(HP製作委員会注)榎井さんの講演資料には、統計などさまざまな資料が
ついています。
こちらに載せてありますので、御参照ください。

講演記録  その1 岩崎裕保さん
講演記録  その2 榎井縁さん
           (榎井さんの講演資料)
質問に答えて

講演記録  その2

榎井縁さん(大阪市教委国際理解教育相談員)

 

〈私とアジアとの出会い・つながり〉

 

私の所属が市教委と書いてありますので、「こいつも先生か」と思われそうなのですが全くの非常勤嘱託で、アルバイトに毛が生えたようなもんだと、いつも言っています。

私がこの仕事に至るについての歴史を語ると、それだけで半日ぐらいかかってしまうのですが、大きな原点として、「アジアとの出会い」と「アジアとのつながり」という、2点だけ簡単に話したいと思います。

ほんとうに偶然だったのですが、アジアにつながるきっかけというのが、1982年、当時学生だったというと年齢がバレてしまいますが、小学生だったとは言いませんが、ちょうどマルコス政権下の一番ひどい状況のフィリピンに行くことができました。行って何をしたかというと、1か月間、BCCという草の根共同体づくりの模擬コースがあったのですが、その端っこに座らせて頂くことができました。その草の根共同体づくりというのがどう言うものかというと、結局、人民は一人ひとりとても弱くて、社会を変えられないような恐怖政治で、人がすぐいなくなっちゃってどうやって自分たちのコミュニティをつくっていくんだ、どうやってこの社会を変えていくことができるんだという、そういう現状分析から始まって、最後に一人ずつが力を持っていくというところまで、模擬でコミュニティづくりをするという、2か月ぐらいのコースだったのです。それに出たとき、学生として自分が日本で何を勉強してきたのかと愕然となりました。たとえぱ、力がない者、弱い者、虐げられている者が、今の社会はそういう者こそが変えられるんだという、ほんとうに力に満ちた人たちと過ごしたということが、初めてアジアに対して眼が向いたきっかけです。

もう1つは、これも私の原点なのですけれども、ネパールで、先程岩村先生の話がありましたが、ネパールで過ごしまして、私もNGOの片端を持っていまして、ネパールのチベット人と言ったら、私以外は誰も知らないだろうと思いますが、10年以上、ネパールのチベット人の学校と関わっています。ネパールに暮らしたということが、今自分がやっている仕事に、すごく大きな力になっています。それはどういうことかと言うと、"共生"という言葉が、最近経団連が93年の方針に出したとかいうことから始まって、どこでも"共生"とか"多文化"とかいう言葉が出てきて、この間も、川崎市の人に連絡をとったときに「人権・共生・多文化なんとかかんとか」というのが急にできたりして、「えっ!?」とびっくりしたのですが、私ははっきり言って、"共生"とか"多文化"とかいうのには、すごく抵抗があります。それはこれからお話するんですけれども、すごくマジョリティとしての日本人のエゴに近いものがあるんじゃあないかというように感じるからなのです。ただ、ネパールにいた経験の中での私の"共生の感覚"というのは、今の私の原動力というのですか、新しく日本に来ている子どもたちに関わっていくことに、すごく力になっています。岩村昇先生が初めてネパールに入った頃の『ネパールの碧い空』という書物がありますが、これは私たちネパールを愛する者にはバイブルのようになっているものです。その中に次のような話が出てきます。岩村さんが結核の予防のために病院をつくって、村から結核患者を運んでいく場面があるんですけれども、山道を村から村へ行くのに何日も歩かないといけないのです。そこにマガール人という先住民族の青年が登場するんです。33晩、その結核に罹った重い患者、老人だったと思うんですが、運ぶんです。運び終えたときに岩村先生が謝礼を渡そうとします。すると、その青年がすごく怒るんです。「自分たちがいっしょに生きるために、力のある自分が、この人に提供することに対して、報酬を出すということは自分たちに対しての侮辱ではないか」と言うのです。そう言われてあらためて、日本人としてのエゴイスティックな自らの姿を思い知らされたと、岩村先生は書いています。ネパール語で「サンガイジュネコラギ」(サンガイ=いっしょに、ジュネコ=生きるために)という言葉を、その若者がポロッと言ったそうです。そういう意味での"共生"というのが、ネパールではいたるところにあります。もちろん未だにカースト制度が厳しくて、奴隷同然の人が何万人といる世界なんですけれども、いろんな人たちがいっしょに生きるために、力ある者は力を出すというのが当然だという考えがあるんです。しかし、じゃあ、日本で、力のある者、地位の高い者が共生を実現するために、それを犠牲にすることができるのか、痛むことができるのかというのが私がずっとやってきてすごく感じていることで、やっぱり、「メインストリームに上がってらっしゃいよ」ということはあるけれども、自分から、自分の今まで築き上げてきた豊かさとか、気持ち良さとか、安楽さとかいうものを削ってまで"共生"社会を実現させようとする気持ちがあるのかといったら、まだ全然ない。そういうレディネスができてないにもかかわらず、今、共生万歳、多文化万歳、国際化万歳と、言葉が氾濫していると思うんです。

