歴史と在日朝鮮人教育
牛窓(うしまど・岡山県)
朝鮮通信使の行列が

……“民際”交流のドラマが、今年も! 

    第6回朝鮮通信使縁地連絡協議会(縁地連)牛窓大会参加レポ−ト 
運営委員 宮木謙吉
1)はじめに…「縁地連」って何?
 江戸期の朝鮮通信使の寄港地や宿館・街道をもつ自治体が、隣国韓国・朝鮮との善隣友好と通信使を通じた町おこしや交流をめざしてネットワ−ク〔朝鮮通信使縁地連絡会(略称縁地連)〕を対馬の厳原で結成したのは1995年の11月であった。学校現場の仲間にとっては、日教組教研や全朝教、全同教大会に比べ全くといっていいほど馴染みの薄い全国大会であるが、既に対馬、下関、鞆の浦、高月、対馬と5回を重ね、昨年度は牛窓で6回目の全国大会が開かれた。牛窓大会では、恒例の通信使パレ−ドに民団・総聯の両組織がはじめて参加、東生野夜間中学校の修学旅行生がチャングに合わせて思わず踊りだす場面に出会ったり、また地元の東牛窓小学校全児童の熱のこもった歓迎セレモニ−が準備され、交流のドラマがくり広げられた。これは、昨年11月に開催された牛窓大会のレポ−トである。

(2)牛窓へ……牛窓地名考

 相生から赤穂とぬけ、日生の小豆島フェリ−乗り場の賑やかな港通りで昼食。店内は地元の人でいっぱい。日生の町なみも一昔前と比べると、近代的な装いにおおわれてきて、秋の陽射しのなかで海風をうけた町全体に「ひなせ」の持つ語感とは違った都会的な雰囲気を感じる。

亡霊漂うような「(伝)神功皇后腰掛け石」

 食事をしながら「牛窓」の地名ル−ツを考えてみる。めずらしい地名だが、通説ではここにも記紀神話の「神功皇后の三韓征伐」の亡霊が根強く生きている。皇后の船団が航海時にデカイ牛がで出てきたが、皇后の神力で住吉明神が退散させたところから、その地を牛転(うしまろび)といい、訛って牛窓(うしまど)となったもの。「窓」は「転び」の当て字であった。牛窓では、役場近くの塩竃(しおがま)神社に神功皇后腰掛岩が伝えられているほど神功皇后びいきの土地がら。当然、地元では、朝鮮通信使の影響を濃密に受けている「唐子踊り」も、そのル−ツを「三韓起源説」に置く考え方がこれまで支配的であったこともうなづける。

 しかし「三韓征伐」は史実ではないし、とうていこれらの説を受け入れるわけにはいかない。ただ、牛窓の地名も唐子踊りの起源も“朝鮮”に深く関係しているという点では、同意できる。要は、歴史観の問題である。国家・〈ヤマト〉民族を絶対化した“皇国史観”の立場をとるのか、それとも“複眼的な史観”(上田正昭)の立場にたって歴史を相対化させることができるのかどうかである。「唐子踊り」を祭礼に持つスサノオ神社がそうであるように、渡来神の象徴であるスサノオを祭った神社の多くが、古代の日朝交流の濃密エリアに今日でも鎮座している。ただ例外的に明治の廃仏毀釈の際、主神に急遽牛頭天王=スサノオを立てて難を逃れた寺社(曰く「うちは寺ではありません。仏もいません。祭神は牛頭さま、スサノオさまです。つまり神社です」)もけっこうあるので要注意。日本独特の神仏習合を逆手にとって延命の具としたわけである。明治の国家神道時代の知られざるエピソ−ドである。神仏習合の江戸期、寺も神社も同居が普通であり、寺は神宮寺と呼ばれ尊崇を集めたが、その多くが明治に入り廃寺となった。大阪でも住吉神社、杭全(くまた)神社などの神宮寺も全て消失した。

