「四季」派抒情の本質

印藤和寛

   大阪府高槻市上牧(かんまき)は、北の老の坂山地と淀川河川敷に挟まれた沖積平野の中に位置し、戦国時代以来の有名な法華村である。村の中心に本澄寺という寺院があって、その境内に三好達治記念館が作られている。数年前偶々友人たちと訪れて、住職の三好龍孝さんにお話を伺う機会があった。彼は達治の甥に当たり、身の回りの遺品ほかさまざまなものを集めて記念館を作られたのである。その時、達治についての優れた研究者でもある龍孝さんが作成された記念館調査資料(パンフレット)も頂いた。

 その後、当時勤務していた大阪府立住吉高校で、東京から吉本隆明を招いてPTA主催の講演会が開かれたことがあった。身近に接しても直接口を利くほどの勇気は持ち合わせなかったが、それでも、学生時代に読んだ本を思い出す機会にはなって、目の前の隆明との距離を考えさせられた。

 ここで、記念館の資料をもとに、吉本隆明の三好達治論にも触れて、達治と朝鮮の関係について気づいたことを書き留めておきたい。  

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 三好龍孝さんは、達治の朝鮮会寧赴任の年が、全集年譜などには「大正八年」とあるのを訂正して「大正九年」とすると共に、そのことの重要性を指摘されている。

 達治は市岡中学を中退して大阪陸軍地方幼年学校に入り、1918年(大正七年)東京の中央幼年学校本科に進んだ。その一年半の課程を終えた後、朝鮮へ「教育赴任」したのである。同級の親友西田税とともに、4月2日神戸から宮島丸に乗船、4月9日に清津で下船、西田は羅南の第19師団司令部へ、三好はさらに北、会寧の第19工兵大隊へ赴いた。それは大正九年(1920年)のことであった。

 この間の見聞に関わるものに「国境」という詩作品がある(全集第12巻、『測量船』拾遺に属す。初出は『青空』28号、1927年6月)。定められた半年間の教育赴任の後、達治らは同年10月には陸軍士官学校に入学するのだが、達治は翌1921年9月頃脱走事件を起こし、樺太へ渡るため北海道まで行って、連れ戻された。その時の達治の意図は研究者の間でもまだ推測の域を出ないという。

 「達治が士官学校を脱走して”樺太行き”を敢行した意図は、会寧で断片的に看取した自らに切迫した問題を、いまだシベリア出兵軍が確実に占領中の北樺太の状況を実見することによりしっかりと自分のものとし、翻って士官学校当局に教育内容の検討を直訴するつもりのものではなかったか。」(三好龍孝)(註1)

 憲兵に捕えられた「工兵第19大隊士官候補生」三好達治は、二カ月間陸軍衛戌刑務所に入れられた後、退校追放となり、また直ちに行われて徴兵検査で「第二乙種」とされた。「これは軍当局による達治への<処分>を意味していたと思われる。」大阪に戻った達治は数カ月の勉強の後、三高への入試に合格するのである。

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 三好達治の「国境」とは次のような作品である。


 (前略)

 この国の南端の港の桟橋を踏むだとき、人人は彼らの粗末な食物と、苦役にも等しい激しい労働とを見るだろう。この国の北端の国境に立って、人人はこの晴衣の行進を見なければならない。対岸には早や移住した幾万の彼等が畠を作り街を作っている。その数を二十万人に近いとも云ふ。そして毎日毎日この行列は続いている。旅行の間彼等の一組は他の一組と親密しない。彼等はお互に見識らない。

 冬。河が氷結すると彼等は憤激する。国境監視者たちは重たい毛皮の外套を重ねて、銃の引金に厚い手袋の指がかからないやうになる。すると彼等は憤激する。結氷した河はもはや何等の障碍ではない。それは銀の光沢に過ぎない。かれらは、夜、跣足でその上を横断する。狼のやうに彼等はあらゆる方角へ斜走する。街道の電線が切られる。電線は巧みに碍子のところで切断される。それを誰も発見しない。そしてもはや国境の通信連絡は絶たれている。銃声。銃声。侵入。国境監視所。奪掠。婦女。そして夜が明ける。

 けれども彼等は彼等の仲間に屡々裏切られる。計画の、秘密の山裾を曲つたところで彼等はみんな殺戮されてしまう。



 「ああ、−−これが国境である。」

 『測量船』の中にも例えば「街」という作品が収められていて、


 「山間の盆地」

 「夜ごとに音もなく崩れていく胸壁によって、正方形に劃られている一つの小さな街」

 