 

〈在日朝鮮人教育に取り組んできた者こそ〉

 

話を元に戻します。今日は、どうしても緊急アピールをしたいと思って来たんです。この間の教育総研なんかもそうでした。今日の資料は教育総研理論誌からの抜粋です。私は2年ほどここで仕事をさせてもらって、国際連帯の教育の中で、報告書『民族共生の道を歩もう』『先生、わたしたちの声を聞いて』と、2冊おろしたのですが、そんなことをやっていく中で、在日朝鮮人教育に長く関わった人たちが「何が"国際"だ。新しいものをもって、何をものとするか。」といった言い方や、感じ方を、多少なりとしている部分があるんではないか、そうさせられてしまっているカラクリを暴こうと思って、ここに来ました。

それでは、何がカラクリかというと、今の子どもたちというのが"国際"だと、取り上げられているんだろうか、ほんとにそうなのか。私は、ほんとうにゆるやかな偽善の、善意に満ちた対処の中で同化させられている子どもたちも問題で、この子どもたちはすごく少数点在で、声をあげられない。だから私は長いこと民族教育とか、民族の言葉・文化を大切にしようとか、日本人がそれをどうやって受け止めるのかとか、そのように取り組んできた先生たちこそ、今新しく来ている子どもたちにどう関わっていくのか、この子どもたちをどう実践の中に位置づけるのか、ですね。ということを、切実に考えて欲しいと思うんです。

 

〈「日本語指導」ということの落とし穴〉

資料の最後の頁に、文部省が1995年に出した資料の一部をコピーしたものがあります。『外国人児童の作文から』というものです。南米の子どもが「日本語が分からなくて、すごく困った。1年で私は日本語を覚えた。それがどんなにすばらしかったか。優しい友だちに囲まれて楽しかったし、よかった。」という作文なのです。これは、『ようこそ日本の学校へ』という文部省の『日本語指導が必要な外国人児童生徒の指導資料』というマニュアル、すごくよくできたマニュアルなんです。行政から出ているものですから、一度手に入れて見てください。「はじめに」の中でこういう児童が増加した、「2.外国人児童生徒の教育の意義」とありますね。「(1)一人ひとりを大切にした教育、{2}教育の国際化への対応」などと、非常にすばらしい文章が書かれているんですが、この本は日本語指導のマニュアルなんです。その生徒が入ってきたときにどうやって指導するか。どうやって受け止めて、どうやって日本の学校に適応させるかということが、ことごとく載っています。同化的で差別的だと思うところもあります。発音指導が出ています。チャチュチョ、ジャジュジョという発音はできません。それはこうやって指導しなさい。というように、昔の方言唄みたいな細かいところまで、ざあっと出ています。