塩竃神社の境内にある唐子踊りのレリ−フを刻んだ石碑。写真の左側には神功皇后腰掛石が鎮座する。
 さて、スサノオは牛頭(ごづ)天王とも言われ、京都祇園の八坂神社を中心に、スサノオを祭神とする神社は全国に分布している。神話伝承では、乱暴・狼藉をはたらいた結果、天界を追放されたスサノオは、朝鮮半島のソシモリから再び日本列島にやってくる。そのソシモリ〔ソ(牛)+モリ(頭)=ソシモリ(牛頭)〕の〔ソ(牛)〕に、さらに〔モリ〕=〔始まり、最初〕と意味を解し、“入り江、突端、入口”と意訳しながら、“窓”と深読みすれば、牛窓という地名もうなづけるのでは…。こう考えると、古代の朝鮮との交流エリア牛窓が近代の朝鮮通信使との交流地として重要な役割を担い、さらに21世紀を前に韓国・朝鮮との交流と共生をめざしたネットワ−クの大切な結び目になって脚光を浴びているという事実に感動すら覚える。

 昼食後、瀬戸内の静かな海をながめながら牛窓をめざす。やがて「エ−ゲ海フェスティバルイベント会場」の案内版が見えた。「朝鮮通信使」の文字が見えないのでがっかりしていたら、海岸通りには「朝鮮通信使ゆかりの町」のノボリが海風にたなびいているので一安心。牛窓町役場の隣りのメイン会場の総合福祉会館では、開会行事が始まっていた。

 (3)「唐子踊り」見聞 

 縁地連の「誠信」の旗を中央に掲げたステ−ジには、「アジアにととげ!子どもの声、朝鮮通信使ゆかりの町全国交流牛窓大会」の横看板が掲げられていた。全体会では、毎年、地元の活動発表や記念講演、各地の朝鮮通信使民俗が紹介されている。開会行事は、開催自治体の腕の見せ所であり、参加者の楽しみでもある。

 舞台では、民団岡山のチャングサ−クルの農楽(最近はプンムルという)演奏が紹介されていた。今回の牛窓大会は、大会スロ−ガンにもある通り、牛窓の各小学校の子ども達が参加。その子ども達によるメッセ−シや取り組み報告、パフォ−マンスもなされ、町あげての歓迎ぶりに驚いた。朝鮮通信使をイメ−ジした子ども達の共同作品の幔幕が発表され、韓国の総領事に手渡されていた。因みに各小学校とも19日(日)は「登校日」で、20日の月曜日が休み(牛窓東小学校の行事黒板で確認)。

朝鮮通信使と出会った感動が「唐子踊り」として今に伝わる。

 いよいよ待ちに待った「唐子踊り」の登場。縁地連大会では初めての舞台発表。この踊りは牛窓町紺浦の素盞嗚神社(通称「疫神社」)の秋の祭礼(毎年10月第4日曜日)に神事として奉納される稚児舞いの童子対舞である。保存会の大人達といっしょに化粧した二人の少年が肩車に乗って登場。額の中央に朱で十文字が描かれ、目がしらと目尻にも朱をほどこし、円錐形の帽子に上着、だぶついたズボンをはいている。白足袋だけで履物ははいていない。ズボンはパジそのもの。見るからに、通信使の装束のコピ−である。太鼓囃子と歌に合わせた対舞は、艶やかな衣裳も含めて必見である。本来は、社殿の脇で二回踊ったのち、再び肩車に乗って町内の天神社、薬師堂、神功皇后腰掛石の3箇所を移動し1回ずつ踊るもの。素盞嗚神社は、紺浦の氏神として小高い丘の突端に鎮している。

(4)記念講演「朝鮮通信使と牛窓」

 岡山大学の倉地さんの記念講演は、わかりやすく興味深く聞くことができた。特に、古代・中世と瀬戸内の交通の要衝であった牛窓は、戦国期に入ると衰退し朝鮮通信使の往来が始まった頃には「僅かに300戸」「支供の処あらず」と記録されるほどの寒村になってしまっていた。その牛窓が復興したのは、近世になって通信使を迎える行事の中であった。岡山藩の御茶屋が造られ、灯籠をはじめとした港湾施設や公儀番所が置かれ外交都市として復活することができた。朝鮮通信使“効果”によって復興をなしとげた。その結果元禄期には「家数849軒、人数3980人余」と発展をとげ、歴史の表舞台に躍り出る。

