日本の学校に在籍する
韓国・朝鮮人児童のための教育課題

19751030日 北鶴橋小学校 金容海(キム・ヨンヘ)

 

こんにち、日本の学校に在籍する在日朝鮮人児童の教育を考える上で、最も切実な課題は、形式論理を排することであり、ことばを〈ことば〉としておしとどめるのではなく、その内実を問い正していくということである。

 

1.形式論理を排す。

@在日朝鮮人を外国人ということ。

確かに在日朝鮮人は外国人であるには違いないが、一般的な意味での外国人とは厳密に区別して考えられなくてはならない。一般外国人というのは、国と国との関係が正常かつ対等という前提のもとで、自主的な判断によって相手方の国に来ている者である。在日朝鮮人は日本と朝鮮との関係が正常でも対等でもなく、しかも自主的な判断というよりは多分に強制的な力によって生まれたものである。すなわち日本の朝鮮に対する植民地支配こそが在日朝鮮人を生み出した原因なのである。何故朝鮮人がこのように多数、在日しているのかという歴史的な経緯を見落としてはならない。

一般に外国人といえば欧米人すなわち白人としてイメージを持っているが、それはいわば自分の生活とは切り離された抽象的なイメージである。ところが在日朝鮮人は日常生活において日々接しているのであり、具体的な生身の人間として存在している。学校という場で考えるならば、現実に在籍している一人ひとりの児童なのである。この児童たちの教育は、抽象的な意味での外国人とはどういうものであるかを知ることではなく、自分自身の父母や祖父母を通じての在日朝鮮人の歴史を知ることでなくてはならない。

 

A「同等に扱っているから差別ではない」ということ

この問題はかなり、いいつくされたような感がなきにしもあらずであるが、日本人と朝鮮人とは別個の歴史の中で各々の文化を継承発展させてきたのであって、各々が独自性を持っているのであるから、それを同等に扱うということは、一方の独自性を無視するということに他ならない。この場合、日本人として同等に扱っているわけであるから、朝鮮人としての立場を無視しているわけである。この考え方を敷衍すれば、朝鮮という国を日本と同等に扱うことによって植民地化するということになる。本来の中身が同じであるのかどうかも確かめもせず、あるいは違うということがわかっているのに、同等に扱うのは自分の傘の下に入ることを強要するものに他ならない。同等ということばにまどわされてはならない。〈同等に扱う〉とはく同化する〉ということであり、まぎれもない差別なのである。

 

B「朝鮮人児童あるいは父母が民族教育を拒んでいる」ということ

日本社会における朝鮮への差別観はいわば100年の歴史の中で植えつけられてきたものであり、日本人がこれを払拭するためにはよほどの覚悟をもってしなくてはならない。一方、朝鮮人においても被差別観は容易にぬぐい去ることのできないものであろう。そういうとき、現象面としての拒否を額面どおり、素直にうけて終わりとすることはできない。問題はなぜ父母たちが民族教育を拒むのか、児童が朝鮮人であることを名のろうとしないのかということであって、この点が解明されない限り、前進をみることはできない。大きくいえば学校だけで〈差別をしない、させない〉などといっても、社会的な広がりをもたなければ実質的な意義をもたない。学校教育の場で差別をなくすということは、当然社会的な差別をなくす努力をするということでなくてはならない。

 

C朴鍾碩君はウソつきか。

昨年、日立への就職差別で大きな関心をよんだ朴鍾碩君の場合、願書に日本名を書いたことが大きな問題になって、こういうウソをつく入間は信用できないから採用できないのだということがいわれたわけであるが、事実はそうではなく、悲しいかな彼が、本名ではなく日本名を書く他ないと判断せしめた原因が他にあったのである。それがつまり民族差別なのであって、日立にとっては本名か日本名かではなく、日本人か朝鮮人かということが価値基準だったのである。そしてこの裁判において最も関心事とすべきは、彼が日立に就職したということよりも、この裁判闘争を通じて、朝鮮人として生きていくごとを決意し、多くの仲間をもち、また多くの在日朝鮮人青年が啓発されたということなのである。 表面に表れたことだけを第三者的にみていては本質は図りがたいということである。

 

D「本名を名のれ」ということ。

日本の学校に在籍している児童に対して、「本名を名のれ」と教えることは正しいこととして理解されている。けれどもただたんに「正しいことだから、しなさい」というだけの論法ではほとんど反発を買うばかりであろう。本名を名のらないのは、なにも、「正しくないことをしよう」としてそうなっているのではないのだ。なぜ名のらないのか、名のれないのかということを考え、そのわだかまりを除去しなくてはならない。そして、本名を名のったのちに、その考え方をさらに発展させていくことができるよう支えていかなくてはならない。つまり本名を名のりさえずればよいというふうに切り離して考えることはできないということであって、民族的主体性を確立するための教育をしなくてはならないのである。

