「自分は、やっぱり、
朝鮮人である自分しかない。」
-日本人教職員に望むこと-

前北巽小学校民族学級保護者会会長  
李京愛


この原稿は、1996年1221日に行われた大阪市教組東部支部在日朝鮮人教育学習会における、李京愛(イ・キョンエ)さんの講演テープをおこしたもので、文章責任は太田利信にあります。

〈きっかけは担任の家庭訪問と民族発表会〉

アンニョンハシムニカ。只今紹介していただきましたイ・キョンエです。わたしは、この3月まで、北巽小学校外国人保護者会の会長をさせていただいておりました。4人子どもがいるのですが、14年間、小学校の方にお世話になりました。「この会に出て、お話を」と言われたとき、先生の前でしゃべるというのは、ちょっとイヤやなあと思ったのですが、外国人保護者会とか民族学級とか一所懸命やってこられた先生方と、子どもや保護者たちとが、これから一緒にやっていくための潤滑油になるような話ができればと思って、引き受けました。また、そういうことでしか、わたしがお返しすることは何もないと思って来ました。

初めてのことで、支離滅裂になるかなという不安もあるのですが、できるだけ分かりやすくお話をしたいと思います。よろしくお願いします。

4人子どもがいると言ったのですが・民族教育のことを、すごく考えるようになったのは、長女が3年生のときの家庭訪問で、担任の先生が「北巽小学校では本名で通学するように指導しているのですが、お母さんはどうお考えですか」と言われたのですね。そのとき、わたしは正直なところ「うわっ、きたあ」という感じを受けました。そのときは「学校でそういう取り組みをしているようすが、わたしには全然見えてこないし、そういうところで、子どもを本名で行かせるというのは、とても行かせられません。行かせるのが一番いいことなのでしょうけれど、とりあえず、「今のところはできません」と答えたのです。

自分のときは、逃げて逃げて、いやでいやでたまらない“朝鮮人”だったのですが、それでも、子どももわたしと同じような人間になるのはいややなあとは思っていました。だから、担任にそう答えはしたものの、少しずつ“民族”に関わっていきました。

その子が5年生になったとき、学校のトラジの会という民族クラブの発表会を見学に行ったのですが、子どもたちがチマチョゴリを着て舞台で踊っていたのです。それを見たときに、体は震えてくるし、わたしらにしたら考えられないようなことをその子たちはしているって、すごく感激したのです。その発表を見た後で、先生が一口インタビューみたいなのをされて、わたしの番が回ってきたときに「踊りもですけど、これから言葉とか、そういうことも習える場所になれば嬉しいと思います。」と言ったのです。

そのときに集まった保護者が、その後も何回か集まるようになって、「日本の先生たちが、わたしらの子どものことを一所懸命やってくれてはるのに、わたしら見ているだけでいいんやろか。何かやれることがあればやっていこう」と話し合いました。とりあえずはその年に卒業する子たちに、料理を作って食べさせて送り出そうということになったのです。

〈学校側のたてまえと本音〉

その後、会を重ねるごとに「もうちょっときちんとしたものにしていきたいな」といった意見も出てきました。そして、当時は地域の施設を借りて会議をしていたのですけれども、そのときに地域の施設は無償で開放してくれてはったのですが、「わたしらも小学校のPTAの一員なのだから、学校の部屋を借りられへんのやろか」.ということになったのです。それは当然のことだと思うんですけれども……。それで学校の方へ申し入れに行ったのですが、わたしらの会に部屋を貸すことがいやだったのでしょうか、会議室を借りるのに「床も汚れるしワックス代が要ります」と言うのです。とりあえず、わたしらは分からないものですから払ったのです。

それから、会として運営していくのに「保護者に知らせるための会報のようなものを出したい」ということを、学校の方に言いました。それを全てチェックするようなことで、なかなかうまくいかなかったのです。「保護者会とPTAと、保護者の団体が2つできて分裂する」とか、そういうふうなことをいっぱい言われまして、そんなようすで、1年ぐらいもういらいらする、うまくいかない状態が続きました。

