ソウルに旅して

−女子挺身隊に送った李さんを訪ねて−

池田正枝

李さん、お便りください

1991.1.24 朝日新聞 「語りあうページ」より

とうとう中東は火を噴いたのですね。多くの人々の祈りはむなしいものになりました。私が今、握り締めている新聞には「太平洋戦争当時、十五歳前後だった少女の『手記』募集」と書いてあります。李さん、あの時あなたは十二歳。「先生行ってくるわね」。おかっぱ頭に目をくりくりさせた.笑顔のあなたは、数日前に国民学校を卒業したばかりでした。敗戦の色が濃くなった一九四四年、日本国内の軍需工場は人手不足が深刻でした。ソウルにあった、朝鮮人子女を教える国民学校で六年女子児童を担当していた私は「富士の不二越工場に○○人の児童を送るように」と命令されました。

私は毎晩、家庭訪問をしました。「お国のために……」と説く私の言葉を信じて、幼い心はすぐに応じてくれました。どの家庭も毎晩、親子げんかでした。何とか説き伏せた数人の児童は、海を越えて出発して行きました。李さんは幼い時母を失い、老いた父と年の離れた姉の三人暮らしでした。

李さん、あなたは私が引き揚げ船のタラップに足を載せた、一九四五年十二月末までに帰って来なかったのです。引き揚げてきた私は、その日その日を生きることに精いっぱいでした。いいえ、本当は逃げていたのです。敗戦後も機雷に触れてたくさんの船が沈みました。李さん、沈んだ船に乗っていたのでしょうか? でも、くわしいことはわかりません。

李さん、今度の手記は外国からも応募できるそうです。もし、あの世からでも応募できるのだったら、書いて下さい。戦争の被害者は戦争を始めた人たちでなく、未来のある人たちであることを……。

飛行雲が流れ、その下で夕暮れの生駒がだんだん黒いシルエットになってきました。

気にかけて頂きました「教え子へのお詫びの旅」の報告が遅くなって申しわけありません。やはり老人です。お世話下さった若い方々はもう次のお仕事にお忙しく、ソウルは遠くなっていらっしゃるのでしょうが、私の方は、今、あらためてソウルでの一日一日を噛みしめております。びっくりの毎日だったからでしょう。.ソウル滞在の日々は心、こゝにあらず、今、自分は本当にソウルに居るのだろうか? 一日に何度も指でつねってみる事でした。

七月四日、富山テレビ局のお二人がこの狭いアパートに見えました。私を知ってらっしゃる方はご想像がつく筈、「可哀相に」と何も捨てる事ができず、反対に何でも連れてかえるものですから、他の方々が御覧になれば「半分以上は捨てていいものよ。」「ごみに囲まれて暮らしてるのね。」の言葉が出そうです。と、いう事で部屋の中は片付いた事がありません。アパートですから、物入れは少いし、いくら表面を繕ってもカメラは正直です。もう諦めました。富山のゆったりしたお住居からみえたお二人はびっくりされた事でしょう。でも、その中でてきぱきカメラを回して頂き、ご一緒に大阪のホテルヘ急ぎました。私のアパートの部屋は四階なので沢山の道具を運んで頂いたのは申し訳ない事でした。でも手伝ってこの老人がぎっくり腰になればかえって御迷惑とあつかましく最後迄お手伝いしませんでした。御免なさい。

大阪のホテルではこのシリーズの中心になって下さってるSさんが待ってて下さいました。シルクロードの旅から帰ってらしたばかり、お疲れとる時間もなく躯けつけて下さったのです。昨年からのこのシリーズの中心になってる方ですから当然ですが、私にとっては有難いことでした。テレビ局の若いお二人は私に遠慮していやな事は一切おっしゃいません。鈍感な私が気がつかなかった時Sさんに注意が出ます。きょとんとしておられるSさんに「あっ、それは私への注意です。」と、申しわけなく思った事です。四人揃って大阪空港ヘ……。三人の方が沢山の荷物に苦労してらっしゃるのに、相変わらず知らん顔すまない事でした。飛行機の中で「ホテルはロッテ」に、とび上りました。「しまった。」リュックの中はTシャツばかりです。ピースボートを思い出しました。日本の船の時はパーティの時も、ほんの少しおしゃれするだけですみます。外国の船になってびっくり、夜はいつも正装なんです。とにかく時間が惜しくて、船の中を走りまわってる私達です。食堂へも先の時間の続きでTシャツにジーパンで駆けこみます。船長さんも事務長さんもヨーロッパの方でしたから「この団体は何なの」と歎かれましたとか……。ワンピース一枚とブラウス一枚では、どうにもなりますまい。「ええい」と、もう覚悟しました。ホテルはさすがロッテその中のいいお部屋ですから生まれてはじめてです。はじめは落ち着きませんでしたが、人間というもの、賛沢にすぐ慣れて快適さを楽しみました。「今は観光客が多くて部屋がなかなかない為です」と言われましたが、老人の身体を気遣って下さっての事と感謝いたしました

