日常生活の中に「韓国・朝鮮」を

新生野中学校 乾啓子

1.生野に赴任するまで

1974年新米の教師になった私は、大阪市の赴任校で非常にショッキングなことに出会った。日本の学校に外国人の子どもが通っていること、しかも彼らは本当の自分の国の名前があるのに、それを使わず、いや隠すために日本の名前を使っているということだった。外国語として英語を専攻し、英語の教師になって、子どもたちに外国のことを教えようという私の抱負は、最初からつまずいた。

その子たちは、自分の国の言葉や歴史を学ぶチャンスもなく、ひたすらいい点を取ろうと、日本語や日本の歴史を勉強している。母国語や自分の(国の)歴史を知らないこの子たちの人格形成はどうなるんだろう? 母国語を学ぶチャンスも与えられていないこの子たちに、さらに二つ目の外国語である英語を教えることは、どれほどの意味があるのだろうか?これが私と日本の学校の在日韓国・朝鮮人の子どもたちとの出会いであった。幸いなことにその後の6年間、私は先輩の先生方に恵まれ、集団教育のノウハウ、解放教育や在日朝鮮人教育の大切さを教えて頂いた。

2.生野区に転任して

(1)"荒れた子"をつかもう

生野では生徒の反応も違っていた。授業中に"I  like キムチ"と叫ぶのである。これは何かしていかなければならない。そしてそういう子はたいてい"荒れて"いた。"荒れて"いる子の中で韓国・朝鮮人生徒は目立っていた。彼らはどうなるのだろう。韓国・朝鮮人として自分を見つめ、自分たちのおかれている立場を知り、しっかりしてほしいと思った。彼らをつかみたい。私から民族についての話を聞いて何かを学べば、私という教師へのなにがしかの信頼ももってくれるのではないか。私は彼らとの人問関係をつくることが必要だった。授業中でも、少しは私の注意を聞き、ちゃんとしてくれるのではないかという下心もあった。実際、私はままならない子どもたちの態度に授業で困っていた。このもくろみ(韓国・朝鮮の話をして、その子たちの疑問や知りたいことに答えたり、差別と闘っていくことの大切さを話したりして、彼らの二一ズに答えることで、彼らとの人問関係をつくること)は、多少なりとも功を奏したように思う。決して"落ち着いて"いたわけではないその学校の10年間で、私は`'荒れている"韓国・朝鮮人生徒から助けられたことが何度もあった。

(2)なぜ、朝文研に来ないのか

ただ一つ、どうしてもわからなかったのは朝文研に来ないのである。2割近い在籍率で、地域柄、誰が韓国・朝鮮人であるかは、ほとんどの子たちが知っている。しかし、"荒れて"いる子はもちろんのこと、おとなしい子や"優等生"らしくしっかりものを考えそうな子も来ない。それにはいろいろな要素があることに、その後気づいていくわけであるが、いくつかの点では解決できたが、依然として現在でも私の課題である。

3.日本の学校は、地域がどこであろうが、どんな韓国・朝鮮の子であろうが、彼らにとって住みにくいことに変わりはない。

(1)日常の中で、自然に、素直に、民族が出せない

3年目にして初めてその学校で担任となり1年を受け持った。入学式のクラス発表は、通名を使っている生徒でも本名を入れるのが、他の多くの生野区の中学校と同じく、その学校のやり方だった。出席簿にも必ず本名が入っている。学期始めの頃は、その表が各学級の壁に貼っておかれるのが普通である。そこで気がついたのであるが、毎日、友だちの本名をながめながら、教室の中にはほとんど韓国・朝鮮の話が出ないのだ。

また、そのクラスにはやんちゃな子がいてしょっちゅう家庭訪問に行くことになった。問題が起きて行くのだから、あらかじめというわけではない。しかし、その家庭には何時行っても夕食時にはキムチやその他の韓国・朝鮮の料理があった。そこで気がついたのはその子の家では、いつもキムチを食べているのに、弁当には一度も入っていなかったことである。たくあんなどが入っていた。「何で?」と聞くと、突っ張っていたその子の弁当にキムチが入るようになった。

もしやと思って、他のおとなしい子たちに聞いてみた。「絶対よう入れてこん。絶対なんか言われる。○○君(突っ張っていた子)やったら、ケンカ強いから言われへんけど」「日本人の友だちとかと話していても、いつもこの話していいかなとか考える。なんか言われたり、変に思われたらいややから」