卒業式の前のことでした。その当時、小学校では卒業式のときに、壇上に上がって、一人ずつ正面向いて、名前を言って、卒業証書をもらうという形だったのですね。それをやめるという情報が入ったのです。わたしらはあれもだめ、これもだめ、今まであったことも全部だめということになってしまったので、すごくいらいらした気持ちがいっぱい出てきました。P役員に入っていた人や、保護者会の人たちが集まりまして、2月の下旬でしたか会議室で遅くまで話し合いをしました。

ちょっと前後するのですが、わたしたちが会議室を使うのに、ワックス代が要るという話にしても、考えれば考えるほど、Pの一員であるわたしたちなのに、地域の施設は無償で開放してくれているのに、学校の施設の方はほんとうにこういうお金が要るのやろうか、初めは何の疑いもなく払ったのですけれども変なことないかなというので、どっかの集まり(市教組の教研として、民族学級参観があり、そこへ市教委の指導主事も参席していた=太田註)のときに、「こんなお金を払わないといけないもんですか」と聞くと、「そんなことはあり得ない。どこの学校ですか?」ということになりました。そのときは、学校の名前は出さなかったのですが、すぐに調べてくれはったようです。

学校には“本名指導をします”という形はあるけれども、本心はいやでいやでたまらなかったのだろうと、今にして思うのです。だから、保護者会に対して意地悪をしてみたり、プリント類を配付するのを邪魔したり、それは、本心がいやだからそんなミスをしたのだろうと思うのです。それでも、民促協や市教組が応援してくれて、民族クラブのトラジの会は府教委の設置する民族学級に発展しました。保護者会も同時に発展していきました。 それまでの間というものは、先生たちも校長先生からにらまれて、すごい大変な状況で「いつクビが飛ぶか」といったことで、わたしらも「先生、わたしらも命かけてがんばるから、最後まで一緒にやろうね」などと励まし合っていました。「ここでポシャッたら、子ども連れて引っ越しやな」というくらい、切羽つまった気持ちでした。初め一緒にやっていた人たちも、何人かは離れていった人もありましたし、学校と反目するということで歯が抜けるように減っていった時期もありました。それでも、まあ何とか乗り越えて保護者会を続けることができました。

〈保護者との話し合いは、1回であきらめずに何回も足を運んでください〉

わたしの子どもは、わりあい素直にいって、本名も自然に使っていけたようです。「朝鮮人はしんどいなあ」とは言いまずけれども、「いややなあ」とは言わないから、わたしはよかったのだなあと思っているのです。わたしの子どものときというのは、1949年生まれなのですが、今よりもっと世の中が荒れていました。大人が集まると喧嘩ばっかりしてましたし、朝鮮戦争がありましたし、主義主張のちがいで、ほんとに血を見るようなときもありました。そんな大人、そんな人たちがいややと思って、朝鮮人なんて何もええとこないわと思っていました。でも、自分が子どもを持ってみると、やっぱり、自分で自分を否定することで、決してええものは生まれないし、子どもたちにはプライドを持って生きていってほしいなと、ほんとうにそう思うようになりました。

先生方と10何年かお付き合いがあったのですが、いろんな先生に会いました。さっきも自己紹介のときに、何人かの先生が言われていましたが、生野の学校に赴任して「在日朝鮮人問題に取り組むのは初めて」という方もありましたね。わたしたちが話をするというのは、だいたいが担任の先生です。その先生も「在日朝鮮人問題は初めて」と言ってましたが、わたしは「ここの学校に来られたのなら、ぜひ取り組んでほしい。ぜひ首を突っ込んでください」と言いました。67年経つ間に、だんだん変わっていった先生もおられます。わたしたちが心の中で拒否してしまう、先生たちが話しかけても「先生、その話はやめてください」と言う。「そんなときどう言ったらいいのか分からない」と、先生が言われるのです。でも、相手もやっぱり、先生を試しているのだと思ってほしいのです。ほんとに先生が朝鮮人の話を聞いて、変わろうと思ってくれているということが分かれば、胸を開いて言うものなのです。1回であきらめずに、何回も話してもらうと、分かり合える関係になると思うのです。

一人の先生は、家庭訪問のときに、保護者のおじいさんだったかが、「強制連行で連れて来られて、連絡船の船底に放り込まれて、重油まみれになって……」という話を聞いたと話してくれはったのです。そういうこともありました。お互いに信頼関係ができていくと、そんな話も聞き出せるようになると思うのです。

