中国人教員として

東大阪・盾津中 (ニイナン)

 

東大阪市立盾津中学校の中国人教師・ニイナンです。今日、こういう勉強会があって、うれしく思います。

私自身は、9年前、中国のハルピンから大阪へ来ました。留学生として大阪教育大学の修士課程を終えて、現在は、中国から来た子どもたちの勉強や生活のことなどの手伝いをしています。この3年間(今年で4年目)で私自身が感じたこと等を話していきたいと思います。

 

(1)日本に来た経緯を明らかにすること

最近、中国から来た児童・生徒が増えてきて、ほとんどは公立の小学校・中学校・高校に通っています。この子どもたちが、なぜ、日本に来たかということは、侵略戦争とかかわっており、重い歴史を背負った親や祖父母を持ち、この歴史ゆえに日本に来ているのですが、実際、教育現場に行ってみると、「なぜ、中国から日本へ来ているのか」を知らない日本人生徒ばかりなのです。ですから、まず、教育現場で、中国人の子どもたちが、なぜ、日本に来ているのかを、はっきりと明らかにしていくことが大切だと思います。

親の仕事の関係で外国へ行き、帰国するケースが増え、帰国子女の問題がよく取り上げられていますが、こうしたケースとは、明らかに違っているのに、文部省の書類を見ると、「中国帰国子女」という言葉があります。東大阪市内では、「中国帰国子女」という言葉は使わず、「中国からの子ども」「中国から来た子どもたち」というように呼んでいます。

「帰国」という意味は、それぞれ違いますから、中国から来た子どもたちの場合は、戦争と深くかかわっているので、教育現場では、きちんと、日本人の子どもたちに、正しい歴史を教えるべきだと思っております。

昨年のことですが、私は中国へ帰り、ハルピンの市内にある「七三一部隊」という「石井部隊」の残酷な歴史の陳列館に行き、そこで、写真やビデオをとって来ました。それを府立高校の研修会に持って行こうとしたところ、日本人のある先生に、写真の内容をたずねられました。「七三一部隊」の生体実験のこと等を説明すると、その先生は「日本人はそんなことは絶対にしていない。」と言いました。私はとてもショックでした。どんな気持ちで、その先生が言ったのか分かりませんが、やはり、正しい歴史認識・正しい歴史観を持つことが大事だと思います。

もう一つは、昨日のことです。東京に修学旅行に行き、昨日帰ってきたところなのですが、その帰りの新幹線で、大阪の中学生たちと出会いました。そこの先生たちが、私のことを中国人の教師だと分かり話しかけてくれました。その先生は、歴史をあまり詳しく分かっていないようでしたが、「故郷はどこですか」とたずねられました。「ハルピンです」と答えると、「ハルピンですか。それは、'州国のハルピンですね。」と言われました。日本人がどういう気持ちで「満州国」という言葉を使っているのか分かりませんが、「満州国」という言葉を聞くたびに、いい気持ちにはなりません。その先生は続けて「満州国」のとき、中国の東北地方に日本人が作った鉄道の話をし、「今でも満鉄と呼ぶのですか」と聞かれました。戦争が終わって何十年も経,ちましたが、こういうことを聞かれました。その人が学校の先生ということで、私は、非常に複雑な気持ちになりました。私はすぐに「『満鉄』という言葉は、戦争が終わった時点で、その言葉自体が消えました。歴史の本や資料にはのっていると思いますが、現在の中国では『満鉄』という言葉はありません」と答えました。

日本の社会科歴史の教科書を読んだことがあります。日本では「日中戦争」と記されてゴいますが、中国では8年間の悲惨な戦争を「抗日戦争」と呼んでいます。日本の教科書では、わずか23ぺ一ジしかのっていませんが、中国では、もっともっと詳しく書かれています。