空港の大きいのにもびっくりしました。それも三ヶ所もあるので、うーんと稔りました。オリムピックが、この国にとってどんなに大切だったか、よくわかりました。日本で生まれて二十二年間、日本で暮らし、今は自分の国で仕事してます。」という女性の方、在日の力メラマン、ソウルでの日本のテレビの支局長さん……と、一行は一度に賑やかになりました。

 車は私の遠い記憶を呼び戻すようにソウルの中心街を走ってソウル駅ヘ……。そのまゝ、本当にそのまゝなんです。夏、従兄妹達と仁川へ行く時も、李さんを軍需工場に送った時も、そうして貨物列車に乗っての引き揚げの時も、すべてこのソウル駅からでした。富山をあんなに懐しがっていた伯母はこの駅で富山の言葉を探していたのかもしれません。植民者の言葉をごった煮にしたのがソウルの日本語でしたから…。六十七才という老人が、私達の言葉を耳にして話しかけてこられました。「私は高等普通学校五年の時、修学旅行で日本へ行きましたよ。」長い間、つかわなかったとおっしゃる日本語ですが、なかなかお上手で丸その修学旅行の時は、たしか日本は皇紀二六〇〇年で湧き立ってた頃の筈、どんなに日本を恨んでいるだろうと覚悟しできた身には、彼のやさしさが、じ一んと身体全体にひろがってきました。お元気で…。涙が出てきました。李さんを送った場所に立ってみました。たしか春の匂いが感じられる頃でした。私もオーバーを脱いでましたし、李さんはスモッグ風のものにもんぺでした。日の丸の鉢巻をしめて、終始、笑顔でした。人懐っこい李さんはもう周囲に友達を作って、お喋りしてました。学校から一人だけなので、その姿にほっとした事です。ホームに見送りが入る事は許されず「先生、行ってくるわね。」と何度もふり返った笑顔が今も胸に焼きついてます。人影のなくなった広場に李さんの姉がぽつんと立ってました。遠くからそっと送ってたのでしょう。父と姉と李さんの生活でした。

この日は芳山国民学校の跡にも、連れていって頂きました。向い側が男子師範の裏塀でしたから、その建物が目印でした。ありました。裁判所になってる男子師範の建物でした。今は問屋街になってる芳山市場のどこにも学校のあった跡はありません。その時に「こゝで生れ育ちました。」と、三十代とみえる女性が現れました。この年令では? と思ってましたら、何と五十八才、あっ、李さん達と同じ年令です。「通学した学校は徳寺で芳山ではないけど、解放後も十五年、芳山学校はこゝにありました。」の嬉しい証言をして下さいました。眼を閉じると校庭が浮かんできました。児童数三千人、教室が足りなくて低学年は午前と午後にわかれての授業でした。マイナス五度迄は靴下も許さず、教室の中は燃えない石炭のストーブが一こあるだけでした。一九四三年の秋迄、私は、今は共和国になってるケソン(開城)の国民学校に勤めてました。母が病弱の為、ソウルに帰ってきてほしいという家族の願いで、運動会をすまして芳山に転勤してきたのでした。かわいい一年生が待ってました。でも五年女子組を三学期の途中からというようになったと記憶しております。そのクラス担任が召集されたからです。当時、どの職場にもあった風景でした。そのクラスが、李さんはじめ、六名の児童のいるクラスでした。あの時代、随分、酷な事を児童に要求しましたが、どの子どもも文句一つ言わず、私をたすけてくれました。よく勉強する事だけが希望だったといえます。こっちあたりが校門、むこうに懐しい校舎、教室は二階のまん中、皆さんの声に現実へ戻りました。「さよなら」引き揚げる前、学校の前に立ちました。ハングルでの授業の声に、「よかった」別れを告げた四十六年前を思い出しました。幻の校舎に、今度は本当の「さよなら。」を言いました。

