戦後50年、今、民族学級講師として

長橋小学校民族学級講師 朴正恵

〈はじめに〉

アンニョンハシムニカ。金容海ソンセンニムのお話のあとで話しますのは、とても大変なことだなと思いながら聞いておりました。金容海ソンセンニムが、1948年に開設された民族学級の中で、どんなことを思いながら勤めてこられたのかということを、現在の自分の立場と気持ちを重ね合わせながら、考えておりました。厳しい状況下で実践を積み上げてこられたご苦労を、しみじみと感じております。

私自身も民族学級にかかわる中で、先ほど紹介がありました「本名は民族の誇り」という本を、何気なく本屋さんで見つけました。そのときに、北鶴橋小学校で民族学級が行われているのを知りました。ただ、そのときにはまだ自分の中に、民族学級がどのような経緯でつくられてきたかということに、はっきりとした認識はなかったのですが、その後とりくみを進めていく中で、阪神教育闘争があり、その闘いによってできた民族学級があって、今日のわたしたちが引き続き進めている民族学級があるのだということを感じています。

長橋小学校民族学級講師として、20年経ったという、自分自身の実感はあまりないのです。子どもたちと「いっしょに遊ぼう」「いっしょに考えよう」「いっしょにがんばろう」と言っている間に、20年経ったのかなという感じです。長橋小学校における歴史というのは、今日の参加者のみなさんは、ほとんど知っておられる先生方ばかりなので、長橋小学校民族学級がどのようにして起こったのかという話は、いらないのではないかと思いますし、時間も限られていることですので、長橋小学校で取り組む中で、何を大切にしてきたのか、またどんな思いであったのかということを、いくつかしぼって話したいと思います。

 

〈民族を取りもどす場としての民族学級〉

1つは、民族学級の原点についてですが、わたしたち朝鮮人側から見た場合に、民族学級が、すなわち"民族を取りもどす場"というふうに考えています。民族のことを、たとえばウリマルを習ったり、チャンゴをたたいたり、それらによる出発から、子どもたちといっしょに民族を取りもどすのだ。そのことが、今日のパンフレットの中にある「ウリマルを返せ」ということ、「ウリマルを学ぼう」ではなくて、「ウリマルを取りもどしていくんだ」という、そういう気持ちから、子どもたちがウリマルを、また、わたしたちの国のことを勉強し、そして自分の民族の心を取りもどしていく場だという見方ができると思います。

 

〈統一を基調とした民族学級〉

2つは、長橋小学校民族学級創設の要因の一つとして、大きな要因として、「74共同声明」があります。わたしたちは長橋小の先生方と、統一を展望し、統一した朝鮮を見ながら、民族学級を進めてきました。南北分断の厳しさの中で、わたしたちが考えてきたことは、"ウリナラ=わたしたちの国""ウリマル=わたしたちのことば"というようにできるだけ、"朝鮮""韓国"ということばを避けながら、統一の姿勢というものを大事にしながら進めてきました。

長橋小のアボヂ・オモニたちは、ほんとうに「74共同声明」によって、明日にでも統一できるような、そんな気持ちで受けとめていました。「国に帰ったら子どもたちが、あいさつぐらいはウリマルでできるように」というような願いがありました。地域の中では、青年層は青年層で、ハングル講座を開き「韓国語を学ぼう」「朝鮮語を学ぼう」ということで、若い人は若い人で集まり、オモニたちは子どもをひざに座らせながら韓国語を勉強し、アボヂたちは仕事が終わってから集まって勉強したり、まさに、西成の地域の中では、ウリマルの勉強・ウリナラの歴史の勉強を、さかんにやっていました。そんな中で、長橋小学校民族学級が始まったということです。だから、統一の願いというのは、民族学級の基本にあるテーマだなと思っています。

 

"本名を呼び名のる"実践と民族学級〉

3つめは、先ほど本名の話があったのですけれども、わたしたちが民族学級を始めたときの運動の基本というのですか、"本名を呼び名のる"実践、わたしたちの民族の側から言えば、"本名を名のる"実践というふうに考えていますが、本名を名のり、呼ぶ、そのような取り組みが民族学級が行われる中でとても大事にされてきたと思います。

本名を名のることによって、自己の存在を明らかにし、朝鮮人の子どもたちが立ち上がって、また、壁にぶつかって悩んで、また立ち上がっていく、その過程の中で、本名が大切なのだということに確信を持つようになると思っています。

本名実践の中で、とてもしんどいなと思ったことは、小学校だけの民族学級、中学校だけの朝文研活動、高校だけの活動というふうに、限られた期間だけで実践が行われることにより、いろんな人から、「小学校だけ本名を名のってどうする?」「中学校だけ名のってどうする?」と問い返されながら、それでも、「本名を名のっていくねん」、たとえ、「12か月でも、1日でも、本名を名のることが、子どもたちにとって、次のステップになるのだ」と言いながら、本名実践を進めてきたのだと思います。

 

〈学校・家庭・地域を変えた民族学級〉

4つめは、民族学級ができたことによって多くのことが変わってきました。私は長橋小から、ほんの5分ぐらいの所に住んでいますが、長橋小学校民族学級の歴史が、西成地域の家庭を変え、地域を変え、まさに長橋小学校自体を変えていったということを、目の当たりに見てきました。

