民族学級50周年 各地で記念式典開かれる
 

 1948年6月に大阪府知事(赤間文三)と大阪府朝鮮人教育問題共同闘争委員会が朝連を立会人として結んだ「覚書」(それは1948年5月の文部省と朝鮮人教育対策委員会との間の「覚書」に準拠するものとされた。当時、朝鮮人は言うまでもなく日本国籍であり、1948年1月の文部省学校教育局長通達によって日本人同様に日本の学校へ就学させなければならないと命令されていた。これによる民族学校閉鎖とこれに対する「阪神教育闘争」を背景として、「覚書」がつくられた)のことは、むくげ読者には説明する必要はないかもしれません。こうして日本の学校の中に設置された「民族学級」があいついで50周年を迎えています。大阪市内生野区・東成区・平野区の中川小学校、北鶴橋小学校、小路小学校、北中道小学校、加美小学校、東大阪市の太平寺小学校などの様子のうちで、今回間に合った分を掲載します。   (編集委員会)
 


東大阪市立太平寺小学校 朝鮮語学級50年
 去る11月28日に東大阪市立太平寺小学校において、1950年1月16日に開設され50年を迎えた朝鮮語学級(母国語学級とも民族学級ともいう)の発表会があった。
 私は1970年にはじめて朝鮮語学級に出会った。当時すでに設置されてから20年が経過していたとはいえ、周りの協力がほとんどない中、民族講師と一部の朝鮮人保護者だけに支えられていたような学級だった。それゆえに、当時は、今日のように全校生と一緒に「朝鮮文化」の発表会が持てるのだとの思いは、持つことさえ難かしかった。1970年頃の大阪では在日朝鮮人教育の取り組みが始まったばかりだった。しかしそれ以降今日までの30年間にさまざまな実践が行われ、それに伴い、朝鮮語学級の周りの状況も大きく変化した。
 体育館では、チョゴリを着た朝鮮語学級入級者をまじえて全校生徒が座っていた。出演は入級者だけなのかしら、それとも全員なのかしら、と考えているうちに発表会は始まった。発表会はプログラムに従って進められ、どの学年も、入級者だけの発表の場と学年全員での発表の場とがあった。また、三校の”友情出演”があった。
 卒業後進学する太平寺中学校の母国語学級入級者の出演に続いて、夜間中学校に在籍しているハルモニたちの出演があった。ハルモニたちは、50年を迎えた喜びを朝鮮語をまじえて語ってくれた。太平寺中学校や夜間中学校と交流をしているからか、会場は和やかだった。
 続いて、一番近い外国人学校の東大阪朝鮮初級学校からの出演もあった。笑顔一杯に軽やかに舞う初級学校の子どもたちに大きな拍手があった。私の隣に座っておられた初級学校の校長さんは、私の質問に答えて、「私は今まで岸和田、和歌山、滋賀の朝鮮学校に勤め、今年から東大阪に来ました。今までの地域の日本の学校とこことは雰囲気が随分違いますね。……」と言われた。
 発表会は、全員で「ウリエソウォン」を歌って終わった。
 多文化・多民族共生社会の実現、人権文化の創造に向けて、国際理解教育など多くの場で異文化に触れることが子どもたちの成長にとって大切なことだろうと考えている。そしてそのような実践に裏打ちされたこの発表会を通して、成長していく一人ひとりの将来は明るく思えた。
 なお、「50周年記念式典」では、来る1月16日に若一光司さんを講師にお招きしての講演会が予定されている。                  (岡野克子・運営委員)