 さらに、興味をひいたのは「漁民朝鮮漂流事件」(元禄5、1692年)。弘前の米を運ぶ岡山の北前船が朝鮮に漂着。日本と国交があったので、朝鮮から漂流民を送還してきたという実話。朝鮮通信使のことを北前船の船頭の人たちは知っていて、違和感なく朝鮮の厚遇をうけいれ、保護されたということ。中には、水夫として、牛窓に寄港した朝鮮通信使接待の行事に参加した乗組員もおり、また帰国に際しては朝鮮の役人が、特別に別れの宴を開いてくれたとのこと。別れのあいさつでは、その役人が日本語で「先年、伊予守様の御馳走今も忘れがたし」と述べ、酒も過分に出して宴をもりあげてくれたという。

 朝鮮通信使として参加した朝鮮の役人、その接待に参加した漁民たちとの交流が、図らずも実現したわけである。1回の接待が、決して1回だけでは終わらないという事実を教えてくれる。各地の宿館で、通信使の一行は、前回に訪れた通信使の書をみて感慨も新たにし、中には親子二代にわたって渡日した通信使もいたりで、さまざまなドラマがつくられたのだった。牛窓において、迎える人、迎えられる人の出会いが、こんなところにもあったのかと思うと、朝鮮通信使の史実の奥深さに改めて気づかされる。

毛利藩が瀬戸内海を行く朝鮮通信使のために用意した御座船
 11回の通信使は、瀬戸内を通過した。「高麗(こま)船の寄らで過ぎ行く霞かな」とは蕪村の一句だが、瀬戸内を歓喜と興奮の渦の中、水上パレ−ドする通信使船の余韻は、見る者の心に強烈に刺激しいつまでも残った。15〜30年に1回は往来したことで、一生のうち1回は、沿岸の民衆は見ることができた。異文化との親しい出会いを江戸期の牛窓の人々も心踊らせながら待っていたと思うと現代のわたしも心うきうきしてくる。そのような感激と興奮が「唐子踊り」として今に伝えられていると考えると、歴史の学習がますますおもしろくなってくる。牛窓民衆の歓喜は、通信使を見聞した当時の日本民衆の共感でもあった。

(5)海遊文化館へ直行

 全体会が終わって、海遊文化館へ。朝鮮通信使特別展「通信使・心の交流展」が開催されている。毎回、現地の歴史資料館での特別展示の見学はこの縁地連ツァ−の楽しみの一つ。この日は午後8時まで特別に開館。大会参加者は入場無料で、言うこと無し。

 旧牛窓警察署本館に造られた海遊文化館は、白い洋館風の造りと玄関のステンドグラスがいかにも明治の文明開化を思い起こさせる。その牛窓のシンボルが元警察署というのも明治らしい。ライトアップされた玄関から中にはいると、そこはもう朝鮮通信使ワ−ルドそのもの。衣裳をまとった等身大の通信使正使・副使の人形や唐子踊りの人形。当時の賑わいを伝える通信使絵図や行列ミニチュア人形。全国各地の通信使人形に各資料。極彩色の展示品に囲まれていると、当時の善隣友好の熱い雰囲気が伝わってくる。隣の部屋には船山車が3基も展示されている。 

 館内を見学した後に、通信使研究の第一人者である辛基秀先生がやってきた。今回の特別展示について説明をうけることができた。まず、初公開のガラスケ−スに納められた3品。有田焼の大皿。皿に青い線で描かれた通信使船の船先の竜は、牛窓の船山車のそれによく似ている。通信使船をみて、昔の牛窓の人は山車をつくったのだろう。次に、水滴。デザインには、富士山と通信使が取り入れられている。水滴に確かな青い線で、くっきりと描かれた図柄は、北斎の東海道五十三次の「原」の宿場町の絵をみながら、有田焼の職人が描いたのではないかと思われる。驚きの最後の一品はなんと刀。普通では見えない刀身部分や柄の部分に刻まれた通信使の刻み絵が展示されている。武士のお洒落の骨頂だろうか。遊び心の極みだろうか。通信使文化の摂取のアイデアに感心する。もう一つ、江戸城での国書交換を終えた三使の食事の場面をえがいた珍しい枕屏風も展示されていた。初めて見たものばかりで感銘これしきり。朝鮮通信使の“奥”は深い。これらの作品は、今春の京都の通信使展でも評判であった。