が描かれている。

 このような作品の前提となった1920年4月−9月の会寧第19工兵大隊で達治は何を見、何を経験したのであろうか。

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 会寧(ホェニョン)は朝鮮北端に近い豆満江(トウマンガン)岸の国境都市で、川を渡ると中国領の北間島(プッカンド)、オランカイ嶺の峠を越えてその中心地海蘭江(ヘランガン)に沿った竜井(ヨンジョン、中国人は六道溝と呼ぶ)やさらに局子街(延吉)に至る重要地点である。古来間島への門戸をなすここは、物産の中継市場として材木・穀物・石炭などの大取引が行われていた。

 第19師団司令部と咸北道庁のある日本軍の城下町羅南(ラナム)や港町清津(チョンジン)からここに通じる標準軌の鉄道(清会線)は1917年に完成しており、さらに北の上三峯へ川に沿って延びる軽便鉄道が1920年1月に開通したばかりであった。まもなく1920年10月には上三峯からさらに先1.5km下流に「図們江日本軍用橋梁」(筏橋)が第19工兵大隊によって急造され、そこから日本軍は間島へ侵入する。しかし後に、1927年、そのあとに作られた「図們江国際鉄橋」が完成した後でも、竜井・会寧間の馬車輸送は依然軽便鉄道と競合して優位に立っていた。軽便鉄道は「輸送能力は甚だ貧弱にして到底交通機関として使命を全うすること能はずして却って馬車輸送の補助機関たるの感あり」(註2)。

 対岸の間島に目を向けると、吉林省延吉県治は局子街に置かれ、そこは漢族移民の中心地、行政の拠点であって、街は全くの中国式である。他方、会寧から北へ50km弱、竜井村は移住した朝鮮人の中心地で、人口では局子街をしのぎ、ここが朝鮮内地との貿易の窓口であった。日本の間島総領事館はここに設置され、中国側の海関(税関)もここにある。周辺の平野は、朝鮮人が伝えた水稲栽培の中心地域でもある。 竜井や局子街から東北100kmの密林の中、汪清県西大坡には独立軍の根拠地があり、羅子溝の士官学校では600人の士官練成生が訓練を続けていた。1919年に上海に成立した大韓民国臨時政府は、軍務総長李東輝(リ・ドンフィ)のもと、ここに大韓軍北路督軍府(総裁徐一、総司令官金佐鎮)を組織し、独立戦争の準備を進めていた。大韓独立軍を率いる洪範図(ホン・ポンド)はロシア領とも往来して武器を集積しつつあった。李東輝の韓人社会党は既にコミンテルン加盟を決め、モスクワにも代表を送っていた。

 日本側もこれに対応して1920年3月にはシベリア派遣軍の目的を変更し、「不逞鮮人」絶滅を目標に軍事作戦を展開し始めていた。ウラジボストクからアメリカ軍やチェコ軍が撤収した直後、4月4日、日本軍は浦塩の革命派に一斉攻撃をかけてこれを武装解除、翌5日午前4時浦塩北郊の「新韓村」に突入し、独立運動の一挙壊滅をはかった。韓民学校は焼却され、シベリアの朝鮮人の最長老崔才亨も逮捕、射殺された。(この間、3月−5月に「尼港事件」が起こっている。)

 国民−民族による「絶滅戦争」がその姿を現しつつあった。

 当時、会寧はこうした朝鮮独立軍と日本軍との激突の最前線であった。  

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 1920年6月4日未明、洪範図指揮下の独立軍部隊は鐘城(チョンソン)北方で豆満江を渡河、日本軍の国境歩哨所を襲撃した。これと戦って新美中尉が率いる守備隊一個中隊が北岸へ侵攻すると、独立軍は日本軍を迎え撃って撃破、日本側は羅南から安川少佐を指揮官とする討伐部隊を編成してこれを救援させた。6月7日、鳳梧洞(ポンオドン)−豆満江から北側に入った渓谷の村で崔振東兄弟らの独立軍の根拠地の一つ−に侵入した日本軍は、約700人の組織された独立軍と激戦を交えるに至った。

 3.1以来準備が重ねられてきた独立戦争は、ついに始まったのである。これはレキシントンかもしれなかった。洪の部隊は悠々と撤収して明月溝に凱旋し、日本軍は退いて軽便鉄道を軍事用に収用、3000余の兵力で豆満江の防備を固めた。(三好達治も当然そのなかにいた。)

