この記事は、3回連続の最終回です。 最初に戻って読むには、こちらをクリックして下さい。 歴史と在日朝鮮人教育秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役) の史実を学ぶ (第3回最終) 大阪市外教平和友好ウォッチング委員会 宮木謙吉
7 万人義塚記念館(つづき)この南原城での戦いの犠牲者の塚が、資料館から延びる階段を上がった高台の上につくられている。日本軍に大量虐殺された朝鮮民衆の塚が手入れの行き届いた芝生の中に作られている。ヒロシマの平和公園の慰霊塚よりもひと回り大きい。万人義塚はもともと、現在の南原駅にあったものだが、植民地時代に鉄道が敷設され、駅舎がつくられため移転された。駅舎の建設に際しては、南原市民の反対が起こったという。 今回のツア−では「忠烈祀本殿」の扉が開かれ、中に入ることができた。中央の祭壇に小さな位牌が置かれていた。静寂のなかに、南原城の戦いで死んだ朝鮮民衆の慰霊の場としての雰囲気が伝わってくる。夏休みなので、家族連れのグル−プが万人義塚の見学にきていたが、義塚の前に作られた石の祭壇の上に子ども達が上がって遊んでいたので思わず注意してしまった。
広い駐車場の入口にむかう通路の曲がり角のあたり、万人義塚の真向かいにあたる位置に、大きな「陶工の碑」がつくられている。文禄・慶長の役では多くの陶工や石工をはじめとした技術者が連行された。南原から連行された陶工達が現在の薩摩焼の礎を創った人々である。連行された陶工達は、南原城が陥落した8月16日の夜になると、美山の陶山神社で宴をひらき故郷をしのんだという。その時詠まれた「今日は、今日だ」という歌が、この碑文に刻まれている。見知らぬ異国に連行され、今日の虜囚の日々が毎日続くという絶望的な歌詞である。口づさむことによって、望郷の念がよりかき立てられたであろう。400年をへて、南原へ戻ってきた陶工たちの魂がそばに感じられるようである。 道路をはさんだ蚊龍初等学校の校庭に「故郷忘じがたく候」の記念碑ができていることが今回のツア−でわかった。司馬ファンにはたまらない記念碑である。旅程のコ−スにはなかったが、もちろん見学することとなった。
8 朝鮮式山城蚊龍山城万人義塚の正面の蚊龍初等学校の「故郷忘じがたく候」の記念碑見学の前に、万人義塚の裏手に築かれていた蚊龍山城を見学することとした。当初、朝鮮軍が籠城戦を構えた山城である。ゆるやかな坂道を真っ直ぐ登り、バスを降りてしばらく歩くと城壁が見える。 倭城と異なり、石をレンガ状に真っ直ぐに積み上げている。造形的にも美しいア−チ型の城門をくぐって城跡に入ると、民家が並んでいる。城門の右手の城壁の上ではちょうど数人の村人が昼食をむかえる時だった。その横を抜けると小道が山頂に続いている。ア−チ型の城門の上から、傾斜の激しい蚊龍山を望むと石垣が山を囲むように続いているのが散見できる。かなりの規模の山城である。この山城で闘ったならば、南原城の攻防も違った展開になったのではないかとも思ったが、騎馬戦を得意とした明軍にとっては、勾配のあるこの山城での戦闘を避けたかったのもうなづける。ここは、甲午農民戦争の時には、農民軍がたてこもった城でもあった。現在、この蚊龍山城の入口あたりの石垣は修復され、当時の威容をしのぶことができる。ア−チ型の石門も、見事である。
なお、池先生によれば、ここから加藤清正が連行した石工たちが熊本城を築いたということであった.。 9 「故郷忘じがたく候」の碑蚊龍初等学校の校庭の端に造られた百葉箱のならぶ芝生の一画に、南原市の蚊龍初等学校と鹿児島県の美山小学校との「姉妹結縁碑」が立てられている。道路をはさんで万人義塚の向かい側の学校である。校庭には、通りからバスで入りこむことができる。
