大阪市生野区
  <朝鮮人の多い地域>で育つ日本人
 
  大阪市生野区が日本の中でもめずらしい地域であることは、よく知られている。そこでの長年にわたるさまざまな人々の努力が、今、各学校での民族学級に結晶している。そこでの朝鮮人生徒の様子は、報告される機会も多い。しかし、今回はそうした教育の努力、朝鮮人と日本人がともに育ち生活する生野区の現実が、この30年の間に日本人生徒に対してどのような結果を生みだしてきたか、その一端を見てみることにしたい。

  それは、言葉の上でのどんな「人権」や「共生」をも越えたものであり、将来の日本への希望そのものでなくて何だろうか。(編集委員会。下の註も。)


ヒラヒラヒラヒラ、チマチョゴリ

                大阪市立西商業高校(現、西高等学校)3年 1982年10月
                 

 ヒラヒラヒラヒラ、チマチョゴリ。

 初めて見た時「キレイやなー」と思っただけで、それきり記憶のすみの方におしやってしまった。そして、小学校五年生の土曜日の午後まで、その記憶を引き出すことはなかった……。

 時はさか登り、昭和五十年、生野区巽南小学校理科室。

 私はその時、小五だった。生野区という町は大阪の中でも朝鮮人の多い町だ。日本語以外の不思議な呪文みたいな言葉が時々耳をかすめたものの、昭和五十年以前の私は、それが現実の言葉なのか、あやかしの呪文なのか、ぜーんぜん判らなかった。その私がどばーんと在日朝鮮人の存在の中に足をつっこんだのは、二人の若い先生がいたから。その先生たちは毎週土曜日の昼に朝鮮人差別の話しや朝鮮語なんか教えてくれた。私は何がおもしろかったのか毎週常連三人の女の子といっしょに理科室まで通ったもの。そこで私たちは先生から、北海道のズリ山(ボタ山)での朝鮮人虐待の話し、そして倫社の授業(註)でも出てきた関東大震災のことなんかを聞いたのだ。

 それはメチャ陰惨な話しだった。イヤな気持ちだった。でも、悲しくなったり、心底朝鮮人が哀れだとは多分思っていなかったかと思う。理科室で話を聞いてた分には。

 だが、不思議なことに、理科室での特別教室が始まって以来、世間で在日朝鮮人が占める重さが急に感じられるようになったのだ。

 「あそこの人も朝鮮の人やろ」「朝鮮学校の前で石投げられた」とかの言葉をよく聞くようになった。そして、エキセントリック鉄鉱人間の私をめいらせたのは、私の住んでる借家、および近所一帯の家は、「外国国籍おことわり」だったのだ!なんということや!うちはこんな差別的なとこに住んでたんだ!!そう思ったとたん涙が東映映画のドドドーン津波のように押しよせてきた。

 あのときは本当に悲しかった。どんな理由があるのかは知らないけど、てめエたちゃ人間じゃねエたたっ斬ってやる!という怒りがうずまいたものだった。

 ほんとに、身近に、知らないうちに差別があるんだ。もし、その静かな差別意識に火がついたら、今なお関東大震災のようなことが起こるかもしれない。

 でも今はそんなことにならないことを祈ろう。

 いつか、石を投げられた朝鮮学校の子たちと、理科室で教わった「金剛山」(クムガンサンと読みます)の歌を歌うことを夢見て……。


(註)三年倫理社会の授業で、水俣病患者をめぐる社会意識、部落差別の問題と水平社宣言の思想、在日朝鮮人をめぐる問題、関東大震災と排外主義思想などが取り上げられていた。


  生野の朝鮮人と日本人(差別について)

               大阪府立住吉高等学校3年 1994年11月

 「差別についてどう思うか」ということを十八年間生きてきてよく尋ねられた。感想文を書かされたのもこれが初めてではない。しかし、私はまだ十八年間しか生きておらず、また、差別も受けたことがなく、実際にされている人を見たこともない。いわば「世」の字のはしっこをかじっただけなのだ。そんな私に「差別」を聞いても、はっきり言って無駄だと思う。

