家庭訪問特集

 

〈その1

アンニョンハシムニカ

その後、いかがお過ごしですか

摂津・柳田小 石村富美依

 

「えー。3人の他は、みんな先生? 先生の方が多いなんて、来んといたらよかった。」

"摂津市の公立学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の親の会"で、自己紹介後のオモニの第一声がこれでしたね。

子どもを夏期学校に参加させている保護者は、みんな来てほしかったのですが、親の参加が少なかったのは、春休みに入ってすぐの日曜日で、日も悪かったようです。一才前の乳児を抱えて、オモニが来てくださるとは思ってもみませんでした。大変うれしく思いました。

交流会が進み、子ども会の話になりましたね。本名で通わせているオモニとアボジから「子ども会に参加するのは、子どもにとって負担じゃないかと思います。」「夏期学校のことも、親の気持ちを察して、行かなくてはいけないと思っているようで……。」の意見が出たとき、すかさず「そんなことはないみたいですよ。初めはそうかもしれないけれど、慣れると、やっぱり同じ国の者どうしが集まるから、安心するみたいですよ。」と答えてくださいましたね。オモニが、そのように考えてらしたなんて、驚くやら、うれしいやらで、思わずオモニの顔を見てしまいました。今春、小学校を卒業したSが、1年生に1入学した年のことを思いだしたのです。

思えば、今から6年前、家庭訪問の後、Sと年子の兄Yの担任が話をしているのを聞いたことがありました。

「きびしいですね。」

「国籍のことにふれたら、"ちょっと待ってください。"と言ってふすまをしめて、あとはヒソヒソ話。"子どもには、何も話していないから"と。」

「その話は、モウ、せんといてほしいと言われました。」

「夏期学校のお誘いに、また、家へ行かなあかんけど、気が重いなあ。」

こんな会話だったように思います。

けれども、その年の夏期学校に、Sは参加したんですね。Sの担任から「楽しいキャンプがあるからね。」と言って連れて行ったと聞きました。あの時、オモニは、どう思っていたのでしょうね。

3年になったSを担任したのが私でした。家庭訪問に行くとき、「オモニと国籍についての話ができるだろうか、触れてほしくないと断られるのじゃないか。」と不安に思いながら伺いました。

けれども、オモニの口から出た言葉は、「どの先生も同じようなことを聞きはるから、私から話します。国のことでしょ。朝鮮人であることを隠そうとは思わないけれども、あえて言う必要もない。夏期学校への参加は、本人に任せます。」ということでした。担任が変わっても、毎年同じことを聞く教師達にあきれたのか、うんざりされたのか、1年生の時とくらべて、オモニの対応は変わっていました。なぜだったのでしょうか。校内でしている子ども会に、メンバーが少ないのに参加し続けたことをどのように見てこられたのでしょうか。親の会が終わったら、ゆっくり話をお聞きしようと楽しみにしていましたのに、用があるからと帰られたのは残念でした。帰り支度をしながら、私におっしゃいましたね。「もっと、乗り越えた話が聞けると思っていたのに。」と。私は、つい「オモニだって去年まで、あれこれ悩んできはったでしょ」と、ぶしつけなことを聞いてしまいました。一瞬、考えたけれど、すぐに答えが返ってきました。「子どもが変わったからとちがいますか。」

子どもが変わったから―――。そうなんですよね。当たり前のことですよね。

是非、ゆっくりと話を聞かせてください。

「先生に話すことなんかないわ。中学校生活のことが気になるのですが……。」と、おっしゃるでしょうか。

厳しい指摘も覚悟しています。今年の夏期学校で、また、お目にかかるのを楽しみにしています。

 

〈その2

日本籍のY君の家庭を訪ねて

東大阪・柏田(かしだ)小 岡野克子

 

担任した子どもたちの何気ない会話にも神経を張り巡らせて耳を傾けていた4月当初のある日、「うちとこのおじいちゃん、韓国人やねんて。」と話している日本国籍を持つYの声が聞こえてきました。「Yさん、それ誰に聞いたの?」「おじいちゃんに。」前年の担任も「そうみたいですよ。」と言うのでした。

