全朝教大阪1996年度第2回シンポジウム −在日朝鮮人教育を国際的視点から位置づける− この原稿は6月26日に行われたシンポジウムにおける岩崎裕保さん、榎井縁さんの講演テープをおこしたもので、文章責任は太田利信にあります。また、シンポは2時間30分にわたって行われ、岩崎さん、榎井さんの熱のこもった講演から多くの示唆を得ることができました。お二人にあらためて感謝を軋上げるとともに、この『むくげ』誌上に、講演記録を2回に分けて掲載します。 講演記録 その1 岩崎裕保さん 岩崎裕保さん(京都芸術短期大学教員・
ここにレジメがありますので、これに従って話をさせて頂こうと思っておりますが、板書して頂きましたように、僕は京都芸術短大というところで外国語(英語)を教えたり、地球市民教育とか平和研究とかいう科目を教えております。一方では、開発教育資料センター、京都の修学院にあります関西セミナーハウスというところで、小さな図書館みたいなものをやっております。そこの運営委員長ということです。 ![]() 僕自身は、このタイトルの下の方の開発教育というところから、今日はお話をさせて頂くことになります。開発教育の推進セミナーというのを、もうかれこれ8年ぐらいやっています。教員が中心になりまして、年に6回集まって、いろんな実践報告とか、教材を出し合ったりして、新しい開発教育のやり方というのを模索している。その結果できた本がありまして、古今書院から『新しい開発教育の進め方』というのを、昨年の1月に出すことができました。幸いこれは現在2刷に入って、2刷も売り切れるのではないか、5000部ぐらいは売れたという話で、とてもうれしく思っております。 1つそういう成果をあげることができました。その中で、今年の開発教育のセミナーはもう入門セミナーはやめよう、セカンドステップ、セカンドステイジというふうに位置づけをして、もう少し現場の先生方と教材をどういうふうに料理していくかというようなことを考えようと始めたのですが、やはり初めての方というのは、必ずおられます。そこで今回ショックを受けたことがあります。 現場の先生からこういうことを言われたのです。「国際理解教育とか開発教育とか多文化教育とか名前はいろいろありますけど、全部いっしょですよね」と。僕は、一瞬返事ができなかったのです。なるほど現場ではそういうふうに捉えられているんだろうか、と思いました。確かにある意味ではそうかもしれません。それぞれオーバーラップしている部分も多い。けれども、「いっしょですよね」と言われると、困っちゃうなあ。そこで、どういうふうにお話したらいいだろうかと思って、思いついたのがこういうことでした。 「出発点が違うんですよ」と申し上げたのです。国際理解教育というのが表に出てきたのは、第2次世界大戦が終わって、ユネスコという組織ができて、語られるようになったのです。その時代のことですから、国際理解教育の第1歩は、国連理解と東西理解だったのです。もちろんそこでは、人権の問題ですとか、平和の問題が語られたわけですけれども、出発点の視点はそこにあったと思います。 僕が今、自分で一番おもしろいと思っている開発教育というのは、国際理解教育に遅れること10〜15年になります。1959年にオリバー・フランクスというイギリスのロイド銀行の会長が、「東西問題というのがあるけれどももう一つ大きな問題があるんだ。それは南北問題だ。」ということを言います。これはまさしく南北の格差のことを言ったのです。そこで、それを受けた当時のアメリカの大統領ケネディが、これを国連総会に持ち出しまして、「南北問題の解決をするために援助をしよう」と言い出します。これが、60年代の国連開発の第1次、その後、70年代を2次、80年代を3次、90年代を4次というように、ずっと10年単位で、国連開発の10年と言っているのです。ですから、開発教育の始まりはやはり南北問題なのです。低開発の問題、貧困の問題から出発しているのです。 それと、この頃よく語られる多文化教育、これはいろんな国で起こってきたと思われますが、やはり大きな影響力を与えたと思われるのは、アメリカ合衆国における多文化教育だと思います。アメリカ合衆国はご存知のとおり、いろんな民族、文化を持った人たちが暮らしておりますので、この問題を何とか乗り越えなければならないということで、国内でこの問題を一所懸命に取り上げてきた。それが始まりだっただろうと、僕は認識しています。 あとまあ、ここにグローバル教育とか、ワールドスタディズとかと書きましたが、グローバル教育というのは狭い意味で言いますとアメリカの多文化教育と対になったもう一方の側なのです。民族の問題・文化の問題を、グローバルな視点で考えていこう。もう少し言えば、アメリカが経済的に落ち目にあるので、活力をつけるためには、もっとグローバルな国家にならなければいけない、という視点を持ちながら始まったのが、アメリカのグローバル教育です。しかし、今日では、アメリカのためのグローバル教育ということではなく、名前が非常によろしいので多くの人たちがこの名前を使うようになりました。黒板にもグローバル教育と書いて頂いているのは、広い意味で本来的な意味で、地球規模の問題=グローバルイシュウを、子どもたちにいかに教えるかを考える教育ということができます。 