日教組第48(19991)全国教研提出リポート

民族の文化漂う街でわたしたちの教育実践

大阪市教組東部支部中川小分会  朴智子(パク・チヂャ) 太田利信

 

T 研究の経過と概要

 

(1)現状と課題

 

1998425日、新大阪駅近くのメルパルクホールにおいて、阪神教育闘争50周年記念集会が、「真の共生社会は民族教育の保障から」とのサブタイトルのもとに開催された。

 

当日、残念ながら朝鮮学校の参加公演は得られなかったが、韓国系の建国学園・金剛学園、大阪府内の日本の学校にある民族学級、沖縄子ども会等の公演とともに、シンポジウムが行われた。とりわけ、19183名の民族学級の子どもたちによる大サムルノリ(4種の民族楽器による競演)は、1000名を超える参加者に大きな感動を生み出した。

また、シンポジウムにおいては、「民族教育権が保障される社会こそが、共生社会と呼び得るものである」こと、「50年前の民族学校弾圧は、朝鮮人への弾圧であったのみならず、日本の教育の多様性、他民族・他文化に開かれた社会・教育をも圧殺してしまった」ことをも確認した。

大阪教組も一翼を担ったこの集会の成功は朝鮮学校との連携を今後の課題として残しつつも、民族教育権の保障を中心的課題として真の多民族・多文化社会をめざす運動の第一歩として位置づけられるものであった。

今日における民族教育権保障の主要な課題は、

1に、朝鮮学校をはじめとする民族学校への保障である。@助成金の問題、A国公立大学受験を認める卒業資格の問題、B寄付金に対する免税措置の問題が、その主要な内容である。

2に、学校教育法1条校として認可されている韓国系の学校においては、その認可条件のために、著しく民族教育(ことば、歴史等)の内容を制限されている。民族学校であるにもかかわらず、日本の文部省による学習指導要領や検定教科書、カリキュラム編成などをおしつけられているがためである。これらの制約を撤廃していくことが必要である。

3に、とりわけ大阪において、日本の学校に通うことを余儀なくされている子どもたちに対して、せめて課外であれ、民族の集う場を保障しようとしてとりくまれてきた民族学級やハギハッキョ(夏期学校)などの制度化・民族講師の生活保障の課題である。

これらの在日朝鮮人の民族教育権の保障をめざす運動は、今日、新たに渡日してきた外国人の民族教育権をも保障する運動とも繋がるものである。大阪府内の学校で、中国やベトナムの子どもたちの民族学級が開設されつつある。また、中華学校・マリスト国際学校などの外国人学校の課題をも共有するものである。

「日本人問題としての在日朝鮮人問題」という基本的視点を踏まえつつ、さらに、在日外国人問題へと視座を広げ、多民族・多文化共生の国際連帯の教育をめざすとりくみが、大阪の各地で広がりつつある。

 

この間の大阪での実践と運動の具体的内容は、次のようなものであった。1つは、授業に生かす自主編成の教材作成の活動(大阪市外教「サラム・シリーズ13編」大阪府外教「社会・理科、日本語=中国語対訳集」等)

2つは、民族学級・朝文研・高校での朝鮮語科、在籍少数校を結んでのハギハッキョや民族交流会などの取り組み。(府内30地域で朝鮮人の集い。また、中国人・ベトナム人の集い等)

3つは、それらの実践を保障するための行政闘争(各市町村に「在日朝鮮人教育基本指針」を制定させること=9711月現在42市町村中27市町と大阪府。府外教・市町村外教を設置させること=24市町と大阪府、高校。民族学級の指導者=民族講師に人件費保障)などの取り組み。大阪府内の各小中高の学校には、140を超える民族学級・朝文研等が設置され、60名を超える民族講師が活動されている。こうした青年たちの活動が、多くの朝鮮人の子どもたちを励まし、本名を名のり、民族に誇りを持ち、ことばや歌・踊り・歴史を学ぶ機会を生んでいる。彼らの活動をボランティア的なものとしてではなく、制度としての民族学級・民族講師としての位置づけをさせていかねばならない(98年現在11名が常勤講師、6名が嘱託講師、他に招聘事業指導員制度)

 

(2)今次教研の課題と研究報告

(研究課題)