日本語指導ということの"落とし穴"を考えて欲しいのです。私はここに来る前は、神奈川県の国際交流協会という所で、外国人の相談及び、調査にあたっていました。90年でした。いわゆる出入国管理法及び難民認定法が改正されて、ニューカマーの中でも南米系の人たちがどっと入ってきて、各地で韓国・朝鮮人よりも多くなって、学校も困って、企業も困って、というような時期でした。相談の電話は、「腕を落とした」「死んじゃった」「頭がおかしくなった」など、悲惨なものでした。だから、日本語というのは、最低限、サバイバルのためには、生きていくためには必要だったのです。その頃、結構、外国人の労災問題とか、イラン人の少年が印刷の機械にはさまって死んだとか、出ていましたけれども、今は見ませんね。彼らも、時間の流れとともに、日本語を習得できたということもあるし、いろんな意味で日本語教育というのが、あちこちに普及してきたということがあると思うのです。

今の学校でも、私は教育委員会の指導部というところにいて、先生たちといっしょに仕事をしているのですが、学校でも指導部でもどこでも、日本語が分からない子どもが入ってきたときにどうするかといったら、まずその子が苦しまないように、辛いめにあわないように、日本語をなんとかしましょうと動きます。つまり、それは対症療法として始まっているのです。その先生に言っても、「目の前で苦しんでいる子どもを助けないでどうするんだ」ということには、私も同調します。だけれども、もうちょっと広い眼で、この外国人の子どもたちが日本の学校の中で、どのような位置づけをされているかということを考えると、背筋がゾッとするようなことがあるんです。私、最近気がついたのです。

文部省の資料を載せています。日本語指導が必要な児童生徒数というのが、1993年に初めて調査されました。これは外国人児童生徒数を公にした初めての資料です。もう11992都道府県における外国人在籍者数というのは、総務庁が初めて外国人をめぐる行政の現状と課題ということで出した数字です。だから、文部省が出している数字というのは、単に、日本語指導を必要とする外国人児童生徒数のみです。それが公表されているのです。

 

〈「日本語指導を必要とする外国人児童生徒」への文部省の施策〉

施策としてどうなっているかというと、1993年度文部省「外国人子女教育関連施策」があります。95年度には「海外子女教育の現状」が出ています。文部省の学校教育関係で言いますと、教育助成局の海外子女教育課というところが一手に担っているのです。どういう経緯があったかというと、ここは元々帰国子女の対策室というのでしょうか、日本の学校への適応指導を受け持ったところです。

今、海外にどのくらい学齢期の子どもが滞在しているか知っていますか ?先生どうですか?(「分かりません」。)先生はどうでしょう? (「60万ぐらいでしょうか」。)いや、そんなに多くはないですよ。日本に在籍している外国籍の子どもは、韓国・朝鮮人も入れて7万人ぐらいですが、海外にいる永住権を持たない子どもたちというのは、5万人前後です。だから、日本の中にいる外国人の子どもたちと外にいる日本人の子どもたちとは、そんなに数的に開きはないのです。

それで、外国人を扱う文部省の部署というのはありません。はっきり言って、今日においてすらないのです。それを分かって欲しいのです。どうしてないかというと、要するに日本語教育、日本の学校への適応教育をやるところが、ずっと海外子女教育を受け持っていた。その中に外国っぽいものが入ってきたのは、中国帰国者が初めてでした。これは厚生省が文部省に頼んだのです。日本語教育を中国の帰国者・引揚者も必要としているから「やったってくれんか」とは言わなかったかもしれないけれど、「応用してくれ」と。この中国帰国者の位置づけは、「日本人であって中国にいた人たちの引揚者」ということです。未だに毎年、文部省から地教委を通して下りてくる調査は、「帰国子女」「引揚者」というカテゴリーと「その他」という3つです。私はとても不思議な感じがしているのです。外国人施策における"黒船"というのはインドシナからの定住難民なのです。それが文部省のところに1つも出てきません。研究指定校とかが、新しく来ている外国人たちに応用されたのは、1988年以降ですね。日系人がたくさん来て、これも日本人だということで適用し始めた。応用し始めたというのが現状です。

