朝鮮学校問題

国会からの報告

                    参議院議員  清水澄子

 

(教育とは何なのか)

みなさん今晩は。今ご紹介を頂きました、参議院議員の清水澄子でございます。本日、この424朝鮮学校弾圧阪神教育闘争49周年という歴史的な日のシンポジウムに参加させて頂きまして、大変嬉しく存じております。わたしは教育の専門家ではありません。けれども、教育とはいったい何なのか。それは人間が人間らしく生きる力を育んでいく活動だろうと思います。豊かな人間性を準備して自己確立と言いますか、自主性を確立していく。そして、他人の権利や文化を尊重し合って、みんなと友好的に平和的に生き合っていく、人と人との関係をつくり出す力。それが教育の目的でしょう。人間の人権文化を創造する時代というのは、そういうことであり、21世紀を前にみんながそういう理想を描いているし、それが人間にとってもっとも当たり前のと言いますか、もっとも人間らしい理想であり、活動であろうと思います。

そういうものを伝達していくためには、どうしてもその手段というのは文字や言葉、言語だと思います。言語とか文字というのは、その民族の精神的な生命、財産であると思います。その民族がより民族的な生活、その誇りを持って生きていく、創造活動をもっとも根源から支えていく。つまり、そういう創造活動の生命の源であると思うわけです。どこの国の人でも、すべて自分たちの言葉、親から受け継いだ、その社会で生きていく上での母国語で、教育を受ける権利というものが保障されなければならない。そしてそれは、人間にとってもっとも基本的な人権であるということを考えるならば、それこそが教育そのものであるということでしょう。

ですから今もごあいさつにありましたけれども、その普遍性というのは世界人権宣言を始め、今日までにさまざまな人権に関わる国際的な条約の中には、すべて教育を受ける権利、選ぶ権利が認められ、それは世界全体の中でほんとうの基本的人権として、その規範が確立されています。その徹底をさらに深めていくための「国連人権教育10年」という運動が、今、提唱されているのだろうと思います。

そうした視点で見ますなら、朝鮮人が朝鮮人として生きる力を育む、まさにそれこそが民族教育だろうと思いますけれども、在日朝鮮人の当たり前の権利であろうと思います。それはまた、朝鮮民族の尊厳そのものだろうと思うわけです。とりわけ、わたしは、民族というのは国家というものが成立する以前から存在しているものであって、それはまさに自然的な血縁的な共同性を前提としながら、言語とか道徳とか生活様式・風俗習慣などあらゆるそれぞれの民族の伝統的な文化を共有している人間の集団であると思うのです。朝鮮人はキムチがなければ食事ができないというほどキムチを好まれます。しかし、わたしたち日本人は、毎日キムチがなくてもたくあんや白菜の漬物を食べたりしています。これはやはり、一つの民族の風俗習慣を示しているのでしょう。民族固有の言葉や文化・歴史を維持して、継承して、発展させていきたいという、それはまさにその民族がもっとも求める営みでありますし、それこそが教育の基本的な役割ではないかと思っております。

(JR通学定期券差別撤廃の運動)

では何故、この当たり前の権利が日本社会では、朝鮮人の民族教育というものが保障されないのだろうか。それは、後ほどきっとパネラーのみなさんがお話しなされると思いますが、全て、日本の政治の基本的な姿勢の中に、朝鮮に対する植民地支配への反省や、そして、在日朝鮮人に対する差別というものを徹底的に克服していくというその意思が、政府にも社会にも希薄である。とりわけ、北朝鮮に対する敵意にも似たようないろんな行為が、民族教育への抑圧に集中的に表れているのだと思います。

学校教育法において、「朝鮮学校は学校ではない。各種学校なんだ。」と、こういうことを規定してしまっていますし、さらに日韓条約締結との関係では、民族教育を否定する文部省の事務次官通達が出されております。それが1965年のことだと言うのに、今日もなお、その通達が生きていて、それを変えようとする大衆運動も、また政治家も少ない。日本人のその無関心さが問題である。わたしは今は国会という場に籍を置いております。これまでにも朝鮮の人々と連帯すること、民族教育の問題などに関わってきましたが、それらの政治の場、国会という所での決定というのは非常に重要な意味を持っていると思っています。