アメリカのグローバル教育の刺激を受けてイギリスで行われるようになったのが、ワールドスタディズというものです。ただ、このワールドスタディズは、遡りますと、非常に古い1900年頃まで遡るらしいのです。最近の報告では、アメリカの進歩的な教育を提唱したデューイのあたりまで遡って、それがイギリスで展開されたのがワールドスタディズだというふうに言われています。あまり、名前にこだわりたくはないんですが、「すべていっしょですよね」と言われるのは困ったなあと思って、あえて申し上げました。 〈開発教育の始まりと展開〉 開発教育というのは、今言いましたように南北格差があるという認識をしたところから始まったわけです。ただ開発という言葉がどういう雰囲気を持っているかと言いますと、外から力を与えて、まさしく、土地開発とかいうような印象がありますので、ちょっと言葉としてうまくないかなあとも思うのですけれども、とにかく、第1次の国連開発の10年計画が1960年代に行われて、これは先進国が途上国に経済援助を行おう、お金を送ろうということです。その事によって、途上国を少しでもカサ上げしようという目論見だったわけです。ところが、10年経ってみまして、どういうことになったかと言いますと、目標は先進国のGNPの1%を送ろうということだったわけですが、これはすごい額ですよね。今でも、そんなことを実行している所はないんですけれども……。10年経って振り返ってみますと、北の国々の経済成長と南の国々のそれを較べてみますと、実は、北の方が高かったのです。援助を受けたのだけれども、南の成長率は北の国ほど上がらなかった。そういうことで、これは「失敗の10年」と言われています。だからお金をばらまくだけでは、貧しさの問題、開発の問題は解決できないんだという認識を国連レベルで持つわけです。 それで第2次の開発の10年というところに入るようになるわけです。ここで、「世論の動員」ということが言われ始めます。これはどういうことかと言いますと、お金だけではダメだ、人々がどういうふうに考えているか、どういうふうにしたいと思っているか、どういう意見を持っているか、それをきちんとお互いに話し合いをし、まとめていくということがないと、やはりこういう問題は解決しないだろうということなんです。それで開発教育というものが、国連の方で熱心に始められるようになるのです。特にユニセフですとかFAO、ILOですとか、そういう所で取り組まれるようになってくるのです。今日でもユニセフはとても熱心に取り組んでいます。 一方その頃、国際理解教育を唱えていたユネスコは、これまでの国際理解教育では不十分だということで、74年に「教育勧告」を出します。これは、環境の問題、開発の問題などをぜひとも取り上げなくてはいけないという教育勧告なのです。ですから、開発教育が出てきた頃、ユネスコでもやはり同じ様な問題意識を持っていたと言えます。同時に民間では、日本でもこの時期に青年海外協力隊というのが盛んになってきます。それの一番の先駆者はカナダのキューソー(CUSO)と言いますけれども、カナダの大学組織が学生を海外に送って、そこで勉強させて帰ってきた学生たちが、いろんなことを言うわけです。その中で、外国で経験してきた学生たちは、「もっと途上国のことを、先進国の人たちは知らなければいけないんだ」ということを熱心に語り出します。なおかつ北欧・西欧の国々でも同じことが起こる。それ以前に、イギリスでしたらオックスファム(Oxfam)とか、オランダでしたらノビブ(NOVIB)とかの民間グループがありまして、これは援助の問題をずっと考えてきたグループです。そういう人たちが意見を言うようになってくるのが、70年代なんです。一方では国連あるいはユネスコの勧告、一方では民間の特に若い人たちが「何とかしなけれりゃいけない」と言い出します。日本でも青年海外協力隊で帰ってきた人たちが、途上国のことを間題にして、日本の教科書は途上国のことをどう書いているかという調査をします。それが日本で一番最初に開発教育という言葉が出てきたものなのです。 あと、ヨーロッパは進んでおりまして、70年にスウェーデンで、ザスクール オープントゥ ザサードワールド(第3世界に開かれた学校)という、開発教育のワークショップが行われます、全欧州の規模です。ここの参加者のまとめは、こういうふうになっています。「低開発に対する闘いは、我々と同じになるように他者を変えようとするものであってはならない。他者は我々と違うことを評価し、受容できるように、我々目身が変わることでなければならない」。ですから、「そのために学校のカリキュラムを国際化し子どもたちが自分たちの時代の問題について広い視野を持ち、自分たちで行動を起こし、たとえ小さなことであっても、自分たちの暮らしを変えられるという信念を持てるようにすることである」という結論を導き出すわけです。これは1970年のことです。 つけ加えますと、スウェーデンという国は非常に進んでいまして、46年、第2次世界大戦が終わった次の年に、教育目標を変えました。普通、教育というのは国民教育でして、日本国民をつくると考えるのですが、スウェーデンの場合はこうです。教育の目的が「スウェーデン市民の育成」であったのが、46年からは、「民主的社会の構成員の育成」となり、「スウェーデンの(国)」という言葉が入っていないのです。