1.正しい朝鮮観・国際認識を育てるための教材作りと実践をどうすすめるか。

2.在日外国人の子どもたちのアイデンティティ・民族的自覚を育てる実践をどのようにすすめるか。

3.民族学級や民族の集いの取り組みをどうすすめるか。

4.反差別・人権・国際連帯の実践をどうすすめるか。

 

(研究報告)

1.「民族の文化が漂う街でわたしたちの民族教育実践」(大阪市教組・東部・中川小・朴智子・太田利信)

2.「国際理解授業の新しい試み〜外国の高校とのE-mail交換と生徒運営によるシンポジウム〜」(高教組・住吉高・脇田孝豪)

3「ベトナムの子どもたちとともに志紀小日本語教室の現状と課題」(八尾市教組・志紀小・小川徹)

共同研究者内山一雄(天理大学)

 

98年度大阪教組教研では、上記3本の報告について討議し、1の報告が全国教研報告として推薦された。

報告書作成参加者

朴智子(大阪市・東部・中川小学校)

太田利信(大阪市・東部・中川小学校)

 

II本  文

 

1.猪飼野の街と中川小学校

「猪飼野」の街と書いたが、1973年に住居表示が変更されたために、今はわずかに猪飼野橋とか猪飼野交差点などとして残されているだけで、その名の町名は抹消されてしまっている。しかし、一昔前には、韓国からの手紙が「日本国・猪飼野」と宛名書きされるだけで、この街に届いたと言われるほどに大阪市生野区と朝鮮人とは切り離せない関係にある。

生野区の朝鮮人人口は約5万人、全体の25%である。加えて、日本籍取得の増加傾向の中で、朝鮮系日本人も含めれば、さらに高い数値が考えられる。現に、わたしの学級では13名の韓国籍・朝鮮籍の子どもたちと8名のダブルの子どもたちが在籍していて、20名が民族学級に参加して、朝鮮語や文化歴史等の学習をしている(学級の在籍は35)

校区に、キムチを売る店や焼き肉屋が何10軒とあり、ヘップサンダルやネジ・錠などを作る家内工場が建ち並んでいる。また、平野川を挟んで隣の校区(御幸森小学校・朝鮮人在籍率60%。ちなみに中川小は40%。いずれも、韓国籍・朝鮮籍の数値で日本籍者は含まない)には、「コリアタウン」があり、そのまた隣の北鶴橋小校区には、JR鶴橋駅ガード下に広がる「国際市場」がある。韓国キリスト教会館では、青年たちによるハングル講座やチャンゴ教室が開かれ、まさに中川の子どもたちは、キムチや焼き肉の匂い、ヘップ工場の機械音、チャンゴの音色などなど、民族の文化が漂う街で育っている。

中川小学校には民族学級が開設されている。これは、194850年、GHQと日本政府による朝鮮学校閉鎖令に抗して闘われた阪神教育闘争の後、設置されたものであり、常勤の民族講師が配置されている。また、外国人教育加配教員が2名増配されている。にもかかわらず民族教育実践は、まだまだこれからという状況である。

「昭和6年、春弥生……で始まる校歌に象徴されるように、"伝統の校風"は、国際化共生の時代と言われる今日でさえ、学校を取り巻く"地域"の保守性によって、なかなか変えることができない。と言うよりも、大阪においてとりくまれてきた解放教育運動の視点に立つ教職員集団が形成しきれていないが故に、"学校文化"を変え、地域を説得できていないと言うべきなのであろう。

こうした状況を少しでも切り開くべく、わたしたちは、大阪市教組東部支部・市外教・民族講師会・同胞保護者連絡会などの協力を得ながら、以下のような民族教育実践にとりくもうとしている。

 

2.民族学級における実践

@民族学級の概要

民族学級は原則として、韓国・朝鮮籍の児童は全員入級としている。また、帰化や国際結婚等で日本国籍を持っている児童についても、民族学級の入級をすすめている。

民族学級では、言葉・風習・歴史・地理・音楽などの学習を通して、朝鮮人としての自覚と誇りを高めるために活動している。原学級では通名(日本名)を使っている子どもも、民族学級では全員本名を使っている。現在、16年生で、韓国-朝鮮籍児童が182名、日本国籍を持つ児童が27名、合わせて209名の児童が、週に1回、民族学級で学んでいる。

