全朝教運動と天理大学問題
                                   2001.8.5
                             内山一雄

                       (1987〜95全朝教会長)



 はじめに                      (以下敬称略)

 

 本年も、この8月に第22回全朝教兵庫大会が開催されます。「多文化共生社会にむけて豊かで確かな教育実践を交流しよう」のスローガンとは別に、全朝教大阪からの教育実践交流の道は閉ざされたままです(「むくげ」164号参照)。この事は、実践と運動に依ってってのみ成り立つ全朝教運動にとって大きなマイナスであることはいうまでもないでしょう。この問題の背後には、「前」全朝教会長であった私の引き降ろしと「現」藤原会長の反対を押し切っての選出〈94・11・5)、その後の全朝教運営委員会からの大阪の排除などの組織問題が直接の契機ですが、その前提には天理問題があります。事の経過から言えば、天理問題が存在しなければ組織問題も生じないか、生じたとしても別の形を取ったでしょう。従って天理問題または天理大学問題と略称されている「天理大学民族差別集団暴行事件」とその後の経過の検証が求められます。まだ、天理問題の全体像を網羅する余裕もスペースもあるとは言えませんので、ここでは全朝教運動との関係性を主に検証してみたいと考えます。

 


1「天理大学民族差別集団暴行事件」とは

 

 1993年l月20日、天理大学の学生寮(ふるさと寮南寮)で集団暴行事件が発生、被害者は、当時、朝鮮学科1回生C君(韓国籍)です。同学年の日本人学生(寮生)11人が、殴る、蹴るなど8時間にも亘って集団暴行を加え、全治2週間の傷害を負わせました。その後、「天理大学民族差別集団暴行事件の真相を究明する共闘会議」(略称・共闘会議、寺沢亮一代表〉が結成され、大学・教団側と4回の事実確認会を経て、1994年6月20日の糾弾集会で一応の決着を見ました.その間、加害学生に対する誤った処分(I93・3・17〉とその撤回〈94・3・17)、学長辞任(93・11・2)など、天理大学も、大きく揺れました。


 天理問題の総括は、その有する教訓の重さから、なお今後の課題としてあるでしょうが例えば、次の諸点が直ちに浮かびます。(1) 民族差別集団暴行事件に及んだ学生たち自身の問題性。(2)そうした学生を送り出した側の、各学校の在日朝鮮人教育を初めとする人権教育の問題性。(3)同じく天理大学内の教職員集団の問題性。(4)事態をめぐる学長・理事会・天理教団の在り方の問題性など。共闘会議による糾弾闘争は、これらの課題を初めとする天理問題の全貌を明らかにする事が期待されていたのです。


 共闘会議は、第一回確認会(93・6・1)後、6月16日に結成、構成は、寺沢代表(全同教=全国同和教育研究協議会委員長)とともに事務局長に徐正禹(全国民闘連事務局長)が就任、参加団体は、民闘連、奈良在日外国人保護者の会、奈良在日朝鮮人教育を考える会などの運動団体、奈良県外国人教育研究会、奈良県同和教育研究会などの教育研究団体、奈良教職員組合、奈良県高等学校教職員組合などの組合組織です。


 大学側は、最初にC君の訴えを受けとめ問題に取り組んだ同和問題研究室(同研、5名)とそのメンバーの所属する教養部、国際文化学部、文学部が中心となり、学内において糾弾闘争に連帯し、後に反差別・民主改革派と称される闘いを展開するようになります。

 


2 「事件」の経過と問題点

 

 差別事件なるものが、あってはならないのはいうまでもありません。しかし、現実に「民族差別集団暴行事件」が起きました。問題は、それが何故おきたのか、何故防ぐ事が出来なかったのか。そこには、これまでも報道その他でも明らかにされているように、前年のC君への「本名否定発言」に対する大学内の対応や学寮体制の問題点などがあります。それを論じる事は、いわば、天理問題全体に関わることにもなり到底そのスペースはありません(注1)。ここでは、「本名否定発言」「暴行事件」に次いで起きた第三の差別と言える「事件かくし」「差別かくし」の問題点について述べることにします。