(6)早朝フィ−ルドワ−ク……疫神社へ 

 翌朝、さっそくフィ−ルドワ−ク。まずは、旅館裏手の高台にある御霊社へ。中央に祭殿のある平屋一階の板戸で造られた瓦葺きの神社。神社の祖形を感じる。「太刀踊り」が奉納されるという絵いりの案内板がたっていた。10歳前後の男子5名が踊る。一人は陣笠、二人は男装して太刀を、二人は女装して稚刀をもって踊るとのこと。古くからあるというが、ル−ツについては記述はなし。

 次に、海岸通りを歩いて牛窓町役場の斜め前にある神功皇后腰掛石のある塩竈神社へ。神社といっても芝を敷きつめたた約8メ−トル四方の一画に白い小さな鳥居と小さな石の祭壇をもった神社である。ここに移転されたようだ。「神功皇后御腰掛石」の銘の入った石柱の横には、何と唐子踊りのレリ−フを取り付けた石も並んでいる。説明板はないものの、唐子踊りル−ツを神功皇后伝説に求めていることがひしひしと伝わってくる。なお、この一画は、高祖酒造の敷地に隣接している。この家は、牛窓の名家で町長もだした町の実力者だそうだ。

 いよいよ「唐子踊り」の疫神社へ。高台の上に続く長細い石階段がみえてきた。階段の下に「唐子踊り」の説明版が立っている。

 「由来については諸説ありますが、踊りの形態衣裳、曲節等からみて江戸時代の朝鮮通信使の影響を受けたものと推察されます」

と、わかりやすく書かれている。

 急な階段は避けてぐるりと迂回しながらゆるやかな坂道を通って裏山からまわって境内にはいった。まず目につくのは、境内に建てられた「皇紀二千六百年記念」の石板だ。読むと驚きの一語。階段下の説明とはうって変わった内容。「神功皇后三韓征伐の御帰途當所に立ち寄りせられ捕虜として伴わせ給いし王子の踊りを伝はせし地として今に到る」と書いてある。「あれっ?」と思っていると、その左隣りには「唐子踊り」の新しい案内板がたっている。そこには「踊りについて地元の言い伝えでは、神功皇后に由来するように伝えられてきた。しかし、神功皇后は伝説上の人物であり、後の神功皇后にまつわる話として伝えられてきたものと考えられる」として“神功皇后三韓征伐”説は退けている。しかし、「朝鮮通信使」起源説、「中国」起源説、「地元創作」説を併記する書きぶりとなっている。やや納得のいかない内容となっている。「昭和15年」と「平成11年」に作られた新旧、戦前と戦後の二つの案内板に“時代”を感じる。朝鮮通信使を侵略・征伐した「俘虜の民」や「朝貢使」としてとらえる戦争の時代と、善隣友好・共生の「シンボル」「証」として理解する平和な時代の大きな差異である。日本の歴史が、またもや自由主義史観なる歴史の改ざん・修正主義のグル−プによってとんでもなく矮小化されようとする時期にこそ、偏狭な国家主義に踊らされることなく、東アジアの一員としての相互互恵の相対主義の立場で、国際・民際の視点から考える歴史観をこそ大切にしたいものであるとひしひしと感じる

 疫神社は小さな狛犬に守られた平屋木造の瓦葺きの神社で、牛窓の町と海が見下ろせる絶好のロケ−ションに鎮座。平和な村里の村人に守られた端正なむらの神社という印象を受ける。ここには、国家や民族の利害など入り込む余地など微塵も感じられない。日本列島の神社は、地域の産土神であり守り神、鎮守の森の杜であり、地域社会の拠り所であった。これを国家統合し、国家の神社として天皇に直結させ、支配体系のイデオロギ−として変質させたのは、ほかならぬ明治政権であった。日本の近代化は、隣国朝鮮との関係を切断、日本の神社がもつ渡来のル−ツを抹殺し、神社を支配の道具として悪利用することから始まったといっても過言ではない。残念ながら、今日でも皇国史観の立場にたった神社紹介や地名説明が観光雑誌や地元役所の観光課作成のパンフにまで見られる現状は否定できない。それだけに、朝鮮通信使を熱い焦点とした縁地連の活動に注目したい  

