「君が代」を強制せぬ学校体制を

 

「君が代」が強制にならぬようにする保障は、学校教育上最低限の、当然の義務だ。

どのような論理とどのような方法で、学校として強制にならぬよう配慮するのか。

全朝教大阪(考える会)代表  印藤和寛

*はじめに  

 世の中が「右傾化」して、若い敏感な人ほど「自由主義史観」の影響を受け、石原東京都知事のようなとほうもない差別発言がまかり通りつつある。一方で、人権教育や教育改革が進んでおり、民族学級運動も広がっている。民族講師の方々は、卒業式の時どうしておられるのだろう。また、「君が代がどうこうではなく、子どものことを議論してほしい」というような朝鮮人の保護者の声も聞くことがある。私たちのこの問題に対する足元を整理して、立脚点を朝鮮人との間で議論する場ができればと思っていた。また、教育委員会事務局や学校の管理職として努力している人々をふくめ、組合、現場をつらぬいて、共通して何が言えるのか、何が大切なのかを少しでも多くの人と確認していければと思う。

 以前、大阪で1986年に開かれた全朝教大会で当時の京都「考える会」の佐伯さんが報告されたことがある。「革新府政」転覆にともなって組合への攻撃が強まり、日の丸・君が代が現場への押しつけが行われた時期で、その「朝鮮人の友だちが歌いたくない歌を、わたしも歌いたくない」という報告を聞きながら、このような問題を論議するときによく聞く「反対する朝鮮人がいるから」という発言のパターンに対しては、生徒同士はともかく教員はそうじゃないだろう、朝鮮人をだしにせずに日本人の問題として議論せねば、と違和感を持つと同時に、やはりこの問題と日本における朝鮮人の問題との関係については感じることがあったが、その時にはまだ十分整理できなかったのが事実だった。

 実は、私が最初知った学校は、式での「国歌斉唱」はあたりまえのことだった。多数在籍した朝鮮人生徒の教育に関わる試行錯誤はその中で進められたもので、だから、君が代・日の丸があるからといって朝鮮人教育が進められないとははじめから思わない。(いやな生徒ははじめから卒業式などボイコットしていた。もっと力があれば「卒業式粉砕」闘争をやったのだろうが。その高校では、後に、先生方の努力によって君が代斉唱がなくなったと聞いている。現在どうかは聞いていない。)だいたい、現在の日本の学校の法的立場では、日本人のための「国民教育」の一環としての「国際理解教育」や「人権教育」をこえて、「外国人教育」そのものを位置づけていこうというのは実は大変なことで、それは1970年以来の現場の実践と教育運動の力によってじりじりと勝ち取り確立してきたものだというのは、共通の前提となる認識だろう。

 (「自由主義史観」の人々がきわめて大ざっぱに「戦後教育」とひとまとめにして、それを「自虐史観」とか「極東裁判史観」とか名付けようとも、実は1970年代はじめまで教育の現場の根本は、少なくとも朝鮮人生徒に関わる限り、戦前からのいわば「国体」から少しもはずれたものではなかったことは、この教育運動に少しでもふれた人間には当たり前の認識で、観念操作だけによる「史観」「歴史」のねつ造は、ほんの2・30年前のことですら、このありさまだ。)

 1972年の「建国記念日」制定、1979年「元号法」制定と、神社本庁などを中心とする一つの流れが今日まである。最近、証券会社や銀行と取引する機会に経験したことだが、生年月日をみな元号で書かされる。朝鮮人などにとっては、とんでもない話だなあと今更のように感じた。強硬にねじ込んで、それでも、元号を消すのにわざわざ訂正印が必要だった。これなら欧米の証券会社や銀行を利用しようかという気にもなった。国公立大学の「センター入試」志願書が生年月日を元号でしか書けない問題は、前に署名運動もやり、「むくげ」でも紹介していただいた。行くなら欧米の大学の方がずっといい。知り合いの中国人の子どもの進学でも、相談されれば、こんな恥ずかしいことがわかるくらいならはじめから欧米の大学を勧める。役所が関わる検定、資格試験などはすべてそうで、民間企業も右へならえの現状では、すべてグローバルスタンダードに立って諸外国とのオープンで公正な競争をする意志があるのかどうか、情けない気がする。これでは、教育も企業も、アジアの中でも落後して当然だろう。