 問題点の第一は、学長を初めとする大学当局は、「事件」の事実そのものの隠蔽という「事件」かくしを謀ろうとした事です。大学から「事件」が理事会に報合されたのは、外部から(市立尼崎高校藤原史朗教論)の問い合わせがあった四月に入ってからであり、暴行の詳細が公表されるのは六月になってからです。加害学生に対する懲戒処分の原案を作成する学生委員会は、それまでの前例に反し、全員一括の「譴責」とする原案を作成しました。それは、譴責、停学、退学、の三段階の中で、最も軽い処分です。処分審議手続きなどを論議する部長会議は、学則の規定をを無視して教授会に処分審議をさせないことを決定しました。部長会議を主催した学長は、学生部が用意した処分原案を含む教授会用の資料の廃棄処分を命じました。大学の最終意志決定機関である全学協議会も、事実審議を行なう事無く処分原案を容認してしまいました。この経過は、次の事を教えています。まず、「事件かくし」が、「事件」の差別性を明らかにする場や条件を奪ったものであり、現実に学内から民族差別とのかかわりを問う声があったにもかかわらず、その声を封殺し強引に「事件」の幕引きを行なおうとしたことを示しています。つまり、「事件かくし」を通した「差別かくし」と言ってよいでしょう。


 問題の第二は、この「事件かくし」「差別かくし」が白日の下に曝されるためには共闘会議の事実確認会、糾弾会の場を必要としたということです。同時にマスコミも「天理大学で集団暴行、韓国名通す学生に、寮生11人、背景に民族差別か」(93・5・9、読売など)と大きく報道、内外の声に学長・大学当局は、問題を真正面から受けとめぎるを得なくなったのです。しかし、第一回確認会(93・6・1)第二回確認会(93・7・14)共に、徒らに学長らの自己擁護の弁明に終始し、進展を見ていません。

「本心の吐露せぬところ真実なし、大学長の言葉滑らか」(「何んでやねん」=共闘会議パンフ)の言がそれを見事に示しているでしょう。問題が大きく展開するのは、第三回確認会(93・9・30)といえます。

 第三回確認会がそれまでと異なるのは、共闘会議の学長・大学当局に対する追及とともに天理大学教員がくちぐちに発言、追及し始めたことです。まず、同研メンバー(内山)が口火を切り、続いて同じく伊藤(和)が、更に他の教員がというように。彼等を立ち上がらせたものはそれまで発言してきたのが学外者達であることをよいことに、平然と目前で白を切り続ける学長に我慢ならなかったという事でしょう。きっかけは、膠着状態に陥った追及に業を煮やした共闘会議の寺沢代表が、会場全体に呼び掛けて発言を促したことからです。言わば、公然たる内部告発でしょう。それとともに、確認会の雰囲気は明らかに変化し、「事件かくし」「差別かくし」の醜悪が抉り出され追い詰められて行ったといえるでしょう。


 問題の第三は、この第三回確認会を経て、それまでにも底流としてあったと見られる共闘会議側と天理大学の同研・反差別民主改革派との意見の相違が表面化するようになります。例えば、第三回確認会は徒に混乱を招いたと見るか、反差別民主改革の火の手が上がったと見るかの相違でしょう。それは、更に第四回確認会(94・2・3)、糾弾集会(94・6・20)を通して共闘会議側に依る同研・民主改革派批判として公然化することになります。

 


3 考える会シンポジウム

  「天理大学民族差別集団暴行事件を問う

    ―大阪における在日朝鮮人教育実践の深化をめざして―」(93・11・4)

 