わたしも知らないこともたくさんありました。それを本なんかで読んで、これはいいなと思ったら、先生に勧めたりしたこともあります。その先生は「通勤途中の電車の中で読

んでいたんだけど、涙が出てくるから、ときどきやめて上を向いて、涙がおさまるまでしばらくじっとしていて、また読み続けた。」と言ってくれました。

〈先生には、保護者同士の橋渡しになってほしい〉

PTAの中でも、わたしたちが静かにおとなしくしていれば仲間に入れてやるけど、朝鮮人の権利とか民族教育が必要であるとかいうようなことを□に出していくと、そっぽを向いてしまうような人もいました。

わたしたちが一番しんどいと思ったのは、同じ在日朝鮮人の親を説得するということでした。わたしもいろいろな話を耳にしたことがあります。言いたいことはみんなあって、それこそ1時間かけても話し足りないようなことを、それぞれの人が持っていると思うのですけれども、わたしたちが変わっていかないと、他人はやっぱり変わってくれない、昔差別受けたということをいつまで言うててもそれはいい結果にならない。やっぱり本名に変えていって、それで相手も変わってくれるということを、在日の人に話しました。在日の人に話し込むことが一番難しかったです。学校の中では、保護者が先生に言って、先生がまた別の保護者に言うという、対角線の関係で話を進めていく、そういうふうにするのが一番し易いのではないかと思います。

保護者会は、年々、手さぐりでやってきました。よその学校では外国人主担の顔が見えない。どの先生が外担をやってくれているのか分からないとかいった学校もあったのですが、わたしらはそんなことはなく、いろいろ積極的にやってもらいました。保護者会の続きを、喫茶店の会議室を借りて、主担の先生や民族講師にも出てもらって、民族学級の行事や子どものことなどを話し合ったりしました。そういう点では、よその学校よりよくやってもらったと思います。話し合いの機会が少ないと、なかなかうまくいかないですけれど、そんなふうにしていってると、うちとけて意見も言いやすかったようにも思います。

保護者会の案内を、学校の黒板に書いてもらったりすることも大切なことやなと思います。それは、学校の中に外国人保護者会が位置づいているということにもなるからです。コソコソやっていることでなく、公然と見えるように子どもたちの教育のためにやっているということだからです。

 

質問に答えて

〈小学校教員A〉

朝鮮人の家庭の中での、学校についての具体的な話題を、もう少し聞かせてほしい。

〈イ・キョンエ〉

子どもが小学校に入学するときに、民族学校に入れた方がいいのか、地域の日本学校に入れた方がいいのか迷っていたことがあったのです。

民族学校というのは朝鮮学校のことですが、どっちに行かせた方がいいのか考えました。地域の日本の学校に行かせて、朝鮮人やからいじめられるというふうに考えたわけではないのです。もしそういうことがあれば、きちんと話をしに行こうと思っていました。それよりも、子ども自身が自分にプライドを持てないような子になったらいややなあと思っていましたから、民族学校に行ったら少なくともその心配はないやろうと思って、どちらにしようかと迷いました。民族学校も通学できる範囲にあるし、よかったのですが、わたしがハングルが分からないし、教えてやることもできないので、日本の学校に決めました。そのかわりに、わたしが民族のことについて考えてこなかった分、今度は子どもと一緒に考えていこうと思いました。

わたしらには小さいときからの経験だと思うのですが、人を見たときにこの人は差別をするか、しないかというのは、感じるのですね。どこがどうというようには説明できないですが、例えば、目の不自由な人が目が不自由なために他の神経が研ぎ澄まされて生活していけるというふうに、わたしらも自分の身を守りたいですから、結構そういうことで差別に対する感性が鋭くなるのかなあと思うのです。この人は大丈夫やとか、この人はだめやとかいうことが、初対面の人でもわりあい分かるのです。

わたしが小学校のとき、朝鮮人やということで頭からさげすんだような見方をしていた先生がいました。学校でそのようにされるということは、子どもにとってはんとに辛いですよね。その子が何かしたというのではなくて、何でもないのに、だけど叱られているということを見たことがあったし、学校でそれは辛いなあと思いました。

 わたし自身は生野で生まれて育っているので、朝鮮人も多いことですから、個人的にいじめられたということは余りないんですけれども、他の人の話なんか聞いてみますと、いろいろ辛いこともあったようです。