 今年春、今勤めている学校では、管理職を通じて中学校と連絡を取って外国籍の入学生をすべて確認し(中学校の調査書によっては外国製籍であることがわからなかった生徒もいた)、人権担当の先生が生徒・保護者と面接して本名尊重や朝鮮奨学会のことを説明する中で、今までなかったような言葉を聞いたというので、校内で話題になった。「子どもには新しい時代の韓国と日本のかけはしになってほしい」、これはまだ聞いたことのある言葉だ。「いままでは、帰化して日本国籍にしたいとかねがね思ってきたが、最近の日本の様子を見ていると、韓国籍と日本籍のどちらがよいのかわからなくなった。むしろ韓国籍の方が、これからは有利なのではないかと思っている。」この言葉が先の言葉の前についていたという。在日朝鮮人の意識も、変化している。多様に変化したと言う人々が想像もできないような方向へも、変化しつつある。



(1)現状確認

   現在の「教育課程」・文部省学習指導要領(1989年3月告示)の下で

 学習指導要領に「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とあるが、この「指導するものとする」と「指導すること」の違いについては、1989年3月9日の西岡文相の外国人記者との会見で、ミッションスクールについて配慮したものだとの説明がなされている。一条校民族学校もこの例外に含まれるだろう。それでは、それ以外の学校での宗教上の配慮、外国籍生徒の問題はどうなるのだろうか。

 大阪府立高校では、1994年からの現行指導要領実施にともない、儀式での君が代導入が順次進んだ。だいたい1970年代の「高校紛争」の時期には、卒業式などなんとかできさえすれば上々で、「君が代」などと言えば高校生に嘲笑されて混乱の火に油を注ぐようなものだったろう。そんな空気の中で、君が代のない儀式が普通になった。小中学校はまた様子が違う。大阪市内の古い伝統を持った小中学校では、依然として戦前を引き継いで君が代のある儀式が普通だったが、一方、1970年代以降につくられた郊外の新しい学校では、周囲の新興住宅地とその時代の雰囲気、「革新府政」の中で、君が代のない儀式が普通になった。

a)大阪府立高等学校その1

 1995年3月、100人からの朝鮮人生徒が在籍する学校でのことから、二つの点を話したい。

 一つは、生徒たちが校長室で学校長と話し合いを持ったこと。その中に朝鮮人生徒もいた。

 生徒たちが「なぜいやな者もいるのに君が代をするのか」と質問するのに対して、校長は「指導要領にもとづいて」という答を繰り返した。その答の中の「日本の法令、日本の学校、日本人を育成する」という「日本人のための学校」というニュアンスを聞いて、ある朝鮮人生徒はいたたまれずに泣きだし、また別の生徒は「私は日本人じゃないのですけど、どうなるんですか」と質問した。校長は「君たちにとってもお互いの国旗国歌を尊重することが必要だ」と言おうとしていたが、かねて教員の会議でも「朝鮮籍」の生徒がいる問題は議論していたところで、校長の言葉は、元来無効であることがわかっており、空疎に響いた。