 大阪考える会が、天理問題についてこの時期にシンポの形式で集会を組織した事は、今日から見ても大きな意義があったと思われる(詳細は「むくげ」136号参照)。


(1)時期的に、大きな転機とも見られる第3回確認会後であり次の第4回確認会に向けて運動の在り方を見極める必要があった。本集会と殆ど同時に大久保学長の辞任(93・11・2)が伝えられるなど、大学自体も一つの節目に来ていました。

(2)考える会の本来の在り方として、教組運動や府・市外教など教育研究組織と連帯しながら、それらの運動や組織では十分に担いきれないものを在日朝鮮人教育実践と運動の独自性として追求する必要がある。天理問題はまさにその課題を問い掛けているのではないか。

(3)シンポ報告者は、桝井久(共闘会議事務局員、奈良考える会事務局長、全朝教運営委員)、内山一雄(天理大学教員、全朝教会長)、市川正昭(差別と闘う文化会議事務局長)、印藤和寛(大阪府立住吉高校教員〉の4名。集会参加者は、大阪教組の活動家88名、民促協10名、民闘連1名、全朝教〈奈良・京都)7名、保護者・一般19名、マスコミ関係者6名、天理大学関係者10名、天理教関係者9名でした。


 この百名近い多彩な参加者を擁し、集会が当初の目的を達成しておれば、天理問題のあるべき解決に大きな前進をもたらしたでしょうし、更に大阪の、実践と運動に同じく大きな展望を与えることが出来たでしょう。しかし、残念ながらそうはなりませんでした。勿論、成果が全く無かった訳ではありません。例えば、内山報告を補足する守屋政一(天理教集会部)発言に依って、大久保学長が「学生処分決定の経過も含めて差別的対応であったこと。結果的には、事実を隠蔽したことを認めぎるを得ないこと」と言明している事が明らかにされました。つまり、天理問題の核心の−つである「事件かくし」「差別かくし」が、公の場で確認されたということです。更に、市川報告は、差別と闘う文化会議と天理教団の交渉を通して教団の姿勢を糾した事を明らかにし、印藤報告は、高校側から見た実践と運動を熱い思いで語り感動を与えました。これに対して桝井報告は、その後に続いた金井英樹(奈良考える会、共闘会議事務局、全朝教運営委員)発言とともに、被害者であるC君に「寄り添う」営みを強調しながら、必ずしも十分にそれがやり切れていない天理大学同研が、一方で自らが撃たれる立場であることを忘れ、大学の反差別民主改革など、撃つ立場に立って学内抗争に明け暮れていることでよいのだろうか、というものでした。このような桝井・金井発言は、参加者に、その真意を計りかねて戸惑いを生むとともに、運動の内部矛盾を大阪考える会のシンボという公開の場にさらけ出して論じたという点を疑問視する声もありました。また、この桝井報告の、運動と実践を対立させる誤った論理に対して、大阪考える会のシンポ総括は、次のように述ペています。


 「大阪の運動・実践においても常に、”差別の事実から学ぶ”ということをスローガンにしてきた。天理大学同研の仲間たちも当然そうした観点から、この間の闘いを進めてきたのである。にもかかわらず、対立してもいない論理を展開しつつ、あたかも共闘会議と天理大学同研とはちがうのだと主張することで、果たして、何が産まれるのか。」

 「天理大学同研は、今回の差別事象の内部にあり、”撃たれる側”にあるということは、誰も否定をしない事実である。しかし、”撃たれる側”にある自己を見つめ直しつつ、共闘会議からの問いかけを自己のものにしていく作業を通して、自らの変革も含めて天理大学構造を改革していこうとする営みは貴重なものとして評価しなければならないものである。また、そうした内部からの立ち上がりなくして、差別事象を克服し得ないことも自明のことなのである。」(「むくげ」136号)


 既に述べられてあるように、このような運動の内部矛盾は、運動内部で解決するべきものであって、間違っても敵対矛盾にするべきものではないでしょう。その意味で、全朝教運営委員会や考える会運動の責任は大きいが、その後の経過は、必ずしもそのようには運びませんでした。

 


4 天理問題を通して見た

 「誤れる実践と運動の論理」とその批判

 