「民主的社会の構成員の育成」が教育の中心目標だと、この年から言われるようになるのです。これは、非常に注目していいことだと思います。 こういう背景の中で、スウェーデンでワークショップが行われる。あるいは、第3世界ではもう少しあとになりますが、アウロフレーデですとか、イヴァン・イリイチとかいう人たちが解放の神学、あるいはそこから出てくる教育方法を論ずるようになってきます。こういう事があいまって、開発教育というものが、先進国の間でかなり盛んに行われるようになります。 開発教育というのはディヴェロップメントエデュケイションと言うのですが、今日ここで、僕がお話しすることというのは、何も僕が研究したことでなくって、いろんな人たちが言ったり書いたりしていることをまとめてお話ししますので、そんなこと聞いたことがあるとおっしゃる方もあるかもしれません。そこはお許しを頂きます。 ディヴェロップメントエデュケイションの説明を、こういうふうにすることができます。ディヴェロップメントのde- というのは英語で否定の接頭辞です。その次ぎにくるenvelopは封筒なのです。envelopする反対がde-envelopなのです。だから閉じるんじゃなくって、開く。開く教育なのです。教育というのは、もともと中にあるものを引き出すという意味ですから、ディヴェロップメントエデュケイション=開発教育というのはとにかく開いていくことなんだというのが、基本的な考え方になります。この説明を一番最初に僕が聞いたのは、神戸大学の医学部にいらした岩村さんという『ネパールの赤髭』という本を書かれた方−広島で被爆なさっています−その方が広島のユネスコ大会で高校生に向かって話されたときでした。とても感銘を受けたことを覚えています。つい最近、去年の秋でしたか、開発教育の推進セミナーで、タイの人が来て、「ディヴェロップというのは封筒を開くということなんですが、みなさん知っていますか?」と言うのです。僕と何人かの人は知っていたのですが、そこにいる人たちの多くがポカーンと口をあけて、「始めて聞いた」と言われるので、やっぱりこれは入門講座というのはいっもいっもしなければいけないなあと、反省させられたことを思い出します。とにかく、ディヴェロップという言葉とその持っている意味は、そういうことなのです。だから、開発ということにしましても、単に、農村開発とか宅地開発とか、そういう意味での開発ではないということを知っておいてほしいのです。 日本での開発教育ということを考えたいと思います。60年代半ばに、日本はOECDに加盟しますし、GNPも世界で第3位になります。70年に入る前に、日本はすでに途上国に対する開発援助を始めております。日本はユニセフで、昭和の20年代は物をもらった最初の国です。第2次世界大戦直後は援助を受ける側にあったのですが、えらく速いスピードで援助をする側にまわりました。先程言いましたように、開発教育という言葉が初めて出たのは、青年海外協力隊の事務局の出した報告書「新たな開発教育をめざして」という小中学校の社会科教科書の内容をチェックしたものでした。その後、国連広報センターが「開発教育とは何か、それが何故必要か」というような報告書を出したり、国連大学とかユニセフの駐日事務所が、開発教育シンポジウムを東京で開いたりします。80年になりますと、横浜で2回目のシンポジウムがあり、81年には大阪、このとき僕は初めて開発教育ということを知ったのですが、民族学博物館で行われました。そして82年には開発教育協議会というのが設立されるようになります。83年は名古屋でシンポジウムが行われます。シンポジウムはこれで終わりになりまして、その後は、毎年の全国研究集会につながっていきます。そういうわけで、80年代に入って約10年遅れで日本にも開発教育が入ってくるわけです。その後は、いろんな所でいろんな人たちの努力があって、少しずつ広まっていって、結果として、たとえば我々が出したような本が出る所まで来ているのが現状です。 〈「開発」の概念〉 ![]() 我々が開発というときに、多くの場合はGNPを指標にして、どこの国が金持ちで、どこの国が貧しいかなんていうことを言うんですけれども、そのレジメの右下のところにグラフがあります。このグラフは開発の概念を考えるのに役に立つグラフだと思います。形がワイングラスに似ていますネ。このワィングラスは形からすると、すぐこけてしまいそうです。しかしこけない。もう少し言えば、見て頂いたらわかると思いますけれども、世界の経済格差と書いてありますが、最も富裕な5分の1の人口の人たちが、ですからトップの20%の人たちが、富の80%以上を持っているということを示しているグラフです。そして最も貧しい20%の人たちが持っている富はこれだけしかない。GNPでいくと1.4%しかない。世界の経済格差がこれであるとすれば、革命は今日起こってもおかしくない。しかし、これが起こらないままきた。何故だろう? ということです。 これは国連の統計というものの持っている問題性を考えるいいグラフになると思います。どういうことかと言いますと、これは、まず基本的には、この数字というのは単位・基準がUS$なんです。US1$でどれだけのことができるかというのは、世界中で同じではないのです。だけども基準はUS$である。それと、こういう数字というのは平均値なのです。