〈中学校教員B〉

 イさんが、北巽でトラジの会の発表会を見てすごく感動したという話がありましたが、その他に学校の取り組みや子どもたちの成長のようすから、イさん自身が受けた気持ちなどをもう少し聞かせてくださいっ

〈イ・キョンエ〉

 初めの感動が一番で、後は保護者会の中に入って関わってますので、うまいことやろかとか、失敗せえへんやろかとか、そういう方に神経がいってしまったということがあります。

小学校の民族学級修了式のとき、そこで子どもたちが本名宣言をして、決意表明を「将来こういうふうに自分はしていきたい」というのを聞いたとき、その言葉にウワッと思うものがありました。ウチの娘も「わたしは朝鮮人でよかったと思います。」と言って卒業してくれました。わたしらが一番しんどいときにずっとそれを娘も見ていたからだと思うのですが、「朝鮮人でよかったと思います」と言って卒業して、あとずっと本名で生活しているのです。

 この地域で本名で生きていくのは、まだし易いと思うのです。大きくなって、高校ぐらいになって、地域から遠くへ出たとき、やっぱり本名で生きていくのはしんどいこともあるだろうと思っています。でも、おかげで、小・中とずっと本名でやってきたので、高校へ行っても全然抵抗なく「本名でいく」と言ってます。3学年で一人だけなんですけれど もね。

 高校へ行って初めて、「母さんすごいねんで」と言うのです。本名で行っていると「留学してんのか?」とか、「お父さんが海外出張で日本へ来てんのか?」などと言われるらしいんです。「えっ!?」というような感じなんですけれども、「全く知らない人がいっぱいいる」と言うんです。「中学校のときに金さんとか李さんとかいう人いなかった?」と聞くんですって。「いたような気もする」と返ってくる。「その程度の認識なんかな」と、娘は言います。「自分たちは在日韓国人だから、本名を使っているんやよ」と言うと「苗字が可愛いね」とか、何かそんなこといっぱい言われて、「びっくりしてしまう」と言ってました。

 その娘が英語の授業のとき、先生が「こんな問題、バカでもチョンでも分かる」と言われたらしいんです。その娘は、朝文研なんかに頭を突っ込んでいましたから、そんな言い方はおかしいと勉強していて、気を悪くして担任の先生に言ったらしいんです。「英語の先生はきっと何も知らずに言われたと思うけど、それはやっばり許せない言葉だと思う」と。担任の先生も「それは絶対許されへんことや。わたしから言います」と。「英語の先生も知らんから言ったんやと思うから」と、娘が言うても、「知らんからゆうて許せることとちがう」からと、英語の先生に言われたそうです。その次の日に「朴さん、ごめんね知らなかったから。これから気をつける」と授業中に言うてくれはったそうです。

 子どもが大きくなるにつれて、本名で生活していると、相手が、姿勢をきっちり前に出して生活しているということで、意識を持ってるかどうかについて興味を持たれると思うのです。このときに、こっち側はやっばり、言葉とか祖国のことについて知らないということでは、本名を名のっているだけではあかんかなと思います。ハングルなんかも少しずつ勉強していっているんですけれども、わたしの子どもは、もっと言葉も知り、自分自身民族への認識を深めねばならないと思っているようです。それまでは、とにかく本名で、本名こそと言うてきたんですけれども、これからは、そこからもう一歩踏み出さないとだめやなと思います。

〈小学校教員A〉

 保護者の立場から見て、学校なり教職員が在日朝鮮人に対して配慮しているなとか、こ のようにもっと配慮すべきやないかとか、ど のような場面で感じてこられましたか。

〈イ・キョンエ〉

 高校になりますと、あまり配慮されているとは感じませんね。朝文研のある学校もありますが、そんな学校なら、本名で行っているということで、先生からも入部を勤められたりもするんですが、学校としての配慮は普段はあんまり見えないですね。

 個々人の先生なんかが、少しずつ積極的になってくれる場合もあります。ある社会科の授業のとき、それまでは「わが国では」「わが国の歴史は」などと、教室に日本人の子どもしかいないような言葉の使い方をしていたのですが、「自分がいてるせいやと思うねんけど、先生が「わが国では」と言わなくなった。「この国」とか「日本では」と、朝鮮人であるわたしを意識した言葉づかいになったよ。」と、娘が言ってました。