石碑の表には「雲外故國情 不忘故山景」の文字が大きく刻まれている。裏には、「姉妹提携 記念碑」とい表題の説明書きが、ハングルと漢字まじりの文字で刻まれている。碑文には、「丁酉倭乱」(慶長の役)の時日本に連行された陶工達が鹿児島に上陸し、美山に定着した。玉山神社をたて、韓国の国祖檀君を祀り、毎年8月16日には、故国をしのびオヌルの歌をうたいながら踊り明かしたと刻まれている。続いて、陶工達の作品の芸術性は、世界的にも知れている。「丁酉倭乱」400年をむかえ、南原と鹿児島の友好を願った駐日韓国名誉領事館14代沈壽官さんや1983年、豊臣秀吉の朝鮮侵略のドキュメンタリ−映画を作った池尚浩さんの提言により、1997年8月に、この碑文が建てられたとある。司馬遼太郎氏の夫人の協力もあったという。「韓国の中に、日本の文字で、記念碑を建てることに、たいへんな抵抗がありました」と池先生からは苦労話も明かされた。 石碑の右側面には、司馬遼太郎の小説の題名「故郷忘じがたく候」の文字が刻まれている。日本の方向を向いている。司馬遼太郎ファンには、訪れてみたいスポットの一つであろう。池先生がおっしゃるように、ひらがなを刻んだ記念碑も韓国ではめずらしい。 「丁酉倭乱」400年に際し、韓国の南原と日本の鹿児島の小学校が、過去の歴史を共有しながら、これからの隣国どうしの善隣友好を考えあうという「民際」のいとなみには“さすが”という印象を受けてしまった。これからの日朝の交流史の学習や両校の子ども達の交流活動に期待をよせずにはおれない。 10 南海岸、麗水の「亀甲船博物館」へ
麗水は、全羅南道の麗水半島の比較的開けた海上国立公園に面した港湾都市で市内は人通りも多くにぎわっていた。ホテルをはじめ宿泊施設も多い。まず、鎮南館に行った。ここは、李舜臣が指揮をとった本営の跡地に創建され、李王朝の迎賓館として使用された。ハングルの説明板の下に日本語書きの説明板がある。鎮南館は、数十本の太い柱に支えられたどっしりとした木造の建物で、大きな額に太い字で「鎮南館」と書かれている。庭には、石像や顕彰碑が並んでいる。吹き抜けの建物の板の間は、風の通りもよく昼寝にもってこいである。ただ、案内板には上がってはいけないと書いてあるようだ。子どもや大人たちが上がり込んでいたので、私たちもつられてあがってしまった。山の麓に建てられた鎮南館からは、すぐ海が見える。下関や釜山の街並と似た港町特有の地形である。海岸沿いの狭い平地に建物が密集して海をのぞんでいる。多島海海上国立公園と言われるだけあって、島影が幾つも重なって見える。麗水と目と鼻の先の突山島とは突山鉄橋でつながっている。高い鉄橋の上からは、麗水港が一望でき、山手の鎮南館も見える。海手の方は、幾重にも小島が重なり南海の水平線が見えそうもない。複雑な海洋地形である。見るからに、海戦では李舜臣の水軍に利がありそうだ。橋を渡るとすぐ右手に店や屋台がならんだ一画があって、停泊している亀甲船が目に入る。「亀甲船博物館」だった。ここでは李舜臣があみだした亀甲船を復元して一般公開している。桟橋に停泊している実物大の亀甲船は迫力満点。船内に入ると第1層にはア−チ型屋根の船室に所狭しと兵士の人形がずらりと並び、戦闘場面を再現している。当時の大砲や武具も配置され、かなりの迫力。細い階段を降りた船底は中央の通路をはさんで、兵士の休息室、厨房、医務室、武器庫さらに日本人捕虜の取調室なとが幾つもつくられている。優れてたいへん機能的な軍船といった感じを受けた。 再び突山大橋を渡り、数十m眼下の海の景色をながめながら、麗水の市外の賑わいを抜けて、17号線を順天に戻り、順天倭城跡をめざす。 11 変わりゆく順天倭城跡