在日韓国・朝鮮人は、腕力がなければ自らの民族性を守れなかったのだと、つくづく思った。どんなに在籍率が高くても、日本の学校は韓国・朝鮮人生徒にとっては住みにくいのだ。

自然に気負いなく、韓国・朝鮮の話が出る教室にしたい。2割近い在籍率なのに、そのことの話題がほとんど出ないのはおかしい。それには何をしたらいいのか?教師から話題を提供するしかない。学活で話をする。昼食時にキムチを持ち込む。考えられることは何でもやってみた。

(2)問題を抱えているのは"荒れている子"だけではない

「道で韓国・朝鮮人のおばあさんらが大声で話しているのを見て、日本人の友達が『だから朝鮮人っていややね』と言ったとき、何も言えなかった。私もそう思ったから」と。自分の民族について知る機会がないので、物事を見る目が日本人の目になっていることもわかった。

やんちゃな子で、大声で「朝鮮人や」と叫んでいる子も、ちょっとちょけたり、ことさら突っ張ってしか民族のことが言えない。きちんと普通に言う自信がないのだ。または、そういう場がなかったのかもしれない。落ちついていて、しっかり勉強に取り組めて、物事をしっかり見、考えられると見えていた子でも、民族のことに関しては、周りの目や自分の民族について知らないことからくる不安を抱えていることに変わりはなかった。

(3)子どもたちの思いをつなぐ

韓国・朝鮮の子が日本人の中でこんな思いをしていることを、日本人の子は知らねばならない。友だちでありながら余りにも知らなさ過ぎる。またその思いを知れば、理解し、支援しようとする日本人の子はたくさんいるのに。韓国・朝鮮人の子は、もっと自分の気持ちを言えばいいのにと考えた。そこで、朝文研だよりを出して、子どもたちの作文を載せ、お互いの心の架け橋とした。それは大きな効果があったと思う。まず作文で、次に会話で、韓国.・朝鮮の話が聞かれ始めた。

韓国・朝鮮人生徒は、民族の話を受け入れてくれる日本人がいることを知った。何よりも、自分だけが特別じゃない、同じことで悩んでいる同胞の仲間がたくさんいることや、韓国・朝鮮人として民族に自信を持つということはどういうことなのかを知ることができた。日本人生徒は、韓国・朝鮮人ときちんと付き合うということはどういうことなのかを考えるようになった。少なくともこういうことを朝文研だよりはめざした。

4.民族講師との出会い「この子たちは卒業してから困るだろうなあ」

生野に来て6年目に、初めて民族講師と出会うことになる。その中学校の卒業生で教育実習に来られたKソンセンニムである。母校の民族の子たちが、ご自分の中学校時代と同じ状況に置かれているのを見られて、そのまま、朝文研の民族講師として残ってくださることになった。全くのボランティアである。「この子たちは卒業したら困るだろうなあ」というのが彼の残られた理由だった。それはそのままKソンセンニム自身の経験されたことだったろうと思う。日本社会の中で民族として誇りを持ちつつ生きることも、国籍条項のある中での就職活動も、全くご自分一人で道を探すしかなかった。本当に必要なことは学校では教えられていない。この思いだったと思う。

5.豊かな民族との本当の出会いは、子どもをどんなに変えるか

Kソンセンニムは、民族の思いや歴史などを教えてくださった。自らの生い立ち、本名にしたこと、祖国への思いなどを語ってくださった。これは日本人教師にはできない。民族楽器を持ち込んで、韓国・朝鮮の踊りや楽器演奏を教え始められた。その校内発表は学校をひっくり返したといっても過言ではない。子どもたちは、これを望んでいたのだ。自分が賭けられる何か。燃えられる何か。民族の文化のすばらしさを堂々と演奏し、次々と自信を持って自らの民族に対する思いを読み上げる生徒たち。40人ほどの子どもたちが舞台に立ち、前後して20人ちかい子どもたちが本名に変わって行った。入学時には5人ほどしかいなかった本名の生徒が、卒業式には韓国・朝鮮人生徒100人中98人が本名で卒業したと記憶している。今でも、生野で何かあるときは、民族団体で活動している当時の生徒たちに何人も出会う。