 三年の朝鮮人生徒が「わたしは退場します」と言った。いつもにこやかで、控えめで、民族意識や政治に関わることなど言うことは一度もなかった生徒だが、入学以来本名で、KCS(朝文研)の部長だった。卒業式はチマチョゴリでと、かねてから言っていた。(制服のないその学校では、卒業式で何人かがチマチョゴリを着るのはいつものことだった。)朝鮮語の授業とKCSの指導を担当されていた先生は泣いて校長に訴えられていた。生徒たちは話し合いの結果をビラにして配布した。自治会(生徒)も取材していて、その様子を自治会新聞で報じた。生徒の間には多少微妙な空気が広がり(実際にその後、それらの生徒たちを非難するような手紙がKCSの生徒の下足箱に入れられた)、教員の中では、たった一人の朝鮮人生徒が君が代に反対してチマチョゴリ姿で退場することになれば、政治的な対立意識が、日本人対朝鮮人という対立、さらには差別意識、排外意識につながりかねないと心配した。君が代自体がこの学校でははじめてのことで、教員内部の反対運動とも相まって、どのような事態になるのかさえ予測がつかなかった。だから、教員としては、直接に退場を指導することはできないにしても、結果として一人でも多くの生徒が退場して朝鮮人生徒を孤立させない状況をつくらなければならないと、生徒の自主活動(行動の自由を呼びかけるビラの配布等)については最大限配慮した。校長は直前になって、君が代の曲を流す前に「強制ではない」という内容の説明を入れることにした。実際当日、大勢の保護者の大部分が起立したが、生徒は起立せず、教員は着席のまま、あるいは退場し、生徒の中からも数十人が退場して、朝鮮人生徒だけが目立って突出することは避けることができた。式そのものは、その後みな再び席について、例年通りに終わった。

 二つ目は、教員のかかわり方について。次の年、自分が三年担任で、当たり前のことだが、担任会の中には君が代に賛成の人も反対の人もいた。しかし、その中の議論で、退場する生徒についても必ず卒業生として配慮しなければいけないし、起立して歌う生徒については校長自らサポートしているわけだから、三年担任の卒業式での役割として、座ったままの生徒や退場する生徒をサポートするために、座ったままでいる係と退場する係をつくろうということに決まった。新しい校長との交渉の中でも、前年の様子を話す中で、退場する生徒が出ることも理由があって当然であり、それをほっておくことは教育の論理ではないことについては相互理解があった。校長は、退場する生徒が当然あることに配慮して(国歌国旗を互いに尊重することの不可能な「朝鮮籍」の生徒には「指導する」根拠そのものが存在しないのだから)、退場する生徒をフォローする教員がいてくれればありがたい、とのことだった。

 式当日は、君が代に賛成の先生で退場する係を担当した人もおり、君が代に反対で退場したいが係として座ったままの私のような人もいた。

 卒業後すぐアルバイトしながら宗教活動するという信者の生徒もいた。無抵抗・不服従で歌わないとのことで、まわりも皆座ったままだったので特段のことはなかった。「韓国籍」の生徒の中には率先して起立して君が代を歌う生徒もいた。「国旗国歌の相互の尊重」を文字通り理解して、自分の心の中に自分の国の国旗と国歌を持ち、ここは日本の学校だからとそれを尊重して、君が代を日本人と一緒に歌ってみせる、そういう立場も確かにあり得る。しかし、アメリカ人の場合にもそう指導するだろうか、少し疑問は残る。また、大多数の、自分自身の中でも朝鮮人としての自分にしっくりこず、日本人のような意識との間でゆれている朝鮮人生徒が、もし一律に歌うことを強制されるようなことになれば、それは何を意味するだろう。

 ともあれ卒業式が、自分の国家や民族について、生徒たちがそれぞれ多少でも考えるきっかけになったことは事実だが、それは、強制が貫かれることによる犯罪性と、政治的対立から差別排外思想を呼び起こす犯罪性と、両者への転落の狭間の、中途半端ではあっても微妙なバランスの結果としてそうなったのだった。

