「こぶとリじいさん」とは何か

田宮美智子

幼少のころ、大人たちから「みみずにおしっこをかけるとチンチンが腫れる」とか「便所で唾を吐くとバチが当たる」とか教えられた。近所の腕白小僧が大人たちのいうタブーを犯してわざとみみずに小便をかけるのを、私達は興味と畏れの気持ちで見守ったものだ。中にはそんなことは迷信だといってのける利発な子供もいたが、私達は大人たちの教えによって見えない世界が実在すること、実在するとは言い切れないまでも、それが在るかないか、懐疑を抱く心を与えられた。謎を解くのは私達自身にまかせられていて、大人たちはそれに対する解釈や説明などしてくれなかった。私にとって童話や民話が面白かったのも、このような目に見えない世界、超自然の世界に、そこでは出会えるからであった。日本の昔話の中では鬼や幽霊や神様、西洋では魔法の世界などが私達の日常の世界をゆさぶるのである。童話や民話は見える世界から見えない世界への通路であり、それを通して見えない世界を見ようとする意識を育て想像力を豊かにし、それが現実世界を創造する力を与えてくれるだろう。

さて問題となっている「こぶとり爺さん」であるが、この民話が障害者差別につながるかどうかを論ずる前に、まず私がこの作品をどう読んだかを思い出してみるならば、私はこの作品は"おにぎりころりん、すっとんとん"鼠の浄土とともに最も好きな作品だった。それは何としても鬼という非現実の世界があることであり、鼠の浄土にしても、おにぎりのころがった穴の中には現実とは違った世界が在るということである。枯木に花を咲かす「花咲か爺」も「桃太郎」も非現実の世界なのに、それら以上にこの話が面白かったのはなぜだろうか。「桃太郎」や「花咲か爺」の話が明るい昼の世界の出来事に対して、「こぶとり爺さん」と「鼠の浄土」は夜の世界であり穴の中の世界である。その現実とは異様でありたち切れているところが、私の空想癖を満足させてくれたのかもしれない。

「こぶとり爺さん」は平凡社の百科事典によると何を根拠にしているか明らかではないが日本の五大民話の一つに入っている。又、一九七三年から七五年の日本切手の昔話シリーズの七話の一つに入っており、日本民衆に親しまれ愛されてきた民話の一つである。

この民話の最も面白いところは「鬼に食われるぞ」とか「鬼に金棒」とかいわれて、鬼は強くて恐いものという観念を抱いている子.供たちがそれとは全く違う鬼に出会うところであろう。爺さんの踊りに魅せられた鬼が何も役に立たないこぶを大切そうに質にとるというところが何ともユーモラスである。恐い鬼はここでは間の抜けた愛すべき存在になってしまうのである。鬼にとってこぶは踊りの上手なじいさんそのものであり、爺さんのシンボルなのである。私が小さい頃読んだのは「宇治拾遺物語」にある"こぶとり"と同じものだったようで、こぶを質に取ると云ったとき、爺さんは「これだけは大切にしているものだからかんべんしでくれ」というのを大勢の鬼が追いかけて行って取るといったもので、それがまた一そうユーモラスであった。

障害者差別につながるかどうかで問題になるとすれば、後半のところの踊りの下手なじいさんが反対にこぶをつけられてしまうというところであろう。柳田国男氏の考証によれば、こぶとり説話」はもともと踊りを話のもとにしたもので"隣りの爺"型は後からついたものであろうといわれる。市外教は「こぶとり爺さんの思想は因果応報、勧善懲悪で悪のむくいがこぶになる」と後半の隣りの爺さんの方に比重を置いて解釈しているようだが、私はむしろ話の中心は前半にあるのであり"隣りの爺"型が付くことによって、より前半部の面白さが引き立てられると考えるのである。"花咲か爺""舌切り雀"を始め多くの日本の民話が隣りの爺型であり、"こぶとり"を因果応報、勧善懲悪の思想だからと否定するならば、それらもすべて同じ思想として否定しなければならなくなるだろう。だいたい民話の語根は世界に類似したものが分布していて、どれがその国特有のものか計りかねるようだが、しかし"隣りの爺"型は日本にだけしかないといわれる。だとすれば、これは日本民族の最も典型的な思考のパターンであり歴史の意識でもあるだろう。そうした思考のあり方によって民衆は生活してきたのであり、それは仏教思想に支えられて生きてきた民衆の知恵でもあるのだ。それを批判はできても否定はできないだろう。(勿論それを朝鮮民族の最も代表的な民話としてサラムに掲載するかどうかについては別の問題である)