6オモニたち

朝文研の活動は、オモニたちが支えてくださった。地域を回ってカンパを集め、子どもたちの発表時の衣装を買ってくださったり、ときどき、朝文研をのぞいたりして、子どもたちを励ましてくださった。何といっても、一番励まされたのは、職員室では浮いていた私自身だった。保護者の熱い思いは現任校でも変わりなく、私や子どもたちを支えてくださっている。

7.最後に

あのときの、あの燃え上がりは何であったのか、どうしてそうなったのか、今でも考えるときがある。いろいろな要素が重なり合っていたと思う。ただ言えることは、それがあの時点での彼らの二一ズを満たしていたということだ。

今年も現任校の文化祭が行われ、朝文研は17名の子どもたちが舞台に立った。時代は少しずつ変わり、子どもたちの様子も変わってきたと思っていたのだが、今年の子どもたちは、10何年前のあのときを思い起こさせる。子どもたちの求めているものは、今も変わっていないのだ。自分自身の「負」の部分の克服、民族のすばらしさを知ることと伝えること、将来への展望、そして何よりも……仲間。

ここにきて私はやっと、初めからの念願だった「英語」という外国語を心から楽しんで教えられるようになった。ALTを迎えての、日本の名、韓国・朝鮮の名、英語の名、そして、現在のALTの民族であるインドの名の飛び交う教室を、私は楽しんでいる。

気持ちがはっきり伝わってきた(「ハヌル」125. 971111日より)

 大きな音を出して、とっても迫力がありました。女の人のおどりもとてもきれいでした。そして、一人ひとり、自分が韓国・朝鮮人であることや、思っていることを発表してくれました。なんとなく気持ちがわかってきたように思います。友だちに韓国・朝鮮人の人がたくさんいます。でも、一人の友だちとしてきちんと見ています。差別はしていません。だから、韓国・朝鮮人の人も自分の国にほこりを持って生きていってほしいと思います。

(1年日本人女子)

ぼくも韓国人だけど、朝文研の皆が心を一つにした発表を見て、とても感動し、「一所懸命やったぞ」という気持ちがはっきり伝わってくる舞台発表でした。

「韓国・朝鮮人はハングリー精神がある」とお父さんは言っていたけど、ぼくもその通りだと思う。だからサッカーでも強いし、何事にも負けない強さがある。ぼくもそのはしくれだと思うと「がんばらな」と思いました。

(1年韓国・朝鮮人男子)

私は普段あまり韓国・朝鮮について思ったことはありませんが、文化祭の作文を聞いてあらためて考えました。チョ君は小学校のとき朝鮮学校に通っていたと言っていましたが、やっぱり、この中学校にも、そういう人がいて、がんばって自分の本名でいっているんだなあと思うと、胸がしめつけられるような気がしました。だから、こういう人がもっとふえたらよいと思いました。

(2年日本人女子)

文化のちがいのおもしろさ(「ハヌル」126.97H12日より)

私は朝鮮のおもちを初めて食べました。おもちというと(日本の)白いおもちしか思い浮かばないけど、朝鮮にはいろんなおもちがあるんだと知ることができてよかったです。

わたしたち、日本人が当たり前だとおもっていることが、韓国・朝鮮の人たちにとっては珍しかったり、韓国・朝鮮の人たちが当たり前だと思っていることが、わたしたち日本人にとって珍しいことがたくさんあると思いました。この前、朝鮮人の友だちと話していると、文化祭のときの話になり、その友だちが「おもちって文化祭のあと食べたやつを、お正月とかにみんな食べてると思ってた」と言いました。わたしも(日本の)白いおもちをみんな食べてると思っていました。ほかにもいろんな違いがありました。これからはもっと、わたしたちは韓国・朝鮮のことを知らなければいけないなと思いました。

(2年日本人女子)

昨年も朝鮮の民族楽器の合奏を見たけれど、今年は人数が増えていたようなので昨年よりもいい合奏が見れました。人数が増えたということは、より多くの韓国・朝鮮人の人たちが、自分の民族に自信を持ったということだと思うのでよかったです。