盾津中学校では、中国からの子どもたちがたくさん増えてきたことをきっかけにして、昨年、人権学活の中で、「中国人生徒と手をつなぐ」をテーマにして、3時間の授業実践を行いました。そのうちの1時間は、3年生全体の子どもを前にして、私が話しました。盾津中学校に勤務して3年になるのですが、子どもたちみんなの前で話をするのは、初めてのことでした。私はとても緊張しましたが子どもたちは、意外に真剣に、静かに、私の話を聞いてくれました。子どもたちの感想文には、「今まで全然知らなかったことを、ニイナン先生から聞いて、とてもよかった。」というものがたくさんありました。盾津中学校に中国人の生徒がいるからこういう取り組みが徐々にできるのですが、全く中国人の子どもたちがいないところでは、どういう状況かわかりません。盾津中学校では、同和教育推進委員会が中心になりながら、こうした人権学活等の取り組みをしています。正しい歴史を踏まえた歴史副読本などの関係教材を作る必要があります。

 

(2)母国語にふれる場を

盾津中学校の中国からきた子どもたちは、1986年〜92年にかけて来日した子どもたちがほとんどです。来日の背景は、祖父母のどちらかが日本人というケースがほとんどで、小学校1年のときに来た子どももいれば、中学校3年で、去年来た子どももいます。

彼らにとって、一番大きな壁は言葉です。日本語がしゃべれない子どもが、現在10名います。そのうち5名は、ほとんど、日本語が分かりません。この子どもたちは、日頃、クラスで授業を受けていますが、私の仕事はこの子どもたちを抽出して、日本語教室で、毎日2時間ほど日本語の勉強をすることです。

私は今まで一所懸命、1日も早く日本語をマスターさせようという気持ちが強かったのですが、それだけでいいのかと思うようになりました。というのは、小さい頃に来日して、今、中学生になっている子どもたちが、中国語を忘れているということ、また、子どもと親とが会話できなくなって、親子のコミュニケーションができなくなったという相談をいくつも受けたからです。こうしたことから、日本語だけではいけないと強く思いました。ある程度日本語を習得したら、同時に、中国語も忘れずに、もちろん言語だけでなく、文化も含めて教えていかないといけないと思っています。

 

(3)異文化・異言語の児童・生徒を理解すること

名前のことですが、盾津中学校では、全員中国名を名のっています。これは私が勤務する前から、日本人教員たちの取り組みで、中国からきた子どもは中国名で呼ぼうと、実践されてきました。私のかかわった3年間の間に、他府県から何人か転入してきたのですが、広島とか名古屋から来た子どもたちは、日本名で来ました。転入の書類を見てびっくりした私は、親に盾津中学校の取り組みを説明しながら、「中国人として」生きてほしいことなどを話し、子どもたちとも話し合いました。そして、子どもたちも中国名を選択し、今では、全員中国名を名のっています。

私は、いつも思っているのですが、たとえ日本語を上手に話せて、日本名を名のっていても、人々の心の中にある偏見や差別意識を克服できない現実があります。在日朝鮮人の問題もそうですが、日本名を名のっていても、就職や、結婚のときに差別されることもよくありますし、日本名を名のるといった表面的なことだけで、とても、解消できないと思います。

私自身の体験ですが、45年前、アパートに住んでいました。そのときは、隣に日本人が住んでいました。ある日、ラーメンを作っていたところ、40才ぐらいのおじさんが出てきて、けんかというか、私たちのことを低く見て、「お前らは、いつも、ワシが分からん言葉をしゃべる。それが気にいらない。気分が悪い。」「それに、なぜ、食事を作るときに、旦那さんがいっしょに作るんだ。そんなもん、奥さんの仕事なのに。なぜ、いっしょにするんだ。それも気にいらん。」と言われたのです。その言葉に、私も気にいらないし、留学中で、勉強やアルバイトで必死だったので、まずは、勉強が大事と、妥協して引っ越しました。