 

E朝鮮人児童だけが対象なのではないということ。

朝鮮人児童としての民族的自覚とか、本名を名のるという問題は朝鮮人児童がどうするかというところに帰結するわけであるが、実際には日本社会において、日本人との関係において問題が発生しているのであるから、日本人の朝鮮観ということが大きな要因になる。朝鮮人児童自身が厳しく自らを見つめると同時に、日本人児童もまた正しい朝鮮人観をもたなくてはならない。そのためには朝鮮征伐で代表されるような歴史教育は決して許されるべきではない。

 

F「民族性」ということば。

在日朝鮮人が民族的主体性を確立するという表現を用いるのは、在日朝鮮人が人間らしく生きようとするとき、必ず民族性というスタイルを通さないかぎり達成できないからである。なぜなら、在日朝鮮人はその民族性によって、人間らしさをそこなわれているのであって、つねに民族性をおさえつけられているからである。おさえつけられたものをはねかえし、なくしたものをとり戻すことこそ人間性を回復する道である。その意味で、日本人が朝鮮人と相対して、自らの民族性を掲げることはさほど重要な意味をもたないと思われる。なぜなら、日本人にはおさえつけられた、なくした民族性というものはなく、他民族をおさえつけるための"民族性"はあったのである。

同じことばでもその立場によって内容が変わるのである。

 

2.ことばの内実を問い正す。

 

@スローガンだけなら誰でもいえる。

 

「差別をしない、させないための人間教育」とか、「民族的自覚を高める」とか、「民族的主体性の確立」とか、いくらでも華々しい論議はこれまでにもされてきた。しかしこれらのことばを用いて文章を書いたり、話をしても実際に児童に接しないならば意味がない。いかに正しいスローガンであっても、それを掲げるばかりでは絵にかいた餅である。問題は、それでは具体的に、どうすることが「民族的自覚を高める」ことになるのかということである。

たんなるスローガンに終わらないためには何よりもまず自分自身の問題として考える姿勢がなくてはならない。子どもたちをどうす.るのかを問うためには自分自身がどうなのかということが問われなければならない。自分は朝鮮に対してどれほどの認識をもっているのか、もとうとしているのかを内省することなく、かけごえばかりでは実りはない。観念上の思い込みではなく実地にあたることを通して自分の朝鮮観を再点検してみる必要がある。

 

A朝鮮を知らねばならない。

朝鮮の歴史・風土・人間を知らずしては何の議論も成立しない。児童に対して朝鮮を教えるためには、教える側が朝鮮を十分に知らねばならない。その気になれば方法はいくらでもあるはずである。いま緊要なことは児童に教える前の段階、つまり、教師が学ぶことである。もちろんこれらは互いに切り離しては考えられない。朝鮮に対する認識は戦前戦後を通じて大きな変化をとげたとはいえないのが実情である。意識するとしないとにかかわらず多くの朝鮮観は古い朝鮮観であるといわねばならない。

教科書裁判で有名な家永三郎教授の日本史の教科書でさえも朝鮮に関する記述が旧態依然だという指摘を他山の石にしなくてはならない。わかっているつもりでもえてしてわかっていないものである。最近の研究、とくに朝鮮人の研究に謙虚に耳を傾ける必要がある。

 

B朝鮮について、何を学び、何を教えるか

まずなによりも歴史を知らなくてはならない。朝鮮がどのような歩みをしてきたのか。その中でどのような文化を育んできたのかを知らなくてはならない。各々の時代に日本との関係はどうだったのかを、もう一度見返す必要がある。神功皇后の"三韓征伐"は本当にあったのか。豊臣秀吉の"朝鮮征伐"とは何だったのか。それを"征伐"と呼ぶのは果たして正しいのか。教科書に書かれていることをうのみにするのではなく、批判的に見る眼が要求される。

特に「日韓併合」以降の歴史をよく知らねばならない。近代100年の歴史こそ日本と朝鮮の今日の関係を基礎づけたものだからである。これを知ることによって、民族差別観がどのように形成されていったかを知ることができ、在日朝鮮人がどのように生まれたかを知ることができる。