この流れを見ると、外国人のアイデンティティ、彼らの母語・母文化を大切にする視点というのは、全然出てこないのです。施策の上では全く出てきません。母語のことについても、「日系人は帰国するから保障しなければいけないのではないか?」と、問い合わせをしたのです。でも文部省の方は、回答の中で「日本語指導のために、その母語を使う教材は考えているが、母語そのものの指導は考えません。」と、はっきり言っています。文書でも「外国人の場合は義務教育ではないが……」と、つらつら書いてあります。要するに、「入ってもらっちゃ困る。入るんだったら日本人みたくなれ!」というのが、一貫してあるのです。この流れの中で、日本語適応教育とかが盛んに行われているわけです。私は、それをすごく懸念するんです。そのことに気付いている人がすごく少ないんです。在日朝鮮人問題のときからそうだったんですが、外国人として位置づけられてないのです。そうでありながら、先程の『ようこそ日本の学校へ』という文部省資料には、「一方で外国人児童生徒を受け入れることは、教育上、積極的な意義があるということも認識する必要がある。」などと書いています。それは、「多くの日本人児童生徒たちにとって、外国人児童生徒との出会いは、異文化理解、異文'化間コミュニケーションを直接体験するよい機会を提供してくれるから」であると言うのです。ある人はこれを批判して、「それは障害者の問題と同じだね。」と言います。「日本人(健常者)のために利用して、高校まではいっしょに行きましょう。共生、共生と言って、片方は途中までしか行けない現状で、日本人は豊かになるかもしれないけれど、外国人は日本人化するか、道具に使われるか」そういうお寒い教育行政の現状なんだということに、もっと危機感を持って欲しいと思うのです。

 

〈教育現場での事例、ケース1〉

 

 在籍人数別学校数の表があります。ほとんど、1人とか2人なのです。ほっときゃあ、日本語をしゃべるようになりますから問題がないという片づけられ方がすごく多いです。特に、少数の場合は、対処されない場合が多いのです。その中で、どういう問題が起こってくるかというと、もちろん、みなさん御存知だと思うのですが、在日韓国・朝鮮人の2世、3世が通ってきたような道を通るわけです。たとえば、親とコミュニケーションできなくなることはもちろんなのですが、親を馬鹿にする、日本語をしゃべれない親が馬鹿になってしまう。ここ23日前当たりから、ずっとそういう相談を受けているのですけれども、お母さんだけが外国人という家族が、大阪市ではすごく増えています。5年、10年経ってから、問題が上昇してくる。子どもが、だんだん自分に何も話さなくなる。あるいは、学校のことでもお父さんだけ。学校の先生もお父さんに言う。気がついたら自分だけが取り残されている。子どもが夜遊びをするので叱ろうと思っても、全然きかない。わからないふりをする。

 この間、大阪のフィリピン人のお母さん、国際結婚ですから、名字は日本名、下の名前までは「花子さん」とまではなってなかったですが、そのフィリピンのお母さんが言うんです。滞在3年目のお母さんです。「私たちは子どもが学校に入る前から、ずっと謝り続けているんです。」保健所で言われるそうです。「お母さんの日本語が上手じゃあないから、子どもの発語が遅れるんですよ」と。発語障害というのですか、確かに遅れる子どもは多いのです。どうしてかというと、フィリピンのお母さんはタガログ語ですとか、イロカノ、セブアノ、ビサヤ話などの母語があるわけです。母語でないと語りきれない部分がたくさんあります。でも、日本に来たから日本語だ。日本語がうまくならないと困るだろう。自分の日本語には自信がない。そういう場合に、すごく子どもとのコミュニケーションがスムーズにはいかず時間がかかる。そうして、発語が遅れるケースがあって、ほとんどのお母さんが言ってましたが、保健所で怒られているのです。それで、「すみません」と言う。学校に行っても、ずっと「すみません」と言い続けてきた。だから、懇談会とか出ても、自分は何が何だか分からないけれども、「ウン、ウン」と頷き、「ハイ」と返事する、というようにやってきた。「なんでずっとそういう思いをしなくちゃいけないんでしょうか」と、話していました。結局、子どもも含めて、同化のきつい社会の中で、「日本語の主流に乗れないことは悪いことだ」という負い目を持っていく。