太平寺小学校 母国語学級発表会 プログラム
◆校長先生のことば
1 合唱「アリランメドレー」……5年
 アリラン、ミリャンアリラン、チンドアリランの三曲を歌います。「集い」にまけないくらいがんばります。
2 劇「コダランムウ」……1年
 「おおきなかぶ」を劇にしました。「ムウ」とは、だいこんのことです。「ヨンチャ」と大きな声を出し、おいしそうにキムチを食べる、いつもの元気なようすを見てください。一年生全員で「トントントントン」をうたいます。
3 丹心紐(タンシムチュル)、ソゴチュム……2年
 タンシムチュルとは、いろいろなひもを全員で一つにあんでいくものです。ソゴのおどりは一年生のときもしたもので、民族学級で覚えた踊りをクラスのみんなに教えました。みんなソゴが大好きです。
4 四物遊撃(サムルノリ)……3年
 チャンゴ、プク(たいこ)、ケンガリ(かね)チン(どら)の四つの楽器の演奏です。十五人が一つになって演奏します。
5 大阪朝鮮初級学校、東大阪市立太平寺中学校、太平寺夜間中学校
6 劇「私たちのハングル」……4年
 ハングルの歴史を勉強しました。私たちの文字が、どんなふうにつくられたのかを元気に発表します。学年全員で作ったタル(仮面)もよく見てください。
7 ソルチャンゴ、ソゴチュム、両面太鼓(ヤンミョンプク)、私たちが出会った人 ……6年
 両面太鼓、チャンゴ、ソゴの踊りの三つを発表します。また、夜間中学や、修学旅行などで出会った人から学んだことを発表します。小学校最後の民族学級発表会です。六年生の頑張りをみなさん期待してください。
8 児童のことば
9 全校生の歌「ウリエソウォン」……全学年
◆教頭先生のことば
 

 大阪市立中川小学校
民族学級開設50周年記念誌
(A3判、104ページ、発行者は大阪市立中川小学校・民族学級開設50周年記念事業委員会)
 
 大阪市生野区にある中川小学校は、古くから猪飼野と呼ばれた地域、朝鮮市場(今ふうに言う「コリアタウン」)から平野運河と大通りを渡った東側にある。古くからの狭い道に面した古風な校舎と、その玄関をおおうように立っている大きな桜の樹が印象的な学校だ。
 2000年11月22日(水)に、この中川小学校講堂で、民族学級開設50周年の記念発表会、記念式典がおこなわれた。全朝教大阪(考える会)にも招待状をいただいていたが、夜の祝賀会にどうにか参加できただけだった。祝賀会には、地元の議員やPTA関係者の温かい祝福と朝鮮人保護者の喜びの中で、歴代の民族講師保護者会などいままで民族学級を支えてこられた方々の表情がとてもよかった。校長伊井野哲男さんや熱心に人々の間をとりもっておられた教頭川村美栄子さんの様子も、とても頼もしくうれしいものだった。
 現在大阪市立聖和小学校の校長をされている館宗豊さんにお会いできたのもよかった。全朝教大阪の創設期、自分が「考える会」に参加した頃、よく杉谷さんなどから、歴史のことなら、朴鐘鳴先生のことなら、館さんが、とお名前を聞いていたのだが、ごあいさつするのはこの時が初めてだった。「考える会」の多くの人たちは、各地の学校で校長や教頭としても地道な努力を続けられている。
 太田利信さんが平野区から生野区の中川小学校に転勤された時にこの50周年のことまで念頭にあったかどうかは知らないが、組合専従への転出の後も記念誌制作の中心として関わられ、記念行事のなかでうれしそうにされていたので、それがなによりだった。1970年代はじめに在日朝鮮人教育への関心が持たれるようになってから、長くそれは差別と闘う「部落解放」の課題と一体のものとして、被差別部落を校区に持つ「同和教育推進校」を拠点として進められてきた。1980年代から、考える会でも「生野へ」の方針を掲げて努力し、今日ようやく組合の体制としても生野での実践を支えることのできる体制が生まれつつある。民族学級50周年は、民族講師の孤独な50年の闘いと民族主体のぎりぎりの抵抗、だけでなく、太田さんを代表とする多くの人々の30年間の人生の時間がかけられたものだ。そのことを互いに理解し合える朝鮮人と日本人の連帯こそが、この記念祝賀会を真実のものにしていたと思う。
 祝賀会でも、人々が異口同音に次々とすばらしいできばえだと話しておられたその『記念誌』について、一読した印象に過ぎないが、目次に従って一通り紹介する。
 
