日教組第44次(1995.1長崎)教研
「国際連帯の教育」分科会報告

生野・東成自主夜中」から

−教育の戦後補償と公立夜間中学校の増設に向けて−

 

T 研究の経過と概要

大阪市立タ陽丘中学校 矢野俊三

はじめに

この分科会は昨年度までは「夜間中学校教育」という名称であったが、本年度から「夜間中学校・定時制教育」と名称を改め、@「夜間中学生の要求にこたえて、義務教育の完全保障をめざす」、A「夜間中学生の実態に学び、学校教育を問い直す」、B「転換期にある定時制・通信制を問い直し、新たな学校像を創りだしていく」を研究目標とした。研究課題としては、@「夜間中学校の歴史と現状から課題を明らかにする」、A「夜間中学校の教育実践から義務教育の中身を考え直す」、B「夜間中学校と昼間の学校との交流のあり方を考える」、C「文部省の進める『生涯教育』路線を明らかにし、国際識字年を契機とした夜間中学校増設の取り組みを進める」、D「多様な人が入学でき、無理無く学べる地域総合制夜間高校をめざす取り組みを進める」の5点とした。

提出されたリポート及び報告者は次の通りである。

@統合にかかわっての夜中の教育条件の取り組みと課題(大阪市立菅南中学校夜間学級平岡昌樹)

A生野・東成自主夜間中学校の取り組みと今後の課題(生野・東成に夜間中学校をつくる会八島雅夫)

B定時制改革と夜中生の進路としての定時制(大阪府立布施工業高等学校定時制足助安章)

 

分科会での論議の内容

3本のリポートをもとに質疑を含め、意見交換を行い、論議を深めた。

 

●夜間中学校や定時制の教育条件としての施設については、ほとんどが昼夜兼用であるというところに、さまざまな問題点がある。例えば、夜間に使用する照明についても、昼間の学校の基準に合わせているといったようなことからして、行政の認識を変えていく必要性がある。また、夜間中学校の増設問題とかかわって、校舎改築時の夜間中学校の教育条件の改善の取り組みも必要である。

●夜間中学校の増設運動については、「生野東成自主夜閻中学校」の公立化のめどはついたが、早期開校へ向けての課題がある。吹田自主夜間中学校の現状については、社会教育の一環として、小学校の空き教室を借りられるようになったが、公立化に向けては、行政のガードは堅く、要望書に対する回答も未だになされていない。また、長栄夜間中学校の太平寺分教室の独立化の運動も行政のガードが堅く進んでいない。

●定時制の夜間中学校卒業生の受入れは、定時制改革のひとつとして受け止めていかねばならない。また、国際化の中で、多様化していくであろう生徒の受け皿としての定時制のあり方を考えていかねばならない。そういった意味でも多様な夜間中学生が定時制に入学したことによって定時制がよい意味で変わってきている。今後、機会あるごとに、定時制と夜間中学校との交流を深めていく必要がある。

 

といった論議がなされ、夜間中学校教育と定時制教育の接点を求める方向でのこれらの論議は、昨年度の分科会での「夜中の増設運動とかかわっての、定時制高校・単位制高校との連携をどうするか」の課題に対する今後の取り組みとして深まりあるものとなった。

日教組教研リポートとしては、全国的に夜間中学校の必要性を広めるという観点から、「生野・東成自主夜間中学校の取り組みと今後の課題」に決定した。

 

II 本 文

生野・東成に夜問中学校をつくる会 大阪市教組東部支部 八島雅夫

 

自主夜中開校まで

19696月に高野雅夫さんの尽力と教職員組合、部落解放同盟、労働組合の努力で大阪市立天王寺中学校に夜間学級が設置された。その後全国的に増設運動が展開され大阪にも府下10(大阪市内4)に設置されたが、1976年の大阪市立昭和中学校に設置されて以来増設されていない。

1975年頃からオモニの入学が急増してきたが、府教委は増設運動に歯止めをかけ、学級数の固定化と削減を提案してきた。当初1061学級が設置されていたが、現在1059学級(大阪市内27学級)になった。現在2040(94910)の生徒さんが夜間学級で学び約7割が在日韓国・朝鮮人である。東成区・生野区から大勢の生徒さんが天王寺、長栄・太平寺中学校(東大阪市)に通っている。そしてほとんどが高齢の生徒さんである。

