在日朝鮮人教育

戦後50年からの出発のための記念集会

 

以下の2つの原稿は、大阪市教職員組合が主催して行った「在日朝鮮人教育・戦後50年からの出発のための記念集会」(96.3.4)における元北鶴橋小学校民族講師・現韓国民団大阪府本部副事務局長兼文教部長の金容海(キム・ヨンへ)ソンセンニムと長橋小学校民族学級講師朴正恵(バク・チョンへ)ソンセンニムの講演テープをおこしたものです。文責は全朝教大阪=太田利信にあります。

 

戦後50年 民族学級設立の歴史と闘いを通して

元北鶴橋小学校民族講師  金容海

 

〈帰国準備のかたわら、朝鮮学校の教員に〉

ご紹介がありましたように、私は1951年から87年まで、北鶴橋小学校民族学級を担当しておりました者です。

当時、大阪には在日韓国・朝鮮人がたくさんおりました。とりわけ、済州島出身者が多かったです。戦後、とにかく早く国へ帰りたいということで、次々とトラックで港へ向かい、船をチャーターして帰国を急いだわけです。私は、河内松原におりましたが、一家全員そろって帰国準備をしておりました。そこへ、同じ状況の先輩から、「鞍作の朝鮮学校の校長になった。いっしょに、鞍作朝鮮学校で民族教育をしようではないか。」ということが、そもそもの始まりでした。

帰国までの問と軽く引き受けて朝鮮学校の教員になったのが、1年経ち、2年経ち、結局、46年から48年まで、鞍作の朝鮮学校で教員をしたわけです。授業は1年から6年まで1人が2学年ずつ担任しながら、主として、国語と歴史、地理、音楽、そういうものでした。要するに、帰国準備の教育ですから、体系的に整った教育ではありませんでした。だから、国語が話せる、読み書きができる、歴史がわかるということであれば、指導者が少ないときでしたから、教員として迎えられました。

朝鮮学校は、日本政府や大阪市教委から補助をいただいて建てた学校ではありませんから、机もありませんし、椅子もありません。非常に劣悪な教育環境の中で、民族教育が始まるわけです。

 

〈朝鮮学校弾圧と民族学級の誕生〉

ところが、48年に、突然、朝鮮学校閉鎖命令が出されます。朝鮮学校弾圧が行われたのです。子どもたちが、朝、学校へ登校してみると、全部、警察のピケが張られています。そこで初めて、子どもたちは先生の説明を聞いて、学校が閉鎖されたことを知るわけです。ですから、もう、騒然たる状況になるわけです。保護者もやって来て、そこで、対策会議が開かれるわけですけれども、とりあえず、大阪府に対して抗議団を出そうということで連日、保護者も子どもたちも、民族学校全部が、府庁へ出かけて行きました。

そういう状態でした。ところが、やはり、子どもたちが、教育を受けられない状況で何日も経っていくということは、非常に困る。やはり、教育は大切だということで、結局、日本の学校へ、ぼちぼち、転学していくことになるのです。同時に、朝鮮人の民族教育対策委員会が、当時の鶴橋小学校で連日会議を開いていました。学校の先生、あるいは保護者が話し合って、府庁への抗議行動も続けていたのです。こういった日々が続いて、1か月、2か月経っていくと、子どもたちのためにもならない。対策委員会のみなさんも、これ以上長引いたのでは困るということで、当時の府知事は赤間文三だったのですが、閉鎖命令撤回の交渉を行いました。しかし、ご存知のように、その抗議集会に対して、ピストルによる発砲が行われ、金太一少年が銃殺されたのです。

わたしたちが建てた学校、わたしたちの民族教育に対して、どうして、日本政府が弾圧するのか。いろいろ、政治的背景もありました。いずれにせよ、朝鮮学校弾圧が、民族学級発足の契機になったのです。当時、朝鮮小中高校の先生が、約360数名おりました。わたしたちの要求は、360名の先生を全部採用しろということでありました。わたしたちの同胞の先生の指導のもとで民族教育を受けさせたいということであったわけですけれども結果的には、一応試験を受け、役所の目にかなった先生だけが、辞令を受けたのです。そのうち、約30数名の先生が民族講師として、それぞれの学校へ向かうのです。