<目次>
民族学級開設50周年おめでとう
民族学級の一年
 1999年度民族学級始業式から始まる一年間の生徒の表情が、カラー写真で掲載されている。巻頭の金満淵(キム・マンニョン)ソンセンニムの筆による額の字「(ハングルで)チャチュ(自主)、チャリプ(自立)、統一」。講堂に勢揃いした186人の民族学級児童の様子は、壮観の一語。後の資料にあるが、1998年より1年から6年まで全学年で民族学級が開設され、2000年度は韓国・朝鮮人児童数167人、民族学級入級児童数は韓国・朝鮮にルーツをもつ日本国籍の児童を含んで186人を数える。
 
あいさつ、お祝いのことば
 校長先生と並んで、記念事業委員長の高用哲さんの「民族に感謝」より。「私はとなりの東成区で生まれ、日本の公立の学校へ通い、母国の言葉や文化、歴史をまったく知らずに成長し、朝鮮人であることを恥ずかしく思い、隠すようにして育ちました。「自分は何なのか、ありのままの自分を知り正しく見つめることはとても大事で、あたりまえのことだと思います。それを民族学級が担っているのです。「互いのちがいを認め合い、ちがうことがあたりまえのことであるという感覚を小さい頃から自然に身につけてこそ、互いを尊重する人権意識が生まれ、差別を見抜く力が養われます。」
 
民族学級50年のあゆみ
 太田利信さん執筆による、大阪の民族学級、在日朝鮮人教育50年史。学校に残されていた金満淵先生の「雑記録」から、1950年の開設と講師赴任の事情、民族学級での教育の実態が、掘り起こされている。(以下、引用はこの雑記録の部分)また、多数掲載されている*智鉉さんの写真が、かつての猪飼野の様子を伝えている。 *曹の上縦1本の字
 以前1980年代に伊丹北中の民族学級講師を解職された鄭判秀先生の裁判に関わったとき(今宮工業高校定時制の鄭良二さんが支援する会を担っておられた)、裁判の中で明らかになった民族学級の苦難の様子は、日本人社会の誰の目にも見えないところで、ほとんど誰からも援助を受けることができない中で、それでも人間の努力がなされうるということを実証するものだったが、この「あゆみ」を読んでいだく感動と励ましも、そうしたものだ。しかし、「1972年までは、民族学級に対して特定の教室が与えられないわけです。倉庫が教室のかわりになってみたり……」の状況は、1972年から変化が始まる。長橋小学校をはじめとする「新しい動き、流れ」が始まる。(1970年代、最初はみなこうだった。今も課外部活動では似たようなものだろう。初期の八尾のトッカビ子ども会も、高槻むくげの会も、みなそうだった。)
 民族学級の民族講師会による対府・市教委「要請書」(1975年)、民族学級合同キャンプの開始、発表会・茶話会・ムジゲ展(作品展)の様子、そして何よりも新入生・卒業生の呼名の問題。「学校名で父母へ、どのような読み上げがよいかの問い合わせプリントを流している。一年間、担任が学級で取り組み、民族学級で積み上げてきたことが何であったのかと……。水泡に帰した。学校教育として父母の意思を尊重する姿勢はわかるが、こと本名を名のらせることに関しては、このような仕方は教育的でなく、むしろ、学校の軟弱な姿勢を父母に見せつけることになりはしないか…」
 1991年度末に金満淵先生は退職され、1992年、後任に朴智子先生が赴任された。後任講師問題の解決とともに、民族学級は生野のほかの学校にも広がりはじめる。
 そして、当初上級学年だけだった民族学級を全学年に広げることについての職員会議での激論。外国人保護者会の働きかけもあって、ついに、地元保育園での民族教育の活動がとぎれることなく中学校へとつながることになったのは、ようやく1998年のことだ。
 このように、一つの小学校の民族学級の変遷と大阪全域の在日朝鮮人に関わる教育運動を総合的な視点から描いたこの50年史は、過去の人々の努力を明らかにするとともに、それを通して今後の日本の教育と地域のありかたに大きな示唆を与えるものとなっている。
 