 やや詳しくこの間のことを述べたのは、ある具体例というだけではなくて、この学校が朝鮮人生徒が100人にも達するいくつかの学校の内の一つということと共に、その前年には朝鮮籍の生徒の「卒業証書にハングル(だけ)の名前を」という希望をめぐって、公文書としてどうしても認められないとハングル・漢字併記にした校長発行の卒業証書と、全教職員名によるハングルの名前のみ記載の証書とがぶつかり、校長が教育委員会とも密接に連絡をとりあっていたということがある。君が代の実施についても、その後の教育委員会の指導の方針作成に、ある種の影響があったと考えられる。

 その年にはまた、日本人保護者が日の丸掲揚と卒業証書の発行年月日の西暦記載をめぐって校長と話し合い、元号で発行年月日を書いた卒業証書を卒業生が破り捨てるという出来事もあった。その破片は今も校長室の金庫に保管されているはずである。

b)大阪府立高等学校その2

 1996年3月末、それまで教育委員会におられた人が新校長として赴任されたその高校は「人権教育基本方針」で「日の丸君が代のない学校づくり」をうたうような学校だった。4月1日の新校長の「君が代をやりたい」という発言から職員会議は大混乱に陥った。結局8日の入学式で、式の前に曲が流されたが、その直前、古くからの先生で組合の係だった方がやむにやまれず前に出て、その間の事情を新入生と保護者に簡単に説明した。新校長はその行為をとがめて処分をほのめかし、その先生は校長の高圧的な態度に対して「やれるものならやってみろ」と応じた。君が代について校長に味方する教員は一人もおらず、一年間校長の教員「敵視」と教員の反発の関係が凍り付いたまま推移した。その校長は「これまでの歴史教育は自虐的だった」とよく言われていた。

 翌年春、卒業式の際の議論を経て、4月に担任会より提案があって、式の前に予め新入生と保護者に配布する文書を「教職員一同」の名で作成し、この件について校長との交渉がなされた。「強制ではない。当然反対の人も退場する人もいる。その考えを尊重するのも学校の方針。各々の行動は自由」という趣旨の文書は、校長も認めて、受付で全員に配布された。前年の一人の先生のとるものもとりあえずおこなった行為が、こうして配布文書として形を変えて校長も認めるものとなり、一応固定された。校長は、「強制ではない」と言いながら、強制になることを自分からチェックして防ぐことはしなかったのである。職員会議での議論は続き、人権担当者は「君が代強制と本校の人権教育がどう両立するのか」と校長にせまっていた。

 それから三年目、昨年夏の「法制化」を経て、府議会での一部議員の動きもあり、今年春には一段と教育委員会の指導が強まった。卒業式では、式の前に曲が流れ、数人の生徒が退場し、数人は起立して歌い、教員は大部分が退場し、一部は座ったまま、管理職だけが起立、保護者は八割くらい起立、という状況だった。昨年交代した新校長は、新しく入学式に向けては、式の中に君が代日の丸を入れたいと職員会議で提起した。交渉が続き、新たに選出されていた人権担当の先生は、それなら自分は担当を降りると職員会議で校長にせまった。直前まで緊張が続き、組合側のある者は個人的行動まで覚悟したが、最後には、歌は従来通り、旗は校舎玄関脇に三脚で、ということになった。

c)「日の丸・君が代」強制反対運動の現在(まとめ)

 1999年7月30日の有馬文部大臣の参議院での答弁は、「思想・良心の自由ということに基づいて、内心にとどまる限りにおいては、絶対に保障されなければならない」「校長が学習指導要領に基づきまして、法令の定めるところに従い、所属教職員に対して本来行われるべき職務を命じることは当該教職員の思想・良心を侵すことにはならない」と述べている。また、8月2の矢野文部省教育助成局長の言葉では、「国旗・国歌の指導のような、法令に従って適正に課せられた職務につきましては、(教員が)思想・信条を理由としてこれを拒否することまでは保障されていない 」と言う。

 政府、文部省の見解では、このように、生徒については宗教上の理由などでの内心の自由を当然認めており、その行動についても一応強制は避けることになっているが、教員については、職務としての「君が代の指導」を拒否しうる理由を認めようとはしていない。それに、外国籍の生徒が在籍することは「恩恵的措置」であって「日本人と同様」にあつかって文句はないはずだ、ということだろう。