 

〈北鶴橋小学校民族講師として 非協力的だった日本人教職員〉

私の場合は、51年に北鶴橋小学校に赴任しました。その前に、藤坂先生という日本人の先生がいました。藤坂先生は新聞記者の経験があるということで、朝鮮語が上手だったのですが、民族学級の子どもたちからは、「自分たちは、日本人の先生に教えてもらいたくないんだ」ということで、全然、受け入れられなかったのです。それで、わずか、2-3日出勤しただけだった。その後、51年に私が赴任しました。

そこで、民族学級の勉強が始まるのですけれども、父母の意識というものは、ものすごいものがありました。とにかく、帰国を前提としての民族教育ですから。一日も早く国へ帰りたい、植民地支配が原因で渡日してきたわけですけれども、親戚も、おじいさん、おばあさんたちが、朝鮮におるから、早く帰って一緒に暮らしたい。それがみなさんの願いだったのです。むろん・私もその一人でありました。たまたま、民族講師になったのでした。

朝鮮動乱が起きますと、いろんな意味で、帰国準備をしていた人たちが「ちょっと待て様子を見てから帰っても遅くない。」ということになります。38度線をはさんでの戦争になりましたね。北もソビエト軍もなかなか撤退しない。そんな状況で、いったんは、454647年に帰国した人たちが、カムバックして来るのです。カムバックして来たということは、やはり社会情勢の不安ですね。そういう不安定な国の状況ですから、もう一度、日本ヘカムバックして来たのです。だから、帰る用意をしていたみなさんも、もう少し様子を見ようということになった。そのうちに、結婚して子どももできる。日本での生活が長引いてくる。それまでは、家の瓦が割れていても直さない、トタンを張ってしのいでいたのだけれど、様子を見る間、日本に住まなければならないということで、家の修繕もするのです。

そんな中での北鶴橋小学校民族学級での授業でした・子どもたちは、親の言いつけをしっかり守って「ことばや文字をきちんと身につけなさい」と言われていますから、熱心に勉強していました。ところが、その当時は、教室がなかった。講堂で授業していました。420名の子どもたちがいましたが、13年の低学年め授業が終わってから、46年の高学年の授業をする。「一人で、400名の子どもたちを担当するのは、それは、とても大変な状況です。それも、子どもたちが疲れている放課後の授業です。

まわりの管理職である校長や教頭、日本人教職員が、全然協力しない。授業を見にも来ない。そういう状況ですから、民族教育の重要性は分かっていても、耐えきれない屈辱を浴びるのです。わたしたちは、もちろん、民族講師という辞令をいただいて行ったんですけれども、学校という施設の中で授業するわけですから、学校中の先生たちに、きっと、協力していただけるのだと思っていたのです。ところが、そうじやない。とにかく、ほったらかしなんです。ですから、まさに、孤軍奮闘なんです。

そういう中で12年していますと、「もうイヤだ。」ということで、小路の先生は帰国される。生野小の先生は辞められた。6時間の授業が終わってから民族学級が始まるわけですから、それまで、朝出勤してから、ずっと、職員室に座ってなくてはいけない。私の場合は、ほとんど仕事が与えられませんでしたから、何もせず、ずっと座っているのです。それはもう、牢獄の様子と一緒なんですよ。だから、私も、「もう辞める」と言ったのです。

 

〈同胞の保護者たちに励まされて〉

そのときに、民族学級保護者会がありましたが、そこへ、大勢のお父さん、お母さんが集まって、そこで、慰めや励まし、訴えもあって、とどまったのです。学校側は民族学級に、非常に冷たい視線を投げかけていましたが、観たちは願いとして「ともかく、ことばと文字と歴史を教えて欲しい。あとのことはいい。」というように励ましてくれました。学校からは、紙一枚もらえませんでしたが、保護者が、鉄筆やガリ版の原紙と一緒に紙もチョークも持ってきてくれました。