また、日本政府は「義務教育99.9%で識字問題は存在しない」と公言し、識字問題には消極的であり、その反面義務教育未修了者は約170万人ともいわれ、東成区・生野区には約2500人存在するといわれている。

生野区内の人口は約154,000人でその25%4万人近い在日韓国・朝鮮人が在住している。また区内には43の小・中学校(小学校30校中学校13)があり、在日韓国・朝鮮人児童生徒の在籍率も高く、在日朝鮮人教育の必要性も高く、充分とは言えないが各校で取り組まれ、在日朝鮮人講師が6校に配置され、11校では民族学級(クラブ)が開設されている。

日本人児童生徒にとっても「正しい日朝の歴史」を学び、差別のない社会をつくるためにも民族教育が大きな役割を果たしている。

オモニ・ハルモニたちは、戦前・戦後の歴史の中で、差別・貧困のために充分な学校教育を受ける機会を失い、「文字」を奪われ、生活の力をつけられないままでいる。教育を受ける機会をつくり、「文字」を覚える機会をつくることで、教育面での戦後補償という一端を担う観点で、この運動を進めている。

1990年の国際識字年を契機にして、大阪教組の運動方針にも夜間学級増設が提案され、増設の機運が盛り上がり、19912月に南河内で自主夜中が開設された。

大阪市内でも義務教育未就学者の多数存在する、生野・東成のオモニ・ハルモニたちの声を背景に増設運動が展開された。

9月に「夜間中学校の歴史と現状と課題」というテーマで学習会を開催し、10月には大阪市教組を中心に、「生野・東成に夜間中学校をつくる実行委員会準備会」が発足し、区民センターなどで「夜間中学校展示会」を開催し、夜間中学校の持つ意義や必要性をアピールした。

11月に「つくる会」実行委員会を発足させ自主夜中開設までの課題を検討した。スタッフ募集と生徒募集には市内夜中分会や夜中生徒会の協力でビラ配付を行い、東部支部組合員を中心にスタッフの確保に努めた。921月に29名でスタッフ会議を開催し、その間天王寺夜中、オモニハッキョ(生野区内)などの見学・交流会をもつことも確認し、実施しました。また、平行して市教組として開校場所の確保のため市教委と折衝をもち、生野区民センターを使用することに決定した。

 

自主夜中を開校して

92313日いよいよ開校を迎えた。前日までの受付は2名しかなかった。ところが当日には、夜間中学校中退の方などや、夜中に通う方々が生野区に多いという実態から、くちこみで39名の受付ができた。

毎週金曜日、630分から8時までの授業ですが、327日に第1回目の授業を実施したところ60名になり、第2回目(43)では68名にもなり、日を追って生徒数が増え続けた。スタッフ・生徒合わせて約80名が一部屋で授業を行い、騒然としていた。5月に他の部屋が借りられて少しは解消された。

また近畿夜間中学校連絡協議会からスタッフとして輪番で来てくれた。

87日 初めての終業式。歌あり踊りありの楽しいものだった。

94日 2学期始業式。生徒さんから感想文が届くようになった。

10月  署名活動に初めて取り組んだ。夜間中学校生徒会「教育条件の充実を求める要望書」

11月1日 初めての遠足。ピース大阪と大阪城公園、天王寺夜中の生徒さんの応援もあった。

1218日 2学期終業式。来賓も出席の中で朝鮮民謡・踊りもある楽しいものだった。

27日 「近畿夜間中学校連合作品展」の見学。

3月    文集第1号発行。3263学期終業式この日で48回目になった。

以上が「生野自主夜中」の1年目の取り組みだが、毎月事務局会議を開催し、また毎週「夜中だより」を発行してきた。「夜中だより」には、その時々の話題を掲載して教材としても活用している。

2年目を迎え、生徒さんが教室の勉強だけでなく、多くの仲間との連携や、交流も図れるようにさまざまな機会に参加して学習を深めるように考えた。

5月 遠足(鶴見緑地公園)

夜中交流会(高野雅夫さん来訪)

