが言ってるんだから、日本の政府だって、「それじゃあ、あえて、民族教育にまで配慮する必要はないじゃないか。」とばかり、〈外国人学校法案〉などという法案を、何度となく国会に上程してきたのですね。もちろん、日本の民主勢力とわたしたちの反対運動でそのつど粉砕してきて、未だにその法案は可決させてないわけです。

われわれが〈外国人学校法案〉に反対するのは、もちろん、1948年の〈阪神教育闘争〉の忘れがたい教訓の上に立っているからです。「朝鮮の、わたしたちの子どもたちを決して同化させてはならない。日本人でも、朝鮮人でもない、何国人かわからないような、そんなあいまいな子どもたちには、決してしてはならない。朝鮮の子どもたちは、朝鮮の国の宝物であるし、わたしたち、朝鮮人の教師自らが全力を上げて子どもたちを育てねばならない。われわれの手でこそ教えたいのだ。」そういう教訓ですね。

日本の学校にいるそうしたわたしたちの子どもたちの問題をめぐって、〈日本の学校に在籍する朝鮮人児童生徒の教育を考える会〉といった、日本の非常に民主的な、わたしたちに連帯してくださる、そういった先生方がおられるわけです。絶対多数の子どもたちは、すでに皆さんも知っておられるように、日本の学校で勉強しているわけです。人間には人間形成という大事な教育があるわけですが、そこで、日本人でもない、朝鮮人でもない人間形成をするのではなく、真の朝鮮人としての人間形成をする、その一助として<考える会〉の先生方が、がんばってくださっており、最終的には、わたしたち朝鮮人の教師のもとに、子どもたちを返してくださるんだと思うんです。

 

〈朝鮮学校前を素通りして、日本の学校へぞろぞろと…〉

生野区なんかに行くとね、朝鮮人が75%在籍しているという学校があるわけです。その学校では、日本の教育方針でね、教育が行われているにもかかわらず、朝鮮人の子女たちがそんなに多く在籍しているわけです。わたしは、大阪朝鮮第4初級学校にいるときに、そのほんの道ひとつ隔てた横の学校ですよ。学校名は御幸森小学校ですね。猪飼野の朝鮮市場のそばのあの学校ね。第4初級学校と隣り合わせにあるんですよ。その、わたしたちの学校の前をね、朝鮮人の子どもたちがね、素通りして、みんな、日本の学校へ入って行くんですね。そして、富士山は習っても、白頭山は知らないんです。朝鮮の朝の字=チョも知らないんです。われわれのウリマルを全然知らんわけです。そして、それこそ、日本人でもない、朝鮮人でもない子が、この大阪にいっぱいおるわけです。

そういうことで、われわれはこの阪神教育闘争の精神、これにのっとってほんとの民族教育を発展させなければいけないんではないかと、真剣に考えとるわけです。わたしが港の朝鮮学校の先生をしとったときにね、台風がやってきまして学校がバラックでできているわけですから、もうそれは吹き飛ばされそうになって、校舎が倒れそうになるわけです。夜中に父母たちが飛んできて、必死になってみんなで柱を支えて、それでもって学校を守ったのです。1銭、2銭集めて、クズ鉄を売って、学校の運営にもってきたんですよ。そうして今のように学校を発展させてきたんです。

この阪神教育闘争、そして、その教訓・意義をまとめてみますと、「朝鮮人は解放された国民ではないとする占領軍の極東戦略の一環として、朝鮮学校閉鎖の弾圧が行われた。」とこうなるのです。これと相前後して朝鮮戦争が惹き起こされたのですね。先ほども言いましたが、日本における朝鮮学校というのは、彼らにとって『眼の中の棘』であったんですね。「同時に、過去の同化政策を一向に恥じない日本政府によって、朝鮮人子女教育問題の解決策は、結果的には、こうしたファッショ的な暴圧の道を選んだ。」そして朝鮮学校を潰そうとしたわけですけれども、われわれは最後まで朝鮮の学校を守り、港・泉北は残り、今はたくさんの学校が再建されとるわけです。「わたしたちが民族教育を守っていくことは、わたしたちの民族自主意識を育てていくことにおいて、不可欠のことである。」と規定しているわけです。

 

