全朝教大阪(考える会)30周年記念集会お話と舞踊         2001.8.30
 
「民族の心と中学高校生の頃
……大阪の高校から」
 
                      車千代美(チャ・チョンデミ)


1 生野区北巽小学校・巽中学校に
民族学級・民族クラブがなかった頃
 
  「いやでいやでたまらなかったけど、人数が多いから助かっていた」
 
 「日本名でいても差別は同じ」
 
 アンニョンハシムニカ。今日は、私が本名になっていった過程について、在日の立場からお話しさせていただきたいと思います。

 私は、生野区の北巽小学校に通っていました。今でも多くの在日の子どもたちが在籍しているんですけれども、私の時代には民族学級も、それらしい教育も、何もありませんでした。

 そこで、学校で何も教えてくれないからとか、そういう事じゃなくって、自分の家庭が一世の親でしたので、何か違う、朝鮮のなまりがありますしね、どうしても隠すことができない。ほかの友だちの日本人の家庭の親を見ると、言葉も違うし、食べ物も違うし、だから、子ども心にも「いやだなあ」と思いました。その時は通名で通っていましたけれども、本名なんてとんでもない、本名のことも知っていますけれれども、それは違う名前、自分は通名が本当の名前だと思っていましたし、「ああいやだなあ」と思っていたのです。

 ある時、小学校6年生の時なんですけれども、ある日本人の女の子が私に、向こうで騒いでいた子のことを、「あの子うるさいね、朝鮮人やから」と言ったんです。「うるさいね」と言われた子は実は日本人で、私が朝鮮人なのに、それを知らずにそう言いました。私が通名を使っていたから、気付かずにそう言ったのですね。「うるさいね、朝鮮人やから」、うるさいのはみな朝鮮人か、ということになりますね。しかし、そこで反発できない。自分は何も知らないし、そこで、「うわあ、えらいこっちゃ、やっぱり朝鮮人嫌われてるし、ぜったいここでばらしたらあかん。親を見せるわけにもいかないし、秘密にしよう、懇談会にも絶対来さしたらあかん」と、そう思ったのです。

 中学校に上がると、中学校は巽中学校ですが、一年生入学の時にとんでもないことが起きたんです。

 中学校には北巽の子だけじゃなくって、別の小学校からも来ます。新しい社会ですよね。そこで意気揚々と行ってみると、出席簿を見たら二つの名前が並んでいる。「お前、朝鮮人や」というのが歴然とわかるんです。

 その時には、朝鮮人やから、昔連れてこられてとかいうことは何も教えられているわけではない。いやでいやで仕方がないのが、突きつけられるわけです。クラス全員に、全校生徒にわかるんですね、出席簿に二つの名前が書いてあるので。それを見たとき、どうすればいいのかと思いました。逃げ場がないですよね。開き直りしかないんですけれども、でも開き直れなかった。だから、自分は知らない顔して、でもみんなは知っている。でもまだそれでも、人数が多いから、助かっていたのです。生徒のうち約三分の一が在日で、出席簿でも、クラスの三分の一が二つの名前を持っていた。それに、やんちゃな子どもたちが結構在日が多くて、はばをきかせていましたので、悪口を公然と言う子どももいませんでした。そういう状況でで中学校に行っていました。

 ほんとうにそれがいやで、二つの名前を持っているのもいやで、宙ぶらりんで、何かいつも自分が偽っているかのような、そんな形で生きてきているなあと思っていたのです。
 
 
2 大阪市立西商業高校で「本名」になったわけ
 
  「二つあるのはいや、じゃまくさい、一つにして」

  「名前だけで、中身はない」
 

 で、高校なんですけれども、そこですごい出会いがありました。入学の時に(大阪市立西商業高校の合格者説明会の時)、本当によく覚えているんですね、先生のことは。なぜかというと、その時に何人か残されたんです。その「残って下さい」といわれた子が、同じ中学校から行ったメンバー、みんなあやしい(笑)二つ名前を持っている子ばかりで、「かたまってるで、かたまってるで」と思っていたら、そこで話されたのが「本名を名のって下さい」ということだったんですね。