 第四回確認会(94・2・3)の際、天理教団が、次のような見解を出しています。


「殊に、私たちの目には、抜きがたい相互不信とさえ映る大学内の対立が、せっかくの学内外からの問題提起をも深められない姿となり、また皆様方から頑なな差別隠しと指弾される事態を招き、ひいては第三回の確認会後も学生への指導も十分になされないまま、お互いの責任追及に終始し、学長退陣の是非が優先されましたことは、天理大学に問われたことに対する真摯な対応とは思えず、社会的に到底容認され得ないところと考えます。」

(天理教啓発委員会の「見解」)


 この一文は、桝井久「天理大学、民族差別暴行事件のその後」(「部落解放」94年10月、380号)の中に「学内の混乱」の標題でそのまま引用されています。

 この「見解」なるものは、誰が何をしたのか、主語が曖昧な実に奇妙な文章です。「頑なな差別隠しと指弾され」というが、一体差別隠しをしたのは、誰なのか。「事件」発生以来の「学内」の問題提起を握りつぶし続けたのは誰なのか、そもそも「差別隠し」をするような学長を任命し、「事件」が社会問題化してからも擁護し続けたのは天理教団(表統領室)ではなかったのか。自らの責任を棚に上げ、主語を曖昧に「他人事」のように論評するのは許し難い事でしょう。


 それにも拘らず、上記の桝井論文は、これを「教団の誠実な受けとめ」として高く評価し、まるで教団と利害を共にするものであるかのような立場をとっています。更に、桝井論文は、第三回確認会後、教団が大学に代わつて交渉当事者になることを言明した事に対して、学内から教団の大学自治への介入反対の声がある事を取り上げ「介入反対と叫ぶ姿は、解放同盟の確認会・糾弾会に反対する日共の教師の姿と似ていると感じたのは私だけだったのだろうか」と述べています。


 これは、「大学の自治」に対する全くの無知を示す驚くべき議論でしょう。天理大学も学校教育法以下の諸規定に規制された独立の公教育機関である以上、教団といえども、規定に基ずかず学内の合意なしに大学に代わって交渉の当事者の位置に着くことなど出来ません。にも拘らず、教団を代表する表統領がそのように言明したのは、事実上、天理大学の支配権力である教団にとって大学の自治に対する介入どころか、大学を「教団の私物」と見なしていることの証左でしかないでしょう。各機関や諸個人の独立を認めず、一律に教団的権威に服従することを求める教団・法人・大学を貫く体質こそが、例えば4回生は天皇、1回生はゴミと言うような、「事件」を起こした南寮の在り方に集約的に表れていた事は、他ならぬ啓発委員会の認めるところでしょう。従って、これを「大学自治への介入」と批判するのは、まさに当然でしょう。


 にも拘らず、このような「教団権力」の介入に対する反対を、「部落解放同盟の介入反対を唱える主張と同一視することは、全く的外れであるだけではなく、根拠の無い「レッテル貼り」といえるでしょう。


 一方、桝井論文は「同和問題研究室は、暴行事件以後、いち早く民族差剖であることを指摘、厳しい学内の状況のなかで大学当局の差別隠しを暴露し批判を加えてきた。」と評価しています。ところが、その「差別隠し」に対する闘いについては具体的に述べないで逆に、当局を追及することに専らで、学生指導を見失っていたと批判しています.