韓国・朝鮮籍児童と日本籍を持つ児童を合わせると、全児童の約半数が民族にかかわる子どもたちである。そのためか、通名を使っていても、「わたし、韓国人。」「わたしのお母さん韓国人やねん。」というように、ほとんどの子どもたちが、自分が“朝鮮人”であることを知っているし、“朝鮮人”であることをかくすことなく、学校生活を送っている。

中川小学校の民族学級は、私が前任のソンセンニム(先生)と交代してからも、56年生にしか民族学級がなかった。1995年度に常勤化されたのを期に、1年生からの民族学級の開級を提案し、また、保護者会からは学校に対して要望をあげた。すぐには、民族学級は1年から開級されず、1996年度には4年生に学期に1回、1997年度には4年生に月に1回の民族学級が開級された。全学年に週に1回の民族学級が開級されたのは、1998年度からである。

 

A 民族学級での子どもたち

民族学級の子どもたちは、本当に明るく元気である。原学級の中でも“おしゃべり”“やんちゃ”と言われる子を選りすぐったようだ。3年生の子どもたちは、その典型のようだ。

その3年生とは、私が中川小学校に来て、一番よい出会いをした学年のように思う。ちょうど常勤化された年に、3年生は入学してきた。担任が休みということで、1年生の各クラスに補欠に入ったり、1年生で行われている《学校めぐり》のときに、民族学級の教室の紹介をしたりした。その機会を利用して民族学級のことや私が何者であるか、朝鮮のあいさつなど子どもたちに話をした。今までになかった機会だった。

当時まだ、民族学級がなかった子どもたちとのこんな出会いがあったせいか、3年生の子どもたちは、校外への行事によく参加していた。

この子たちが3年生になって、民族学級ができた。水曜日の放課後とはいえ、楽しみにやって来る。非常にクセ者が多い学年でもあるので、(一瞬でも静かなときがあったかな)と思うくらい、賑やかである。賑やかすぎるので、話は聞いていないのかと思うと、そうでもなく、わたしの指示にそって活動している。

授業中というのに、ハングルで名前が書けるようになると、「ソンセンニム、名前書けるようになったで!」「わたしも」「わたしも」……。「ソンセンニム、これで合ってる?」「ソンセンニム、できたで。見て!」「わたしも見て!」「わたしも」「わたしも」……。キムユリヂャはその中の一人である。1年生のときから《オリニマダン》や《オリニウンドンヘ》などの行事によく参加していた。12年の頃は、廊下などで会ったときに「ユリヂャ」と声をかけると、「ユリヂャって呼ばんといて。はずかしい。」と言っていたが、「ソンセンニムやったら、ユリヂャって言うてもいいで。」に変わった。23年のクラスの取り組みもあって、今では原学級の中で「ユリヂャ」と呼んでも、以前のようなとまどった笑いはすっかりなくなった。

仲良しの純ちゃんと民族学級の教室に遊びに来たとき、覚えたばかりの名前をハングルで書いていた。気がつくと、同じクラスの友だちの名前もハングルで書いていた。本人でさえも、自分の名前をハングルで書けないでいるのに、ユリヂャは何人もの友だちの名前を書いているのには驚いた。ユリヂャのハングルで名前を書ける楽しさのようなものを感じた。あるとき、「純ちゃんの韓国の名前はどう言うの?」とたずねてきた。二人に、「いろんな国に、その国の特徴をもった名前がある。人には、その国の特徴のある名前が1つだけつけられている。どこの国に行っても、その名前を使っている。」ということを話して、日本人の純ちゃんの名前のハングルでの書き方を教えた。

2人にその話がどのくらい通じたのかなと思うところはあったが、ユリヂャの頭の中には、また一人分の友だちのハングルの名前が記憶された。

ユリヂャだけではない、子どもたちはわずかな民族との出会いの時間を前向きにとらえ、大切にしているのを感じる。

6年生は逆に、民族との出会いの場を否定的にとらえている。学年全体が、よく言われる“しんどい”状況である。

かれらは4年生のときに、学期に1回の民族学級を経験した学年である。それを非常に負担に思ってきた。「日本人は遊べて得や。」その思いは、未だに続いている。活動を続ける中で、自分の国を身近に感じ、自分の国について学ぶことの大切さを感じてくれるだろうと思ってきた。しかし、卒業まであと数ヵ月というこの時期になっても、こちらの思いは子どもには通じていない。