 大阪府教育委員会の指導として考えられるところでは、しかし、文部省の考えをそのまま現場で推し進めれば、説明すればするほど「国民教育」を強調して、多数在籍する外国籍の生徒の前では差別・排外に直結するおそれがあり、ましてや「朝鮮籍」の生徒に対しては、「相互に尊重する」という国家国旗尊重の根拠そのものが存在しないのだからその指導が成立するはずもないのは当然で、それを見て見ぬ振りをするのでなければ、退場し、拒否する生徒がいたとしても彼らにも認めるべき理由がある場合は確かに存在する。ここから「教育」的配慮として当然考えられることが帰結する。教員には、それを果たすことが期待される。

 反面、その意味では大部分の日本各地の学校は、たまたまそういう生徒が目の前にいない、あるいは見えないことをいいことに、真の「教育」からはずれていることになる。大阪でさえ、そうして「教育」の道を踏み外しているからといってそれが問題になることはなく、むしろ、「教育」に忠実であろうとするところが逆に問題になるのだが。

 

 

(2)何が問題なのか−−現在も残る根本的な矛盾点

  < align="left"P> この「朝鮮籍」の生徒の問題は、従って、よく言われるような戦争責任、戦後責任の問題ではなく、植民地支配の責任の清算が問題で、その点が現在の日本国家の最大のネックになっているのだと言うことができる。(戦争責任については、村山首相の時の「謝罪」で決着がついたことになっている。しかし、植民地支配については、責任どころか、日本政府、日本国民は彼らへの「請求権」すら維持しているのは周知の通りだ。)

 

 学校・教員の立場については、日本国家・文部省の視点からすれば、「国民教育」が仕事の内容であり、先にも述べたように外国人生徒は相互主義により恩恵を与える対象であるに過ぎない。また元来、国交のない国は法的には存在しないので、この問題は生じる余地がない。東京では、基本的には朝鮮人学校が都立移管期を経て現在の朝鮮学校に引き継がれているので、なおさらそう見えるのだろう。しかし、大阪府教育委員会の立場を考えると、民族学校閉鎖令の時の朝連指導部のねじれから朝鮮人学校がいったん消滅して、その結果、朝鮮人が日本の学校に通う比率も高く、府下の学校に多数在籍する「朝鮮籍」の生徒を視野に入れざるをえない実状にある。これをも見て見ぬ振りをしようという意見もないことはないが。

 高等学校の学校長の立場は、唯一法的に責任のある立場だ。教育委員会事務局は行政官署だから、文部省からの指示(通達)、連絡(通知)もそのまま流され、文部省も教育委員会も、現場での「生徒の教育」については、直接の責任を負うことのない気楽な立場だが、学校の現場はそうはいかないのだ。自らは手を汚さずに現場に「強制」を指嗾する、昔ながらの、かつての「創氏改名」の時にもおなじみのやりかた。広島の学校長を死に追い込んだのだから、文部大臣や文部省の幾人かの責任にはそれに対応する刑罰が相当すると考える人もいて当然だろう。

 教育公務員である私たちの立場は、従来からも、「君が代の強制反対」だった。君が代に、現在の天皇制に、反対の人もある。賛成の人もある。共通点は「日本国憲法」「教育基本法」に従うことであり、各市民としての行動については、市民的自由の問題だ。教育の場で、職務として、何ができるかについて言えば、さきに述べたように、実質上「強制」でなくす現場の工夫は最低限の職務だろう。現場でその保障ができなければ校長は「強制」したとしても罰せられるわけではないのだから、そのまままかり通ってしまう。保護者である市民と将来の市民である生徒たちに基本的な市民的自由を保障できずにいては、教育の正統性が成り立たず、学校の根本を腐らせないために必要なことは私たち自身の責任でやり遂げねばならない。民族学級設置と、それは同じ問題だ。その上で、日の丸・君が代の内容について生徒に十分考えさせるための教育を組織することが求められている。 