この日から山下葵愛さんという素晴らしい女性が同行して下さる事になりました。美しくて、その上、きらりと光る知の瞳をもった山下さんの事は、一ケ月程前の朝日新聞に大きく紹介され、また「從軍慰安婦」の冊子で座談会の記事も読ませて頂いた事でした。津田塾大の大学院を終えられてから、梨花女子大の女性学科で研究してらっしゃる方です。「じゃあ"馬場先生"」の私の言葉に「えゝ私もお授業うけたんですよ。昨年、亡くなられましたね。」今、韓国から奨学金がでてる日本人学生の三人のうちの一人でいらっしゃるとの事、お父さんが韓国の方、お母さんが日本人という彼女に期待するもの大です。その夜は皆さんと一緒にお寿司屋さんへ連れていって頂きおなか一ぱい鮪寿司をご馳走になりました。部屋に帰りましたらバタン・キュー、三人の方はアルコールを召し上らない珍らしい男性の方々で私一人、部屋に帰らせて頂いたあとも、ずっと打合せして下さったようです。こゝは老人の特権、一足お先に眠らせて頂きました。

「気をしっかり持って下さいよ。」ディレクターの方の言葉に不安が胸一ぱいになりました。李さんの死を告げられるのでは? 「Kさんの親戚の方に会います。」ほっとしました。Kさんはお父さんの秘蔵っ子、身体が弱くてお仕事の無理だったお父さんでしたから、経済的にお困りではないかと心配した事もありましたが、お訪ねもできませんでした。「沢山の子どもを小さい時に亡くしましたからね。」お父さんはKさんを幼児のように世話をやかれるのです。そのKさんが富山へ行くと言い出した時のお父さんの驚きと悲しみ、Kさんはお父さんを説き伏せて富山へ行きました。富山へ行ってしまってからもお父さんは度々、学校へみえました。五名の家族の中心になって連絡などいろいろ世話をやいて下さった事を思い出します。敗戦後帰ってらしたと聞き、早速、訪問しました。まだ半袖でしたから、八月の終わり頃だったでしょうか。お父さんはKさんの為に果物の缶詰めをあけてるところでした。隣りの部屋に姉さんの姿がみえましたが私は長い間、Kさんをひとりっ子だと思ってました。Kさんなら大丈夫、ちゃんと会って沢山、お喋りしてる人だから……。でも涙のように降る雨が不吉でした。傘を用意して頂き、降りた処はソウルの郊外、植民地時代の苦しさをまだひきずってる感じの街でした。こゝで日本人と喋る決心はなかなかつかなかったと思います。それを説き伏せて下さったのも、テレビ局さんのお力でした。Kさんよりずっと年下の從妹の方は眼を大きくしたらKさんに似てる懐しい女性でした。こゝ迄、さがして下さってびっくりしました。山下さんに通訳して頂き、Kさんは、あの動乱の時、行方不明になられた事を知りました。お父さんお母さんの歎きは大変だったとの事でした。わかります。お父さんはKさんが生き甲斐でしたもの……。御両親は悲しみのうちに他界されたとの事ですが、私は悪戯好きだったKさんがどこかで生きてる事を信じたく思います。「ほら、バー」って現われそうです。