学年は違うが、同じ学校で育っている子どもたちに、なぜこんなに違いがでてきたのか。1年生では3クラスの担任が、まだまだ手のかかる子どもたちを気づかって、毎回授業を見に来てくれる。3年生では担任が、クラスの中で本名を呼んだり、折りにふれ民族にかかわる取り組みをしている。そのことが、朝鮮人の子どもたちの力となっていることは明らかだ。朝鮮人としての自覚と誇りを高めていくために、まず朝鮮人自らが学び考えていかねばならない。しかし、身近な日本人(友だちや教師)が無関心であっては、いくら朝鮮人が“がんばって”も問題の解決にはならない。そのことを今の6年生は語っているように思う。

 

B外国人保護者会

外国人保護者会は、民族学級に通う子どもたちの親で組織されている。民族学級と同様に長い歴史を持っている。

先にも述べたように、子どもたちが学校の中で民族に出会う場を設けることや、本名を呼び名のれる環境作りを求めて、学校に要望することもある。

子どもだけでなく、親も民族教育を受けたことがない世代である。親にももっと民族に関心を持ってもらおうと、保護者会主催の行事を行ったり、新聞を発行したりと、親への呼びかけをしている。また、子どもの様子、民族講師の働きを知るために、時間を見つけては授業参観に来ている。日本人にとっても、朝鮮のことを知ることは大切であると、PTAの活動に積極的にかかわっている。

 

C大阪市民族講師会

大阪市の中には39名の民族講師がいる。午前中は地域ごとに集まって、授業や教材の研究をしたり、各学校での実践の交流をしている。時には、民族の文化を知らせ、広めるために学校公演の取り組みもしている。午後には、各学校に分かれ、民族学級の授業をし、必要があれば家庭訪問もしている。

大阪府下には11名が常勤講師として制度保障されているが、民族学級の活動をすすめる民族講師のほとんどが、1回いくらかの講師料という保障のない中で活動を続けている。

民族学級の重要性が理解され、年々民族学級が増えていく一方で、保障のない中で活動を続けていくのが困難で、辞めざるをえない民族講師も多い。中川小学校の状況でいうならば、中川小学校には制度保障されている常勤講師がいるということで、200名以上の子どもたちをたった1人の民族講師がみなければならない。私が辞めなければ、6年間ずっと同じ民族講師と活動することになる。これで本当にすばらしい民族との出会いができるだろうか。多くの朝鮮人と出会うことで、子どもたちは自分の国を身近に感じ、自分の国について学ぶことの大切さを感じるはずである。

民族学級の重要性が理解され、民族学級を増やしていくならば、そこで働く民族講師の保障がなされ、多数在籍する学校には複数の民族講師が配置されて当然であろう。

朝鮮人の子どもたちが朝鮮人としての自覚と誇りを高めるために、日本人の子どもたちに学ぶ朝鮮人の立場を理解していくために、より良い環境の中で民族学級が行えることを願っている。

 

3.課程内実践と民族学級を結んで

「『朝鮮人の子どもたちを民族学校の門まで』では不十分ではないかと自己批判した先生たちが、今では『朝鮮人の子どもたちを民族学級の入口まで』ということになってしまっていないか!」と、民族講師会から厳しい指摘を受けたことがある。民族学級のソンセンニム(=先生)にまかせっきりで、自分たちの学級で、朝鮮の子どもたちとどう向き合うのか、日本の子どもたちの意識をどう高めていくのか、そうしたとりくみを怠っているわたしたち日本人教職員への警鐘であったと思う。

 課程内での民族教育実践がないとき、子どもたちは、「日本の子らは遊んでいるのに、わたしらだけ残って民族学級へ行くのんいらんわ。」と意欲をなくしたり、また、「朝鮮の子らはきれいなチマ・チョゴリを着て、チャンゴの練習なんかしてええわ。わたしら日本人は、なんで民族学級へ入られへんのん」とネタミを持ったりしてしまう。民族学級は朝鮮の子どもたちの民族教育権保障のために設置されたものという原則を明確にして、原学級において、朝鮮の子どもたちによる民族学級で学習したことの発表の場を持ったり、ときにはチョゴリやチャンゴを借りてきて、日本の子どもたちも一緒に着てみたり、演奏したりする授業を試みることで、こうした子どもたちの屈折した意見は、少しでも解決されるのである。