〈民主主義的民族教育とは〉

その後、それではわたしたちの民族学校教育が、どのような内容によって進められているかを、これから話したいと思います。私たちの学校を参観してもらえれば一番いいと思います。「百聞は一見にしかず」ですからね。ぜひとも、ここにおられる先生方、一度学校訪問してご覧になってください。民族教育と言っておりますが、これを〈民主主義的民族教育〉と正式に言っております。内容的には〈民主主義〉、そして形式的には国語=朝鮮語でもって行われる〈民族教育〉なんですね。具体的に言いますと、「愛国・愛族の精神を育て、民族の同質性を育てる民族自主意識を植え付ける。」とくに〈民族自主意識〉ですね。というのは、われわれ一世はね、小さいときからずっと軍隊の中ではなく、学校生活のときからよおっく殴られましたよ。口がひん曲がるほど殴られました。そして差別を受けてきました。だからもう、〈ミンジョゲハン〉を持ち、帝国主義に対する恨みは、もう根っこからもっとるわけです。ところがね、みなさんの学校にいる朝鮮の子女たちというのは三世・四世・五世でしょ。わたしらの教え子が、40代〜50代になんなんとしてるんですよね。こういう時代ですから、民族性がだんだん希薄になってきて、ほとんどないんですね。このままの環境で日本の教育を受けてしもうたら、なくなってしまうんですわ。顔を見てもわからんでしょ。朝鮮の子ども、日本の子ども、比べて御覧なさい。特徴ありますか? わたしは朝鮮人丸出しですよ。一世ですからね。ところが、朝鮮の子どもとなると、みなさんどうですか? わからんでしょう。だから、いかに民族自主意識を持たせるか。そしてウリマルを使わせるか。チマ・チョゴリを着せるか。とくに、ウリマル=クゴですね、ウリマルを話すことによって、「ああ、この子は朝鮮人だな」ということになるでしょう。だから、この〈民族自主意識〉を育てるということは、非常に重要なことなのです。

と同時に、1960年代までは、帰国ということもあったわけです。しかし今は〈在日〉ですね。絶対多数が〈在日〉です。もう、日本で永久に生きるというわけですね。だから、そういう朝鮮の子女たちに、「在日で、どう思って生き抜く実力を培養するか」、ヴァイタリティに溢れたね。自分の運命を自分で開拓する民族の主体=チュチェ、それが充実された、そうした知・徳・体を備えた、それこそ立派な朝鮮人を育てなければいけないと思っているんです。また、対応性のある朝鮮人として生きていくこと。日本社会の中で朝鮮人たる主体を保ちながらも、日本の民主的な人々と仲良く対応できる朝鮮人ですね。

まとめて言えば、やはり〈民族の誇り〉を持った朝鮮人ですね。中途半端な生き方ではなくてね。ある日本の先生に言ったことがあるんですよ。「朝鮮人の子女たちは、日本の学校でどんな生活をしているのでしょうね」とね。そうしたら、「差別してませんよ。平等に扱ってます。」と。そりゃあ、そうでしょうな。もちろん、差別されたら困りますわな。しかし、それだけじゃあ困るんだ。区別してほしいんだ。区別、「お前は朝鮮人だ」という区別ね。だから、本名を名乗るということは大事なことですよね。名前=イルムね。だけど、それだけでも困る。たいがい、それで終わってるんですよ。わたしの知っておる日本の学校ではね。先生方の取り組み方がね。失礼な言い方かもしれませんけども……。それだけで終わらずに、もっと一歩、突っ込んで行ってね。民族教育の目的に合致する、そのためにはどういうふうな解決をしなければならないか、それはもう、お分かりのことだと思いますがね……。わたしたちの手元に返してほしいんです。朝鮮人の子どもたちをね。わたしたち朝鮮人の教師のところへね。民族の誇り、自覚を持たせるということと、豊かな知識・能力を備えた人材の育成、これが民主主義的民族教育の目標であるわけです。〈在日〉の条件でもね。〈在日〉だけを強調しても、民族の自覚、原点がないとね、これはだめですね。いくら能力`知識、東大に入るような優れたといわれる子どもでも、原点のね、この民族、人間の根源、根っこですね、これが確立されていないとなると、これは歪んだ性格、性格破綻者、あるいは、無気力者、自殺してしまうようないろいろな悲劇も生まれてくるわけです。

こうした目的を達成させるためには、やはり民族学校で民族教育を受けさせなければならないわけです。朝鮮人の子どもは、わたしのような朝鮮人の教師がね、教えなければいけないんですよ。キムチはキムチなんですね。たくあんはたくあんですよ。いろいろ食べてるでしょうけれどね。根っこから言うとそういう意味なんですよ。

 