だから、貧しいと言われている国の中にも金持ちはいます。豊かだと言われている国の中にも非常に苦しい思いをしている人たちがいる。そういうのがここには表れてこない、という大きな問題があります。 それからもっと大きな問題は、これはお金の動きなのです。GNPだから。お金が動かないけれども経済活動があるという場合だってあり得るんだけれども、それが目に見えてこないのです。おわかり頂けますか、そのことは。たとえば、僕が庭でトマトをつくりました。榎井さんが隣に住んでいて、「どうもたくさんできちゃったので、特別うまくはないけれども、どうぞ。」とあげます。これはGNPには入らないのです。実際に我が家で枇杷がなっているのですけれども、大阪府立女子大の先生が近くに住んでいますのであげるのです。彼は大喜びで「枇杷酒をつくってそれで毎年夏をしのいでいる。こんな嬉しいことはない。」と、電話までくれました。これもここで言う経済活動には入らない。そのようなお金の動かない経済活動で生きている人というのは、実はたくさんいるのです。とくにこのグラフの下の方の人たちです。それがここには表れません。それから学生によく言うのです。特に下宿している人たちに、「君たち家に帰ると、たいていの場合、お母さんが御飯を作ってくれる。お金払うの? 誰も払わないね。でも、下宿していて食べに行くと、お金払うでしょう。なんでそんなに違うの?」。当たり前だと思っていますよ。でも、母親の働き、女の働きは、ほとんどペイされていませんね。それがここには出てこない。朝4時半に起きて、1時間かかって水汲みに行って、1時間半かかって帰ってくるお母さんとか子どもというのは、世界には1人や2人じゃあないのです。そういう生活をしている人たちのことはここでは出てこない。特に、いわゆる「女・子どもの働き」は表れてこない。この頃の言葉で言いますと、ジェンダー、社会的な性差をこのグラフは表すことはできないのです。そういうものを間題にしていかないと、開発というものはきちんと考えられない。言い直しますと、開発の問題は数字だけでしか語られなくなってしまう。そういうことがあります。 『地球家族』という写真集があります。世界の30カ国を回りまして、「お宅の家にあるものを全部写させてください。」と、家の前に並べてもらって、家族がいっしょに写っているのです。とてもいい写真集ですから、ぜひ教材に使ってほしいと思います。TOTO出版、トイレのTOTOが出しているんです。最後には、世界のトイレがついている写真集です。同じ物を教室で使いやすいように、東京のエリックというグループが、1枚ずつの写真にしています。TOTO出版の本は後ろの資料がいいのです。詳しい資料が載っています。生徒には写真を見せて、先生は写真集の資料を持っていれば、授業に便利です。その写真を見ていまして、貧しい国の人たちがほんとうに不幸なのだろうか? たとえば、日本。世界1だとか、世界2だとか言われている、日本の人たちがほんとうに幸せなんだろうかという疑問が、直接に伝わってくるのです。どこでしたか、南の国で、ウエストパプアでしたか、壁のない家なのです。日本人が見ると貧しい家だと言います。あのへんで壁があったら暑くて堪らないので、無い方がいいのです。写真に写っているのは、おじいちゃんもいる。おばあちゃんもいる。そして牛も鶏も。家財道具は多くないのだけど、生産手段があって、物は庭に並べてあります。庭の後ろは椰子の林です。日本を見ますと、まず家財道具がいっぱいあるのです。どうやってもどすのかと心配になるくらいです。並べてある所は道路なのです。日本以外の所はみんな自分の家の庭に並べてあるのですが、日本だけは道路に並べてある。どちらが豊かなのか。ブータンの人たちは、農機具と宗教用の道具、ほとんどそれだけなのです。3階建ての漆喰の家に住んでいるのですがね。でも、庭なのです。写真家が最後にコメントをつけています。「一番写真を撮りにくかったのは、日本であった。いつどうやって撮るか大変だった。荷物を出すのも大変だけど、置く場所もない。いつも車が通っている」と。だから、今言いましたようなワイングラスとそういう写真なんかを組み合わせてみますと、貧しさとか豊かさとかいうものを考えるきっかけになるのではないかというふうに思います。 開発教育というものが、どこがどういうふうに新しいかということなのですが、それは1つには、地球的規模でものを考える。グローバルパースペクティブという言葉を、アメリカの人たちはよく使います。新しさの1つはそれです。地球的規模でいろんなものを考える。だから、国内の問題を、ここで「国際的視点から」と板書して頂いていることにあたると思いますが、問題を「相対化」して見る。あるいは、問題の「構造」を探ってみる。そういうところにこの教育の新しさというものがあると思います。