 その時、どうして本名を名のって下さいと言われたかは全然覚えていないんです。でも、二つの名前に対してすごくいやだったんです。二つの名前だけがいやだった。そこで先生がすごくうまいこと言ったんです。何を言ったかといったら「本名にする人は先に帰っていいですよ」と言ったんです。(会場笑)

 そうか、面倒くさいし、先に帰ろう、「帰ろう帰ろう!」みんな友だちと一緒に「ラッキー、もうこうれでええやん、帰ろう」と、その時の雰囲気だったんですよね。その時本名になったんです。それが反対だったらね、絶対に通名になっていたと思うんですよ。先生がうまいこと考えてくれはった。これからも、そういうように、面倒くさくないようにやって下さったら、本名名のりやすいということです。

 こうして本名を名のったといっても、その時の本名というのは、「チャ・チョンデミ」ではなくて、「しゃ・ちよみ」なんですね。知らなかったです、本当に。親が一世なのに、「ほんまにうちの親は何してんねんや」、ということになるんですけれど、いや、絶対に、「チョンデミ」なんて呼んだことないです。私が言ったから「チョンデミ」ですけれど、親は絶対に「チョンデミ」なんかで呼ばないです。呼ぶのは「ちよみ」です。日本で生きていこうと思っているから、それで名前をつけたのだから、ということで。

 こうして「しゃ・ちよみ」で高校生活が始まったのですが、一文字の姓の者ばかりかたまって、グループで集まっていたので、恐いものもなかったんですけれども、それでも、自分の中では、名前だけで、何にもついていっていないんです。在日としてね、朝鮮のこと知っているかといえば何にも知らない。歴史も何もね。だから、人につっこまれたらどうしよう、と思うんですよ。朝鮮人やからというので、こんな事知ってる、あんな事知ってると聞かれたらどうしよう。とにかく何にも知らない。それでいて、先生が、ハングルを習おうとか声をかけてくれるんですけれども、「うるさいねん」「しらんしらん、逃げよう」とか思っていました。

 それまでは朝鮮の事に関して、とにかく、アボジ・オモニがけんかする時は朝鮮語ですよね。もう、その朝鮮語聞きたくない。けんかの時しか聞かない朝鮮語、わあ、おぞましい言葉、そういうイメージしかないですから、朝鮮てすごくいやだったんです。文化なんて知らないし。
 
3 「韓国舞踊」との出会いとKCS
(コリアン・カルチャー・スタディング、朝文研)
崔淑姫(チェ・スッキ)先生
 
 「送別会の先輩たちの民族舞踊を見て」

 「KCS一期生の仲間たち」
 
 それが、私が一年生で、三年を送り出す送別会の時、先輩たちが扇の舞を踊ってくれたんです。それを見た時に、本当に感動したんです。その感動が、それが今私が踊りをやっているきっかけなんです。「うわ、すごい」と思ったんです。「なんやそうか」て、肩から力が抜けて、「すごいやん」。そこで、「朝鮮、すごいやん」になったんですね。

 それで、「やってみたい、私も」、それに「この朝鮮の踊りやったら自分もやれるかもしれない」とその時思ったんです。それで、私はそこから入っていったんです。朝鮮のことに関係を持っていった。

 といっても、踊りだけなんですけれどもね、まだ。本当にずるいんですけれども、朝鮮の踊りすごいなあと思いながら、それでもまだまだ。心の中では「朝鮮人」として生きていけるわけではないんです。先生がたは、本名名のりなさいと言われますけれども、ほんとうに、なかなか名のれないんですよ。病院とかに行って、本名と通名とで、本名では「ええっ、ええっ」と聞かれると、どきどきする。いややないややなと思うじゃないですか。だから、そういういやな反面、朝鮮の踊りはする、自信を持ってできる、という状態だったわけです。

 そういう時に、先生が、「韓国五千年展」という展覧会が京都であったんですけれども、それに連れていてくれたんです。その時にも、韓国舞踊を見た時と同じように思いました。歴史の重厚な感じとか、知らなかったことがいっぱいありましたから。まあ自分で知ろうとしなかったということもあるんですけれど。でも、今の子どもたちもみなそうじゃないですか、知ろうともしないし、自分からは行こうともしない。だから思うんですけれども、先生方には、何度も何度もチャレンジしてほしいんですよね。百回も二百回もチャレンジして、見せてほしいです、朝鮮の文化とかをね。