7月 また、他から学ぶためにも生徒会の結成が必要であると働きかけ、6人のメ

ンバーで生徒会役員が結成された。

「よみかき交流会」にも生徒会を中心に参加することができ、分科会では発言もした。13日の連合生徒会の府教委交渉集会では、代表が初めて演壇から思いを述べることができた。14日には市教委との懇談会にも出席し発言した。同じ日に、退職者の方の呼びかけで「支援する会」が結成され、その席でも参加者のみなさんに挨拶をし、思いを述べ、交流を深めた。

このように、徐々に交流を深めながら社会的な広がりの輪の中に溶け込み始めた。934月より、東大阪市では「他市よりの新入学を認めない」方針を打ち出した。長栄中・太平寺分教室に入学希望の生徒さんの1人が生野自主夜中に入学するということもあり、このような状況で、

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府教委・市教委との協議等の中で、生野区の実態の認識が深まり「夜中の必要性を認める」とまで進展し、「公立化」の展望が開けてきた。同時に、「スタッフ募集ビラ」配付を最寄りの駅で2回実施した。生徒さんにしては初めての経験だった。あわせて、「公立化実現のために署名活動」を展開し始めた。市教組を中心に、大阪教組全単組にも協力を得ながら、夜中連絡協議会・生徒会や、他労組にも協力依頼をし、約57,000が集約され、2月の市教委交渉で手交した。

連合生徒会の秋の運動会にも初めて参加し自主夜中グループで競技に参加した。

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 遠足(奈良公園)。だんだんと参加者が増え、この日20名以上の参加があった。散策しながら「これが学校やなあ。これが仲間やなあ。」とつぶやいた生徒さんのことばが忘れられない。

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全同教大会にスタッフが報告した。生徒さん自身の「生い立ち」から多くのことを学び、あわせて昼の子どもの見方も変わり、スタッフとして良い体験が生かされているということであった。あわせて生徒さんの代表も参加し、2名から夜中でなぜ学ばなければならないか、そして「文字」を学んで生きる力を得た、と自らの体験を話し拍手を受けた。

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金曜日で授業と重なったが、生徒会が代表として全夜中の大会(天理市)に参加し、夜中で学ぶ多くの仲間がいて、ますます夜中の重要なことを確認して、その後の生徒自らの自覚と、他との連帯を深めることに有効的だった。

2学期の終業式。

多くの来賓や仲間が参加する中で盛大に行われたが、接待の用意等、生徒会の呼びかけで初めて生徒さんが準備に参加し、主体的に取り組めるようになった。

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「近畿夜中作品展」にささやかながら作品を展示し、作品も週一度の授業の合間をぬって作ったものであった。

夜間中学校の存在を広く示し、また開設に向けての地域理解を得るために、映画「学校」を上映する地域集会を開催し、200名をこえる人達が集まった。地域の学校からは教職員だけでなく、子どもたちの参加もあり、その中で夜中増設のアピールをした。

この間、生野区出身府会議員・市会議員を訪問し、夜間中学校の実態を知らせるとともに、生野区での必要性を説き、設置に向けての協力依頼をした。もちろん平行して、教組出身市会議員を中心に、市教組本部は議員との折衝も続けてきた。

自主夜中での取り組みとして、3学期に文集の第2集の作成をめざした。生徒さん自身の生い立ちや、夜中への思いが集約された。

 

3年目を迎えて

市教委は、生野区に夜間中学校を校名は未定だが設置することを明らかにした。校名を明示する前に、部局内部の他への調整が必要であるという理由だった。9月になって教育委員会に上程し、初めて校名が明示された。H校では4月に校舎改築の計画が明らかになり、10月から着工するということであったがその「95年度末の第2期工事に夜間学級を含む」ということであった。

市教組として、930日に「報告集会」を開催し、スタッフ・生徒さん・他の夜中の生徒さんを含め120名を越える参加者があった。H校でも早速分会会議を設定し、夜中問題についての話し合いをもった。少しの戸惑いはあったものの、夜中運動の歴史を学習し、いまある夜中の状況などに理解を示し、施設設備等条件整備や、教育内容、とりわけ昼の生徒や教職員との交流も含めての対応について今後連携をとりながら進めていくことを確認した。