"従軍慰安婦"に朝鮮人女性が沢山、強制連行という形で最前線へ送られていた事は知っていましたが、私の今の年令や力で、関わる事は無理だと思ってました。しかし尹貞玉先生のお宅に伺ってて、今迄の自分を恥ずかしく思いました。一九四四年の夏、電柱に貼ってあっ「祖国を憂える女性よ来れ、但し朝鮮女性に限る。」のビラを思い出します。田舎では人攫いが白昼堂々と行われ、若い女性は慰安婦として前線に送り出されたのですが、家に乳飲子を残してきた若い女性の胸のうちを思います。ソウルではさすがに人さらいは出来ず、こうして「お国の為に」と応募してきた女性(事務系の仕事か看護の仕事を想像して応じたのでしょう)を慰安婦にしたのだと思います。尹貞玉先生の調査によると、教え子のように挺身隊に応募してきた女性のうち、少し年令の高い女性は慰安婦にさせられたそうです、お話聞いてるうちに心配になってきました。李さんは当時、十二才、とにかく帰国を確かめておりませんから、考えれば考える程、もう胸の中はまっ黒です。帰りまして七月十八日の朝日の記事で再び尹先生のおっしゃる事を読ませて頂きました。今、私は自分を恥ずかしく思います。自分に関係のない事として從軍慰安婦の事に頬かむりしていた事は許されない事です。私達がした事です。少しでもこの運動に関っていきたいと思います。今、この運動をしてる方々は、海部首相あてに六項目の要求をしてるわけですが、日本政府は「あれは民間業者がやった事」と全面否定です。ドイツと比べて、こゝのところが違うと、他の国々の人々は言います。お金持ちという事で、観光の日本人にみせる笑顔の下の本心を、東南アジアの旅で、どんなに辛く感じた事か、思い出した事です。儒教の影響の強い韓国で、慰安婦をとり上げるのは、どんなに大変な事だったか、半世紀たった今、やっと声をあげる事ができたとの事です。

左下にMITSUKOSHI DEPARTMENT STORE KEIJO
(右から左へ) (京城)百貨の殿堂三越デパートメント・ストア
垂れ幕の標語は、「國民精神總動員 愛馬の日」
「第三十回記念植樹」「一億一心」など。植民地時代の絵葉書。

戦後も長くこの姿を留めていたが、2004年解体され、高層ビルに改装中。

ソウルの街も大体、頭に入りました。三越は今もデパート、朝鮮銀行は韓国銀行に、当時の京城府庁は今はソウル市庁に、朝鮮総督府は国立中央博物館になってますが、日帝時代のいやな思い出の塊として、之をとり壊す運動は関西でも話題になってます。昔の昔、一億円かかった建物は大理石をふんだんに使ってました。私は毎朝横目でながめながら、通学の道を急いだものでした。

 ハンガン(漢江)私の住んでいるアパートとは桁ちがいの立派なアパートメントが並んでます。その一角にあるヨンヒ国民学校に車は着きました。もう、本当にびっくりしました。私の書いた学籍簿が残ってるんですって……。嘘、信じられませんでした。でも本当にありました。私の下手な字で書いた学籍簿があったんです。校長先生はやさしい表情で説明して下さいました。「この学校も芳山地区にあったんです。芳山が廃校になったので、学籍簿はこちらで保管する事になったのです。」敗戦後総督府の命令で、おびただしい書類は、皆、焼き捨てられた筈です。学籍簿も、当然その運命にあったと今の今迄、思いこんでました。守って下さったのですね。韓国の先生方が……。校長先生の話は続きます。「動乱の時は、土中に埋めて釜山へ逃げたんです。あとで掘り出してみると、焼失したのもありました。あなたのは運がよかったのですね。」当時、こうしたのは全部、漢字とカタカナで書く事になってました。校長先生は挺身隊にいった六名の児童をちゃんと調べて下さってました。五名と思ってたのは六名でした。御免なさい、もう一人のKさんを忘れていたのです。焦げ茶色のワンピースに白い大きな衿の洋服がよく似合っていたKさんは、いつも控え目で、しかし発言はしっかりした意見で、低音でぴしっと皆をまとめてました。あなたの本籍地からみて、多分、ご親戚の方と一しょに北朝鮮へ帰られたのだろうという判断でした。

Tさん、あなたは白いブラウスにグレイのジャンバースカートがよく似合ってました。色が白くて、よく笑いました。今、引っ越されたようです。でも、一度お会いしたいし、できるでしょう。Yさん、あなたの事がなかなか思い出せません。御免なさい。

もう一人のYさん、あまり笑顔を見せない、いつも黙ってたあなたが「富山にいく」と発言した時驚きました。お父さんが軍属として上海と書いてありました。いつも黙ってたのはお父さんの事が心配だったのでしょうね。御免なさい、あの頃は、そうした事もすべて級友には秘密でした。今、どこへおられるのか、不明との事です。お父さんは帰ってらしたのでしょうか。今、一番心にかゝります。