4年前にはなかったが、ハングルと漢字で「順天倭城」の大きな標識が道路に立てられていた。標識には「4Km」と書かれてあった。そこを右折し、しばらく進むと海を背景に小山の頂上に石垣が見えてきた。さらに、漁村の細い道を下るようにしてバスは順天倭城をのぞめる地点まで近づき、20分ほど歩いて小山の頂上をめざす。天守の石垣の上にあるスペ−ドの形に見える1本の松の木が目印となっている。坂道を急ぎ足で城壁まで歩いた。途中、桜の木が数本生えている。この桜を見て、朝鮮総督府の幹部たちがここで花見をしたと言われている。やがて、石組みが見えてくる。本陣3重、内城3重、外城9重の城壁を備え、約31万平方mの広さをもった順天城も、現在は本陣の曲輪を残すのみとなっている。城壁の上の平地は松の木と草でおおわれていた。海の方を見ると、驚いた。小西行長が在番する海に面して築城された順天倭城であったが、海側は埋め立てられ、向かい側に見える小島と完全につながっていた。右手の田んぼの中には大きな工場が見える。順天の海岸地帯は工業化の波にあらわれ、ここでは石油基地や火力発電所の計画もあるようだ。4年前にここを訪れた参加者は一様に驚いていた。眼下に迫っていた海一面がきれいに埋め立てられていたのである。この勢いでは、城壁部分のこの小山も削り取られるかも知れないと思ったほどだ。それほどの変貌ぶりだ。朝鮮総督府の建物が解体・撤去された今、400年前の倭城が現代に残るすべもないと思うが、秀吉の朝鮮侵略の事実を残す物証史跡としての価値は否定できないはずだ。史跡公園としての整備を期待したい。順天倭城の向かい側の李舜臣の祀堂の見学も足早に済ませて、順天のホテルへと向かう。
なお、順天城も韓国の地図に記載されている。2度目の侵略戦争(慶長の役)の時、加藤清正の蔚山城、島津義弘の泗川城とともに、朝鮮人から「倭の3窟」と呼ばれていた。朝鮮半島の南部海岸線の残るこれら倭城は、第2次晋州城攻撃の後、秀吉の命により築城されたものである。順天市外から南東8kmの光陽湾へ張り出した小さな半島部にあり、その半島の大部分を縄張りとし、先端の丘陵部の主郭部の城壁が残っている。築城担当者は宇喜多秀家・藤堂高虎であった。夕食は、ホテルのそばの食堂ですませた。明日は、晋州だ。
12 国立晋州博物館――韓国初の壬辰倭乱の常設展示博物館としてリニュ−アルオ−プンバスは順天から南海高速道に入り、一路晋州に向かう。晋州は2度にわたる晋州城攻防の激戦地である。晋州城は洛東江の分流である南江に面し、「朝鮮第一の名城」としてその景観や楼閣からの眺望の美しさとともに軍事的な要衝として知られている。
開戦以来、慶尚南道ではほとんどの地域が、日本軍の侵攻をうけたが、道都晋州だけは秀吉軍の侵攻を阻止した。1592年10月の第1次晋州城攻防戦である。細川忠興らの2万の精鋭部隊が、城内の官・義兵3千余兵と全羅道の義兵軍の挟撃にあって敗退した。正規軍でない義兵の出現を日本の「一揆ばら」と同一視して激怒した秀吉は、翌6月の第2次攻防戦では、宇喜多秀家を総大将とする9万3千の大軍勢で晋州城を包囲させた。日本軍は、水濠を南江に落とす土木工事や鉄砲隊用の櫓を組むなどし、7日間にわたって総攻撃を加え、官軍・義軍・民衆6万が籠城する晋州城を陥落し、ほぼ全員を虐殺した。 晋州城で日本軍が戦勝の祝宴をはった際、官妓の論介(ノンゲ)は、加藤清正配下の武将毛谷村六助と南江に身を投じた。彼女の義挙は教科書に載っているほど有名である。論介は、両手の指に指輪をはめ、六助を抱いた自分の両手が離れないようにしたという。身を投じた義岩が見える南江にかかる晋州橋の欄干はその指輪の円環を配している。晋州城址には、義妓祠もつくられている。