民族学級はできたのだけれど、「あとは知らん。勝手にやれ。」日本の行政当局は、そういう姿勢でした。ですけど、保護者たちは協力的であると同時に、「北鶴の420名の子どもたちをどう考えているのか。先生がおるから、やっぱり、この子どもたちが安心して勉強しているのではないか。絶対辞めないでくれ。」と言うのです。それが保護者会の総会にかけられて決議されます。「先生に給料は出せないけれど、紙や鉄筆やチョークは何とかする。」そういうことで、続けることになりました。

しかし、何といっても体制側は非協力的でした。子どもたちが、放課後の勉強ですからイヤがることもありました。日本の子どもたちが運動場で遊んでいるのを見たら、やはり子どもですからね。ボールを蹴ったり、歌を歌いながら帰っていくのが、民族学級の窓から見えるのですね。アヤオヨばっかり勉強するのは飽きてくる。それでも、日本人の先生は、子どもたちへの働きかけを何もしない。そういう困難な状況の中で、民族教育を進めるということは、それは至難の業だったのです。子どもたちが逃げ出す。それを玄関に立ってつかまえて来て、教室へもどすのです。そのようにしてやっているうちに、「ほんとうに民族学級で勉強してよかった。自分の名前が書ける。アヤオヨと読める。家へ帰ったら、お父さん、お母さんにほめられる。」みなさん、お酒を飲みながら、子どもたちのウリマルを聞いて、ほんとに喜んでいる場面を想像できるでしょう。そうすると、「よし自分もがんばろう。」という気になって、51年から55年までの間は、保護者の協力もあって、子どもたちは熱心でした。民族学級も盛り上がりました。

これが、5年経ち、10年経っていきますとやはり、ぼちぼち、日本に定住しようかというようになります。「今帰国しても、軍事政権で、社会も不安定だ。それだったら、もう少し、日本で生活して、様子見てから帰ろうか」ということです。決定的要因は、朝鮮動乱です。朝鮮動乱のために、国へ帰る機会を逃がしてしまった。親たちがそうでしたから子どもたちも、日本の学校での生活を余儀なくされ、日本人の先生は民族のことなど何も言ってくれませんから、だんだん、民族学級の勉強もイヤになってくる。日本人の友だちも知らん顔をしている。だから、学習意欲もなくなるのです。

しかし、日本人の校長先生で、しっかりした先生がいて、「日本の国に住んでいても、自分の国のことばも知らん。文字も歴史も知らんというのは、これは恥だ。もっとしっかり勉強しなさい。」そういうように励まされると、また、担任の先生の中にもそんな先生が一人でもいたときの子どもたちは、全然ちがう。励みになります。だから、本気になって勉強します。

それから、休戦協定が結ばれ、また、60年代になって、共和国への帰国運動が行われます。そのときは、保護者のみなさんは、また余計に熱心になり、ことばと文字を覚えさせてやってくれということでした。

 

〈実践と結びつく運動・組織の大切さ〉

そういう、民族学級としても、盛衰をくり返しながら、年月が経過していったわけですけれども、市外教が71年に再生されて、そこから"本名を呼び名のる"教育実践が進められるようになる。長橋小學校に民族学級ができました。これは、劇的なことでした。72年の有名な74共同声明が出されます。南北が、自主的・平和的に統一をするのだという声明です。このときは、ほんとうに統一されるのだ。在日韓国・朝鮮人に、勇気と感動と激励がもたらされたのです。統一は近い。わたしたちの帰国も近い。そういうことです。あのときほど感動したことはなかったです。金日成政権からは金英柱が、朴正煕政権からは李厚洛が、それぞれ指示を受け、会談し、声明に調印したのでした。しかし、結局は、声明を出したものの、北にしろ南にしろ、自分の政権を否定してまで歩み寄る意思はなかった。「これで、声明の内容はわかった。」ということから、わたしたちは、日本への定住ということを、真剣に考えるようになります。

私は、68年から70年までの間、3年少し足らず、民団の文教部長として、たまたま、仕事をしました。午前中は民団に行って、午後は民族学級ということで、行ったり来たりでした。そのときに感じたのは、やはり、組織の大切さですね。行政当局は、何の施策もしてこない。そこで、市外教のアドバイスもあり、岩井会長・杉谷事務局長と相談しながら何回か、府・市と交渉を持ちました。そのときに初めて、民族学級の要望書を書いて、府・市に渡して、交渉が始まったのです。