 中学校の場合ですが、「本名にしますか、通名にしますか?」と、入学当初に子どもと保護者に聞かれるのですね。わたしはその場面を見たのですが、「いやあ……、あんたどうすんのん?」と、お母さんが子どもに聞いているんです。これはまずいなあと思ったんですが、子どもは「そんなん……、通名にするわ」という感じなんです。わたしはそういうのを見た後で、小学校の先生に「卒業するまでに、きっちり家で話をしとくように指導されたらどうですか」と言ったのです。

 小学校のときにも、校長先生に言いに行ったのですが、卒業証書の名前とか呼び方とか「本名で行きますか、通名で行きますか?」といった手紙を出されるのです。それを「もうやめてほしい。『学校としては本名で書きます』と出してほしい。」と言ったのです。学校は方針として「そうします」とだけ言ってくれればいいと思うのです。その後のことは家庭で考えることなのです。とりあえず、学校からは「本名が方針です」だけでいいのです。そのとき校長先生が言われたのは「本名なんて言うてあげへん方が親切やと思う。 在日の人が通名でこんだけ通っているということは、本名を嫌がっているんですから。」ということでした。わたしは「それは大きなお世話です。ほっといたってください。後は家で考えさせるようにしてください。これしかないと思えば、よっぽどそれでは生活に困ると思えば、学校に言いに来るでしょう。それでない限りは、方針通りにしてください。方針があるのに『どっちにしますか』などと言うのはおかしいし、そんな問い方をするから、『どっちでもええもんなんやろか』ということになってしまうのんちがいますか。」と言いました。「本名指導、本名指導と言いながら、どうして卒業のときに後ろ向きになるんですか?」と言ったのです。なかなかそこのところは、通名のパーセンテージが高いということで、安易な方に流れていくようなのです。その後、北巽では、証書には本名記載ということが徹底したようですけど。

〈小学校教員C〉

 うちの親の会で出たことですが、「自分が本名を名のって、朝鮮人であることを明らかにするまでは、何か心の中にもやもやがあって、他の人とつき合ってもわだかまりがあって、ほんとうの友だちができなかった」と言われてました。その人のように、いろいろと明かにするまで悩んでいるという人たちも多いと思うのですが、オモニの場合はどうだったのでしょう?

〈イ・キヨンエ〉

 わたしの娘は「本名で行ってたら、悩んでいる子が寄って来る」と言いますね。同じ高校から進学した友だちが、地域的に少数で、なかなか朝鮮人であることを表に出せないようなのです。大学生活の中でも「お昼、一緒に食べよう」とか、何となく近寄ってくるそうです。何故かなと思うと、「本名で行きたい。でも、なかなかそうはいかない」と、悩んでいるようなのですね。娘はいろんな学習会に参加していましたから、「そんな所へ参           加してみたら」と勧めるそうです。

 わたし自身は、ずっと朝鮮人であることを隠して生きてきました。まわりの友だちはみんな知ってるんですよ。知ってるんですけれども、相手が知っているということと、自分で明らかにするというのとは違うんですね。「自分は朝鮮人やねん」と打ち明けたときに、相手かどういう表情をするか、そのときもしか、さげすむとか、そういうことを感じたらその子とは友だちでいられないという気持ちを持っていました。でも、打ち明けたら「そんなこと、みんな知ってるよ」と言われました。「そんなん、一緒やん」と言う子はいなかったですけどね。「一緒や」と言われたらそれもまた腹立つことなんですけどね。「知っててつき合ってたつもりやったけど」と言われて、たまたまそういう友だちに巡り合えたと思うのですが、すごく安心したことがあります。友だちに何か言われて泣いたとか、そういうことはなかったです。でもやっぱり明らかにしてない気持ちを、ずうっと持ってるというのは屈折している、自分で自分を好きになれない、そういう気持ちがあって、あんまりよくなかったなと、今では思います。子どもを見ていると、この娘はそこを乗り越えているなと感じます。