それから2つ目ですが、未来志向。先程スウェーデンの会議のところで言いましたが、子どもたちが小さなことでもいいから、なんとか変えていけるんだと確信を持つこと、そのことです。子どもたちが未来に対して希望を持っていないとすると、どうでもいいやと考える子どもたちが増えると、これは変革につながらない。だから教室の中で、「そうだ、こうしたら変わるんや」という実感を持てるかどうかが鍵になるのです。 それと、今言ったことと関連するんですが教室での授業のあり方なのです。「内容と過程」に分けます。「コンテントとプロセス」という言い方をします。内容は非常に重要です。けれども、過程も、プロセスもとても大事です。ときには、プロセスの方が大事だと言う人もいます。パウロフレーレのことを書いた本の中に「権威主義的な方法で、民主主義者になることを学ぶことはできない」というくだりがあります。「教室が民主的であってこそ、民主主義は学べるのだ」ということなのです。だから、プロセスとコンテントで言いますとそれはまさしく、プロセスのことを言っているのです。開発教育では、実は参加型学習ということをよく言います。みなさんのお手元の資料にも「なぜ参加型なのか」(ヒューライツ大阪)というのがあると思います。開発ということを考えますと、住民が参加をして、どういうふうに開発を進めるのか、日本の例で言いますと、住民が参加をして街づくりをどうするのかということがないと、住民が納得のいく街づくりにならないのです。それと同じことが教室ででも言える。授業そのものが参加型でないといけない。民主的な社会をつくる鍵は参加なのです。住民参加・市民参加です。自由に意見が言える。そういう自由を保障している場所、それが教室です。これは強制参加とか動員参加とかいうのではあかんのです。むりやり「とにかく参加やで」というのではあかん。自発的に参加できるようになるか。そのための工夫をするのが教員なのです。一人ひとりの学生・生徒が「こらおもろい。自分もやってみよう。取り組んでみよう」。教室での学習にね。そういう素材・教案を作る、工夫する、しかけをするというのが、教員の仕事だと思うのです。それを試してやってみて、わりかし受け入れられたというのが、今の本『新しい開発教育の進め方』なのです。あるいは、『ワールドスタディズ』という有名なイギリスの本があります。 ただ、僕、この頃ちょっと心配しておりますのは、「コンテントよりもプロセス」という言葉が、どうも一人歩きしているのではないかという懸念です。「参加型学習はおもしろい、こうすると生徒たちの眼が輝く」。これはいいことなのです。とても大事なことなのですけれども、だから、参加型だということで、手法に飛びつくことは、僕は悪いとは言いませんけれども、何故その手法が出てきたのかということを抜きにして、「その手法がどうも効果的だからやってみよう」という程度で始まると、これはその一人ひとりの先生の信念であったりするわけではありませんので、効果がないと「これ、あかんのんちゃう、ポイ」ということで捨てられてしまう。これではちょっと困ったなあというように、この頃感じています。だからもう1回、やはりプロセス ザン コンテントという言葉を、何とか直さないといけないかなあ、コンテントがあってこそ、いいプロセスが生きてくるのであるというふうに。 実はイギリスのワールドスタディズを研究なさって、ついこの3月に帰ってらした岡崎さんという方がいらっしゃるのですが、その方と先日お目にかかってお話をしました。イギリスでは「ワールドスタディズがすたれているのだ。プロセスリッチ、コンテントプアー。プロセスを重視しすぎて、コンテントを軽視している。手法が先走りしちゃって中身がどうも薄いんではないか。プロセスリッチ、コンテントプアー。これではダメじゃないか、という声が最近あがってきた。」というお話をうかがって、「そうだ、なるほど僕もそういう懸念を持ち始めているんだ」とお話ししました。そうなってしまいがちな傾向というものがあるんじゃあないかと心配しております。これを補強していくのは、先生方の仕事だと思います。内容をいかにリッチにしていくか。実はNGOの人たちが、開発教育の始まりの中心的な存在でしたから、日本でもNGOの人たちが熱心なのです。ですから、教員はNGOの人たちと桔ぶことによって、このコンテントをリッチにしていく方向が出てくるのではないか。教員は教員同志の研修会をしたりしますけれども、教員以外の人たちから学んだりすることが、あまりないのではないかと僕は思うのです。NGOの人たちというのは、世界中の問題をやっているのではなくて、「私はインドの井戸堀りだ」とか、「私はフィリピンのバナナだ」とかいうふうに、自分のやりたいことを熱心にやっておられますから、現場を持っている先生方が、そこへ行くと刺激を受けると思います。それをいかにコントロールしながら、教材にしていくかというのが、教員の仕事であるわけです。そこで聞いたことをそのまますぐに持ってくるのではあかんと思いますが、中身を豊かに刺激的なものにしていこうと思ったら、今は、NGOの人たちとめコンタクトというのは、とても役に立つというふうに思います。特に大阪には、天六の「国際子ども権.利センター」ですとか、大阪にも南北問題があるのかなと思いますが、北の方の豊中それから箕面、そういうところに国際交流センターというのがあるのです。僕の住んでいる堺市に今度できるらしいのですけれども……。いいグループがたくさんありますので、そういうところと話されると、とてもいい教材づくりのきっかけができるのではないかと思います。 今日の資料に箱を開いたような図があります。これはWWFの出している本で『アースライツ』という本があるのですが、近々、明石書店から翻訳が出るそうですが、その一部分をコピーさせてもらいました。開発教育と人権教育と平和教育と環境教育、狭いフォーカスで見た場合は、かなり違う。それぞれの独立した教育のように思えるのだけれども、広いフォーカスで見ると、かなり共通しているのではないか、ということを表したものです。特に今、開発教育とか多文化教育とか、あるいは在日朝鮮人教育というものが、概念がはっきりしない。オーバーラップしながらいろんなところで、いろんな方面で進められています。こういうふうに整理をしながら、協力してやっていくということができれば、こんなにいいことはないので、「いや、おれンとこがアンブレラなんだ。あんたンとこはウチの下や」と言ってても仕方がないので、むしろ広いフォーカスでお互い力を出し合えればいいなあと思っております。