 このような論法は、次のように、あからさまな表現を取る場合さえあります。


 「大学のなかに、いろんな問題があって、事件が、途中でひん曲げられていくんです。それが、長引いた原因の一つなんです。つまり大学のなかの、派閥争いが絡んでいるんです。」「事件の真相をどう究明するか、議論するというより、この部分にふれると、むこうに利するとか、あるいは、こっちが損するとかが、さきにたつわけです。」「同和問題研究室の先生方にも、学内での主導権争いを優先する意識があったようです。その結果、学生に対する指導がお粗末な結果となったようです。」(「解放新聞」94・3・7、1660号)徐正禹共闘会議事務局長が、土方鉄解放新聞編集長に語った言葉です。ここでは、同研を初めとする学内反差別民主改革派と称される人々の、天理教団・学校法人天理大学(理事会)・学長・大学当局という支配権力の「事件かくし」「差別かくし」に対する闘いが、学内の単なる「派閥争い」「主導権争い」に矮小化され、切り捨てられています。片や、その論法を正当化するために「学生指導不在」を強調することになります。つまり、先にも指揮したように、本来は対立しない「実践」と「運動」、「教育」と「運動」を分断・対立させ、一方を否定する論理です。その論理は、天理問題の最終局面である第四回確認会と糾弾集会において、後に「同研たたき」と称されるほど集中的に展開されます。座席も、それまでと異なり対面方式に変わります。これも「撃つもの」と「撃たれるもの」は、別であるべきという論理からです。第三回確認会の学内の「蜂起」を、許されざる「混乱」と見る立場もあるでしょう。結果として、第四回確認会・糾弾集会は,共に同研全面糾弾となり、例えば、糾弾集会の個別の所要時間は、大久保前学長3分、同研90分と言われるなど、同研と教団・法人・学長などに対する糾弾は、時間、内容ともに、余りにもその相逢が際立っていました。ために、フロアから「共闘会議は、何を糾弾しているのか」「教団と話がついているのか」という声も上がったと聞いています。


 更に、確認・糾弾の中で、誤った学生処分の撤回や学長を辞任に追い込んだ闘いが、容認できないこととして批判されています。つまり、その過程で手続き論に拘泥して学生指導を見失ったのではないかという批判です。しかし、学長辞任については、教団・法人(理事会)によって任命され、大学に責任を有しない学長が、「差別隠し」を通して大学の諸規定を踏みにじり、恣意的に大学行政を壟断したために不信任を突きつけられ、事実上罷免されざるを得なかったことの、どこが容認できないのでしょうか。併せて、次のような訴えに対して、糾弾は「知的・道徳的優位」をどこまで主張できるのでしょうか。


 「私たちは、いたずらに手続き論に拘泥するものではありません。終始批判してきたのは、正当な意見表明や議論を抑え込む形で問題そのものを否定しようとする大学の姿勢でした。あるいは、事の真相を覆い隠そうとする意図でした。今回の民族差別・集団暴行事件を生み、さらにはそれに対する異常な対応を生み出した土壌が、まさしく、民族差別の存在それ自体の指摘さえ許さなかった違法な手続き操作に集約されています。その意味で、手続き違反そのものに顕れた差別性こそが問われています。正当な手続きに向かって踏み出す第一歩が、同時に、発端となった民族差別発言、集団暴行事件の内実を理解し、今後の大学のあり方を考えてゆく第一歩になろうと考えるのです。」(1993年9月2日、天理大学教養部教授会「声明」)


 天理問題におけるこのような確認会・糾弾会の在り方については、今後、更に検証しなければならないでしょう。確かに、「民族差別集団暴行事件」という重大な差別事件です。徹底した糾弾が、要求されれます。しかし、運動内部の矛盾を対立者や学生大衆の前で暴露し、内部で取り組む主体の威信を限度を越えて失墜させたことは果たして正しかったのでしょうか。それは、結果として、教団・法人・大学当局などの教団的権威に服従する差別体制を「免罪化」し、「学内民主改革派」と「教団内改革派」のその後の闘いに大きな困難を強いることになったのです。

 


5 天理問題と全朝教運営委員会

 

 全朝教(全国在日朝鮮人教育研究協議会)は、その名称と発足の趣旨からも、運動体として天理問題にその組織の総力を挙げて取り組むべきでありました。しかし、残念ながらそうはなりませんでした。ならないどころか、天理問題を発端に全朝教会長人事をめぐる混乱を引き起こし、機能不全にさえ陥ります(詳細は「むくげ」141号、95年7月24日参照)。