これは、お互いを理解し合うことが、どれほど難しいかという例ですが、常に双方の努力が必要だと思います。

また、つい昨日のことですが、修学旅行の帰りのバスの中のことでした。私は、昨年の8月に来日した中国の子ども、ワン君につきそい、そのクラスといっしょに行動していました。ワン君は日本語がほとんど分かりません。が、3日間の旅行でずいぶん言葉も覚え、何より、初めての旅行で、びっくりしたこと楽しかったことが、いっぱいだったと思います。しかし、最後になって、つらいことがありました。新大阪から乗り換えたバスで、歌のカセットテープを聞くことになったのです。「誰かカセットテープをもっていませんか」の問いに、日本人の子どもたちは誰も返事をしません。言葉をずいぶん覚えたワン君が手を挙げて、「オレもっている。」と言いました。ワン君の言葉に、思わず、私と担任は拍手をしました。「それでは、ワン君のテープを聞いてみましょう。」と言ったとき、後ろの男の子何人かが、「そんなんいらん。」とそればっかり言いました。担任の先生が怒り「そんなこと言ったらダメ」というようなことで、あまり厳しくは怒りませんでしたが、とにかく、ワン君のテープを聞いてから、日本語の歌を聞こうということになりました。

私はそのとき、(ワン君が日本に来てからつらいことがいっぱいあっただろうな。周りの子どもたちの理解も、まだまだだな。)と思いました。ワン君の表情を見ると、とてもショックな顔で、たとえ言葉が分からなくても、みんなのイヤな顔を見、周りの雰囲気で分かるのでしょう。ワン君と中国語で話しました。「私たちのこと、ダメだな。」ワン君は言いました。私はどう答えていいかわからず、「とにかく、中国の歌を聞こう」と話しました。

東大阪の近くになって、中国の歌が終わりました。日本語の歌に入れ換えました。すると、「ああ、やっと日本に帰ってきた。」という生徒の声がしました。

中学校3年で、歴史や地理など、いろんな知識を身につけてきたと思うのですが、10名の中国の子どもたちがいる学校で、まさかこんなことがあろうとは思いませんでした。これから、もっともっと努力し、取り組みを進めていかなくてはいけないと強く思いました。

 

(4)学校教育だけでなく、社会教育の体制作りを

子どもたちの場合は、学校教育で「日本語教室」や中国人教員など、それなりの体制もできてきましたが、大人ももちろん、言葉の壁があります。その壁は、子どもたちより十倍、何十倍も厚くなります。大人の場合はひとつの外国語を学ぼうとしたら、時間もかかるし、覚えるのも大変だし、日本人との交流もほとんどないのです。そんな中で、一所懸命、がんばっている親たちの姿を見ると、もっともっと、学びやすい場を設けることが必要です。(住んでいる団地で、週1回でもいい…)

そして、親たちのほとんどは、子どもたちの進路や、日本社会のしくみ等がわかっていません。そんな中で、子どもたちの問題行動も見られるようになりました。

つい、最近のことですが、日本人の社会人の人と、公園でけんかになったのです。けんかの原因は、最初に日本人の方から、「お前'はアホ」とか、「ちゃんと日本語、勉強せえ」と言われたことで、中国の子が、たまたま、果物ナイフを持っていて、けがをさせてしまったのです。この事件は、まだ、完全に解決していません。

また、無免許運転でバイクに乗り、パトカーに追いかけられた事件や、変形のズボンをはいて、学校に来るというようなこともあって、そのたびに、家庭訪問をしています。親・たちが知らないために起こるできごとが多いのです。例えば、ズボンのことでは、黒いズボンなら充分と思っていて、ズボンの形までは分かっていないようで、説明すると分かってくれました。時間をかけて、いろいろやっていきたいと思います。

東大阪市内では、私と45人の先生で、3年前から、中国人家族の親と子ども向けの勉強会を、ずっとやっています。ボランティア活動です。隔週の土曜日、午後6時半からやっています。3年間ずっとやってきて、日本人の先生から、ほんとにいろんなことを教えられ、また、子どもたちからも学んだことが多かったと思います。

 

今日は時間がなくて、充分なお話ができませんでしたが、このような交流の場ができてうれしく思います。また、別の機会に、中国の朝鮮民族の人々のようす等についてもお話しできたらなあと思っています。

 

65日、考える会22周年シンポジウムでの、ニイナンさんの講演のテープおこしをしました。文中の小見出しは、編集部がつけたものです。(テープ採録・吉野直子)

『むくげ』132号1993.5.24より

   
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