ここから、ニュージーランドのマオリの話をさせて頂きます。僕は専門家ではありません。 たまたま土曜日に榎井さんから「岩崎さんマオリの人が大阪で英語を教えているよ」と教えて頂いたので、早速、月曜日に電話をしました。そしたら、「火曜日からギリシャへホリデイに行く」とのこと。僕は今日ここへ連れて来ようと思ったのです。そういうのが一番いいと思います。彼はもう、ギリシャに着いていい思いをしているでしょう。残念ながら、連れて来れなかったのです。 ニュージーランドにマオリと言われる先住民族の人たちがいます。この人たちは、よく聞かれるのですが、「何%ですか?」と。これは、日本のアイヌのパーセンテージを聞くのと同じくらいにナンセンスと言いますか、答えが出てこないのです。アイヌの人ロは、日本の何%ですか。これはなかなか言えませんね。もちろん隠している人もいます。マオリの人たちは、どこでマオリかマオリでないかという区別をつけるかということなのですが、榎井さんから紹介を受けたデイヴィッド・キングというのは、会ってみるとどう見てもマオリに見えない。でも、彼はマオリなのです。電話をしまして、「難波のホテルのロビーで会おう」という約束をしたのです。電話を切りかけて、マオリの人だと聞いていたので、マオリの人の顔を思い浮かべて会えばいいやと思ったのですが、でも「マオリと言っても」と思い直して、「貴方はマオリに見えますか、パケハ(マオリ語で"色白の"とか"青い"。白人のことをパケハと言う)に見えますか?」と尋ねたら、「私は典型的なパケハに見えます。」と言うのです。「背は低い。髪はショートカットだ。」「そうですか僕はロングヘアーだ。」と言って、結局、ホテルで彼を見つけるのに、苦労はなかったのです。じゃあ、パケハに見えるのに「自分はマオリだ」と言うのは何故か。これは、国連の世界先住民年のときに出た先住民族の定義を、ニュージーランドではすでに実施しているのです。自分が何人であるかは自分で決めるのです。これが国連の定義です。先住民族の定義は、「自分が何人か」なのです。日本の場合は、どうもそうでないみたいですね。「何々人にみえるから、何々人だ」となっています。だから僕も最初、ニュージーランドに行ったときに、マオリの学校で歌と踊りをやっている金髪で青い眼の女の子がいるのですね。僕にとっては不思議なんですね。「何故、あの子がここにいるの?」と聞いたのです。すると、「あの子、マオリだからよ。」と言うんです。それは16分の1なのか、64分の1なのか、よく分かりませんが、ともかく彼女にはマオリの血が入っていて、「自分がマオリだ」と思っているのでしょう。だからマオリの歌と踊りを習っているのです。 ニュージーランドというのは、世界のヒューマンライツガイドという本(『世界人権ハンドブック』明石書店)があるのですが、これでトップにランクされている国なのです。レイティングがありまして、99%人権が達成されている国というのはフィンランドです。その次にくるのがニュージーランドです。いくつかの国も同位にあって並んでいますが、ともかくニュージーランドは98%で、トップ級なのです。ちなみに日本は82%です。これは在日朝鮮人の人権が保障されてないとか、男女の格差がひどいとかいうことが書いてあります。ついでに、日本の男女の賃金格差をご存知ですか。男を100だとしたら、女の平均はいくらだと思いますか? なんと51なのです。これだけ格差の大きい先進国ってないですね。時間があれば、あとでヒューマンライツガイドと、ヒューマンディベロップメントインディックスHDI(国連開発計画『人間開発報告書1995−ジェンダーと人間開発』古今書院)という指標があるのですけれど、この話をさせてもらおうかと思います。 マオリに戻ります。ニュージーランドのマオリは、今から1000年ぐらい前にハワイですとか、タヒチですとか、そのあたりから今のニュージーランドと呼ばれている所へ移ってきた人たちです。彼らは自分たちの国のことをアオテアロアと言います。英語で言うとロングホワイトクラウド=「長く白くたなびく雲」の国なのです。それがマオリ人が自分たちの国につけた名前なのです。ニュージーランドというのは、あとからオランダ人のアベル・タスマンというのがやって来まして、新しいゼーランドとオランダの土地の名前をつけたのです。そして、彼は上陸しなかったのですが、そのあと、イギリスのクックがやって来て、ゼーランドを英語読みしてジーランド、ニュージーランドというふうに名付けたわけです。ハワイの前はどこから来たかと言いますと、ユーラシア大陸にいた人たちなのです。東南アジア、あるいは華南あたりから、太平洋へ出ていった人たちなのです。ですから、我々とつながっている。