 

@家庭訪問と本名

48日の始業式で担任発表があった翌日、ヤン・ホンが連絡帳を持ってきた。そこには「今年から民族学級が全学年に広がって、3年生のホンも入れるようにしていただいたことですし、名前も『梁川』より『梁』にしようと思います。よろしくお願いします。」と書かれてあった。

早速、子どもたちにその話をした。「へえ一、ホンちゃん、梁川から梁になったん。ええやん、わたしもヤンやから一緒やん」「ヤン・ホンて、なんか変やなあ。梁川の方が呼びやすいわ。」と、ひとしきりザワザワ。「そうか、変かなあ。そいでも、韓国人は金とか李とか梁とか、一字の姓が多いねんで。オヤジ(わたしは自分のことを『先生』と言うのがイヤなので、こう言っている。子どもたちもそう呼ぶ)は日本人やから太田ゆうて二文字や。もちろん例外はあるけどな」「オレ、保育園のときコナ言われててんけど、みんな『名探偵コナン』とか言うから、健児(けんじ)の方がええねん。」「オレかてチキンライス言われるから、直人(なおと)の方がええ。」「そうか。名探偵コナンはカッコエエと思うけど、チキンライスはちょっとおちょくりすぎやなあ。」

こんなことから、それぞれの民族のことばには特有の響きがあるということや、皇民化政策や創氏改名といった言葉は使わなかったが、戦争中に日本姓の通名を強いられたことや、在日の生活の中で、差別のために通名を使わざるを得ない場合もあることなどを話した。

しばらくは、コナさん、チギンさんと呼んだり、けんじさん、なおとさんと呼んだり、子どもたちのようすを見ながら混ぜこぜに呼んでいた。5月の家庭訪問でコナのオモニと話したとき、「わたしはほとんど朝鮮人がいない少数の地域で育ったので、とても本名を名のることはできなかったですが、結婚して生野へ来て、すっと肩の荷が下りたように思っています。保育園の先生もコナと呼んでくれていましたし、名前をそう呼ぶだけでなく韓国の歌や楽器も教えてくれました。生活の中で民族に親しむようにしながら、名前も本名をというやり方に、わたしは共感していました。ただ、小学校ではまだまだ、いろんな先生がいはりますからねえ。」ということだった。そのうちにコナもチギンも、民族学級で名前のハングルを教えてもらって、プリントなどにもハングルで自分の本名を書くようになった。

水原綾子の家庭訪問に行ったとき、おそるおそる「水原さんとこは日本籍なんですね」と聞いてみた。それは父親の名前が純朝鮮名だったので、ひょっとしたら『帰化』されたのかなあと思っていたからだった。案の定、オモニは「ええ、仕事の都合で『帰化』したんです。それでもそれはほんまに都合というだけで、おばあちゃんはときどき朝鮮語を使いはるし、綾子にも『あんたは韓国人やねんで』と言うたはります。キムチも食卓に出しますしね。学校の民族学級は日本籍でも入れますか。本人は入りたがっているのですけどどうでしょうか。」と言われた。少しずつ、わたしが教室の壁にチュモニ()やコムシン()などの飾りをかけたりしていることが、保護者たちに理解を広げていってるのかなあと感じるようになった。

ペク・ユミのアボヂは、97年度の中川小学校外国人保護者会会長で、今も役員をされている。「わたしのつれあいは日本人なんです。わたしが会長を受けたときも、『家の中には持ち込まんといてや』と言いよりました。子どもも3人とも今は日本籍です。そいでも子供の名前は、日本読みでも韓国読みでも同じになるようにしました。まあ、わたしがやいやい言わんでも、子どもがどんどん変わってきてますから、つれあいも変わってきてます。」と話されていた。

 

A運動会で『ソゴのおどり』を!