 9月、北路軍政署指揮下の独立軍は、汪清県西大坡の根拠地を出て、西へ向かって移動行軍を開始した。同じ頃、西間島にあった西路軍政署指揮下の独立軍も、柳河県三源浦の根拠地や通化県哈泥河の新興武官学校をあとに、東に向かっていた。目指すところは白頭山麓の安図県である。一方、朝鮮駐屯日本軍司令部は既に8月に「間島地方不逞鮮人剿討計画」を完成し、いわゆる「間島出兵」の準備を整えていた。部隊出動中の9月末には、「安図県の森林中に三千人以上の決死隊員が集結」「茂山で開戦」「十月十一日を期し鮮地に侵入」等の情報がもたらされ、朝鮮では異常な緊張が高まっていた。創刊されたばかりの東亜日報などの民族紙も再び長期停刊となり報道管制が布かれたが、北部の地方官庁では既に朝鮮人職員の欠勤が始まっていた。

 10月2日馬賊による琿春の日本領事館分館襲撃、建物の焼失、いわゆる「琿春事件」を口実として、日本軍の「間島出兵」が始まった。10月7日日本政府は「不逞鮮人らが支那馬賊及び過激派露人と提携して遂行したる」「険悪なる情勢」に対処するため、中国側の承諾なしでも「自衛」のために出兵して「不逞鮮人討伐」を強行することを閣議決定した。日本国内の新聞は、一斉に陸軍の発表に沿って、「過激派露人」と結んだ「不逞鮮人」の残虐行為を取り上げ、「尼港の二の舞」と称したのである。また日本側の論理では、中国領・ロシア領の朝鮮人は帰化の如何に関わらずすべて「帝国臣民」であり、彼等への対処は軍紀に依ったのである。日本軍は、羅南の第19師団が正面から、シベリア派遣第13・14師団の部隊は東の張鼓峰から、関東軍は北西の吉林からそれぞれ侵攻し、総兵力は2万に達した。

 10月21日から23日にかけての日本軍、東陸軍少将の率いる第37旅団−そこに会寧の第19工兵大隊や羅南の騎兵第27連隊も加わっていた−と、北路軍政署指揮下の朝鮮独立軍との激戦は「青山里戦闘」と呼ばれる。日本軍5000と朝鮮独立軍2800が衝突したこの戦闘の真の意味については別に論じたいが、日本側にも多大の犠牲が出たのは確かである。10月25日、日本の朝鮮軍司令官は陸軍大臣に宛てて「此方面にある賊徒は金佐鎮の指揮下にある軍政署の一派と独立軍中洪範図の指揮する一団とを合せ機関銃等の新武器を有し約6000より成るが如し。………頑強に抵抗しつつあり。」と打電している。日本側の目に映った朝鮮独立軍の姿がここにある。(註3)

 三好達治は、こうした前線出動、朝鮮独立軍との決戦の直前に「教育赴任」の期間が終わって部隊を離れ、帰国の途についたわけである。その後、達治がもう一度前線へ、最後まで日本軍が占領し最前線となっていた樺太へ、行こうとした理由は、このことを抜きには考えられない。  

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 三好達治の詩の位置について、吉本隆明は次のようにまとめている。

 「モダニズム詩派は、日本の資本主義メカニズム美の賛美者としてあらわれ、資本主義の危機とともに美学的な衣裳をはぎとられ、裸の都会庶民の情緒的な表現にまで衰退していった。」

 「あとには詩の表現によって検証されなかった中層庶民インテリゲンチャの内部風景の情緒的な意味しか残らなかった。」

 「昭和五年の『測量船』から、昭和七年の『間良集』にいたる三好達治の詩業が、典型的にそのことを示している。」(「前世代の詩人たち」)

 そして「日本的な生活認識が、日本の社会構造の特質にまつわる「恒常民」的な認識にどこかでつきあたる。」

 その結果が、達治の戦争期の作品である。

 

 「神州のくろがねをもてきたえたる火砲にかけてつくせこの賊

  この賊はこころきたなしもののふのなさけなかけそうちてしつくせ」

                      (三好達治「馬来の奸黠」) 

 

 「三好が、その戦闘詩でつきあたった残忍感覚と、情緒的な日常性の併存」、この「日本的庶民意識」について吉本は次のように言う。(「四季派の本質」)

 「「四季」派の詩人たちが、太平洋戦争の実体を、日常生活感性の範囲でしかとらえられなかったのは、詩の方法において、かれらが社会に対する認識と自然に対する認識とを区別できなかったこととふかくつながっている。」