それならば、こぶのある爺さんを題材にしたのがいけないかということになってくる。質として取る話は、こぶの他に耳を取る話があるらしいが、しかし耳では何か残忍で怪談にはふさわしいが、やはり"こぶとり爺さん"特有の面白さは出て来ない。その面白さはこぶが何も役に立たないから、鬼も間が抜けて面白く親しみが持てるのである。

このような何も役に立たないものや一般に醜いと思われているものが昔話や童話の中では宝になったり福をもたらしたりするが、その発想の転換そのものが面白いのであり、それによって常識に固められた眼を新しく蘇生させ、現実を見直す心を育てるのである。

美醜の価値観は時代と共に移り変わるものであり相対的なもので絶対的な価値ではない。ほととぎすの鳴き声を美意識のみでとらえた清少納言が「おまえが鳴くから田植えをするのだ、そんなに鳴くな」と労働の苦しさをほととぎすにかこつけて唄っている農民を、ほととぎすを貶めたとしてけしからんと云ったように、ものの価値観は人のおかれた状況によって違ってくる。現代の子供たちが、労働や生活の実感から切り離され、マスコミにあおり立てられた美意識のみで判断する傾向があるのは否めないが、そうだからといって子供たちの価値観にのっかって作品をとらえてよいのだろうか。むしろ現実そのものの悪しき反映をしている子供たちの意識こそ批判し変革しなければならないと思う。ブスとかイモとか云われて必要以上に傷つくのは、彼ら自身の中にそれを肯定する価値観が強くあるからであり、別の価値観に支えられている者にとって、イモと言われれば、"イモでけっこう、ほっといて"と云ってのけるであろう。確かに時代が変ったらこぶを美ととらえる時代が来るであろうといったら、それはこぶにあまりにもおもねる発言になるだろうが、しかし、それを顔をしかめる程醜いとするか、それ程気にならないかは、人によってずいぶん違うであろう。もともと子供をこぶといったりするように、こぶがつくことは増えること、つまり富につながることで福のものと喜ばれることもあるように、必ずしも否定的なイメージとしてとらえられてはこなかった。「こぶとり爺さん」のテーマは、古今集の序文の紀貫之の言葉にもあるように、"目に見えぬ鬼神をもあわれと思わせる"()の素晴しさにあり、そうした発想は"芸は身を助ける"という諺にもある。

しかし民話が子供たちに語り継がれるとき、目を輝やかして聞いている子供たちに話手は配慮をして言ったであろう。"ところがな、この話を聞いた隣りの爺さんがな…" 踊りも上手でないのに真似をして失敗した話を。このような隣りの爺型は何を子供たちに教えたのだろうか。"踊りが下手なためにこぶをつけられた"というようなことではない。自分のことをよく知らずにやたら人をうらやましがったり真似をしたりしたらいけないのだよ。人にはそれぞれ持ち味(個性)というものがあるのだと。悪いことをすれば良い結果を導かないという論理は現在の我々の考え方にも通用する論理である。踊りの下手な爺さんがこぶをつけられるのは、踊りの下手なことが悪いというより、ほんとうに踊りたいのではなく、こぶを取ってほしいという打算のために踊るところにある。踊る動機が不純なのである。踊り()とは、心の躍動の純なる表現を本質とする以上、じいさんの打算による踊りが鬼をも酔わせなかったのは当り前なのである。こぶを嫌いこぶを憎んだじいさんが却ってこぶに仕返しされ苦しめられることになるのであり、それは当然の帰結であり、そのことがこぶ自体を貶めることにはならないのである。

以上のような考えから、私は"こぶとり爺さん"を障害者差別につながるとする考え方には反対であるし、むしろ作品のそのような解釈が却って子供たちの世界を狭めると考える。