民族学級合同サマーキャンプのあゆみ
 朴智子さん執筆による、1975年に中川小学校一校37人で始まった民族学級サマーキャンプが今日の2000年21校231人の参加にいたるまでの経過。最初ヒントになったのは矢田などの部落解放子ども会のキャンプ。しかし、同胞の青年たちを指導者として招くこのキャンプは、最初、学校の教員の理解を得ることがむつかしかった。この時、当時の岸本校長先生自らこの重要性を理解し、キャンプ長として参加されることによって、このキャンプは最初の一歩を踏み出した。かねがねうわさとして音に伝え聞いていたあの「ものすごいキャンプ」(ものすごく恐ろしい、ものすごく楽しい、ものすごくしんどい、聞く人によってそのニュアンスは色々だった)の実相が、ここにはじめて公開された。掲載された写真に写った、あの顔この顔。このキャンプは、参加者からもそれに関わった青年たちからも、後に続く者たちを輩出していった。
 
民族学級50周年記念座談会
 8月に三時間にわたって行われた17人の方々の座談会の記録。民族学級、サマーキャンプの様子が、時期を追って、証言されていく。
 宋連玉さんが二人目の民族講師として招かれたり、野球の巨人軍張勲(張本)選手の講演会が開かれたりした頃のことも興味深いが、なかでも高用哲保護者会会長の、「電話で高島さんおられますか、とかかってきたら、いませんと答える」という2000年になってからの「本名宣言・通称名抹消」のてんまつ(1999年まで高島さんだった)、キャンプ25年皆勤の森本佳子さん(香簑小学校)の「キャンプで人生が変えられた・変わってしまった」話など、頭の中がひっくり返るようなおもしろさだ。
 
民族学級の発展を願って
民族学級で学ぶ子どもたち・学んだ子どもたち
 各学年の民族学級の教室のようすを写した写真は誰の作品だろう、小さいがじっと見ているだけで、感動してしまう。むかし、兵庫解放研が林竹二さんを招いて授業をしていた時の写真を思い出した。
 卒業生の言葉の中で、最近のものは、もちろん大池中学校、それに、高校では都島工業、今宮高校(二人も)、阪南大高校、京都韓国学園の生徒たち。
 
保護者会のあゆみ
 元保護者会会長金成元さん執筆。金満淵先生が一軒一軒まわって訴えられ、1950年の二学期に発足した民族教育後援会は朝鮮人父兄会、父兄会をへて、1992年からは「外国人保護者会」となった。「父兄会だより」や今日の「ムグンファ」(保護者会のたより)が発行され、PTAとも連携しながら活発な活動が行われている。
 
資料
 「外国人就入学許可申請書」は、生野区長にあてて、「日本の小・中学校に就入学したいので申請します」というもの。
 「誓約書」は、大阪市立〇〇中学校長にあてて、「下記の者は大阪市立〇〇中学校に入学を希望しております。入学許可の上は日本国の法律を遵守することは勿論校則を守り学校当局に御迷惑をかけません。万一学校長において、迷惑をかけ、他の生徒の勉学の邪魔になる行為のあったと認められた場合、退学の申付けがあれば何時でも、異議なく退学させ、いささかの異議も申立てない事を誓約いたします。登録番号、現住所、生徒氏名(通名)、(本名)、昭和 年 月 日生」と保護者名(通名)(本名)で誓約するもの。
 いずれも、サンフランシスコ平和条約によって知らぬ間に日本国籍ではなくなり、その結果日本の学校に就学する法的根拠が消滅した1950ー60年代の朝鮮人に対して、日本の学校が行ったしうちは、今も朝鮮人の心の中に深い傷となって残っている。前の座談会でも話題になった朝鮮人の記憶の中の書類が、日本人がそっとしまってぬぐい去ったかつての差別の様相が、まぼろしの中からよみがえった。
 ほかにも、中川小学校での詳細な年間指導計画などが掲載されている。現に作り出した私たちの教育の中味がここにある。
 
 編集後記で太田利信さんは言う。「民族学級を併設している中川小学校であるからこそ、日本人と韓国人、朝鮮人とが共生している中川の地域のコミュニティになり得るということだと思います。」
 そのことが、朝鮮人のために、ではなく真実日本人自身のために、であることが、今日ますます明らかになってきているのではないかと思う。 (印藤和寛・運営委員会代表)

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