 原因は、これまで述べてきた天理問題をめぐる深刻な対立です。否、今日から見れば、対立に事寄せて、天理問題を契機に会長人事を初め全朝教運営委員会と事務局を一部の勢力の支配下に置こうとしたのではないかとさえ疑われます。問題を考えるために、事の経過を時系列的に見てみましょう。全朝教運営委員会が、委員会としてはじめて天理問題を取り上げたのは、93年4月17日、藤原史朗委員の報告によります。(それ以前、4月2日、藤原氏の公開質問状が天理大学に届けられています。)当日、金井委員、桝井委員も交え、民闘連の事実確認会の予定などの情勢報告もなされています。第一回確認会(6・1)第二回確認会(7・14)後の7月24日、京都での運営委員会では、学長に対する抗議はがき、署名運動が提起・決定されています。8月22日〜23日、第14回全朝教京都集会開催。天理問題については、桝井報告があり、更に天理大学朝問研(朝鮮問題研究会)もアピールを出しています。この時点迄は、全朝教も天理大学同研も共に一体となって闘う事が可能でした。


 問題は、それ以後になります。転機になるのは、やはり第三回確認会(9・30)でしょう。この時に噴出した問題点は、その前後に兆しています。


 (1)天理大学内では、全学協議会が学生処分の誤りを正式決定(8・5)、処分取り消しと学長の責任問題の動きが強まり、やがて3学部(教養部・国際文化学部・文学部)の学長不信任決議(10・6)となる。

 (2)天理市労協天理問題集会開催(9・24)。藤原(報告者)、桝井、金井が参加、集会後、同研・3学部内民主改革派教員と話し合う。意見の相違埋まらず。

 (3)「天理大学の人権教育を糾弾する」という同研攻撃の怪文書が学内に出廻る(9・27)。緊張感高まる。

 (4)「差別と闘う文化会議」(土方鉄議長)が、天理問題を運動課題に決定(9・14)、ついで天理教団・学長と交渉(10・15)。


 学内改革派は、(3)の動きを警戒しつつ(1)の動きを強める。桝井、金井など共闘会議内教員グループは、(1)の動きに反対、(4)の動きについては、徐正禹(共闘会議事務局長)共々不快感を示す。こうした動きが(2)の結果となり、第三回確認会で公然化します。その後、両者の溝は埋まらず、既述の「大阪考える会、天理同研シンポ」(11・4)で、その問題点が明確になります。大学同研側は、何度も修復の働き掛けを試みましたが果たせず、翌年、年明け早々、日教組第43次教育研究全国集会(94・1・28〜31、神戸)とそれに続く第四回確認会(2・3)で、両者の亀裂は決定的と思えるようになりました。日教組教研では、「国際連帯の教育」分科会で奈良報告として高校の立場から桝井久(県立斑鳩高校)金井英樹(県立城内高校)が天理問題について報告、たまたま分科会の共同研究者(助言者)であった内山一雄(天理大学教員)との間で乱しい応酬となりました。次いで、その3日後の第四回確認会では、桝井・金井両氏は、今度は共闘会議の席から天理大学同研の全面批判を展開する事になったのです。


 こうして、桝井、金井、藤原をはじめとする共闘会議の全朝教メンパーによって、全朝教会長下ろしの舞台が整う事になります。


 第4回確認会後の2月19日、全朝教運営委員会開催、席上、何の前提もなく突然に会長退任要求が藤原委員の属する兵庫の一委員から提起、その後に続く「内山下ろし」のはじまりです。その後の経過から、理由の主な点は次の通りです。


(1)確認・糾弾される側に全朝教会長が座って居ては、確認・糾弾がやりにくい。また、本人もしんどいだろう。

(2)当事者であるC君に寄り添わず、大学当局に「反抗」ばかりしている。

(3)差別を自己批判し撃たれる立場にあるものが、差別を追及し、撃つ立場に居るのはおかしい。


 以上の主張に見られる論理は、「内山下ろし」を通して、確認・糾弾闘争に係わる共闘会議側の論理と重なっていると見てよいでしょう。従って、天理問題を考える為にもこの論理の検証が必要でしょう。