日本人と兄妹だと、彼らは言います。我々に向かってブラザーと言います。日本人と似ているかなあと思うのですが、言葉も似ている。子音母音と順に並びます。だから、我々がマオリ語を習う、マオリの人が日本語を習う、とても音声面では楽なのです。貝を食べます(食料全体をさしてカイと言います)。あるいは海草を食べますし、貝塚もあります。とても親しい感じを覚えます。 それはさておき、ニュージーランドというのは、最近の名前です。ニュージーランドでは、マオリ語も公用語になります。小学校で習います。郵便物を配るときにマオリ語で書いてあっても、英語で書いてあっても、届くことになっています。これは70年代以降、マオリルネッサンス運動と呼ばれる運動がありまして、マオリの人たちの言葉の回復から始まって、いろんな権利の主張になるわけです。そういう中で出てきた成果です。全ての土地にマオリ語が、ほとんどの地名がマオリ語でつけてあるのです。オークランドとか、ウェリントンとか、クライストチャーチなどの英語の名前になっていますが、マオリ語の地名がそれぞれに対応してあるのです。ですからマオリ語で郵便を送っても届きます。マオリ語ラジオ放送はもちろんあります。TV放送も数年前から始まりました。2年ほど前のNHKのニュースで、ほんの数分、マオリルネッサンス運動の紹介がありました。9時のニュースでした。いろんな人が、いろんなことを言っていました。マオリの人は、まだ不十分だと言っているし、パケハは、我々はいつも損をしていると言っている。その後に、ニュージーランドの法務大臣がこう言っています。「民族間題はできるだけ早く片づけたい。こういう問題を長引かせることは、幸福ではない。」そう言ってニュースは終わります。それだけのことなのですが、日本政府の法務大臣からは聞ける言葉ではない。残念ながら我々にとって、とても刺激的でした。 ニュージーランドは、1840年にワイタンギ条約を結んでいます。これは、ビクトリア女王とマオリのグループ長たちとが結んでいるのです。これは、先住民族が支配をした植民者と結んだ唯一の条約なのです。ネイティブアメリカンが結んだということは聞いていませんし、オーストラリアのアボリジニも結んでいません。マオリ、彼らだけが持っている条約です。短い、3条しかないのですが。しかし、たとえ短くても、これがあったといっことが、とても大きなテコになっています。これがあった理由は、マオリの人たちはとても強かったのです。イギリス人と闘って、かなりいい線までいっていたということが1つあります。もう1つは、イギリスとフランスというのは、いつも土地の取り合いをして、フランスがニュージーランドヘやって来ていてクライストチャーチ市の郊外にアカロアというところがありますが、そこに上陸しかけていた。フランスが上陸すると、ニュージーランドの土地の中で、イギリスとフランスがまた戦わなければならないということで、イギリスは、「もうこのへんでマオリと手を打っておいた方がいい」と、考えたのです。条約は、英国民にしてやる。英国民としての権利を与えてやる。そしてビクトリア女王は、お前たちに漁業権とか林業権とかを与えてやる。非常に変な話なのですが、そういう条約なのです。そのかわり、キミたちは土地を売るのは、ビクトリア女王にだけだぞ。これも変な話でしょう。ともかく、そういう条約があった。1840年に結ばれたのです。その後、ワイタンギ条約はきちんと実行されません。土地は取られますし。土地に対する考え方が違うのです。土地権と言います。土地所有権ではなくて。これはモンゴロイドに共通している考え方かもしれません。われわれもそういう考え方を昔は持っていたのだと思います。ネイティブアメリカンもそうです。所有しない。みんなのものなのです。共有地なのです。ところがヨーロッパ人は所有したがる。だから、「使っていいか?」「いいよ」ということになると、柵を作っちゃう。マオリの人たちはそんなものを作らなかった。だから「それは困る。」となる。戦争したりするのですけれども、その中で、「ワイタンギ条約でキミたちは我々の権利を保障すると言ったじゃあないか」というふうに、マオリのグループ長たちは言うわけです。「そうだったなあ」ということになってきました。1867年、国会議員が99人いますが、その中の4議席はマオリ議席として保障すると決められています。1867年の段階です。これは男性のみなのですが。マオリの男性、選挙権もこの年に認められています。非常に早い時興こういうことに踏み出している。もちろん、4議席だけでなく普通の選挙区でマオリの人たちが立候補しますから、そこで通れば議員になっていきます。4人じゃあなく、何人もいます。だけど、常に最低4人は確保されているということなのです。1893年には、世界で初めての婦人参政権が、この国で認められます。103年も前にニュージーランドは婦人参政権を認めています。国家として女性参政権を認めたのは、ニュージーランドが最初です。こういうバックグランドのある国なのです。