人間がどんなに差別されようと、何といわれようと存在する権利を持っている以上、それは文学の中でも同じことで、差別される人物も作品の中に登場する権利を持っている。人間は本質的に自由人である以上、善人にもなりうるし悪人にもなりうる。被差別者であろうとそれは同じ本質を持っている。差別する側の意識を気づかって、被差別者の良い方だけを描くとすれば、所詮差別者の意識に従属したものでしかなくなり、彼らを気づかうあまり、被差別者の存在(本質)そのものを抹殺することによりより根源的に差別的である。それがリアリズムを欠如させ大衆に訴える力をなくすであろう。こぶのある爺さんも同じことで、現実に良いじいさんも悪いじいさんも存在するのである。それが人間である。というよりこの"隣りの爺"型の民話は、二種類の人間が我々の中に同時に存在していることを暗示したものであり、我々がいつもいずれかの両方にゆらぎながら生活していることを現わしたものとも解釈できるのではなかろうか。こぶのあるじいさんの傷みを気付かう心は大切だが、しかし逆に、真実の姿そのものを直視しないで、心理的にのみ気付かうのは却ってこぶのある爺さんにおもねることになり同情融和主義に陥りはしないかと憂うるのである。現在、解放教育なるものが一般に、教師やインテリのプチブル的な「デリケートさ」によって思いやられるあまり、被差別者のたくましさを見失ない「…してはいけない」的発想が逆に子供たちから批判精神を失わせていることを感じるのは私だけであろうか。ロシアの革命を描いた、ショーロホフの小説「静かなドン」などは、相手をののしったりけなしたりする言葉がどれだけ豊かなことか、それは論理を立てて批判できない民衆の批判精神の表われであり、それによって現実を批判したくましく越えてきたのである。そういう面も含めて考えていかないと解放教育は痩せ細っていくばかりだと憂うるのである。

(追記)

太宰治の「お伽草紙」の中の『瘤取り』は、宇治拾遺物語の中から材を取った小説であるが、一つの解釈としてユニークな作品である。宇治拾遺物語の「人にまじるに及ばねば薪をとりて世をすぐるほどに山へ去ぬ」のところの解釈であろうか、このじいさんは、家族の者たちに遠慮しお酒を飲まねば過せない爺さんであり、瘤はそんな爺さんにとって、可愛いい孫のように自分の孤独を慰めてくれる唯一の存在として描かれる。このようないわゆる出世できないじいさんに対し隣りの爺さんは出世を望むために瘤が邪魔な爺さんとして設定される。孤独な爺さんは、日が暮れた山の中で瓢の底に残っていた酒を飲んでいるところに虎の皮のふんどしをした鬼どもが宴を始めると、そこは酒のみ同士ならすぐ通じるわけで、日頃意気地のないじいさんもいい度胸になり、鬼に対する異和感などふっとんでしまい、親和の情を抱いて阿波踊りを踊り出す。それが鬼どもの気に入るのである。それに対し出世を望む隣のじいさんは、ひどい意気込みで鉄扇左手に、肩をいからして屹っと月を見上げて、とんと軽く足踏みならし、おもむろに謡曲など呻きだした。これを聞いた鬼どもは、これはたまらん「逃げろ、逃げろ」とこぶを取ってくれと頼むじいさんの言葉を誤解して、反対に付けて逃げるという筋になっている。最後に太宰は、これは「性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。」と結んでいる。

 松谷美代子氏は語り口のうまいことで日頃敬意を表しているが、しかしこぶとりに限っていえば実につまらない作品である。この作品は松谷美代子氏の創作ではないかと推測するのだが、鬼がじいさんの踊りはうまいが、「どうも目ざわりでいかん。そのこぶをとったら、面がようなるで、もっと舞いがひきたつぞ」と瘤を取るもので、質(大事な宝物を預る)としての発想がなく、瘤は醜いという現実の一般社会の価値観と同じ価値観を鬼も持っているということになり、瘤は救われないばかりか、発想の転換の面白さもない。市外教の見解は、作品がこのように読まれることに対する危惧からであろうか。

『むくげ』133号1993.6.5より
     
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