〈小学校教員D〉

 学校の先生に「これだけはやめてほしい」とが、逆に「これだけは望みたい」ということがあれば・・・。

〈イ・キョンエ〉

 今の北巽の子どもたちは恵まれているなあと思います。今の時代の先生は、差別意識を持っている人もいてはるでしょうけれど、昔ほどでもないですね。

 うまく質問に答えられないですが、一言で言ってしまえば、「ともかく、朝鮮人の子どもたちに、朝鮮問題に関わってほしい」ということです。この地域に来られたら、この問題は避けて通れないことですから、ほんとに関わってほしいと思います。そうすれば、転任されても、きっと巾が広くなって、他の地域の学校でもやっていかれるんじゃないかという気がします。

 実際、何人かの先生を見てましても、よく出て行かれるときに「いい勉強をさせてもらいました」と言って行かれます。わたしら、いろんな話をする中で、深く関わってしまうのです。それまでは、「まあ、学校の先生はこんなもんかな」と、気にならなかったのですが、関わりが深くなると、人間同士ですから、4月の離任式のときに、別れとはこんなに辛いもんかと思った先生もいました。

 関わってほしいということと、1回で引いてしまわないでほしいということ。やっぱり在日の保護者たちは待ってると思うのです。相手の真意がどこにあるかというのを見るまでは、なかなか心を開かないと思います。わたしも初めはそうでした。今はもうこっちの方から「もっと関わってください」などということを言いますけれども、なかなかそこへ行くまでが、待ってるけど避けてるという状態なんです。

〈小学校教員E〉

 去年の卒業式のときに、わたしの担任していた子どもの保護者が、「どうしても証書を通名にしてはしい」と言って来られました。これはしっかり話さないといけないと思って3回ぐらい家庭訪問をしました。3回目にやっと本心を話してくださいました。

 「自分がいやな思いをしたので、子どもにはそんな思いをさせたくない。朝鮮学校ではなく、日本学校を選んだときから、わたしはこの子には一生通名で行かそうと決心したのです。だから、それは変えません。」と、初めは言われていたのです。でも、3回足を運んで話し込むうちに、「やっぱり、先生の言われるように、わたしのこんな思いは乗り越えなあかんねんねえ」と言ってもらえたのです。

 そういう方もおられましたから、やっぱりオモニがおっしゃるように、どこまでも関わって話することが大切やなあと思います。

〈小学校教員F〉

 オモニの話をおうかがいしての感想のようなことになりますが、「関わり続けて」とい うことで、ある保護者から「他の先生からは こんなに何回も、いろいろと話してもらったことはなかった。先生からこうして話され、わたしも思いをいっぱい打ち明けられてよかった。学校の先生たちみんなが、こんなふうに話してもらえれば、保護者ももっと安心して子どもをまかせられるし、民族のことを真剣に考えられるようになると思います。」と言われ、一人の取り組みだけでなく、何とか学校全休のものにしていかなければと、強く思いました。

民族学級後援会という保護者の集まりがあるのですが、わたしも外国人主担をやっていながら、夜の会議ということで、なかなか出席できませんでした。それでも、1回、2回と出席する中で、やっぱり保護者の民族にかける思い、学校への願いを聞くことができたと思います。後援会の集まりにも、他の先生たちにも呼びかけて、出席してもらうようにしなければならないなと思いました。

〈小学校教員G〉

14年間やってこられて、今、まだやり残したなと思うことはありませんか?

〈イ・キヨンエ〉

 やり残したことというのは、それはPTAに対してもっとプッシュしたらよかったなということです。これは、やり残してしまったなと、強く思っています。わたしもPTAの4役のポストを務めさせてもらってはいたのですが、これだけはだめやったなと、今思っています。

 もっと、PTAの会長に民族学級のことを話して、父母に理解が得られるよう説明してもらうとか、そのようにしたかったなと思います。役員に入ってしまうと、かえって近くなり過ぎて言いにくかったです。役員の中で民族学級の話なんかが出たときに、これはきっちり理解してもらわないとだめやということで発言しますよね。そしたら、みんなは息を引くんですね。それが見えるので、息引かれてしまうと話しにくいんですね。正確に分かってもらいたいという気持ちがあるので、こちらも構えるのですね。それがちょっときついかなと思うのですけど……。引いてしまうというのが見えてしまうのです。

 ちょっとずつ改善されていますけどね。もうちょっとPTAに分かってもらいたいですね。別の団体でもなくて、同じ保護者の一員なんですからね。一緒にやってはしいと思います。わたしらもPTAの中に入って、いろいろと会のためにやってるんですから、PTAとしても民族学級のために力を出してほしいです。そのことを実現できなかったのが心残りです。