今度の旅で、その生死を確かめたかった李さん、二月二十五日、挺身隊へと書いてあります。そうすると私の錯覚だったのでしょうか。ソウル駅で送ったのは、卒業式のあとだったと記憶してるのですが……。記入日を指示されたのかもしれません。錯覚だったのでしょうか。今、悩んでます。その他、懐しい名前がならんでます。校長先生とこの学籍簿を大切に保管して下さってた沢山の方々に、心から御礼申し上げます。その上、日本の学校、日の出と桜井両校のも預って下さってるんです。心の大きさに頭が下がりました。芳山からこのハンガンの近くに引っ越してきたヨンヒ国民学校では未来を担う幼い人々の笑顔がありました。もうあんな戦争で苦しめてはいけない、かっての教え子達の姿を、幼い人々にみました。

この学籍簿のおかげで、区役所で調べる事ができました。かっての日韓ワーク・キャンプの仲間Yさん夫婦が、ここからお手伝いして下さる事になりました。一九八三年、韓国のハンセン氏病定着村へのワーク・キャンプに参加しました。当時、Yさんは京大四回生、今、おつれあいになってるWさんは大教大二回生、炎天下の労働ですから、YさんもWさんも老人の私に親切にして下さった事が忘れられません。Yさんは毎日新聞にお勤め、富山支局勤務になりました。

私の母は富山出身、だから、そのお勤め場所が嬉しくて賀状で、富山の様子を知るのが楽しみでした。Wさんは、大教大の大学院からソウル市の大学へ、今は舞踏の研究をしていらっしゃるとの事、昨年、長い春から結婚生活に入られた時は、本当に嬉しい気持ちでした。Yさんも毎日を辞められ、二人で一所懸命生きている姿に、私も学んだ事です。その上、Yさんは、富山勤務時代に、テレビ局の方と顔みしりだったとか、その事がお手伝いして下さる気持ちになられたようです。

私は戸籍制度反対の人間なのですが、今回はそのおかげで、心配だった李さんはじめ挺身隊へ送った教え子の事がわかったのです。果川市の区役所へ連れていって頂き、バスの中で長い間、待ちました。「李さんの死亡年月日で、日本から父親の許へ帰れたかどうかわかる」「うちの子どもは?」心配そうに尋ねた年老いた父親の顔が忘れられません。長い長い時間のあと、区役所の扉をあけました。「李さんは生きてます。」そう告げられた時の感激、心の中が涙で一ぱいになりました。感謝で一ぱいになりました。沢山のエネルギーと、時間とお金と、とにかく言いあらわすことの出来ない程の努力をそそいで下さったテレビ局の方、有難うございました。同行して下さったSさん、どんな罵詈雑言も当然と、覚悟してきた私に、案内、通訳と力添え下さった皆さん、そうして何よりも生きてて下さった李さん、有難う、私はあと僅かの人生です。今迄も自分中心の生活でいい事など何一つしなかった私に、皆さんがやさしくして下さる事に、また涙があふれてきました。世界が違ってきたような気がします。本当に幸せです。でも、今、幸せな家庭生活をしている子ども達は、挺身隊にいってた事を、家族の誰にも黙って暮らしてきたことを知りました。家族の中に大混乱をまきおこしました。御免なさい、私は、また悪い事をしました。私としては他の子ども達は女子校へも入学させた、卒業もさせた。でも、あなた達はほったらかしにしてきた、特に李さんはその生死さえ確めていない、あなた達の事ばかりに集中してた事で、テレビ局さんをはじめ皆さんにご迷惑かけました。李さんは敗戦当時、大病をした為、韓国へ帰るのがずっと遅れたのだそうです。李さん生きてて下さって有難う。挺身隊即從軍慰安婦となってるコリアで挺身隊にいってた事がわかれば、子どもさん達が職場で居住地域で村八分になる事も知りました。今迄、本当にその事、知らなかったのです。今度、その事を知った事に感謝します。電話でYさんと李さんの声を聴く事ができました。もう日本語を忘れたと言い乍ら「有難うございます」を何度もくり返す二人に「来年は奈良へ来てね。」と約束しました。通訳して下さったWさんによると「三人で、行きます。」との事、あ、Tさんが加わって下さるんですね。私も何とか会話できる方法を考え、富山ヘ一緒に旅したいと思います。今回新しい世界をひらいて下さったテレビ局さんやSさんに御礼の言葉を申し上げてはじめて私の旅は、おわります。