 第一に、(1)は、「やりにくい」とか「しんどい」とか、確認・糾弾をそのようなレベルでしか考えていないとすれば、まさに「語るに落ちる」とはこの事でしょう。繰り返すようですが、「やりにくい」からそこに居てほしくないとか、本人でもないのに「しんどい」かどうかなどは、放っておいて欲しい、と言いたくなります。少なくとも、天理大学同研は、もう少し真面目に考え、確認・糾弾会の成功を求めていました。確認・糾弾は、真実の追及を通して相互の変革を果たせる場であると。しかし、その期待は、余りにも甘かったようです。況んや、それが全朝教人事に利用されようとは、夢にも思わなかった事です。


 第二に、(2)の論点は、先にも述べた「実践」と「運動」、「教育」と「運動」を分断・対立させ、教育的指導の不在という視点からのみ一切を否定し断罪しているというところにあります。

 ここでいう「寄り添う」が、「教育的指導」を意味する言葉とすれば、敢えて言えば「寄り添う」度の評価は、人によって立場によって様々でしょうし、更に、小中高生と、もう子どもではない大学生とは「寄り添う」意味が異なって当然でしょう。それを、一方の立場からのみ批判し切り捨てるのは如何なものでしょうか。

 その評価はどうであれ、同研は、可能な限り努力しその存在感を示してきたのも事実でしょう。「事件」後、被害者C君が痛む体を引きずって最初に訴えたのは同研であり、当初、本人自身の「これは差別でない」という奇妙な言動について、何故そんな事を言うのか、という内山の質問に対して「恐かったからです」と語った彼の苦渋に満ちた表情が今も記憶に鮮明です。「事件」の核心である「差別隠し」の一端でしょう。更に、朝問研や韓国人留学生の立ち上がりなど、それが何処までやり切れたか分かりませんが、内山本人も同研の驥尾に付し、C君をはじめ学生諸君と井に闘い共に歩もうとした事は間違いないでしょう。

 しかし、それでも「天理問題」の場合、教員総体に大学教員の「権力性」に対する自覚の欠如とそこに由来する「教育」という視点からの取り組みの不十分性については、改めて点検し反省しなければならないでしょう。(2)の言わんとするところでしょう。

 だが、その点をもって「大学当局に反抗ばかりしている」として、当局の差別隠蔽に対する闘いまで否定し去るのは、本来、対立しない「教育」と「運動」を意図的に対立させるものでしょう。それが、「目の前の子ども」にさえ関わっていればよいというところに行き着けば、現象を見て本質を見ようとしない融和主義となるでしょう。


 第三に(3)の意見も、ためにする論理でしょう。この論の発端が、第三回確認会の「混乱」であるとすれば、学内の反差別民主改革派の立ち上がりに依って「撃たれ」た「差別隠し」の側は快哉を叫んでいるでしょう。そこに、この論理の誤りと危険性があると見てよいでしょう。立ち場性は大切です。しかし、それを機械的にいう事が問題です。それをいうなら、日本人がどんな立場で在日朝鮮人問題を糾弾できるのでしょうか。

 それは、「撃たれる」側とされる差別をおかした立場のものが、自己批判しなくても良いなどと言うことでは毛頭ありません。差別は、社会的諸関係に組み込まれている構造的暴力であり、そこから醸成される差別意識が私たちを支配しています。従って、被差別の視点に立って自らを厳しく批判し切開するとともに、自らを支配する差別意識を生み出す構造的暴力との闘いが必然となります。同研を初めとする学内の闘いは、それまで差別構造を見逃し容認してきた自らに対する痛恨の思いとともに、「差別隠し」に見られる構造的暴力と対決することになったのです。従って「撃つ」「撃たれる」ではなく、敢えて言えば、「撃たれるからこそ撃つ」という論理こそが必要ではないでしょうか。


