“朝鮮人”としての自己を見つめなおす契機

生野中朝文研活動と済州の故郷訪問

金光敏(キム・クワンミン=生野中民族講師)さんからの聞き取り

925日、チョ推委例会で、生野中学校民族講師の金光敏さんの話を聞きました。1時間余りの話の中で、特に印象に残った部分を2つ紹介します。

〈朝文研との出会い〉

わたしはとても貧しい家庭の中で育った。体重測定のとき下着姿になるのがそれはイヤだった。また、靴下の指先はもちろん踵にまで大きな穴があいていた。そのような貧しさは親が真面目に働かないセイだと思い込み、そして朝鮮人であるからだと思いつづけていた。だから、当然のことで、朝鮮人である自分がイヤでしようがなかった。本名を名のるなどとんでもないことで、通名を使い、隠して隠して小学校生活を送った。

生野中学校へ入学して乾先生に出会った。乾先生は、顔を見たら「朝文研へおいで」と言っていた。あんまりしつこく言うので「今日1回限りやで」と渋りながら覗いてみた。「まあまあかな」と思いながら、毎回顔を出すようになった。秋の文化祭のとき「パヂ・チョゴリを着て舞台に上がれ」と言われたが「とんでもない、そんなこと絶対イヤ」と逃げ回った。結局「照明の係だけでもしいや」ということになった。スポットライトをあてながら、舞台で踊る先輩たちの姿を追ううちに、なにか全身がブルブル震えている自分に気がついた。それはなんとも表現のしようのない感動であった。

乾先生ともう一人、生野中学校で出会った人がいた。郭政義(カク・チョンウィ)という同胞だった。郭政義さんは生野中で教育実習を行い、そのまま朝文研の民族講師をつづけられた。「クワンミン、タコ焼きおごったるから朝文研の部長せえ」「活動終わったらギョウザ食いに行こか」。別にタコ焼きやギョウザに釣られたわけではないが、兄貴のようなその民族講師の魅力にとりつかれて、夢中で朝文研活動に打ち込むようになっていった。学級でも本名を名のるようになった。階段ですれちがいざま「オッス、クワンミン」とか、「オーイ、クワンミン、パスするぞうシュート頼むぞう」とボールを蹴ってくる日本人の友人たち。本名を呼ぶ彼らのその自然さに、言い知れぬ満足感があった。

"朝鮮人"としての自己を見つめるようになった最初の契機が、生野中朝文研であり、そこでの乾先生と郭政義さんとの出会いであった。

〈済州の故郷との出会い〉

つまらなかった3年間の高校生活の後、1990年に祖国=韓国を訪れた。ノ・テウ政権の末期、激しい学生運動がそこにはあった。また、保育福祉運動にも出会った。それらは、青年期初期の自分にとって楽しく豊かな体験であった。

そして“朝鮮人”としての自己を見つめ直す2度目の契機となるできごとに出会った。済州島の故郷にハラボヂ(祖父)を訪ねることになったのだ。済州空港に降り立って「今から行きます」と電話したのだが、どのようにして行くのか交通の便を正しく聞くのを忘れてしまった。ともかくハルラ山の麓の村ということだから、ハルラ山に向かって行けば行き着くだろうと気楽に歩きだした。しかし2時間歩いても3時間歩いても、それらしき村はない。

 はたと困ってしまったところへ、トラックを運転するアジュモニ(おばさん)が通りかかった。アジュモニは「それなら、わたしが送ってやろう」と、快く助手席に乗せてくれた。40分余り走ったころ、「ほら、あの村の入り口にハラボヂが立っている。あれが、あんたのハラボヂだよ。早く降りて行ってやりなさい」と言われた。

礼を言って車を降りたが、ハラボヂが見つからない。ハラボヂはハラボヂでも、そこに立っているのはトルハルバン(済州島の村々の入りロに必ず立っているおじいさんの姿をした石像)だった。まさかあの人の好いアジュモニがからかったわけでもあるまいと、よくよく見ると、そのトルハルバンの陰にハラボヂが立っていた。「あっ、ハラボヂ」「オーッ、お前がクワンミンか」。まさに感動の出会いであった。

ハラボヂはごつごつした手で、わたしを抱きすくめ、撫でまわした。抱きすくめられながら、ふとハラボヂの足元を見ると、そこに無数の煙草の吸殻が落ちていた。これは、全部ハラボヂが吸ったものなのか。とすれば、ハラボヂは孫のわたしを迎えるために、あの空港からの電話を聞いて以来、ずっとここに立ち尽くして、わたしを待ちつづけていてくれたのか。

4時間以上もの間わたしを待ちつづけ、その間にハラボヂは何を考えていたのだろう。それは、故郷を奪われて渡日した60年前を思い、在日の生活の中で育った孫のわたしのことを思いつづけていてくれたのではなかっただろうか。ハラボヂの4時間は、時空を超えた60年間であったのだろう。

*    *     *

そして今、わたしは2つのできごとを大切にしながら、民族講師として母校の生野中朝文研の同胞の子どもたちの前に立っている。

少し、筆者の思い込みによる脚色の部分もありますが、26才と光敏さんは言っているがまるで彼は1世のような話し方をする、と思いながら聞いていました。でも、いい話でした。生野中朝文研・乾先生・郭政義さんとの出会い。祖国・済州島の故郷・ハラボヂとの出会い。光敏さんのたくましさと優しさをつくり出した多くのできごとのうちの、ほんの一部であるでしょうけれど、この話はぜひ、教室の子どもたちと生野・東成の教職員の友人のみなさんに伝えなければと思いました。

(中川小学校・太田利信)


『むくげ』155号1997.12.25より

(
市教組東部支部「チョ推委」1号より転載)

     
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