最後の日、支局長さんの御好意で、お寺へ案内して頂きました。母・祖父母・伯父伯母・沢山の從兄姉達はこのソウルの地で眠っております。日本のお寺さんが引き揚げる時、土中に埋めた遺骨を掘り出して韓国のお寺さん鐘路区平昌洞にある覚真禅院さんで、おまつりして下さってるのです。五年前迄は反日感情が強くてひそかにお祭りして下さってたとの事、今は一年に一回の慰霊祭もしてるので、ぜひ沢山の日本の人々にお参りにきてほしいと伝言頂きました。

学籍簿を預って下さってるヨンヒ国民学校、日本人の碑も建て、丁寧におまつりして下さってるお寺さん、そうして今度、善意一ぱいで動いて下さった方々、本当に有難うございました、元同僚のH先生にお会いできた事も、夢のような喜びでした。私のお詫びの言葉に、微笑し乍ら次のようにおっしゃいました。「ご存じのとおり、この半島は昔から幾つにも分かれてよく戦争したでしょう。中国へ行った人も多いのですが、何しろ日本が近いので、敗けると日本へ逃げていった人が多いんですよね。はじめの人は関東へ上陸して、当時、そこに住んでいたアイヌの人々を北へ追い詰め、自分達は関東地方の住人になりました。それからも戦争の度毎に沢山の人々が海を越えて近畿・九州へと移り住みました。間もなく故郷のコリアの人々を追い越して国力が充実してきました。あなた方は意識してないでしょうけど、遠い昔の恨みが日本統治三十六年という復讐になったと私は解釈してます。」ソウルヘ出発する前に、若い方々が車で朝鮮通信使の歩いた道、“朝鮮人街道中山道”を案内して下さいました。H先生のおっしゃるとおり、私達の先祖がコリアから渡来したという証明があちこちに一ぱいありました。滋賀の山で伐った木材を瀬田川で流し、奈良の街を造ったとも聞きました。奈良の自然はコリアに似ているところがあり、渡来した人々はウリナラのナラときめたのでしょう。H先生は「日本人八十人朝鮮人二十人という学年構成の官立師範でみんな仲がよかったので解放後は知日派という事で苦労しました。私も日本に行きますし、日本からもかつての学友が遊びにきます。今年の春も来ました。」同僚だった時、心から尊敬できる方でした。おつれあいは十年前に亡くなられましたが、お子さん二人はアメリカ、二人は韓国にお住まいで御自身はひとり暮らしですがお元気で嬉しい事です。アメリカにお住まいの男のお子さんの方は医学博士で病院勤務、おつれあいはこの病院で亡くなられた為、お墓はアメリカ、一年に一回は墓参りをかねてアメリカヘ、韓国においでの男のお子さんは工学博士として活躍、御本人は敗戦後、芳山校には一歩も足を踏みいれなかったそうです。韓国人として、日本の教育を押しつけた事の苦しさからでしょう。しかし再三の恩師の懇望で付属小で三年、そのあとは日本の文部省にあたるところで教科書編さんのお仕事してらしたそうです。「韓国はきびしいですよ。教科書といっても私は植物学の方でしたから苦しみはなかったけど……」と、テレビの方御苦労されるのではないでしょうか。と、心配しておられました。

三清公園に連れていって頂きました。ソウル全市が望まれます。昔、私の知ってるソウル市は人口百万でしたが、小さなソウルでした。今は当時の何十倍にも大きくなったソウル市、寂しかった農村は、今、賑やかな繁華街です。しかし就職難であり、女性は大卒でないと就職できない事、しかし大半の女性は結婚すると家庭にこもってしまう事等、考えさせられるソウルでした。私が住んでいた貞洞・忠信・蓮池・孝悌の町名がそのまま残ってます。北漢山・南山・三角山等、懐しい山々は高い建物にさえぎられてよく見えません。帰ってから在日の方の話を聴きました。私は「アメリカの日系人は言葉も習慣も思考もアメリカ人、あなた方は?」と質問しました。彼は「国が分断されている限り、その統一の為に私達は民族の心を大切にします」と答えて下さいました。四十五年六ヶ月ぶりに味わったあの懐かしい空気、身体がしっかり覚えました。毎日のご馳走に少々うんざりした私達の為にテレビ局のお二人が用意してくださったパンにゴマの葉で包んだキムチをはさんでのサンドイッチがたまらなく懐しい日々です。有難うございました。

おげんきで。

『むくげ』128号1992.2.3(特別寄稿)より

     
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