 その時に先生が、私も今踊りをやっているポドルフェ(柳会)で催しのちらしにも使ったんですけれど、昔の韓国の美人画(朝鮮王朝時代の申潤福の絵画)を見て、「これは自分の妹に似ている」とか言うので、「ええうそー、ほんとにこんなにきれいの」とか思っていました。「自分は朝鮮のことが好きで、お墓を朝鮮につくりたい」とか、いつか「新婚旅行で誰か朝鮮人の墓参りに行く」とか、そんな風な先生を見て、心の中では、ふーん、ああこんな風に思っている先生もいるねんなあと。でもまだ。まだまだ。自分は解放しないんですね、朝鮮人として。堂々としないんです。

 それにまだ、私の場合は、逃げ道があるんです。その時は「しゃ・ちよみ」でしょ。「くるま・ちよみ」とかいってよくあだ名にもされたんですけれども、だから、日本人としてもごまかしがきくんです。ずるいですね、わたしも。高校の時、まだまだずるいですよ。踊りもやっているんですけれど、まだそんな考えもあったんです。

 そうして、ちょっとずつたまっていっているんですけれども、そこでもう一度どきっとしたのが、崔淑姫(チェ・スッキ)先生なんです。

 この先生は、グループ黎明の代表なんですけれども、今から二十何年も前、その当時にチェ・スッキという名前ですっごく堂々と生きておられたんです。その時に先生から「日本人がなんやねん」という、こんな風なことも聞いたんです。「すっごい、この人」と思いました。こんなに強く生きている、チェ・スッキという名前で、日本人がなんやというふうに生きている在日朝鮮人を見たのは初めてやったんです。

 すっごい強い。韓国へ留学していて、言葉、韓国語がばんばんしゃべれて、「わあ、すごい、こんなんできるんやなあ。日本の在日でも、こんなんしてもいいんや」と初めて知った。そんなことは、やったらあかんと思っていましたからね。日本にいて、やっぱり通名で、細々と生きなあかんのかというイメージがずっとありましたから。

 チェ・スッキ先生には踊りのこととか、色んな事を学んで、私は特に、その強さから学んだと思います。今の子どもたちには、私も民族学級に行っていますが、ひっぱる強さ、在日の先輩が堂々と生きているようすを見せないといけないというのもあるんじゃないかなと思います。

 私も、民族学級では、強さばかり、怒鳴ってばかりなんですけれど、えらそうに(笑)。「こら、ついてこんか、何泣いてんねん」とか言う時もありますね。まあそのくらいやらないと、ついてこないですよ。「だいじょうぶ?どう?」とかばかり言っていたら子どもたちには、だめですよね。
 
 
4 短大は日本名で
 
「日本人の友人から結婚の相談を受けて、なにそれ!」
 
 それから短大に行ったんですが、また日本名使ったんです。ずるいんですね。ここで私は日本名を使ったことを告白します、と、本名宣言じゃないですけれども。

 それまで本名で行っていたのに、なぜまた日本名にしたか。

 チェ・スッキソンセンニムの強さにも学んだし、学校の先生もよくやって下さったんですけれども、それでも、やっぱり二つの名前のままです。家では通名なんです。本名は学校だけ。だから、高校の友だちは「シャ(車)」と呼ぶし、中学の友だちは通名で呼ぶし、もうぐちゃぐちゃです。それにうち勝つ自信がないんです。舞踊の方も、まだ本格的に習い始めたばかりでした。

 こうして通名で短大に通っていたのです。それでも、自分の中に、だんだんと成長してきたなあと感じていました。踊りを習って、自分が踊りに対して自信がついてきたら、朝鮮人と言えるようになってきたんです。

 ある時、「私、踊りを習いに行く」と言ったら、友だちが「何の踊り」と聞いて、「韓国舞踊」と答えると、私が通名で行っていたものですから、「えっ、なんで韓国舞踊習うてんの」と言うので、「いや、韓国人やから」と答えて、「ええっ」。それがすっと言えた時に、すごい、と自分で思いました。すごい、韓国人宣言。ほんとにね、友だちにそんなことが言えたのは初めてです。「いや、韓国人やから」と。ちょっとえええかっこしながらね、それも。