1970年代から言葉を取り返す運動が始まります。マオリの人たちは、よくマラエという集会所に集まります。コーハンガレオと言います。英語で言いますと、ランゲージ・ネスト=言葉の巣なのです。コーハンガレオ運動というのがそれぞれのマラエで始まります。これを政府が援助します。お母さんが学びに来ています。150年ぐらい前から、言葉は英語になっています。3世代、4世代、5世代と経っているから、言葉がだんだん失われてきている。しかし今、こうしておかないとダメだということに気がついて、コーハンガレオ運動が始まって、政府がそれを支援する形で展開していきます。主体は、もちろん、お年寄りなのですが、誰が学ぶかと言いますと入学前の子どもたちの他に、小さな乳飲み子を抱えたお母さんが行くわけです。そこでお母さんも言葉を持っていませんから、お母さんが学び、子どもに教える。おじいちゃん、おばあちゃんから学びながらというシステムです。それが何年か続くと、幼稚園へ行く子どもが、マオリができることになります。そういうのが、70年代から始まります。つい数年前には、高等学校レベルで全ての教科をマオリ語でやるというのができました。これが言葉を中心にした運動です。言葉だけじゃあなくて、歌や踊りが当然出てきます。TV局を作れという運動にも発展してきているわけです。 最後になりますが、僕の友人でレスター・フィンチというのがいます。彼はパケハなのですが、マオリの山村で育った人で、マオリの運動にずっと関わってきた人なのです。彼はウェリントンで、日本とニュージーランドとの合弁の実験学校の校長なんかをしていたのですが、その後ロンギ首相の時代ですが、マオリのコミュニティー・スクールの校長に任命されます。当時はニュージーランドで唯一のコミュニティー`スクールだったのです。そのときに、どういうことが起こったかと言いますと、学校のデザインから始まって、全てマオリの人たちに聞いて作ったのです。そして、教室編成も学齢制がいいのか、どうすればいいのか、それもマオリの人たちと相談をしながら、主体的にマオリの人たちに決めてもらうのです。できた教室は、学齢で割ってありません。親類縁者、血族が集まってくるのです。そこに幼稚園から小学校まで。榎井ファミリー、岩崎ファミリーといった教室ができるのです。そこで、血族の上級生が下級生の面倒をみる。教える、教えられる。そういう教室ができています。だから、西欧人の考えた教育のシステムとはちがうシステムができています。 そして、貧しい地域のモデル校は、その地域のセンターになるのです。生涯教育のセンターになります。福祉施設をそこに造る。マオリの人だったら、タダで食べられる食堂を造る。そこで働く人もマオリの村から募集する。そしてついには、そこを出た人が、マオリの先生になる。そのためのティーチャーズカレッジを造る。大きなものではありませんがね。ここが重要なのですが、そのティーチャーズ・カレッジを出た人は、マオリの学校で教えられるだけでなく、パケハの通っている学校ででも教えられる、同等の資格を与える。というところにまで、マオリの運動は進んでいる。ですから、マオリの学校で育って、そこを出て、マオリのティーチャーズ・カレッジを出て、そして、パケハの学校で教えることができるのです。当時はそういう学校は1つだったのですが、今はたくさんできているそうです。レスター・フィンチは、当時はとても忙しくしていました。「講演に来てくれ」ということで。今はそんなことはする必要はなくなったのです。 1975年にワイタンギ審判所というのができます。1840年に遡って、マオリの人が異議申立てをできるという所なのです。「勝手に、あんた方、奪っちゃったんじゃないか。もう1回審査し直してよ。」と言うわけです。それが今行われています。その結果、漁業権が50%マオリに戻りました。具体的には、ニュージーランド最大の漁業会社の株を、マオリの人たちが50%譲り受けたわけです。そういう形で、少しずつ土地も取り戻す。この前も英国の女王が行って謝っています。それを、150年以上前の1840年まで遡って審査しようというのは、あのときに条約を結んでいたからだということなのです。それが今生きている。あと、マオリの文化を大切にしようということで、公的な建物にはマオリの芸術家に頼んで、ステンドグラスをいれるとか、マオリのモチーフをいれてもらおうとか、そういうことを、常に政府が配慮しています。話が、あっちへ行き、こっちへ行きして、すみませんでした。また、みなさんからご質問を頂ければいいと思います。どうもありがとうございました。 〈参考文献〉 *J.W.ボトキン他『ローマ・クラブ第6リポート限界なき学習』ダイヤモンド社 *A.アルスボルック他『未来を奪われた子どもたち』明石書店 *田中治彦『南北問題と開発教育』亜紀書房 *西岡尚也『開発教育のすすめ』かもがわ出版 *国連開発計画『人間開発報告書1995ジェンダーと人間開発』古今書院 *ディビット・セルビー『ヒューマン・ライト−いま世界の人権は』日本評論社 *ワールド・ウォッチ研究所『バイタル・サイン1995-96』ダイヤモンド社 *S.ジャッドソン『静かなカー子どもたちに非暴力を教えるための実践マニュアル』嵯峨野書院 *J.バージャー『世界の先住民族』明石書店 ニュージーランドに関しては、 *K.シンクレア『ニュージーランド史』評論社 *G.ハンリー他『写真集原発と核のない国ニュージーランド』明石書店 *D.ロンギ『非核』平和文化 *田辺眞人『ニュージーランドの風土と生活』神文書院 *小松隆二『ニュージーランド社会史』論創社 *高橋康昌『斜光のニュージーランド』東苑社 『むくげ』148号より |