〈民族学校での教育内容〉

民族教育の特色と言いますと、「国語=ウリマル」この教科にたくさんの時間を割り当てるんです。私たちの学校では、始めから終わりまで、朝鮮語で授業をやっとります。だから、日本という環境の中で育った子らは、まず聞くのは日本語ですから、なんとか朝鮮語を基礎から教えて、高校を卒業するまでに9000の単語を教えます。普通の会話で使うのは、約3000の単語なんですけど、3倍の9000、場合によっては10000語以上教えるんです。だから自由自在にしゃべれるんです。たとえ、韓国に帰ろうが、共和国に帰ろうが、そういうようにもっていってるんです。クゴとはね、ただの意志の伝達のためだけではない。民族の共通性の中で、領土・経済・文化・言語といった民族の共通性を特徴付ける中でも、このウリマル=言葉というのが、意志の伝達だけでなく、民族性、これを兼ね備えているわけです。だから、朝鮮の諺の中に「マルジャコムミンジョ」とこう言っとるわけです。「言葉すなわち民族」ということですね。このように、言葉を日本という環境の中で重要視しています。朝鮮で生まれ育っているのなら、放っといてもマスターするでしょうけどね。こんなに朝鮮語の時間を多くとっていますから、日本の学校から編入してきた子でも、速いんですよ、もう3ヶ月ぐらいで慣れてきて、1年ぐらいでマスターするようになるんです。通常会話をするようになって、2年目からは普通のクラスに入って勉強するんです。

次に、われわれが重視しているのは、日本語ですね。例をあげれば、教育漢字の約1000字ね、初等教育で教えます。中・高校では当用漢宇や古字・古語を加えて、教養漢字1945字を教えています。

ここにあるのは、高校1年生の日本語の教科書なんですが、こんな作家が並んでいます。藤森成吉・志賀直哉・高村光太郎・北原白秋・国木田独歩・宮沢賢治・木下順二……、全部入っとるんですよ。そして、中級学校では週に5時間、朝鮮語と同じ時問数を教えとるんです。高校になったら4時間になりますけど。それぐらい非常に日本語を重要視しとるんです。英語もそうですよ。これは4時間です。

進学の場合でも、こちらの中級から高級への進学率が96%です。また、集団主義的な教育、お互いの連帯、仲問作りという立場で、〈ひとりは全体、全体はひとり〉ということでね、仲良く勉強して生活するわけです。わたしたちの教育体系をお話しますと、幼稚園から一貫した体系があります。大学までね。幼稚園⇒初級学校⇒中級学校⇒高級学校⇒朝鮮大学となっていますね。朝鮮大学では4年制の歴史地理学・政治経済学・経営学・理学・工学および、23年制の研究院、そして、付属研究所(社会科学研究所・朝鮮語研究所・民族教育研究所)をもつ総合的な高等教育機関となっているんです。朝鮮大学を卒業したら、東京大学や大阪大学の研究院に進学できるんです。わたしの教え子も大阪大学におりますが……。朝鮮大学は創立30周年になります。初・中・高級学校になると40周年になります。

学校の数は全国で、幼稚園66・初級83・中級56・高級12・大学1となっています。この子達が高校を卒業した時点での進路は、同胞企業を中心として、ほとんど保障されておるわけです。高級学校、大学校の卒業生の就職状況の表があるんですが、中央教育社会科学者協会・芸術家同盟そういうところで働いていますね。医学者協会とかね。言論出版社・芸能・スポーツ関係・商工会、それから、銀行・信用組合・保険・商社などなどね。朝鮮特産物販売会社とかね。学校の教師になったり、在日同胞企業の土建業・鉄鋼業・遊戯業などなど。東京の西洗病院に看護婦の養成所があります。この間新聞にも出ていましたね。不治の病を治したといって、大きなニュースになっていましたね。ベッド数も500600はあると思いますよ。そうした看護婦になる子どももありますね。まあ、ほぼ100%に近い子が就職していますね。そういうことで、わたしたちの学校からの進路・就職の心配もありません。中学2年からのコンピューター教室も設置されました。昔の「朝鮮学校、ボロ学校」とは隔世の感がありますね。鉄筋コンクリートの校舎に改築されてね。その中で民族教育を受けて、すくすくと育ってきているわけです。

 

〈おわりに〉

最後にわたしは、親愛なる日本の先生方にお礼を申し上げたいと思います。昔から、いろいろ仲良くしていただいたのですがね。わたしは西成の朝鮮学校に長いことおりました。あそこの鶴見橋中学校・長橋小学校・梅南中学校・北津守小学校。あの先生方をたくさん知っております。1年に1回、忘年会とか新年会とかいうのがありましてね、みんな集まってね、朝鮮のトックを作ったり、いろいろ食べて、唄ったり、踊ったりしたもんですよ。一杯呑みましてね。そのようにして交流しました。矢田の方も、今日聞きましたら、第3初級と大変仲良くしているとのことですが、大変嬉しいことです。今後もどんどんわれわれの仲問を増やし、今後とも、われわれの民族教育発展のために、そして先生方にとっては日本の教育の民主化のために、ご協力とご努力を、ぜひともお願いして、わたしの拙い話を終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

『むくげ』119号(1989.9.18)、121号(1990.2.14)に連載。

     
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