そういう中で、わたしが今日みなさんにお話しできるのは、長い間運動をしてきた者の一人として、国会議員としての議席を得た中で、わずかながら厚い政治の壁を撃ち開くことができた、その体験をご報告したいと思うわけです。

その1つは、朝鮮学校に通う子どもたちの通学定期券の問題です。朝鮮学校が学校教育法「1条校」ではないという、ただそれだけの理由で、日本の学生に与えられている割引率が適用されなかった、大人並の料金を支払っていた。まさにこういう差別が、20年間も日本社会で継続されていたのです。わたしがそういう間題を知ったのは、今から10年ぐらい前でした。在日朝鮮人のオモニたちと話しているうちに、「こんなにわたしたちは差別されている」と訴えられたとき、わたしは初めてそれを知りました。それを知ったとき、わたしは非常に恥ずかしかった。どうして、こんなことをみんなは黙っているのだろう。

そして、わたしは全国的な運動に広げたわけです。3代も4代も運輸大臣が代わるほど署名をしたり、要請を続けていきました。しかし、なかなか、それは解決できなかった。ところが1993年、自民党が敗北をして、わた.したちが予期しなかった細川連立政権ができて、わたしも社民党に所属する身ですけれども、わたしたちが連立与党になった。与党になっても、何をしたらいいか分からなかったのですけれども、しかし、そのときに偶然にも運輸大臣が、元の社会党の伊藤茂さんだったわけです。わたしは「えっ、伊藤さんが運輸大臣になった」、この発表があったときにずうっとこれまで3人も4人もの運輸大臣が実現してくれなかったこの定期券の問題を、この大臣のときに何とかしなければと思いました。それで、就任されたその夜に伊藤さんに会って、「あなたが大臣のときに、この問題は絶対に解決して頂きたい」、こういう要請をしたわけです。しかし、それはいくら大臣でも、大臣が一声言って何かなるものではありません。日本社会というのは、ほんとうに官僚政治ですから、いかにしてどういう根回しをしながら、官僚がやらざるを得ないようにしていくかということに、大変な知恵をしぼりましたけれども、しかし、この問題はついに解決をいたしたわけです。

1994年の41日から、この格差がなくなったわけです。そのときわたしは、やっぱり政府を動かしていけるかどうかということがとっても大事だということを改めて実感をしたわけです。それと、人間の権利というのは在日朝鮮人のみなさんたちが、この要求をわたしたち政治家に出して、わたしたちが動いて実現したのですけれども、この対象になったのは、何と朝鮮学校に行っている人達だけではなくて、各種学校8000人の日本人学生、そして専修学校14000人の学生もすべて、学生割引率と同じようになったわけです。そのとき、JRが減収となったのは24000万円でした。自分の権利をかち取るということは他の人の権利をも拡大するという、まさにそういう関係であったと思います。しかしここにおいても、「1条校」ではないという文部省の規定は生き続けていました。運輸省がどういう通達を出したかと言いますと、「JR通学定期券の割引適用範囲の暫定的拡大を行う」というものを、全国に出したわけです。これが実行されてしまうのに「暫定的拡大」という言葉をつけなければならなかった理由は何だったのでしょうか。それは、多くの朝鮮の子どもたちや、各種学校・専修学校の学生たちの人権に対する配慮よりも、文部省への配慮の表れであると思います。

(神戸・伊丹朝鮮学校復旧のための助成金の獲得)

2つ目には、これもわたしにとっては、思いがけない壁を開けることができました。阪神淡路大震災時の朝鮮学校の復旧建設費において、日本の私学並の助成金を出させることができて、また、学校への寄付金を損金扱いにさせるということができました。そもそも日本の学校や福祉施設の寄付金については税金で損金扱いになっているものなのです。ところが朝鮮学校はそうはなっていなかった。「1条校」でないから損金扱いはしない。ここでも「1条校」という問題が、大きな意味を持っているわけです。それについて、「震災時に限り」ということであったのですけれども、ようやく損金扱いにさせることができました。