出発点は、解放教育に取り組まれた先生方が部落差別だけではなく、すべての差別に対して、目の前の子どもたち一人ひとりを見つめながら、かかわりを始めたことにありました。目の前の朝鮮人の子どもの民族差別のことを視点におきながら実践され、子どもたちは「民族差別を許さないそ」「ぼくは本名でいくのだ」と自覚していった。そのような実践が積み重ねられてきましたが、わたしたち朝鮮人の側から見れば民族学級があることによって、「子どもたちが家庭に帰って、オモニやアボヂたちと"民族"の話ができるようになった。」親の会で、よくこんな話をするのですけれども、オモニが結婚のときとか何かの記念に作って、ずっとしまいこんでいたチョゴリを出してきて、子どもに見せ「これはオモニが結婚式のときに着たチョゴリだよ」とか、ハルモニが古いチョゴリを見せながら孫に自分の生い立ちを語ったりとか、そんなふうに、家庭の中で"民族"の話ができるようになり、今日では、親子2代にわたって長橋小学校民族学級を卒業したということで、家の中で民族学級ごっこをしているというように、家庭が変わってきていると思います。

地域の中で言えば、学校で本名を呼んでいますので、スーパーマーケットや公園とか、お風呂屋さんで、そんな所で子どもたちが本名を呼び合っている声が聞こえるのです。長橋の子どもたちが地域の中でも、本名を名のる生活をしている。そのような生活が見えたり、お母さんが人前で照れているのに、大声で「オモニー!」と呼んでいるとか。

そんなふうに、地域の中にも民族学級のことが広がり、学校の中はもちろん、教室や運動場でソンセンニムに習ったウリナラのノレを歌いながら、なわ跳びやゴム跳びをしたりしていた。そんな光景を見ることができました。(今は、全校的な、あるいは、学級実践として、ペンイを回したり、ノレを歌ったりの取り組みがありますが……)

そういうことについて、ハルモニ・オモニたちは、たとえば、学校に通っているときにチョゴリ姿で通えたか、一番好きだったハルモニを授業参観に招べただろうかと、振り返って考えるときに、わたしたちのオモニ・アボヂ、一世の人たちのとても辛い、厳しい中で、自分の民族をつき出して生きにくい状況があったことを考えてみるときに、民族学級の取り組みは、学校の中で完結するものではなくて、地域・家庭で朝鮮人としての民族のことを中心にしながら語り合える、そういう家庭に育ってきたのではないかと思っています。

 

〈日本人教職員と共に創る民族学級〉

5つめは、学校の体制の厳しさについての話がありましたが、長橋の民族学級が始まったときには、わたしたち自身も何が何だかよく分からなくて、ただウリマルができるということだけで、民族講師を引き受けたということがありました。ただ、民族学級を進めていく中で、家庭訪問も日本人の先生方と共に回り、いっしょに親から学び、また、民族学級の行事についての計画も日本人の先生方といっしょに話し合い、そういう意味では"民族学級を共に創る喜び"を味わってきたのではないかと思っています。

70年代以降の民族学級が、同和教育推進校から始まり、長橋小から鶴見橋・梅南中へ、そして東南の矢田や、東淀川へと広まり、そのうちに一般校と言われる学校へ広がる中で、学校体制の問題など、いろいろ厳しい問題が起こっているのが現実でありますし、民族学級は民族講師ひとりでできるものではありませんし、先生方と手をつなぎながら進めていく実践であるのではないかと思っています。そういう意味で、日本人の先生方の位置というのは、子どもたちにとって、とても大きな位置におりますし、わたしたちが1日に4050分、1週間に1回という形での子どもたちとの出会いしかないわけですから、日本人の先生方の出会いというのは、子どもたちにとって、とても大事だと思うのです。

最近、わたしは強く思うことがあります。それは、いろんな先生方が、20数年携わってきた方も、今日始めた先生方も、全ての日本人の先生方が、自分のクラス・自分の学校にいる子どもたちを、"朝鮮人の子どもたち"として向き合ってもらっているのかなということです。

民族講師の間で話し合っていることは、わたしたちは「民族講師である前に、ひとりの朝鮮人だ」「朝鮮人としての思いを語っていこう」ということを、みんなで確認し合っています。そういう意味で、日本人の先生方が朝鮮人の子どもたちに向き合うときに、「この子は朝鮮人の子どもである」ということをきちっと見据えた上でつき合ってほしいなと特に最近、わたしは思っています。

民族学級が広がる中で、講師は一つの学校だけでなく、1週間のうちでも、次から次へと学校を渡っていかなければならない状況があり、とてもしんどい状況になっていることも事実としてあります。特に、今年度振り返ってみますと、学校現場には、大変ご迷惑をかけたのではないかと反省しています。その現実が、実は、民族講師のなり手が少ない状況で、ひどりのソンセンニムが4校も5校もかけ持っていかねばならない現状となっており、その原因は、民族講師の身分保障がされていないことであり、そういう意味では、民族講師の制度保障というのは急務ではないかと思っています。

 

〈日本籍朝鮮人の増加と民族学級〉

6つ目、最後になりますが、今日は戦後51年を迎えてということになっておりますが、ふと在日朝鮮人の現状を見ますと、昔20年前は、「朝鮮人集まれ」「韓国人集まれ」と言えば、子どもたちのほとんどは、両親が朝鮮人、韓国人でありました。しかし、今学校現場を見ますと、ダブルと言われる子どもたち、帰化した子どもたちなど、日本籍の子どもたちが、現実に多くなってきている中で、民族学級は、さらに大きな役割を果たしていくのではないかと思っています。そういう子どもたちも含めて民族教育を進めていかなくてはならないからです。

民族学級を巣立った子どもたちががんばっているようすを見ながら、民族講師も彼らに励まされ、また、今後の民族学級の取り組みを進めていきたいと思います。

以上で、わたしの問題提起を終わります。

『むくげ』145号1996.5.23より

           
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