 しかし、このような論理の展開とは全く関係なく、会長人事の「内山おろし」は強行されました。糾弾集会が終了し、先の(1)の論法が通用しなくなると、今度は、本人の人間性にたいする誹謗中傷が始まりました。此れには、さすがに私も参りました。


 ここで、付言しますが、私は決して会長職に恋々たるものでは毛頭ありません。寧ろその重責から解放されほっとしているくらいです。問題は、その論理とルールでしょう。論理については、不十分ながら触れてきました。ルールでは、前例無視の強行採決とその後の大阪排除、更に、事前に直接内山退任を要求した藤原氏本人が現会長となっても、全朝教大会で、一切その経過説明は無く、引き継ぎも退任挨拶も阻まれています。要するに1987年以来7年間の会長内山は、何時の間にか消えて無くなったということです。つまり、「前」会長抹殺。反差別と人権を掲げる組織のやる事でしょうか。この根本は、これまで見てきたように、天理問題ですが、本来、大学問題と全朝教とは別問題の筈です。それを、意図的に結びつけ、人事を壟断し、大阪という全朝教発足の地を切り捨てたところに、今日の全朝教の問題があるのでしょう。

 


おわりに

 

 天理大学は、その後、どうなったのだろうか。寧ろ、この事こそこれまで述ペてきた以上に大問題かもしれません。何故なら、2年もの間、確認・糾弾をはじめ学長辞任や処分撤回など、大きく揺れた結果のもたらしたものこそが問われるからでしょう。確かに、教団・法人(理事会)・大学内に「人権」「反差別」の声を聞く事は珍しくなくなりました。

 人権関係組織や研修会も、整備されはじめています。しかし、その後に続発したのは、応援団暴行事件、クラブ顧問教員の差別発言、女子学生に対するセクハラ事件など枚挙に暇のないくらいです。勿論、これは、大学教員自身の問題ですが、一方では、朝問研の再建も含め、学生白身が人権意識を通して声を挙げ始めた事もあるでしょう。だが、問題は教団・法人などです。糾弾集会の翌年、新しく施行された再雇用規定をたてに、理事会は65歳を越える32名の大学教員の再雇用拒否という事実上の首切りを行なおうとしました。マスコミも大きく報道した「天理大学大量解雇問題」です。しかも、この契機と見られているのが、その前提になった内山個人に対する強引な退職勧告です(注2)。教団・理事会の報復ではないかと見られています。つまり、天理問題に依っても、教団・法人・大学当局を一貫した権力構造は、微動だにしなかったということでしょう。否、逆に、結果的に権力構造は「免罪化」され、学内の反差別民主改革派が少なからぬ打撃を蒙った証左といえるでしょう。


 糾弾会後、共闘会議側は、教団・理事会・大学当局側と定期的に会合を持つようになりました。その後の状況を見守るためということでしょう。では、内山個人も標的に、学内に凄まじいばかりの首切の策動が吹き荒れ、反差別・人権派の教職員が苦闘を強いられていることを何と考えていたのでしょう。この闘いは、今も続いているのです。

 現在、天理大学では、教団・法人(理事会)主導の新たな「改革」なるものが学内の反対を押し切って進行しています。天理問題で反差別民主改革派の拠点と見なされた同研メンバーも所属する教養部は解体、国際文化学部は、C君も所属した伝統ある朝鮮学科をはじめ学科は廃止、コース制に縮小再編されようとしています(2003年度)。改めて問いたい。「天理問題」とは、何であったのでしょうか。

 


(注1)「”天理大学民族差別集団暴行事件”と人権の課題」内山一雄(天理大学発行「陽気遊山”ひと”として生きる」1995年4月1日)

(注2)「これでいいのか、大学のいま」=天理大学大量解雇問題の真相=(天理大学再雇用問題当事者集団発行、1996年8月)

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