私の勤めている学校には、市教委が設置した朝鮮語学級(母国語学級)があります。入級対象者は、@朝鮮籍・韓国籍である朝鮮人児童、A日本国籍の日朝混血児童、B帰化した児童、となっています。@については、入学前に市教委から来る書類で分かるのですがABについては、保護者から聞かされる以外に分かりようがないのです。しかし、国籍法の改正や、帰化条件の改正によってAやBに該当する子が年々増えてきているのです。同じ日朝混血児でも@の場合には、自分も又周りの者も「朝鮮」と向かい合っている子だと認識するのですが、Aの場合には、すんなりとそうはいかないことが多いようです。

工場、工場、どちらを見ても小さな町工場の並ぶ校区の一隅にYの家はあります。家庭訪問期間のある日に、Yの家を訪れました。

夫と死別し、子ども達と生活しているオモニは、近所の工場でのパート労働を終えて迎えてくれました。子ども達の家庭を訪問し、玄関を入った雰囲気から、又階下で響く機械の音に合わせているかのように喋るオモニ達の様子から、生活の中に「朝鮮」を感じることはよくあるのですが、祖父母と同居していないことが重なってか、Yのオモニからはそれを感じることができませんでした。どう話を切り出そうかと考え込んだのでした。

「この前、Yさんが、うちとこのおじいちゃん韓国人やねん、て言ってましたけど……」と切り出しました。

Yの若いオモニは、生活の中で起こったことや自分の考えや思いを淡々と話してくれました。Yの祖父は若い頃に仕事を求めてチェジュドから日本に来たそうです。そしてYにとってはおばあちゃんである日本人女性と結婚したのです。二人の間に生まれた日朝混血児であるYの父は、母の日本国籍に入り、名前を母のYと名乗り「日本人」として生活を送ったそうです。そうしてYの母である韓国籍の女性と結婚したのです。二人の間に生まれたY達姉妹は、日本よりも、より朝鮮に近い親族関係にあっても、日本国籍を持っている者として生活しているのです。

戦前、戦後に日本人と朝鮮人の庶民同志の結婚は多くあったことでしょう。Yの祖父は「国籍」として子や孫に朝鮮を伝えられなかったとしても異国の日本で生活の中に朝鮮をどかっと据えているようです。「おばあさんは日本人ですけどチェジュドなまりの朝鮮語は聞けますし、キムチはじょうずに漬けますし、朝鮮料理なんか、私よりじょうずですわ」とオモニは言ったのです。ぎりぎりの所で民族性を大切にして生きてきた祖父とその祖父の思いを支えてきた祖母との生活線上にYはどかっとすわって今を生きているのだ、と感じました。Yが今ここに在るのは、長くて重い歴史を経てなのだと知るとともに、Yのような子どもは少なくないことでしょうが、本人からの話がなかったり、又私達が気づかなかったら、私達は何の考えもなく、日本人として接していくことの恐さのようなものを感じました。

Yの場合には、祖父が朝鮮人だったからまだ朝鮮が出やすかったのかもしれませんが、祖母が朝鮮人の場合だったらどうでしょうか。朝鮮はストレートに出にくいようにも思いました。Yは朝鮮語学級に入級しました。祖父は孫のYに対して、自分のTという本名を教えて「Tと呼んでもらうように。」と言ったのです。

Yのオモニは、学校に要求をぶつける時間的余裕を持ち合わせてはいませんし、又わが子だけをエリートに、などの辟易する考えの全くない、生活を維持するために日々働いている一保護者です。このYのオモニのような学校には届きにくい声、しかも教育実践上不可欠の「その子を丸ごと知る」ための話は、家庭訪問でこそ聞けるように思うのです。

今年も、地図を片手に校区を走り回り、じっくり話し込むつもりです。

 

〈その3

キムの「ム」は言えへんねん

1年生の子の家庭訪問

西成区・長橋小  金井佳孝

 

今年4月、長橋小学校に転勤して2度目の1年生に出会った。小学生になって初めて本名を名乗るようになった子どもたちは、いろんな思いを抱きながら日々の生活を送っている。兄や姉が本校にいる子の中には、本名を早くから知っていて、小学校入学を待ちわびていた子も多い。逆に、入学前に初めて本名を知り「今までの名前(通名)の方がいい」と、本名になじめない子もいる。