 ああ、言えるやん、言うたって、何も恐くない。友だちの顔色うかがうわけでもないし。やっぱり自分でも自信を持って踊りをやって、自分で踊りに自信が持ててきた時に、初めて自分が朝鮮人だと言える。だから、自分が何か一つでも朝鮮のことで自信が持てたら、自信を持って自分が朝鮮人だと言えるなあと思ったのです。

 その後、友だちから、ある結婚の相談を受けたことがありました。日本人の友だちですが、つきあっている相手から登録証を見せられたというのです。その相手の男の人が登録証を見せて、自分は朝鮮人で、外国人登録を受けなければならないし、在日というのはこれをいつも持たなければならないので、それでもよければ結婚を前提につきあおう、と言った。それを涙ながらに、その子は泣いて私に語るのです。

 もう、「泣くのやったらやめとけ」と私は言いました。「あなたは在日にはなれないのだし、そうならやめといたほうがいい」と言うと、「そうかなあ」と、また泣くのです。その涙が、こっちにしてみたら、悲しいわけじゃないですか。なんで、朝鮮人との恋愛で泣かなあかんねん、と思うわけですよ。なんで泣くの、って。その子の心のなかで、やはり、朝鮮人はあかん、差別される、と思っているわけでしょう。友だちとしては、情けなかった。でも、けんか別れしたわけではありません。少しずつ、「踊り見に行こう」とか、話して行きました。
 
 
5 金剛学園のニューカマーの子どもたち
 
 「みんながふつうに堂々としている」
 
 短大を卒業して、私は金剛学園に入りました。その時に、「えっ」と思いました。本名ですよ、全員。普通ですよ、平気ですよ。チェ・スッキ先生ばかりです、本当に。「わあ、こんな世界」と思いました。

 民族学校があることも知らなかったんです。朝鮮学校は、チマチョゴリ着ていますからね、知っていましたけれども、民団系の学校があるなんて知らなかった。知らない事がたくさんだなあと思いました。

 金剛に行くと、私のような通名と本名の使い分けではなく、堂々と使い分けているのです。生活の中では必要だったら通名を使いましょう、でもこちらでは本名をと、その使い分けのすばらしさに、すごいな、と思いました。それは、自分の本当の民族を持っているから、本名も通名も使い分けることができる。私のように、都合よく隠すために、隠れて通名を使い分けているのではなくて、あの人たちは、両方ともオッケーという感じで、使い分けたるで、日本の中でしたたかに生きてやる、というその感じがすごいなあと思えたものです。

 私は、民族学級、朝文研、民族クラブのKCSの初代部長ということで、肩書きばかりで何もやっていないんですけれども、その活動の中で、いっぺんに、韓国の民族文化をやってどうこうとか偉そうなこと言うわけではないのです。恥ずかしいことばかりやっているのです。
 
 
6 うろうろしながら学校で、地域で
 
  「北津守小学校で鳥居先生はいつもじっと民族学級を見に来て、こわい」

  「朝鮮はいや、韓国がいいと……」
 
 北津守小学校の民族学級にはじめて行ったときは、鳥居先生がほんとうに怖かったです。今日は会場にいないでしょうかね。鳥居先生がじっと見ているところで、「アンニョン」と子どもたちに言うのは。私が勝手に怖がっていただけかもしれませんけれども。

 そこで、北津守の先生方とか支える会のオモニとかが民族学級に対する思いを私に教えてくれたのです。一生懸命にやっているオモニたちを見て、私はなんて甘いんやろうなあと思いました。その時につくづくそう思いました。

 それに、この頃は、朝鮮の「チョ」と言うこともできなかった。今は自分でも「朝鮮人」て言っていますけれども。本名を使っていましたよ、それでも「チョーセン」と言えなかったのです。葛藤があるんですよね。私の中で、どんどん剥がれ、落としていかなければならないものがいっぱいあるんです。「朝鮮」と言えなかったのです。「チョーセン」言えなかったんです。「いや、朝鮮人と違う、私、韓国人やから」。なぜというと、やはり「朝鮮」と言う中に「おまえチョーセンジンやろ、チョーセンジン」という差別的なものを自分で作り上げていたからです。朝鮮と韓国、何で区別つけるの、同じやのに。