 そうだろうか。少なくとも三好達治の場合は、違うような気がする。達治にはそのような認識は確実にあった。それを、達治の場合には、全く区別して切り離してしまったことこそが問題ではないか。

 「かれらが、詩的な認識のはてに、ついに到達した日本の「常民」的認識の特質を解明することこそ「四季」派の抒情詩が提出する最も重大な課題ではあるまいか。」 これは、吉本から始まる私たちの時代の最大の課題であった。しかし、その「常民」的認識とは、実は、超歴史的な、あるいは古代的なものではなく、1920年代初頭に成立した「日本」観念の外枠に規定されていることを、当然三好達治は理解していたであろう。他方、吉本は、

 「三好の詩に、鉄器をもてあそぶ原始社会人のシャーマニズム自然観の痕跡をみとめないとすれば、おそらく「四季」派の抒情詩の提出する意味を究極的に理解することはむずかしい。」

 と言って、やがて後に、この日本の「常民」的認識の特質を「原始社会人のシャーマニズム自然観」に遡ることで解明していこうとするのは、周知の通りである。

 それも重要なことである。しかしもう一つ別な面もある。

 日本内地における庶民生活の平和さ、暖かさ、やさしい美意識とかけがえのなさが、実は、最前線における敵−他民族、国民と対峙した絶滅戦争の勝利の上になり立っているという認識。国家という究極的な共同性。この当時の新しい、正確な認識は(もちろんそれ自体が吉本流の正確な言葉で言えば「幻想」である)、当時の風潮の中では権力者中枢部の密かな真理でしかあり得なかった。それは大戦バブルとデモクラシーにわく庶民意識とはかけ離れたものであっただろう。しかし、このとき成立した大きな政治的枠組みは、一方でデモクラシーを鼓吹するジャーナリズムによって「不逞鮮人」意識を庶民の中に浸透させ、その結果、一朝非常事態には帝都の中で危機を露呈させ、「敵」を身近に見いだすことになるのである。

 すなわち、一見穏和で心優しい日本人の庶民感覚が、その行き着くところでは野蛮な殺戮者になるというこの二重の構造は、このような政治構造の反映ではないだろうか。

 そのことはもちろん吉本が言っている。

 「日本的庶民意識………このような層の意識構造は、原則的に言えば、社会構造をそのまま反映している。」「さまざまな要素が、庶民の意識にあらわれるのは、まったく、社会構造と庶民の意識構造との同型性による。」(「前世代の詩人たち」)

 しかし、1920年の真実の様相が隠れたままであったため、ここで言われるのは一般的な資本制の社会構造であると見なされてきたのではないだろうか。重要なことは、朝鮮独立軍と対峙する日本帝国の、真実の社会構造に対する認識である。三好達治の抒情詩の根本には、そのような隠された認識があったに違いない。

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 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ

  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」
 


 これはただ単に「裸の都会庶民の情緒的な表現」「民話的情感を優に定着して見せた」ものだろうか。確かに、ここで達治の生地大阪市中の屋根屋根を思い浮かべても、間違いはない。しかし、達治の心の中では、この安らかな庶民の情緒と表裏一体のものとして、豆満江をはさんで「敵」と対峙する現実の社会認識があったことは確実である。この詩に描かれる「屋根」は、大阪の屋根であると同時に、会寧、植民地の最前線、銃声とどろく国境の町の屋根でもあったのである。

 この意味では、「「四季」派の抒情が、ほぼ庶民的な情緒の位相にまで屈折したとき、外から排外的、帝国主義的な民族主義意識を自然に受け入れる基盤を持った」(吉本「現代詩の問題」)というよりも、三好達治の場合、むしろ逆に、帝国主義の真の社会構造を認識した目によって、庶民的な情緒もまたそのような形で詩に定着させることができた、ということができるのではないだろうか。「庶民的な情緒」もまた歴史的なものなのである。
(印藤)

 

 (註)1 三好龍孝「三好達治の陸軍幼年学校中退に就いて(その三)」

       高槻市上牧町2−6−31本澄寺内 

       三好達治記念館 昭和57年8月1日発行。

    2 『現代史資料11』みすず書房、131−132p。

    3 金静美「朝鮮独立運動史上における1920年10月」

       『朝鮮民族運動史研究』第3号、1986年。

    * 吉本隆明の作品は『抒情の論理』所収。

『むくげ』155号1997.12.25より 



 

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