オリニウンドンフェ(子ども運動会5)、民族学級合同キャンプ(8)が、民族講師会や同胞保護者会が中心になって行われた。オリニマダン(子どもの集い9)は市外教主催で、また、アジア子どもフェスティバルイン和歌山(7)に中川小民族学級が公演を依頼された。

子どもたちは民族学級で学習したことはもちろん、こうしたいろんな行事に参加する中で覚えてきた歌や踊りを、教室の中でも口ずさんだりするようになってきた。日本の子どもたちも興味を持って一緒に歌ったり、踊ったりしていた。

そんな中で、運動会の団体演技で『ソゴ(小鼓)のおどり』をしようと、3年の担任で話し合った。花笠音頭や佐渡おけさなどの日本民謡の演技は、昨年までの運動会で行われていたのだが、これほど朝鮮の子どもたちが多く在籍しているにもかかわらず、こうした試みは一度もなかった。

踊りの振り付け指導からテープの準備まで、ほとんど民族講師のパク・チジャさんに頼ってしまったが、まわりの学校からソゴを借り集めて子どもの数だけそろえ、全員で踊ることができた。

「おどりをおぼえるのがしんどかったけど、おもしろかった。」「ちょっとまちがったけど楽しかった。」「お母さんが、ようがんばったねえと言ってくれた。」と、子どもたちは短いけれど感想を書いていた。「韓国の音楽て、ちょっと変わってたけど、踊りにうまいことおうとった。」と笑いながら話す子もいた。「3年でオヤジになってから、なんか韓国のことばっかりやなあ」と、さめたことを言う裕子の言葉も気にはなったのだが。

 

B「商店街の学習」とコリアタウン見学

秋夕(チュソク)は日本で言うお盆である。今年は105日だったのだが、満月が美しい夜だった。「お月見したかあ。めっちゃきれかったやろ。うさぎが餅ついとったやろ」「そんなん、おれへんわ。」と冗談を言いながら、「ところでチェ・チュンミ、今朝、何食べてきた?」と聞くと、「うん、メンジリの料理ばっかりでウンザリや。」と答える。「メンジリて何のこと?」と、純子が言って、秋夕の話が始まった。「メンジリて、昔の死んだ人が出てくるねん。」「ええっ、それて幽霊やんか。」「ちゃうねん、日本でかて、線香なんか立ててお参りするやろ。」「ああする、する。」「それや。韓国なんか、3回も立ったり座ったりしてお参りするんや。」「ちゃうでえ、うちとこは2回だけやでえ」「そいで、むし豚やら果物やら、いっぱいお供えして、そいで、死んだ人に出て来てもらうねん。」「それは、そういう気持ちになって、なぐさめんねやろ。」

メンジリは名節(ミョンジョル)が訊った言い方である。そこで、社会科の「商店街のはたらき」の単元で、桃谷駅前商店街とコリアタウンを見学することになっていたので、昨年9月にNHKで放映されたVTR「オモニ優しき秋夕の街」を観ることにした。秋夕の買い物客で賑わうコリアタウンの街を映し出しながら、料理・衣装・青年たちのプンムル(風物=踊り)秋夕の儀式などを紹介して、在日朝鮮人の生活と思いを伝えようとしたものである。

街の様子は、ほとんどの子どもたちが知っていた。「あの店知ってる。チヂミ(韓国風お好み焼き)売ってるねん。」「あれ、石でできた神さんや。」「あすこの豚肉屋で、豚の頭置いてあるのん見たことある。」「あれ踊ってんのんソンセンニムや。」「ヨンイルの姉ちゃんも出てるわ。」などなど、大騒ぎになってしまった。

少し静かになったところで、済州島――大阪間に定期航路があったので、土地や財産を奪われた朝鮮人が日本に渡航してきて、大阪・生野に住むようになったこと、また、平野川改修工事のために多くの朝鮮人が連行されてきたことも話した。

 

コリアタウンの見学

今日、コリアタウンに見学に行きましたコリアタウンには、いろいろな店がありました。キムチを売っている店もありました。

それで、自分のひいおばあちゃんの店がありました。とてもなつかしかったです。でもそのひいおばあちゃんも、この前の4月に死にました。そのときは、とてもかなしかったです。でも、めっちゃなつかしかったから、入りたい気もしました。

とってもきれいなチョゴリとか売っていました。そのほかには、とうがらしとかチヂミとかを売っていました。お母さんが、ようコリアタウンに買い物に来ているので、わたしもついてきたことがあります。

 