〈小学校教員A〉

 学校長から聞いたことなんですが、「役員会の中で、民族学級のことなんかで、朝鮮人の保護者から反対意見や疑問に思う意見を出されると、非常にやりにくい。だけど、うちの場合は、キョンエさんが本名で役員になり積極的に意見を言うてくれはる。だからPTAと協力して学校運営をしていくにあたってとてもやり易い。」とのことでした。キョンエオモニが、今PTAのことを言われたので校長さんが言われていたことを思い出しました。

〈小学校教員E〉

 中学校との連携の問題なのですが、小中連絡会で本名のことを言いますと、その中学校の教頭先生が「卒業式の前に、もっと指導してください」と、小学校の方へ振られるんですね。たしかにそういう面はあるのですが、中学校の方でも、入学当初から本名を勧めていくという姿勢を積極的に出していただければと思うのです。

〈小学校教員A〉

 入学式のときに本名を公表している中学校もありますよね。であるのに、受け付けの所で「どうしはりますか?」と聞き直しているのですね。「どうされますか?」ではなく、「本校は本名を基本にしていますので、本名で呼ばせていただきます」の一言でいいと思うのに、そうなってしまっている。北巽の場合も、卒業前の指導で、長い間そんなやり方が続いたのですが、「そんなふうに尋ねる必要はない。学校の姿勢だけを保護者に知らせればよい。」というふうに変わってきたのです。そのようなけじめを学校として示すことは大きいと思います。その中で、本名を公表 していることの意味を、教職員集団でどこまで共通理解していけるかという問題ですね。

〈イ・キョンエ〉

 中学校へもその話をしたことがあるのですが、「小学校は先生の意見を子どももかなり聞くけど、中学校になると子どもが自分でいやと言うと、それ以上は指導しようにもなかなかできない。」と、弁解されるだけでしたね。

 わたしらにしたら、ほんとに残念です。あれだけ、小学校の方で取り組みをしてもらっているのに、中学校へ行ったらすっと変わってしまうということがね。今までが何だったのかという感じになりますね。もちろん中学校で本名に変えていくという生徒もいますよね。担任の指導で、学級の中でその話し合いがふくらんでいったときにはね。そういう生徒のことを、何人か知っています。でも、大きくなるほど乗り越える溝も深いし、広いし、小学校の間で本名に変えていくことが、一番スムースですね。

 本名でいくということは、普通のことなんですけどね。何でこんなに悩まなあかんのかなと、ほんとに、自分のことも含めて思うのです。別に、普通のことなんですよね。自分のほんとうの名前なんですからね。

〈小学校教員H〉

 うちの学校でも、さきほどのイさんの話にあったように「PTAの中でおとなしくしていれば、仲良くしてやる」といった雰囲気があって、民族クラブの発表会なんかでも、なかなかPTAの役員会にその意義を理解してもらえない状況があります。「なんで、日本の学校でこんなことすんねん」といったことを、いつも言ってくるし、地域の有力者までが役員に加わって、校長に圧力をかけてくるようすもあります。何か、日本人対朝鮮人といった構図にまで発展しかねない面もあるのです。

 わたしたちはなんとか仲良くやって、発展させていきたいと思うのです。もちろん、そんなふうに足を引っ張る方が悪いのに決まっているのですが……。一人ひとりの日本人の保護者を考えてみれば、そんなふうに思っている人は少ないと思うのですが、役員会とか組織ということになってくると、表立って反対の動きが出てくるのです。

 イさんは、そういった状況で日本人の保護者と、どのように協調してこられたのでしょうか?

〈イ・キョンエ〉

 役員になる前に、何年か実行委員をしていました。「わたしを役員に……」という話が出たときに、「あの人はねえ、あっちの人やしねえ。民族学級のことをやっている人やしねえ。」ということを言った人もあったらしいですけれども、もう一人の人が「役員にふさわしい人やから、ぜひなってもらいましょう」と言われたそうです。