これは神奈川の事例です。神奈川は、インドシナの子どもの受入れが早かったのですが、神奈川県でも本名を名のる取り組みが進んでいるのですが、高校生ぐらいから、もう通名に変えています。あるいは、高校で意識ある先生が、学校では「ホアン君」と呼んでも、その子は塾とかバイト先で通名を使っています。ほんとにそういう状況になっているんです。大阪でだって、中学生ぐらいになったら先生が一所懸命やってきて、「これは中国語でなんて言うの?」と言ったら、「先生、もうそんなん、やめてくださいよう。いいじゃあないですか、もう。」というように中国の子が言うとか。そういう現象がどんどん起きてきて、それは、今取り組みを進めないと、誰も気がつかない。その子たちの親にいたっては、自分が日本語ができないのは悪いことだと思っているし、子どもは「アンタは日本語を上手になって、日本の社会に負けない、メインストリームに入れ」と言われているわけだし、子どもも「そうだ」と思っている。逆に言ったら、それに乗り切れない子どもというのは、おちこぼれちゃって、自分が外国人であることイコールだめという感じになってしまう。そんなふうに、今、すごく感じています。

 

〈教育現場での事例、ケース2

 

どうしたらいいんだろう、というところですね。在日韓国・朝鮮人の問題と新しい子どもの問題で、同じところと違うところがあります。同じところというのは、同化させられていく過程というのは同じなのです。在日韓国・朝鮮人の子どもの場合は、日本で生まれ育っていますから日本語ができるのが普通です。それプラス、自分たちの言葉とか文化を取り返そうという運動をしている。新しく来た子どもの場合はどうかというと、日本語を一所懸命覚えようとしている。日本語ができないから。だけれども、日本語を一所懸命覚えようとしていると、同じくらいの自分の文化を捨てていったり、自分の言葉を、代償に捨てているという現象があるわけです。それに、どう歯止めをかけていくのかというと、なかなか今の学校では難しい。ただ、日本の学校(先生)側が、そういう全然違う部分を受け入れる余裕がないように思われます。そのへん、先程の開発教育なんかやっていくと、もっと違う考えとかができるはずなんです。中国帰国者や在日韓国・朝鮮人の場合みたいに、日本との関係において歴史的な対処をしなかったことをきちんと総括したときには、その子どもたちに非常な理解を示す反面、例えば、バングラディッシュやフィリピンからのお母さんがエンタテイナーで来たという子どもたちに対しての理解というのは、すごく貧しい感じがするのです。アジアとの関係とか、経済的な構造の暴力とか、そういういろんなことから考えたら、その子から日本人として学ぶことというのはたくさんあるはずなんです。