社会見学

今日、社会見学でコリアタウンを見学しました。なかには、キムチやかんこくのおもちなどを売っていました。

そこで、前に、おばあちゃんが、おもちの上につぶつぶがついているのを買ってきました。あずきのおもちは、やわらかくておいしかったです。

 

社会見学

ぼくは今日、コリアタウンヘ社会見学に行きました。

コリアタウンは、全長やく500mほどの商店街です。たくさんのかんこくのお店がありました。

店の中でも、キムチやさんや肉やさんが多いのに気づきました。キムチにはいろいろなしゅるいがあって、どのキムチにもたくさんのとうがらしを使ってつけこんであり、とてもからそうに思いました。

ある肉やさんには、むしたブタの顔が台の上にありました。ちょっとくさかったです。

きれいだなあと思った店もありました。それは、チョゴリというかん国の民族いしょうを売っているお店です。力ラフルな色のいしょうが、店いっぱいにかざってありました。コリアタウンは、ぼくの家からもとても近い所にある商店がいです。

 

C朝鮮民話「へらない稲束」とペープサート

『へらない稲束』は、国語(日本語)教科書(日本書籍)に掲載されており、9月に学習した。チョルとトルの兄弟の間にほのぼのと通い合う愛情をテーマとした朝鮮民話を、子どもたちは楽しく読み味わった。

そして11月に行われる学習発表会で、これをペープサートにして演じようということになった。原作(朝鮮青年社刊・文=李錦玉・絵=朴民宜)の絵本の14場面から36の人形を選んで描き、それに棒をつけた。絵が得意な子どもは人形を描き、各グループで切り抜いたり、棒をガムテープでとりつけたりした。また、音読の得意な子どもはナレーターやチョルやトルの台詞を読む役になった。

本報告書作成中の今、子どもたちは27日の学習発表会本番に向けて、一所懸命練習をしている。

 

D民族学級発表会(感想文と絵画)=12

 

E「コヒャンエポム」(斉唱一チャンゴ演奏)=12

これらについては、今後、実践しようと計画しているところである。1月の全国教研当日には、そのようすを報告できると思う。

3年生の8ヵ月が過ぎて、子どもたちがどのように変わったのかといったことを、まだ話せる状態ではない。ただ、ワイワイ、ガヤガヤと子どもたちと話し、親たちの話を聞いてきただけのような気がする。もっときちんとしたことをと思う反面、いや、ともかく、わたし自身が興味を持って、親しみを感じるようになった"朝鮮"を、日本の子どもも朝鮮の子どもも、それぞれに好きになって、感じてくれたらいいのではないかなと思っている。

そして、パク・チジャさんやわたしや、数人だけでなく、中川小の教職員のもっと多くが、"朝鮮ファンになったなら、もっともっと子どもたちや親たちと楽しく付き合えるだろうと思う。それが中川の教育を変えることになるだろうし、学校文化を変えることに繋がっていくのだろうと思うのである。

114日、職員会議が行われ、本年度の民族学級発表会(125)の開催要項をめぐって大激論が交わされた。外国人教育主担からの提案は、「1年生から6年生までの民族学級とオモニたちの7つの演技を、全校生で鑑賞しよう」というものだった。それに対して、「80分もの演技を、たとえ間に休憩を入れるにしろ、全校生が静かに鑑賞するのはムリである。135年生と246年生の2部制として、それぞれ自分たちの学年の演技をのみ鑑賞すればよい」といった修正案が出されたのである、民族学級が今年から全学年に開設されることになったため、昨年までの456年生の演技より3演目増え、それにともなう30分の延長に対する猛反対の意見が続出したのである。

「民族学級のせっかくの発表が、30分も延長されることにより、子どもたちが騒がしくなると、その意義までを損なうことになる」という、もっともらしい意見がとうとうと述べられた。学級の中で、民族学級発表会を意義づけ、出演する朝鮮の子どもたちを支援する日本の子どもたちの意識を、どう高め上げていくのかといった発想は、ついに職員会議の多数意志にはなりそうになかった。