 何も在日朝鮮人が日本社会でへつらうことはないと思うのですが、人間関係なんか、普通につき合って、真面目に話をしていけば、信頼関係はできてくると思います。「あの人はねえ」などいう言い方をする人は、「朝鮮人なんか」という考え方を頭に置いている人やと思うから、「そんな人やったら、わたしも別に心を許して話すこともないわ」という気持ちになってしまいます。でも、そうやってしまうと、なかなか進めていけないので、そういう人にもどういうふうに分かってもらえるやろかと、いろいろ考えましたね。「国がちがう」ということを、一番の考えの基に置いている人は、なかなか大変ですね。最後まで、ぎくしゃくしたまんま終わったなという人もいました。

 親しくなると民族学級のことも話せましたし、どういう経過でできたか、何故必要なのかということを話しました。何人も話しました。「よく分かった」と言ってくれる人もありました。きっちり話せば、きっちり分かってくれるし、とくに声を荒らげて言うことも なかったです。接点がつくれないこともあり ましたけど……。ちょっとずつでも浸透して いくことでしたね。喧嘩してしまったら、いっぺんに後退してしまいますからね。それで ひけめを持つとかいうことはないですから。

 先生の学校でも、何とか説得していって、うまく続けてほしいと思います。

〈小学校教員I〉

 日本人の保護者の中には、教員もそうですが、「日本の学校に果てんねやから、日本の教育を黙って受けたらええやないか。なんでそんなに民族や民族学級やて、こだわって言うんや」などと言う人もいますね。イさんはそんなとき、どう話してこられたのですか?

〈イ・キョンエ〉

 日本の学校やからこそ、そういう教育が必要やと思っているんです。やっぱり、戦争が終わったとき、朝鮮人がどんな状態に置かれていたのか。「祖国に帰るのだ」ということで、全国に600もの学校を建てて、祖国の勉強を子どもたちにさせようとしたこと。それを阪神教育事件の中で、むりやり朝鮮学校をやめさせて、日本の学校へ入れさせたのだから、日本の学校で当然朝鮮の勉強を保障すべきだ、そういうふうに民族学級を設置するという覚書も、当時の府知事が約束したのやから、というように歴史的なことをきちんと話して、日本の学校で民族教育を要求する根拠を話します。時間はかかりますが、そういう一つ一つの事実や根拠をきちんと話すことで分かってもらうしかないのだと思います。

 それから、「日本に住んでいて、日本の学校に行かせてるのに、何で朝鮮人ということを強調するのか」という言い方に対してですが、それはもう一言ですが、「自分は自分でしかないんや」「日本に住んでいても、朝鮮人である自分は、朝鮮人としての教育を受けたいし、朝鮮人である自分として育っていきたいんや」ということですね。日本の学校も朝鮮人に入学を認めて、また国際化などということも言っているのですから、わたしら朝鮮人が朝鮮人らしく生きていけるような教育をきちんとしてほしいと思います。教育というのは、そういうことを育てていくもんやないでしょうか。

 日本人が「わたしは日本人です」と言うように、朝鮮人が普通に「私は朝鮮人です」と は言えないような、今の社会ですよね。それが「自分は自分です」と言えないということ なんです。子どもたちに「自分は自分です」「自分は朝鮮人です」と、わだかまりなく言えるように教育をしてほしい。そのために民族学級も必要なんやと思うのです。

 よく言われることですが、「在日朝鮮人というのは0からの出発ではなくて、マイナスからの出発だ」という言葉があります。「自分が自分である」ということを認める、そういう認識を持った時点で0になって、そこから出発する0だから、非常にしんどい生きかたを強いられているのですよね。

 子どもが大きくなってきて、「お母さん、朝鮮人やっていくのって、無茶苦茶しんどいなあ」と言うんですよ。歴史の勉強なんかすると、「ああ、こんなこと」ということに気がついたりするようです。だからと言って、「日本人なんか嫌い」と決めつけないで「いろんな日本人がいるから、分かっていこうとしている日本人にきちんと話しなさい」と言います。

 わたしが保護者会をやっているときも「日本人なんか信用したらえらい目にあうで。やめとき、やめとき」という人もいましたが、やっぱりあきらめたらあかんと思ってがんばりました。分かってもらえた日本人の先生もたくさんありましたし、保護者にもめぐり合えました。北巽の民族学級保護者会の活動に参加させてもらって、ほんとによかったなと思っています。

 これからも、日本の先生方ががんばってほしいと思います。今日は熱心に聞いていただいて、ほんとにありがとうございました。

(『むくげ』150号より)

   

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