こういう話をしますと、すごく簡単にできたかのようにお思いかもしれませんけれども実は、JR定期券の場合と同じようにいろいろ工作をしました。わたしは一昨年のあの117日、テレビで阪神淡路大震災の災害のようすを見ていて大変心配していました。長田町は在日朝鮮人の方が大変多く住んでおられる所ですが、燃え盛る神戸の街のようすを見ながら、在日朝鮮人のみなさんのことが、気が気でならなかったのです。あの震災が起きたすぐ後、国会では内閣の中に総理を先頭として「災害対策本部」が設置されて、連日朝8時から、省庁ごとに自分たちが管轄する分野の災害の実態報告がされました。ここに激甚災害法が適用されるわけですから、それに指定される対象の報告が、毎日あるわけです。そして、どんどん予算をつけて決定されていくわけですけれども、その中に、朝鮮学校というのは一つも出てまいりません。わたしは、そのことに非常に不安感を持ち始めたわけです。それは、朝鮮学校というのは日本の法律の枠外に置かれているわけですから、このまま縦割りの行政政策の下に放っておいたなら、必ずこの朝鮮学校はおいときぼりにされるのではないか。わたしは、そのことが非常に気になったものですから、早速、神戸へとやってまいりました。

それは22日で、まだ電車も通っていなかったのですが、いろいろと乗り継ぎながら現地を訪問しました。日本人の施設は日本の人々や行政が、そこに何らかの救済の手をさしのべるであろう。しかし、法律の枠外に置かれ、今日まで、戦後50年ずっと差別をされておる民族学校に対して、日本の行政は誰一人訪ねる人はいないんじゃないか。そういう思いがしたものですから、わたしは兵庫県の友人に連絡をとって、「とにかくわたしを案内してほしい」と。そういうことで、2人がリュックを担いで、兵庫県の朝鮮総聯を訪ねました。

ここで東神戸朝鮮初中級学校を見ました。案の定そこでは、校長先生を始め、学校関係者の方々たちみんながガックリしておられました。もう二度と自分たちは、この学校の復旧をできないと、父母や同胞たちがみんな被害を受けているわけですから、自分の家を復興するだけでも大変だから、もうこれだけのお金を集めるという自信もないし、ほとんどこれは不可能に近いということを話されたわけです。わたしはそれを聞いたときに、すごく辛かったのです。と言うのは、その同じ言葉で、「しかし、あの関東大震災のような状況が起きなかっただけでも幸せでした。」.とおっしゃいました。今の時代に、あの関東大震災のようなことが起きることは、まずないと思われますけれども、しかし、わたしが心配したように、あの大震災の中で被害を受けた学校に、神戸市の救援物資は届かなかったわけです。やっぱり行政の枠の外にあるわけです。それほど差別されている朝鮮学校、しかもそれは「1条校」でないというたった1条の法律が、これほどまでに、震災という時ですら、こういう非人間的な行政が罷り通っていたわけです。わたしは校長先生や他の先生たちのお話を伺いながら、心の中で思いました。関東大震災のあの時代は、これは国家権力においてああいう朝鮮人虐殺が行われた。しかし今、日本は民主国家を標榜している。みんなが人権という主張もしている。そういうときに、朝鮮人の魂、朝鮮人の精神創造活動の生命とも言えるその民族学校が再起できないというその事実を、もしわたしたちが放置するならば、それは関東大震災と何も違わないじゃないか。朝鮮民族の魂を抹殺することに、わたしたち日本人が誰一人、自分の良心を動かさなかったことになるのではないか。それは、関東大震災以上に、もっとわたしたち日本人の責任は大きいのだと。

こういうことを感じたわたしは、直ちに東京へ帰りまして、これを文部省やそうした役所に話をしても、また法律の解釈の説明で終わるに決まっているでしょうから、これはもう総理大臣に直訴するしかない。そう思って大臣に何とか会えないかということで、連絡をとり続けました。当時それは村山総理大臣であったわけですが、それでも、総理のところへ直接持っていくということは、それはなかなか難しい仕組みになっていました。しかし、わたしは総理に会い「村山さん、あなたが今、この朝鮮学校に対して、日本人の子どもたちが被害を受けたのと同じように、朝鮮人の子どもたちも災害に遭っている、その子どもたちに救済の手を差し伸べないとするならぱ、あなたもあの関東大震災のときの犯罪者と同じになりますよ。総理が直接、大蔵省と文部省の役人を招んで、早くこの朝鮮学校に対しての救済の手を差し伸べるべきだ。」ということを主張いたしました。総理は「わかった。そういうことを知らなかった。言ってきてくれてよかった。必ず、貴方のところへ、大蔵省と文部省の役人をやらせるから、全部説明してやってくれ。」と言われました。わたしは大蔵省と文部省の役人たちに「朝鮮学校には救援物資すら来なかった。朝鮮学校だけでなく、外国人学校、また在日朝鮮人在日外国人すべてに対して、恥ずかしくもおぞましいような政策を、直ちに見直してもらいたい。」ということを申しました。「日本人学校と同じように、震災というこのときぐらいは、お金を出すべきだ。」と主張して、その3日後でしたけれども、戦後50年にして初めて、国から朝鮮学校に対して私学並みの助成金が交付されることになりました。大蔵省も、「災害時に限って」ということではありましたが、寄付金への損金扱いの決定をしてくれたわけです。わたしは、政治にやる意思があればやれるんだということを、はっきり見ることができました。そういう意味ではわたしは、ほんとうに政治家であってよかったと思いました。