「出稼ぎで来てね、ビザもなくてね、不法なんですよ。どうしましょう?」「不法って言ったって、今どき、えらい罪でも犯したようなことを言いますけれども、不法というのは出入国管理法に違反していることのほか、何でもないんですよ」「ああ、そうなんですか。でも、私、公務員ですから」「公務員でもね、今どき、通報義務と守秘義務とはどっちが重いかということなんか、ちゃんと法務局の人権擁護課から通達が出てるんですよ」「そうですかあ」というふうなんです。まだまだ、日本人一人ひとりが開かれてないからその子を受け止めてあげれない。違うままでいいよ、と言ってあげれない。違う子が入ってきたら、学校を変えるとまではいかなくとも、クラスのルールを考えてみるとか、例えば、その賛否は別として、日本の国旗を揚げるときがあったら、その子の国旗も横に揚げてみるとか、ネパールの場合なんか、世界で唯一の四角くない国旗で、とても楽しいものなんですが、国歌にしてもいろんな国歌を流してみるとか、その存在感を日常的に引っ張り上げてあげる必要があると思うんです。祭りとか遊びとかを、日本人が博物館的に、あるいは不思議発見みたいにとか、よくあるじゃないですか、自分たちの興味とか知識とかを満たしてくれるものとしてだけ取り上げてたら、やっぱりその子は自分を出さなくなると思うんです。もっと日常的に出してあげる場面というのを考える。考えるには、先生の知識とか、先生がその子をどう包容するか、ハートつかんじゃって。これも大阪のどっかの学校であったんですが、南米の子がいきなり蛙をバシッと殺した事件があって、「その後先生はどうしたんですか?」「何もしなかった」。でも、よくよく聞いてみたら、ブラジルのその地域ではものすごい毒蛙がいて、親から「見たら殺せ!」と言われてるから、反射的に「殺した」と言うんです。でも、それは日本人から見たら、蛙殺しですよね。鳩を食べる、蛙を殺す、「なんて野蛮な」とか「なんて残酷な」「なんて劣った文化だ」とかいうふうに見がちなんです。そこのところの発想を変えていくのは先生であり、子どもと接点のある人たちだと思うのです。発想ってなかなか変わらないです。私もネパールに住んでから、やっと変わりました。その中で自分の持っている価値観とか文化とか、文化の上下ですよね、これがいいと思う、これが不潔だと思う、ていうことを乗り越えて、どうやって理解させていくかというのは、先生がその子の見方を変えること。南北問題であるとか、ブラジルの場合蛙が出てきたのですが、アマゾンの地域には地球上に生存するある生物の何%が生息していると思いますか? 何の動物だったか、90%はここにいるんですよ。あとは世界の各地にいる。そういうことを学んでいくとかね。

ただ、生活習慣などの違いについては、それを全面的に採り上げると、それから、日本人から見てマナーの悪い子のことを文化的な違いに直結してしまうと、マイナスのイメージしか残らない場合もあります。だから、あっていい違い、前面に出していい違いと、なくしていかなくてはいけない違いを、よく考えていかないと何でも万歳で取り上げるんじゃあなくて、その子が教室の中で、一人の人間として人権を守られるためにどうするか、ということを考えていかなくてはいけないと思うのです。

 

〈まとめにかえて〉

ずいぶん、最近、学校現場で出会ったことが多かったので、しゃべり過ぎてしまいました。今日やっぱり、あったことなんですけれど、新しく来たお母さんの数というのが、オールド・カマーの数の中に含まれていて、分からないってことって多いなあと思ったのです。というのは、ニュー・カマーの日本語指導を必要とする人たちに対して、母語が分かる通訳の派遣事業があるんですけれども、在籍一覧表に全然載ってない所から電話があって、「子どもへの躾の問題なんかが出たときに、だいたいの日本語はできる。でも、微妙なところでどうしても分からないから来てほしい。」と言うのです。「子どもは通名なんですけれども通名で頼んでいいですか?」「通名も何も、お母さんに必要だったら、お母さんに送りますから」と、言ったのです。在日朝鮮人教育に関わっている先生たちが、そういうところもていねいに見て頂ければ、私ももっと協力できる部分もあるなあと思いました。話をくくらないといけないのですが、先程から言っているように、マジョリティの側から同化を強いるようなことをしてはいけないということ。また、マイノリティの数、例えば、朝鮮人は30人いる、フィリピンの子は3人、朝鮮人にはそこに民族学級がある、フィリピンの子には何にもしていない、というようなことがあっていいのかなあ。来日してきた経緯とか、全然違いますけれども、その子たちの違う文化とか、違う民族性を守るために、「公立学校の中に民族学級をつくりましょう」と運動してきた先生たちが、全く違う子が1人来た、2人来た、「それには対応できないから放っときましょう」というのでいいのでしょうか、ということ。そのためにどうしたらいいのかというところは、みんなで出し合っていかなくては、話にならないですね。そういう問題も、これまで長く関わってきた人たちの中で、もっと頻繁に出されたらいいのになあと思います。

ここんところ、ほんとにそういう問題に出くわし、山積みの状態で、つい話に力が入ってしまいました。時間がオーバーしてすみません。これで終わりにします。

資料            

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