 それどころか、私の生まれ育った地区は日本人より朝鮮、韓国の人が多く、小中とクラスで日本人は二、三人しかいない(註)という状態であった。よく小中の道徳の時間で「朝鮮・韓国の人に対する差別」関連の話を読まされ、議論させられたが、「いったい誰が何のために差別するのだろう、なぜこんな話を読まなければならないのだろう」と思ったくらいだ。それもそのはず、友人知人すべて朝鮮、韓国の子だったからだ。近所のおばちゃん、おばあちゃん達がカタコトの日本語や朝鮮、韓国の意味の分からない言葉を使っても、別にへんだとは思わず、反対に、名前が二つあるし、休みの時は飛行機で朝鮮、韓国へ帰郷する友人を大変うらやましく思った。(ちなみに、私はまだ一度も飛行機なるものに乗ったことがない。)

 ようするに私の小・中学校時代は「朝鮮、韓国の人に対する差別」という点では全くの無知だったのだ。反対に、差別する、されている人が存在するなどとは思ってもいなかった。道徳の時間の話でも、空想か昔の頃の話だろうと思っていたくらいなのだから。

 しかし、そういう私でも、知る機会が訪れた。中学の卒業式の前、クラスの担任が書類を渡しながら、「卒業式の時に呼び上げる名を、日本名にするか本名にするか、両親と話して書いてきなさい」と言ったときだ。私はよくわからなかった。なぜならみんな李とか金とか本名で名のっており、私もその名で呼び、別に不思議とは思わなかった。なのに、卒業式の日に「日本名に名を変える」ことをなぜするか、なぜ先生はそんなことを聞くのかと思ったのだ。私は、みんな本名でいくだろう、そう思っていた。しかし、ほとんどの子が、今まで私が聞いたこともないような日本名で卒業証書を受け取った。李という名の子が山本、金という名の子が福島……。私はそんな友人たちの日本名を聞きながら、なぜか悲しくなった。

 式が終わった後、一番親しい友人になぜ日本名にしたのか聞いてみた。するとその友人は、「高校へ行ったらどうせ日本名で行かなあかんし、そやったら今から日本名にしといた方がええやろ」ということだった。もう私の頭はパニックだった。その子にさらに「いややないの」と聞いたところ、その子は「いややけど、しかたないやん大崎さんは日本人でええなあ」と言った。びっくりした。今まで私は、朝鮮、韓国の人がうらやましかったのに、反対に、自分がうらやましがられていたとは思わなかった。そして、その時、初めて「差別」ということの重みを知った。そしてまた、その友人や他の朝鮮、韓国の友人たちが受けるであろういろいろな社会の差別を、私は受けることなく、また、知ることもなくのほほんと日本人という国籍があるために生きていくのだなあと思った。そう思うとまた悲しくなった。本当ならいやな差別や制度にあうこともなく生きてゆけるのだから、うれしいはずなのに。なのに、なぜか悲しくなった。

 なぜあの時悲しくなったのか、今でもわからない。でも、たぶん、差別される人が私の友人たちだけではなく、そして、差別する人が私と同じ日本人の人なのだと知ったからだろうか。あるいは、差別されない理由が日本人だから、差別される理由が朝鮮、韓国の人たちだからだろうか。

 もしそうなら、本当にくだらないと思う。そんなバカバカしい理由で差別するならそれはもう、集団イジメだと思う。

 考えてみれば、あの時日本が戦争で負けていたら、日本人が反対に朝鮮、韓国に連れて行かれ、その二世三世が差別されていたのだろうか。

 そう考えれば、「本当の人間」なら差別なんてできるはずがない。しかし私はまだ十八年間しか生きていないが、世の中の人間に「本当の人間」はほんの一つまみぐらいしかいないのではなかろうか、と思う。

 最後に、私は、私の生まれ育った地区に生まれてよかったと思う。少なくとも、朝鮮、韓国の人を見る目は正常だからだ。

(註)生野区の小学校、中学校では、在籍率は高いが、実際にはこれほどになることはないと思う。しかし、日本籍を入れると、クラスによっては事実かもしれない。いずれにせよ、日本人生徒の側の印象として、受け取るべきだろう。 

むくげ166号目次へ


inserted by FC2 system