また朝鮮に対して深く知ることによって親しみを、もつようにすべきである。知ることなくして愛着をもつことはできない。理解が深まれば深まるほど大切にしょうとする気持ちも深くなるものである。この意味から地理を通じて気候・風土・産業・産物など日本との比較をすることもできるし、自分の故郷に思いをはせることもできる。また民話・昔話童話などによって興味をひきたたせることも可能なはずである。

 

*歴史については、三省堂「朝鮮の歴史」が適当。その巻末に朝鮮関係の文献が詳しい。

ただし日本史を教えるときに、「朝鮮征伐」とやったのではダメ。

 

C親との対話。

朝鮮のことを知るためのすぐれた教師は、朝鮮人父母である。その生の体験をできるだけ先入観をいれず素直に聞き取ってほしい。自分の国を愛し尊敬するということがなくてはならない。子供がまず父母を愛し、尊敬するということがなくてはならない。父母が歩んできた道を知らなくてはならない。父母が朝鮮人としてどのように生きてきたのかを知ることによって、子供もまた自分の生き方を考え鏡とすることができる。

このことを実現するためには教師自らが父母の朝鮮人としての歩みをより深く知る必要がある。家庭訪問等を通じて率直な人間的ふれあいと信頼関係をつくり出していかねばならない。

 

D朝鮮人児童だけの集まり。

正規課目として民族学級をつくるのが最も望ましいが、サークルあるいは子供会形式ででも、朝鮮人児童だけが集まる場、自由に意見をかわせる場が必要である。

朝鮮人児童のほとんどは口にするしないをさておいて朝鮮人であるが故に多くの悩みをかかえており、孤立感を味わっているのである。これらの子供たちの閉ざされた心をときほぐすには朝鮮人どうし、心おきなく話し合える場を設定することが何よりも肝要である。共通の関心事や悩みを自由に話すことのできる場をもつことはこれらの児童の最大の欲求だといってよい。

 

E教師自身が変わらねばならない。

児童が変わるためには教師が変わらねばならない。一番苦しい思いをしているのは児童である。教師が苦しさを味わうことなしに、児童が目を見開かれることはない。問題を教養的に考えてはならない。ことは生身の人間にかかわっている。自の前の児童を観念的にとらえてはならない。生身の肉体と精神をもった存在なのであり、そのゆえに、思いがけない一言がショックを与えたり、卑屈感や劣等感になったりするのだ。その結果をみて、不用意だったと反省してみでもすでに手遅れである。教師自身が正しい視点をもたない限りいかに立派なことばをならべてもスローガンに終わってしまうのである。

 

F日本人児童の朝鮮観を正さねばならない。

朝鮮人児童は日本人児童と具体的人間関係をもつ。このとき日本人児童が朝鮮人児童の民族的立場や位置を考えることなく接するならば朝鮮人児童が正しく生きていこうとする意欲をくじくものであり、日本人児童自身にとっても、誤った人間観をもつことになる。

朝鮮人児童が本名を名のろうとするとき、これをからかいの材料にすることによって、相手がいかに傷つくかを考えないような思いやりのない人間であってはならない。それゆえ、朝鮮人にとって本名が何故大切なものなのかということを、朝鮮人児童が知ると同じ位に知らせることによって、むしろ朝鮮人児童が積極的に本名を名のるようになることが望ましい。

そのためには、朝鮮に対してよく知らねばならない。すべては日本社会でおこっている出来事であり、日本人がそれに無関心でいることは許されない。

 

G自覚をもてば、本名を名のる。

本名を名のるということに限定していえば本名を名のることによって民族的自覚をもつための出発点にもなるが、逆に民族的自覚をもつことの結論として本名を名のらなければならないということがでてくる。

つまり〈本名を名のる〉ということばの内実は〈民族的自覚をもつ〉ということでありそれはつまり、自分の歴史や、現在の位置をしっかり見つめるということなのである。そのために具体的な作業を保障してやらなくてはならない。現象面的にあらわれることが無意味なのではないが、全体的な人格として、問題をとらえねばならない。何度も言うが本名を名のりさえずればそれで事足れりというわけにはいかないのである。いわば西洋医学的発想、つまり対症療法ではなく、東洋医学的発想、つまり全身療法でなくてはならない。

子供たちに問われているのはつまるところ人間としてどのように生きていくのかということであり、その過程で民族的な問題を避けて通ることができるのかということである。

民族的に生きることこそ、自己を偽らない人間であり、そうしてこそ発言や行動にも責任をもつことができる。それが人間としての尊敬される道であるのだということを教えなくてはならない。

『むくげ』145号1996.5.23より

      
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