 生徒の立場について言えば、「日本国籍」の生徒は国旗国歌にかかわる「国際儀礼」とそれに伴う歴史を指導されるべきだろう。その結果として、ソウルやシンガポールでは日の丸を振り回すことのないようになればよい。朝鮮民主主義人民共和国の問題、日本の中の「朝鮮籍」の問題も、「国際儀礼」との関係で教えられなければならない。その上で、どちらの側にも、不服従の生徒も出るだろう。日の丸を振り回す側にも、日の丸を引き下ろす側にも。

 「外国籍」の生徒(「韓国籍」の生徒を含む)には「国際儀礼」の相互主義の指導は可能である。しかし、国と国の関係がそうであるからといって、個人個人にすべてそれが適用できるわけでもない。もし在籍すれば、オランダ人の中にも、不服従の生徒は出るだろう。

 「朝鮮籍」の生徒については、繰り返しになるが、「国際儀礼」の相互主義は元来関係がない。「朝鮮籍」の生徒との間では、国際的な相互主義が成立しない。「朝鮮籍」は日本国自らそれは国籍ではないとしているのであり、それこそ日本が朝鮮植民地支配を根本的に清算できていないことの現れで、日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交交渉もそれと関わる。だから、それらが最終的に決着するまで、「朝鮮籍」の生徒に対して「国際儀礼」が成り立たない。従って「日の丸・君が代」についての何らかの指導は、そもそも原理上不可能である。

 「指導」できたとしても、不服従の生徒に対する配慮は教育の場では当然だし、「指導」できない生徒に対しては、「日本人と同様に」を振りかざすか、元来不服従も当然だという学校の立場を指導上確保するか、どちらが教育の場であるべき姿かは言うまでもない。

 このように、「朝鮮籍」の生徒の存在が示唆する問題は、南北を含む朝鮮というすぐお隣の外国との根本的問題がまだ未解決であることによる。日本国家は、「国益」からそれが未解決であることを無視しているし、日本国民もそれが未解決であるとは認識せず、その上に居直って、それゆえにゆがんだ形の朝鮮認識しかもちえない。しかし、「冷戦」終結後、朝鮮民主主義人民共和国は朝鮮王朝末期、大韓帝国以来の中国との間の領土・国境問題さえ決断を下して解決した。日本と朝鮮との間の問題は、この地域で唯一残った問題であり、中国・ロシア・アメリカがそれからはフリーハンドで外交的立場を追求できるのに、日本だけはこの問題に足を取られて身動きできないのだ。

 その問題とは、朝鮮植民地化の合法性如何の問題であることは、最近ようやく各方面で認識されだしている。

 アメリカ合衆国が朝鮮民主主義人民共和国ととにもかくにも外交交渉ができるのは、逆説的だが、両国が「戦争」をしたことによる。しかし、日本は、朝鮮とは「戦争」しなかった、と日本国家は見なしており、日本国民も当然その考え方を維持している。日本政府は、朝鮮に対して、現在も、相互の請求権の相殺によって基本的な清算をすまそうとする立場を変えてはいない。あらゆる強制や暴力が伴ったにせよ、形式的には、韓国皇帝の申し出によって日本は韓国を併合したのであって、それに反対した者たちは、韓国皇帝と日本天皇にとっての犯罪者にすぎぬ。金日成も帝国臣民、日本人であって、その犯罪者にすぎぬ、と。しかし、南の韓国を含めて朝鮮民衆の一般意識は、言うまでもなく、日本によって軍事的に支配されたにしろ、朝鮮独立戦争は一貫して続いており、潜在的な朝鮮は存在し続けた、ということである。しかも、朝鮮が日本帝国天皇の直隷下にある朝鮮総督の支配を受けたことにより、日本による朝鮮支配の最先頭に天皇が位置せざるを得なかったが故に、日本が朝鮮を交戦団体、独立戦争の主体と認定できるかどうかについては、日本国家の「国体」の問題が関わってくる。