かろうじて、「125日当日までには、もう少し日があるから」と、継続審議にはなったがそこでも、原案採択の可能性は少ない。悲しいかな、これも、中川小の職員の意識の現状でもある。(この原稿を脱稿した後、1124日に継続審議の職員会議が開かれ、「外国人保護者会の役員の方たちも、『会場で子どもたちが静かに鑑賞できるように協力しよう』と言っておられる。そうまで言っておられる親たちの思いにさえ、応えられないのか」と、修正案提案者たちに迫る中で、ようやく、原案が可決された。)

 

4.東部ブロックでの民族教育実践

生野区の小学校では11/19校、中学校では9/9校、また、東成区の小学校では2/11校、中学校では0/4月校に、それぞれ民族学級が開設されている。これら43校をまとめたかたちで、大阪市教組東部支部・大阪市外教(外国人教育研究協議会)東部ブロックが、民族講師会と協力しながら、次のような諸行事にとりくんでいる。

(全国教研当日には、写真・プログラム等を掲載した別冊資料を配付します。)

 

@第13回オリニ ウンドンフェ(子ども運動会)=主催・東部民族講師会

A第23回民族学級合同サマーキャンプ=主催・実行委員会

B第7回オリニマダン(子どもの広場)=主催・市外教東部ブロック

C第16回生野民族文化祭=主催・実行委員会

生野民族文化祭には、中川小学校外国人保護者会も、毎年「串焼き肉」を仕込んで出店している。ホルモンの肉を4切ればかり串ざしにしたものを、当日店先で焼き、5本ワンパックにして、350円で販売する。文化祭前日、家庭科室で仕込みをするのだが、600パック3000本の作業は大変である。オモニ・アボヂたちが30人ばかり集まり、4時間余りもかかって準備した。

ユミもヤンイも、アボヂに連れられて参加した。「アイタッ、また、串で指を刺してしもたわ。」「ボクもやあ。もう3回目やあ。」などと、ボヤきながらも、せっせと手伝っていた。翌日、飛ぶように売れて、もう12時過ぎには完売。「もう売り切れ!?中川の串焼き肉、食べたかったのに。」との声。

このヤンイが、1027日大阪読売TV「ズームイン朝」に登場した。番組に学校の近くの焼き肉店が紹介されたのだが、実は、この店はヤンイの曾祖母が経営している店だった。モウモウと煙がたちこめる炭火焼きの店のようす、肉をタレにつけ込むヤンイのオモニを追ったカメラがターンすると、口一杯に肉を頬張るヤンイの顔をアップに写し出した。ほんの1分そこそこの番組であったが、それを録画して、教室の子どもたちに見せた。内容は言わずに、「今日はみんなに、ちょっとおもしろいビデオを見せたるからなあ。」とだけ言って再生したのだが、「あっ、あの店知ってるでえ。お父ちゃんらとみんなで行ったでえ」「あそこの焼き肉おいしいけど、煙がめっちゃけむたいねん。」と、口々に言っていた子どもたちが、ヤンイの顔がアップになったとたん、一瞬シーンとし、そして、前にもまして大歓声があがった。「うわあ、ヤンイヤ、ヤンイやあ。」「うまそうに食うとるなあ。」……。

真っ赤になったヒョゲは、「オヤジ、なんでこんなビデオ映すねん。」とつぶやきながら、それでも、内心大得意のようすだった。

 

D第20回子ども民族音楽会=主催・市外教

本校からは5年生32名が出演したが、大池橋に集合した北巽小・舎利寺小・巽中などの子どもたちとともに、会場の生野区民ホールまで、民族衣装でチャンゴを演奏しながら、パレードを行った。

 

E東部支部在日朝鮮人教育推進委員会「パラム」の活動

支部の教研サークルとして、一昨年発足し、教材用の紙芝居作りや、各校の実践交流、焼き肉ハイキングなどを行ってきた。組合員の参加は、1050人ほどであるが、民族講師のソンセンニムたちとともに、現場の状況を話し合うなかで、支部活動における諸課題を検討してきている。また、民族講師会や保護者会などから講師を招いて講演会も企画してきた。

 

5今後の課題

@3年生の実践から全校的広がりへ

A外国人教育加配教員の校内的位置づけの明確化

B民族学級-講師の制度化

C東部ブロック全体への広がりへ

D市教組・支部・市外教'民族講師会・保護者会のさらなる協力関係

 

(HP製作委員会注)児童の名前はすべて仮名にしました。

『むくげ』157号1998.12.7より。

     
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