彼女の義挙精神は、三一独立運動の女性たちの闘いに引き継がれ、大いに民族精神を鼓舞した。 城壁に囲まれた晋州城内は、芝がひかれた美しい城址公園として整備されている。西奥にある国立晋州博物館は、壬辰倭乱の常設展示場としてリニュ−アルされていた。 晋州は、古代にあっては日本と交流の深かった加耶(加羅)の古都で、晋州城の歴史も古代にさかのぼるという。晋州博物館は元々、当時の大和王権が手に入れたかったであろう鉄器や兜、土器やピ−ナツ形の甕棺など古代加耶文化を中心に展示していたようだったが、壬辰倭乱の展示館へと大きく変貌をとげていた。秀吉の朝鮮侵略は今でも朝鮮の人々の心の中で苦々しい歴史の傷として刻印され続けている。その事実を見つめ、2度とこのような事態を引き起こさないためにも、その歴史を伝え残すことには大きな意味がある。 壬辰倭乱の展示は、日韓の共同作業として進められ、日本の各地の博物館や研究組織が協力をしたことが、展示をみてうかがえる。 戦闘絵図や記録文、火器をはじめとした武器類、李朝や秀吉の各文書、義兵将の人物画や人形を配したパノラマ展示による晋州城攻防戦、亀甲船や板船の模型、日本から寄せられた焼き物をはじめ壬辰倭乱の全貌が学習できる展示内容である。
晋州城内には、南江を望む美しい楼閣や戦闘場面のレリ−フを配した慰霊碑、論介が身を投げた義岩や彼女を祭った義妓祠をはじめ史蹟も多い。また、城の正門前のロ−タリ−には衡平運動の記念塔が建立されている。この記念塔は韓国の人権運動のシンボルとなっている。衡平運動は、朝鮮の被差別民衆「白丁」と知識人たちによって1923年に晋州で開始された。日本の水平社創立の1年後である。二人の男女像の前にそびえる白亜の2本の塔は、晋州を訪れた際には、ぜひ見学してほしいスポットである。城の前には、名物のウナギ料理をはじめ食堂も多い。昼食後、バスは、泗川をめざして南下していく。そこには、京都の耳塚の犠牲者の塚がつくられている。 13 船津里(ソンジンリ)倭城跡と泗川(サチョン)朝明軍塚
晋州から15km南へ下ると泗川である。泗川市街を抜けて海岸地帯へ向かう。緑の田んぼがまぶしい。船津里倭城へ向かう道路の左手に泗川朝明軍塚が建てられている。壬辰倭乱385周忌の1983年に、泗川郡によってつくられた塚である。塚の前には、大きな石碑が建てられている。この塚には、京都の耳塚(正確には、鼻塚)の犠牲となった兵士の遺骸が葬られている。現在、この辺りは「壬乱戦跡地開発事業」によって共同墓地公園として整地されている。この奥に、ゆるやかな石段をあがると船津里(ソンジンリ)倭城跡がある。海岸に面した倭城で、城跡公園にようになっていて、広い敷地の奥には本丸跡が残されている。眼下には海が迫る。この城は、慶長2(1597)年の再侵略の年に築城されている。島津義弘・忠恒父子は、97年の南原城攻略に参加した後、南下して泗川城に入った。ついで、義弘がここより西南6kmの船津にこの新城を築城した。3方を海に囲まれ、城下まで船が入り、陸続きは東面だけである。島津軍8千が駐留し、朝明連合軍と死闘をくりひろげた。この戦闘で、島津側は、朝明軍の死体から鼻を削ぎとり、塩漬けにして秀吉の本営に送ったという。鼻を削いだ中には、多くの非戦闘員も含まれていたともいう。
秀吉の命令による、“鼻削ぎ”であったが、絶望的な戦闘を強いられた日本軍の残虐行為が、再侵略時にはきわ立っていると言える。 京都の耳塚と泗川の軍塚が秀吉の朝鮮侵略の“赤い血”の糸によって結ばれていることをもっと記憶にとどめる必要があるのではないだろうか。
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