キム・シニョンは、入学前に初めて本名を知った。オモニは入学式後「日本に住んでいるのだから、将来も通名と本名を使っていける子にしたい。それに、本名では今の日本の社会では不利なことが多い。だから、通名にしてほしい。」と言ってこられた。シニョン自身も初めて聞いた本名にとまどいを感じ、「本名がいい。」という強い気持ちはなかった。

4月の終わりごろ家庭訪問をした。担任は「シニョンに本名を好きになってほしい。」という願いから、機会あるごとにシニョンと呼んでいた。家庭訪問の前日には「どっちも好きや。」と気持ちが変わり始めていた。私は家庭訪問でシニョンが家で名前のことでどんな話をしているのかを聞きたいと考えていた。

家に入って私が一番に目にしたのは、木片に書いたというハングルだった。「いやあ、ハングルで書いてあるやん。」と言う私にオモニは「きのうシニョンがおとうさんや私の本名をたずねてきましてん。それで教えましてん。」と話された。学校でのシニョンの様子から、(名前のことはあまり考えていない)と思っていた私は、思わず、ニコッとしてしまった。

オモニは続けて「民族学級でハングルを習ってくると思います。シニョンには朝鮮語できっちりと本名を教えたいです。ハングルで書けるようになったら、名前をハングルで書くことも考えていきたいです。」とも話された。「通名」と言ってこられたオモニであったが、その中にある本名を大切にする気持ちが聞けたことは、私にとってもうれしいことだった。

そういえば、以前に1年を担任した時「キムの""は言えへんねん。口を閉じるねん」と、何度も言っていたキム・チヘを思い出す。チヘはオモニの実家で、ハルモニにキムの発音を教えてもらい、それにとてもこだわっていた。チヘのハルモニは、キムという名前を大切にする心からチヘにキムの発音を教えたのかも知れないと、この家庭訪問の後私は今さらながら考えた。

チヘのハラボジはチヘが2年生の初め頃に亡くなった。私が朝鮮と日本の法事の違いに気付き始めたのも、この頃からだったように思う。きっかけはハラボジが亡くなって何日か後、いつも元気なチヘが朝から何度も「しんどい」と言ってきたことだ。よく聞いてみると「昨日法事があって、帰りに自動車に乗ったのが12時過ぎで、あまり眠っていない。」ということだった。私は初め「次の日学校があるのに、もう少し早く帰ればいいのに」と思っていた。しかし、何日か後にソンセンニムから「朝鮮では法事を大切にすること」を聞き、チヘのオモニに話を聞かせてもらおうと思った。オモニは「ハラボジは信頼されていたんだろうと思います。葬式の日は夜12時頃から、次から、次へと、何人もの人が来はってね。4時頃まで、食べたり飲んだり話したりしていました。法事も、この頃は11時頃には終わることが多かったのですが、ハラボジの葬式はたくさんの人が集まって夜遅くまで続きましてん。ハラボジは24才で日本へ来たのですけど、私の子どもの頃は貧しくてね。"貧乏人の子"とよくからかわれましてね。でも、私の親は焼き肉屋をしながら、一生懸命、私らを育ててくれました。貧乏やったけど、ものすごく工夫してました。寒い日には朝、家で焼けた石を布に包んでくれてね学校へ行く時はそれを持っていくと、すごく暖かくってね。帰りは、その石を捨ててきますねん。わたしらのことを大事に思ってくれていたんだろうなあと思います。私達朝鮮人は法事を大切にしますけど、ハラボジの法事は、とても大事に思っています。チヘには法事のことを、しっかり見させたいと思っています。」と話して下さった。

シニョンやチヘのオモニの話を聞く中で朝鮮人の親が、何を大切にしているのかということが、少しはわかったように思う。今後子どもと接し、親と話す中で、親の思いを知り、子どもに返していきたい。また、親や子どもの思いを受けとめることのできる自分になりたいと思う。

(『むくげ』122号1990.8.1より)
 〈その3〉の金井さんの文章に出てくるこどもの名前は、
HP編集委員会の責任で仮名としました。

    
inserted by FC2 system