(7)牛窓フィ−ルドワ−ク 

 朝の散歩ウォ−クが終わった頃、牛窓町主催のフィ−ルドワ−クが始まっていた。海遊文化館の裏手にある本蓮寺の見学から合流。中央に手すりのある寺の階段を上り、山門をくぐって玄関へ。さっそく“謁見の場・遠州庭園・要予約”の置き札を見ながら書院へ。三使の饗応の部屋である。何度か来たが、本堂の右手にあって、床の間が見事である。江戸期の海運で栄えた牛窓では、こぞって良質の木材を求めたという。船材や建物材として活用された。牛窓では、地元の木こりの一団が、木をもとめて遠く日向まで出向いたという。屋久杉をはじめかなりの量の木材が取引された。良質の木材を使ったこの書院の造りは必見。特に書院の床板は一枚物で、目をひく。床柱は、床板に遠慮したか、床柱の方を削って組んである。書院の壁には、ずらっと通信使の書が掛けられ壮観そのもの。本蓮に伝わる通信使の書は9幅。そのうちの一詩。

 「牛窓寺古残僧少 翠竹蒼竹白日昏 宿客不眠過夜半 蚊雷陰々振重門」。これはよく紹介されるユ−モラスな漢詩。本蓮寺に泊まったが、蚊がうるさく眠れないとこぼしている通信使の嘆きが聞こえてくる。通信使の書は人気の的で、日本の学者・文人はこぞって書の交換もしくは書をもとめて宿館に集まった。多忙な通信使の眠りを奪った牛窓の蚊に腹を立てたのも無理はない。

 この書院をはじめ、本蓮寺の境内は、国指定の“朝鮮通信使関連史跡”の密集エリア。文化財の宝庫だ。寺自体が、通信使博物館の様相を呈している。牛窓と朝鮮通信使との深いかかわりが体感できる。     ・

(8)朝鮮通信使行列
縁地連全国大会のメインはシンポジウムと参加者による通信使パレ−ド。民団・総聯も共に参加。小学生も参加。

 恒例の朝鮮通信使行列パレ−ドは、水上パレ−ドで牛窓の港を横断した後、陸上パレ−ドをして、メイン会場の出島公園へと進むという趣向。通信使装束、チマチョゴリに身を包んだ総勢400人が行列を組んでいる。途中、牛窓北小学校児童150名による歓迎セレモニ−が開催され、国際・民際交流の雰囲気が大いに盛り上がった。今年のパレ−ドには、民団・総聯の両組織が初参加、朝鮮半島の統一ム−ドと通信使モ−ドが合体して、牛窓の町は国際交流の熱い風に吹かれどおしだった。

 チャングのリズムに合わせ、修学旅行にきていた東生野の夜間中学校の生徒さん達が踊りだす一幕も。引率の顔見知りの先生にも挨拶。今年の大会では、大阪市内の教員グル−プも見学に来ていた。メイン会場の出島公園では、「遊・SEA・牛窓エ−ゲ海フェスティバル」が賑やかに開催。模擬店も並んでお祭り気分も満点。牛窓町民が総出して、通信使で町全体が活性化した2日間であった。  

牛窓東小学校の子ども達全員が、参加した歓迎セレモニ−。総合学習として展開されているようだ。万雷の拍手は鳴りやまない。

(9)おわりに…“御津・室津”で会いましょう

  来年の開催地は、岡山県牛窓の隣、兵庫県の港町“御津・室津”。興味ある方は宮木まで。

 次回は、大阪市外教主催のフィ−ルドワ−ク「ビルの谷間に朝鮮通信使ウォッチングの報告を予定。大阪市の都心中之島界隈を土佐堀にそって歩きながら通信使の歴史を訪ねます。ご期待ください。 

  むくげ165号目次へ

現在、牛窓町は、邑久町・長船町と合併し、瀬戸内市となっています。


inserted by FC2 system