スタッフも開設当初は20数名でスタートしたが、徐々に増えて登録上は約60名になったが、4月の転勤時期に減少し、新たな呼びかけでの参加者もあり、最近では民間の方、学生などの参加もあり、少しずつ輪が広がっている。

週一回の実施なので、充分にスタッフ会議をする時間がなく、自主夜中の運営面、公立夜中への経過や今後の取り組みの方向など、お互いに認識する必要がある。時には授業を早く終わり、経過の報告やその時点での取り組みなどを説明するに終わっていたが、意見の交換までは充分にできなかった。

10月になって、初めて他の日にスタッフ会議を設定し、事務局からの報告や各スタッフからの問題提起があり、授業のし方について教材についてなど話し合いがもてた。また、現在休んでいる生徒さんとの連絡を密にして出席を促すことなど、今後の運営に生かせる内容であった。

 

今後の課題

〈早期開校〉

生徒さんが高齢(最高齢者81)のため、1日でも早い開校が必要である。また、現在スタッフ1人が多くて4名、その他は12名を相手に授業をしている。お互いに信頼感が生まれ、良い面が多いのだが、公立夜中になった時の一斉授業に慣れにくい点がある。

〈施設・設備の充実〉

昼の学校の教育活動のためにも、夜中の教育活動のためにも、施設・設備の充実をめざし、市教委との協議を強める。

地域での夜中に対する誤解もあるようだ。分会を基点としながら、地域との交流を積み重ねる必要がある。

完成までに他の施設を用いての開校ができないものか。

校名が明示された段階で、社会教育の分野での対応がないものか。経済上、人的配置を含めた対応がされないものか。

〈授業の内容で〉

現在一部、算数等の取り組みが進められているが、「日本語」「算数」などで「ティームティーチング」を含めた、一斉授業などの取り組みを進める、教材等の充実を考える、授業の基本パターンを認識し合う、などがある。

 

以上が現在までの経過であり、今後の課題であるが、開校までさらに充実した自主夜中を継続し、開校を視点に入れた取り組みを強める。

大多数の生徒さんは「在日韓国・朝鮮人」だが、少数の日本人、東南アジアからの生徒さんも在籍している中で、相互の正しい歴史を学び、地域にある差別性の排除のためにも授業を通じて工夫をしたい。

 

(生野・東成自主夜間中学校 文集第2集 19945月より)

 

はやく作って公立夜間中学校

わたしたちは日本へ来て住みながら、くるしいことやかなしいこともありました。けれども、今は子どもが大きくなって社会人に出してひと安心ですが、考えてみると、自分が勉強して名前書くくらい習いたくなり、字を習わないと書くことができないし、許可出してください。許可を出して下さらんと毎日勉強しないと字がわからないし、年をとっていくし、気があせります。許可をはよう出してください。お願いします。

許可がでないとすれば、人間が出ようとするとき、それをとめるのとおなじとおもいます。

 

くやしかったこと

私は、17才のときに、済州島から御幸森へきましたらおじいさんといっしょに、3日間船に乗ってきました。

18才で結こんしました。言葉がわからなくて、苦労しました。道をたずねて反対方向を教えられたり、部屋をかしてもらえず、くやしい思いをしました。にんにくくさいとも言われ、とてもくやしかったです。

くらしの中では、びょういんに行くときが一番くやしかったです。小さいびょういんでは、次にどこへ行って何をするのかがわかりますが、大きいびょういんでは、どこへ行けばいいのか、はなれすぎてわかりません。苦労しました。

区役所も、「ようかきませんので、おねがいします。」とたのんでも、いやなかんじがして、くやしかったです。

今、毎週、少しずつ字の勉強をがんばっています。

 

私は学びたい

文字は人間にとって一番大切なものです。一つ一つ覚えていくうちに、目の前が段々明るくなりました。子どもに勉強さしてふりむいてみたら、自分は年でした。文字を一字よめたときは、宝石でも拾った気持ちでうれしいでした。昔だったら想像もできないと思います。今でも恐れながら区民センターで、先生にかこまれて字を書きます。

先生、これからもおねがいいたします。ありがとうございます。

     
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