 こうして、かって大日本帝国がなした「戦争」は、「国体護持」したままでも清算できるが、「植民地支配」はそれができない。日本の立場からは否定される「独立戦争」を韓国の民衆は当然認める。そのこと自体が大日本帝国の支配の正統性を揺るがす内容を持つ。

 ただ、韓国は日本に対して植民地支配の清算を求めることはできない。大韓民国の成立そのものが、「独立戦争」に由来するものではなく、国連(連合国)決議にもとづくものだからである。

 石原東京都知事や「自由主義史観」グループは、アメリカ流「極東裁判」史観を批判しながら、朝鮮植民地支配については日本帝国の思想だけでなく、「GHQ史観」をそのまま受け入れている。戦争当事者と認めないから「第三国」と呼ばれるのである。 



(3)歴史認識上の矛盾点………朝鮮「独立戦争」の隠蔽

  (「義兵戦争」と書いた教科書も現れ始めた)

 こうした「朝鮮籍」の人々が今なお存在しているという問題が歴史認識と関わるところでは、朝鮮独立運動、ひいては朝鮮そのものの過小評価と、朝鮮「独立戦争」をないものにしてしまう見方がある。

 1923年関東大震災の時の朝鮮人虐殺は、なぜ起こったか。「流言飛語」が原因だという見方も、それを権力者が自分たちの支配維持のためにあえて流したという見方も、それぞれ正しいには違いないが、まだ卑小な見解に過ぎない。その当時の日本帝国の全体状況を正しく把握する必要がある。「差別意識」なるものも、結果であって原因ではない。

 当時、日本帝国は、戒厳令下で、朝鮮人全体を敵と見なした。なぜそうせざるをえなかったか。現に、朝鮮との間に、独立か支配か、革命か反革命かの戦争が展開されていたからである。

 1920年10月、朝鮮独立軍の祖国進攻作戦が目前に迫り、朝鮮国内の革命前夜(二重権力)状況が生まれていた。朝鮮北部を中心に、朝鮮人官吏、警官の集団欠勤、サボタージュが発生した。上海臨時政府の聯通制を軸として、独立軍側の働きかけは、深く広く及んでいた。

 日本軍がこの朝鮮独立軍根拠地を攻撃しようとして発動したのが「間島出兵」である。日本軍の「シベリア出兵」1920年4月以後の目的も「朝鮮独立運動」の根絶にしぼって閣議決定された。日本帝国の朝鮮軍、シベリア派遣軍、関東軍と朝鮮独立軍が対峙する、日本は朝鮮との国民対国民の戦争を遂行していたのである。

 しかし、この戦争の実状は、朝鮮内部での報道管制、日本内地でのマスコミの動向と軍による秘密維持によって、日本帝国の権力中枢と三好達治らごく一部の日本人を除いては、認識すらされないまま、今日まで明らかにされることがなかった。中国と革命内戦下のロシア、コミンテルンと民族主義の反共陣営、戦後の冷戦構造によって、歴史の継承そのものが分断され、言語とともにバラバラにされたためである。

 1930年代の、中国共産党指揮下の朝鮮人パルチザン部隊による独立戦争は、これをこそ引き継いだものでなのである。

 (1908年義兵戦争以来のこの独立戦争の内容については、別に、本誌『むくげ』の「歴史と在日朝鮮人教育」で近く連載予定です。1920年の青山里戦闘の意義については、従来の最高の研究成果である金静美さんの視点の不十分さをさらに克服して、日本における朝鮮人差別の根源に迫る予定です。ご期待下さい。)  

 むくげ162号目次へ


inserted by FC2 system