文化祭が終わって学活のとき食べたおもちのことを、ちがうクラスの韓国・朝鮮の友だちに話してみました。すると、『ムッチャ、おいしかった』と言っていました。やっぱり韓国・朝鮮と日本とは食べているものがちがって、おもちもその一つなんだと思いました。そういうことでも、また、文化のちがいを見ることができたと思いました。

(2年日本人女子)

あなたは友だちとこんなふうに韓国・朝鮮の話をしたことがありますか。日本人がこだわりなく、韓国・朝鮮人が堂々と、普通に、自然に、お互いの民族の話ができたとき、はじめてその場は、「韓国・朝鮮への差別のない場」になったと言えるのではないでしょうか。

本名で呼ばれる場面ができてうれしい(「ハヌル」127. 971113日より)

やってみてよかった。それが、後で振り返って実感したことです。それは自分の国の踊り(プチェチュム)を踊れたり、同じく楽器を演奏すること(サムルノリ)ができるようになったからです。踊ったり、楽器を演奏するのは楽しいと、わたしは思います。それに一所懸命練習して発表したので、それを見てくれた人から「きれいだった」などとほめられると、本当にやってみてよかったと思います。

でも、舞台発表以外でもうれしいことがありました。それは生まれて初めて本名で呼ばれたことです。わたしは中学校にはいってから自分の本名を知ったので、初めて本名で呼ばれたときはびっくりしたけど、とてもうれしかったです。

韓国・朝鮮は、自分の祖国としてとてもほこりに思います。そして、そこにいる自分の家族をいつも大切に思っています。

(2年 李伽耶、イ・カヤ)

韓国・朝鮮人として

民族の立場から思うこと(「ハヌル」128. 971113日より)

私も韓国・朝鮮人だけど、自分の国のことをどんどん知っていくのはいいと思うし、チャンゴをたたいたりするのは楽しい。いろいろなことを知って、私は韓国・朝鮮はすばらしいと思う。

(2年 金京愛、キム・キョンエ)

1年生のときは、韓国-朝鮮のことを考えていたが、2年生になってからは、そんなことは考えなくなった。朝文研に入るのを誘われても、どうしても入る気にならなかった。でも今年の朝文研の発表はとてもよかった。今年は舞台発表には出なかったが、来年こそは朝文研の舞台発表に出たいです。

(2年 文茂樹、ムン・ムス)

ぼくは、いつもいつから本名で行こうかと思っているけど、親はこのままでいいと言っている。前、韓国からおじいちゃんが来た。2人もいた。ぼくは韓国が好きだ。

(2年 韓保典、ハン・ホジョン)

私は韓国人です。でも、韓国人だからといっていじめられたりとかはされていません。けっこう世の中では差別とかがあるみたいです。表では、差別はありませんといっていても、やっぱりあると思います心でも、私は日本籍になりたいとかは思っていません。なぜかというと、私は韓国人だということをかくしたくはないからです。朝文研の発表はすごくよかったので、来年は自分も何かしてみたいと思いました。

(2年 鄭香織、チョン・ヒャンシク)

もっと韓国・朝鮮のことを知りたい(「ハヌル」128971113日より)

私はずっと思っていたことがあります。私たちは学校の授業で英語を習っています。それはできた方がいいのだろうけれど、なぜ身近にいる韓国・朝鮮の人たちが使っている言葉を教えてもらえないのだろう? と不思議に思っていました。英語だって、そんなしょっちゅう使うことは、わたしたちにはないのになあと思いました。私は、韓国・朝鮮の人たちが使っている言葉を習ってみたい、知ってみたいという気持ちがあります。

(2年日本人女子)

韓国・朝鮮はとても近い国で、文化なども身近であると思う。わたしは日本人だけれども、もっと韓国・朝鮮について知りたいと思う。もっと、文化にふれる授業をつくってほしい。

(2年日本人女子)

ぼくは韓国人なので、普段から(韓国に)行ってみたいと思っていた。ぼくもあんまり韓国や朝鮮のことを知らないので、もうちょっと勉強したいと思った。

(1年韓国・朝鮮人男子)

「韓国・朝鮮語を習いたい」という希望に答えるために、朝文研では「拡大朝文研=新生野中ハングル講座」を計画しています。詳しいことは、決まり次第お知らせします。

(『むくげ』155号1997.12.25より。文中の韓国・朝鮮名は仮名です。編集部)
当時の生徒だった金光敏さんからの聞き書きがあります。

     
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