ようやくこれで一つのことができたと思ったとたんに、今度は伊丹の学校のオモニから「わたしの学校は伊丹空港の騒音災害の中で26年間放置されている。たとえ私学並みの助成金をもらっても、防音装置をつけた学校建設のためのお金は、とても集めきれない。だから、わたしの学校は潰れてしまう。」という訴えを聞きました。それはその年の5月でした。わたしはちょうど選挙の最中で、1日中全国を飛び歩いていたのですが、わたしのもらっているこのバッジは、日本の多くの民主主義や平和を願っている人々からもらっているのだ。このバッジのあるうちに動かないといけない。わたしはとても当選できないという評判だったわけですが……。それでも一所懸命、運輸省と話しました。毎日、地方から電話をかけて、9月までにその防音装置の費用を決定してくれないと、文部省に助成金を申請する期限が切れてしまうのだ。9月を過ぎてしまうと、伊丹の学校が建たなくなってしまう。もし、この学校が建たないときは、運輸省が潰したことになるのだ。」と要求を重ね、ついに3ヵ月で、この朝鮮学校に対する防音装置の費用を支出するという決定がなされました。実に、26年ぶりの解決でした。

わたしは先日、この伊丹の学校の竣工式に行ってきました。被害に遭った学校を見ていましたから、それは当たり前のことですが、ほんとうにすばらしい学校が建っていて、わたしは、人間としてほんとうによかったという感動を味わわせていただきました。そしてそのとき、この学校はとても国から出るお金だけでは、あれだけのものはできないはず。神戸の学校も、とても国から出たお金だけでは、あのように立派な学校の建設はできません。それは、在日朝鮮人の多くのみなさんが自分たちの家の復旧よりも、子どもたちに民族の魂を引き継ぐ、その民族教育のための学校の建設費を優先して、みんなが団結された証だろうということを、つくづく感じさせられました。ほんとにすばらしいと思いました。わたしたち日本人は、朝鮮民族が今日まで培ってきたそういう民族教育闘争から、もっともっと学ばなければならないと思っております。

(朝鮮高校生の大学受験資格の問題)

最後に、大阪のみなさんたちが20万人の署名を携えて上京され、「朝鮮高校の卒業生の大学受験資格認可の要請」と「朝鮮学校への私学並みの助成金要請」を、小杉文部大臣に提出できる場を設定するためのお手伝いをさせて頂きました。

わたしはそのとき、もっと文部大臣が人間らしい一言を言ってほしいと願いつづけていましたけれども、文部大臣は文部省の大変な妨害のもとで、朝鮮学校の運動を進めている皆さんに会った初めての文部大臣です。これまでは会うことすら拒絶してきたという言い知れぬ怒りを覚えますが、ともかくわたしたちはやっと文部大臣に直接、要請書を手渡したのですからら、今後も粘り強く要請をし続けたいと思います。朝鮮学校に「1条校」に準ずる資格を持たせること、朝鮮民族の権利を確立するということは、わたしたち日本人にとっても、日本の社会をほんとうに人権を尊重する社会、他の民族と仲良くすることのできる社会、それをつくることはわたしたち日本人の当然の使命であります。

 わたしは特に政治の場におりますので、一所懸命努力してまいります。わたしのようなほんの一人か二人が動いたことが、やっぱり一つずつ政治の壁を開いた、この実践を互いに共有しながら民族教育を確立させるために、みんなで共に、今後も努力していきたいと思います。

 

『むくげ』153号1997.8.11より

    
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