そのころ、大阪府下には、民族講師が11校に12名いました。その中でも実際に授業をしていたのは、生野区の北鶴橋・中川・小路、東成区の北中道だけです。堺や平野区の学校では授業をしていない。泉大津ではローマ字などを、日本人の子どもと一緒にやっている。守口では書道をしている。そんな状態でした。校長は冷淡。教職員集団もそっぽを向いている。そんな環境の中で、民族教育は至難のことだったのです。かろうじて、生野・東成の4校は民族学級の灯をともし続けていた。互いに、ソフトボールの交流試合をしたり、教材の交流をしながら続けてきました。

 

〈『本名は民族の誇り』を通して 日本人の先生に訴えたいこと〉

そのころ、私は、「本名は民族の誇り」という本を出版しました。この本は74年に出ました。今は、本屋の店頭に韓国関係の本がたくさん並んでいます。あの当時は、なかなかそういう本はなかったです。だから、10カ月ほどで売り切れてしまいました。今回また、復刻版を出しました。あれから、20年が経ちますが、民族教育の基本的理念は、そんなに変わっていないと思います。この間、民族学級・クラブが増えて、少しは状況が変わりました。しかし、わたしたち韓国・.朝鮮人は、自分のほんとうの名前を名のれないような状況が今でもある。この原因は何か。日本の植民地政策、日本政府の責任です。本名を何故名のれないのか。ほんとうは名のりたい。しかし、名のれば、まず差別される。名のれないのです。名のれない環境・条件があるのです。だから、「本名を名のれ」と言う前に、本名を名のれるような環境・条件を作ってほしい。これは、無論、教育委員会を始め、行政・現場の問題です。いくら韓国・朝鮮人が本名を名のってみても、周りの日本人の理解が無いのです。

それと、先生方が、あまりにも韓国人の様子を知らなすぎるのです。分からないから教えられない。韓国人が、どういう理由で日本にこうして住んでいるのか。今の生活状態はどうなのか。何故、本名を名のれないのか。こういうことを改めて考えれば、まず、教職員自身が意識を変えなくてはならない。日本人が変わらないで、韓国人に「変われ、変われ」と言っても、これは無理なのです。だから、本名を名のれるような最低の条件を作っていくことが、教職員の使命であり、日本人のみなさんの使命だと思います。このことは今日の話で、声を大にして強調したいことです。

時間が無くなってきましたので、資料にあります「日本の学校に在籍する韓国・朝鮮人の子どもの教育課題」を、あとで読んでください。日本の学校での民族学級の50年の意義が分かると思います。

現在、大阪府下には、民族学級が11校あります。市内7、府下4校です。その他にも、民族学級・クラブが、市内60校、府下も合わせれば100校ほどになるわけですけれども、これらも、91年の韓日覚書に基づいて、どんどん増えてきたのです。

先生方はこうしたことを踏まえて、韓国・朝鮮人の子どもたちが、自分から進んで本名を名のれるように指導してほしい。先生方が座っていて、「キミ、山に登れ」そう言っても、子どもたちは山に登りません。一緒に手を引いて登らなければならないのです。先生自身が模範を示してほしい。

私は、韓国民団大阪府本部の事務局副部長兼文教部長をしておりますが、毎年、民団なりに、府市との行政交渉を進めています。府の民族講師の全員常勤化、すでに、3名が常勤化しておりますが、今年は3名、ここ23年の間に、全員ということになります。また、教育課程内での民族学級も要求しています。

このようにして、運動を進め、現場と共に歩もうとしています。運動は実践と一体となっていかねばならないと確信しています。先生方も大変でしょうが、ほんどに韓国・朝鮮人の子どもたちの将来を考え、情熱を傾けていただきたい。

 それをお願いしながら、50年間の歴史を、端折って、端折って、話しましたが、時間が来ましたので、話を終わりたいと思います。

『むくげ』145号1996.5.23より

      
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