
この記事は、『むくげ』163、164、168、177の各号に連載されたものです。
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勝山中学からのたより
11月10日のシンポジウムの後の懇親会の席で、乾啓子さんから、「明日は勝山中学が変わる日です」という発言があった。その後の様子を紹介する。(文責は編集委員会)
はじめての文化発表会
乾 啓子(勝山中学校)
発表会は、うまくいきました。
幕が開いた瞬間、見ている生徒たちから、クスクスという笑い声が起こりました。それは心配していた通りでした。
前日にも、「根性入れてやらな、笑われて、それで終わりやで。」と生徒たちを叱咤激励して決心を固めさせるとともに、心配もしていました。ひとつ前の出し物が英語クラブで、アメリカ人とのダブルの子どもがしっかりと英語のレシテーションをします。
サムルノリの中で、朝鮮語の言葉を、負けないようにしっかり言うことができた頃になると、笑い声はどよめきの拍手に変わりました。本名について発言した言葉も、見ている生徒たちに感銘を与えました。前に立つとクスクス笑われていたような生徒も、出演が終わって教室に戻ると、皆から「よかった」と言われてうれしくてたまらなかったそうです。
体育館の竣工式典と、休日参観もあり、生野地域の議員さんたちもみな来校していました。春の入学式では、君が代で座った先生がいたというので、校長にも地域の有力者から働きかけがあり、教育委員会からの指導もあったようです。そんな混乱を引きずっていたのですが、夜の祝賀会で、「地域には色々な人がいるが、あの出し物だけは共通にみなほめていた」と言って、校長先生は喜んでおられました。
出演した二年の生徒は、一年半かかって、やっと本名で「わたしは」と言うことができました。まず英語の授業の時間に本名を呼んで、一時はからかわれて悩み、それでも本名で行くと決心して、民族クラブでたくさんの楽しいことうれしいことを積み重ねて、やっと本名を自分から言えるようになったのです。二年生の中には、「英語の時間に本名を呼ぶのはどう」と声をかける子の中にも、「ぼく、小学校の時に本名からかわれた。だから英語の時間にも本名で呼んでほしくない。」と答える生徒がいます。
日本人から見ても、民族クラブがあまりに楽しそうなものだから、日本人も入って一緒に活動したいというので、「なんで日本人はだめなの? そんなん差別や」と言う日本人の子もいます。しかし、朝鮮人の子が、そこでたくさんたくさん楽しいこと、民族としてのうれしいことを経験して、はじめてやっと本名で行けるようになるのですから、やはり朝鮮の子らが自分のことを知る場としての民族クラブにはそれとしての重要な役割があると思います。日本人の子たちも入る場は、また別に設けて、楽しくやっています。
今日(12月2日)は、民族クラブの生徒の親たちが中心になって、焼き肉パーティーを開いてくださいました。保護者が音頭をとって積極的にやってくださるのはとてもうれしいことです。
学校全体としても、今、人権週間で「朝鮮人問題」を学習しています。先生方もみな協力体制を組んですすめています。舞台に立った三年生二人の書いた文章に対するクラスのみんなの反応がとてもよいと聞きました。ビデオ「朝鮮半島と日本列島」や「おいしんぼ」の漫画の学習もスムーズに進んでいます。
(付記)
現在の勝山中学校「民族クラブ」は朝鮮人ばかり14人、4人が男子、10人が女子で、二年生が中心。もともと12年前からあった課外部活動としての「民族学習会」が、ある「差別発言」問題をきっかけにして、学校体制の中の「民族クラブ」に変わった。しかし、この微妙な名称からもわかるように、これまで勝山中学の校内では、朝鮮人生徒の舞台発表も、本名宣言も、保護者の集まりも、何もないままにきた。300人弱の全校生徒の内約70人という外国籍生徒多在籍校で、それによる加配があるにもかかわらず、校内に「朝鮮」は出現してはいなかった。この秋は、従って、勝山中学では実に「はじめての文化発表会」「はじめての本名宣言」、要するに、はじめて「朝鮮が現れた」、だった。
生野地域の中学校の「荒れ」は、現在、こちらがおさまれば次はこちらと、順番にまわっているかのような状況だ。もちろん、「荒れ」の中心には朝鮮人生徒もおり、それは昨日今日に始まった問題ではない。しかし最近では、その背後に、在日朝鮮人の間にも広がるさまざまな格差の問題がある。警察と地域が一体となって中学校の「荒れ」を押さえている。学校の教師は、その前で無力なものでしかないのだろうか。
また、これほどの朝鮮人の多住地域で、それでも、朝鮮を正面から押し出すこと、朝鮮人が朝鮮人として学校の中で活動することがいままで困難だったという事は、府下の広い地域、朝鮮人の少数散在地域で困難だと言うこととも実は共通の問題だということを示しているように思う。朝鮮人が多い少ないではなく、問題は、日本社会の構造にあるということだろう。そして、一般的に日本人朝鮮人区別なく、朝鮮の文化を紹介する、親しむ、国際理解と「みんななかよく」、の段階から、さらにそれをもう一歩深める真の連帯と人権の確立の教育へ、真の「民族教育」へ、その中味をこそ議論し広げていきたい。「言葉」にもとづいて他と対立させるのではなく、より深い「教育」に向けて。(編集委員会)
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