 こうして、北津守の時に、朝鮮と韓国は一緒で、と教えてもらって、自分が民族講師なのに、教えてもらって、成長したわけです。

 今、民族学級で教えていても、そういうことを知らない子どもたちがたくさんいます。「韓国へ行ってきた、朝鮮てどこ」と生徒が言って、ぎょっとなります。
 自分も子どもを持って、その子どもが学校に行くようになると、本名で行かせますね、そうしたら、自分がやはり通名で苦労して回り道をしたなあと思うから、子どもには本名一つで行かすと、ストレートですよね。通名で行っていたら表面上は言われないですが、本名で行っていると、ストレートに言われます。今時そんなことがあるのか、と思いますけれども。うちの子どもは陽気で明るいから、それに親もこんなことをやっていますから、笑い飛ばしたりしていますが。1997年のIMFの時など「韓国つぶれたなあ、韓国あほやからなあ」とか言われるわけですよ、平気で。今の時代でも。東大阪の、ある学校です。(笑)「何で帰れへんねん、何で住んでんねん」て言われる、「えっ、まだそんなん」。こんなに民族学級が増えて、民族教育やっていても、まだそんな小学校はたくさんありますよね。

 私が学校公演に回っていると、「日本語上手ですね」と言われる。日本語上手やないけど、まだ日本語の方が上手、韓国語はよく知らんから」って答えます。「日本で生まれて…」「えっ、日本で生まれたんやったら、日本人やろ」「いや、日本で生まれた韓国人」。よく言うんですけれども、「この人は韓国で生まれた韓国人、私は日本で生まれた在日韓国人、この人は日本で生まれた日本人」というわけです。先生方にお願いします、このことをはっきり教えてあげて下さいね。

 この前、あるキャンプに行った時に、高校生の女の子が「私はもうそんなん関係ないねん。日本人も朝鮮人も関係ない、私は地球人や」と言いました。それは前にも聞いたことがあります。自分の身近な若い男の子とかも言いますし、私自身もそう思ったことがある。「私は地球人や、国籍なんか関係ない」と、在日の中では必ず思うものなのです。一つの逃げ場として。だから、その時すぐに「そうやないやろ」と言えなかったことが、まだまだやと思いました。

 そのキャンプの時に、ある先生がお話の中で、「自分たちが差別されていることを認識しなさい」とおっしゃったんですが、それに対して高校生が質問して、言いました。「僕たち、差別されていません。誰からもいやなこと言われたことはないし、差別なんかされてません。仲よくやっています。」「でも、あなたは通名で生きているでしょう、通名で生きていること自体が、差別されているじゃないですか。今の子どもたちは、直接見ようとはしない。だから、大きくまとめて「地球人や」と言う。「地球人の前に、朝鮮人やろ」と、私は言ってあげたかったのですが。

 話が長くなると踊りが短くなって、ちくちく言われますので、そろそろ終わりたいと思います。踊りの合間にも私の話があるのです。
 
 

7 わたしにとっての「韓国の伝統舞踊」

  「民族の伝統を探して、深く深くつきつめたい、だからショーや現代風アレンジではなく、伝統舞踊」

  「舞踊のプロとして、バレエやフラメンコのように、普及させることができれば」
 

 私が韓国舞踊をやって、なぜ続けているかというと、自分が高校の時に、一番はじめに踊りを見たときに感動した、その感動をね、子どもたちに伝えていきたいと思うからです。それに、日本で、韓国舞踊で食べていく人間がいてもいいじゃないですか。バレエやフラメンコでも、すごいじゃないですか、教室たくさん持って。韓国舞踊はないですよ。今、大変ですよ。チャンゴ鳴らすのに、防音の部屋をとるのに、どれほど大変ですか。私たちは何人かでやっていますけれども、運営するのもすごく大変です。でも、それをなんとかやっていこうと思って、地道に活動しているのです。ですから、みなさんも色々と協力よろしくお願いします。

 今日は、韓国舞踊の本当の古典です。近いところから見ていただける会場ですので、足さばきとかの細かいところを私たちがぜひ見せたいと思います。韓国のすばらしい伝統を見てください。

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