大阪市における《在日韓国・朝鮮人教育》実践史

稲垣有一(大阪市立築港小学校)

1)1920年代から1960年代まで

 1 「韓国併合」で始まった朝鮮人との「教育関係」

 日本は、「韓国併合」をした1910年前後から、1945年8月15日の日本の敗戦までの間、さまざまな植民地政策を朝鮮で実施してきた。1910年代の「土地調査事業」、1920年代の「産米増殖計画」、そして1930年代後半から40年代前半の「強制連行」は、数多くの朝鮮人の渡日を余儀なくしてきた。また、当時の日本政府は、植民地支配から脱する目的をもって朝鮮半島全土で阿われた独立運動を弾圧する一方、朝鮮人に対する「同化政策」を実施してきた。つまり、1910年から1945年までは、「在日」を含め朝鮮人にとって、「同化教育」の政治的強制の時代であったと言える。

 ところで、在日朝鮮人の子どもが日本の学校に姿を現したのは、「韓国併合」後はぼ10年ほどたった1920年代になってからのことである。1920年代になり、生活の糧を求め、一家そろっての朝鮮人の渡日が増加するとともに、少年少女も労働者として渡日してくるようになる。これら「朝鮮人労働者のため、夜間に特別の教育を施す」目的で小学校夜間部に朝鮮人のための学級を特設したのが,日本の学校が在日朝鮮人と「教育関係」をもった最初の出来事であろうと思われる。1920年代中頃になってのことであった。

 大阪で朝鮮人労働者のための夜間学級が設けられたのは、済美第四小学校(現在の大阪市立北天溝小学校)、難波桜川小学校(現在は大阪市立立葉小学校に統合)、泉尾第二小学校(現在の大阪市立泉尾北小学校)など5・6校であった。これらの学校のいずれもは、日本人の校長・教員の篤志によって、在日朝鮮人が夜間学級に在籍し「教育関係」が結ばれたようである。次のような記録が残されている。(1)

「済美第四尋常小学校長高橋喜八郎氏は、内鮮関係に就いて一個の識見を有する良教育家で、朝鮮人教育に頗る熱心な所から朝鮮人といふ綽名を取って居る程セある。同扱に於て朝鮮人労働者の教育を開始するに至った動機は、大正十一年五月同校夜間部へ一朝鮮人朴成根なるものが入学したが、…略…学業の進歩も著しかった為に、担当訓導は同情と研究の両面から特に意を用ゐて指導し、…略…。

…略…大正十二年二月関西朝鮮労進会長金公海氏が、同校長高橋氏を訪問して、朝鮮人中熱心な修学希望者が多数あるから是非之が教育を開始して呉れと云ふことを懇請したので、予て朝鮮人の教育に充分な理解と同情を以て居た高橋校長は、其事を学務委員会に提案した、…略…大阪市教育部に於ても亦此企画に大賛成し、教員の配置等に就いて特別の便宜を与えることとなり諸般の準備が整ったので、四月十日入学受附を開始した。…略…兎も角十三日までに百四十六人を収容した。

 …略…朝鮮人教育の必要は汎く認識さるるに至った。けれども此間に於ける高橋校長以下職員の苦心は尋常一様なものでなく、経費の点に於ける配慮も尠なくなかったやうである。」

 渡日した朝鮮人労働者の多くが「内地語(日本語)」に通じないことで、不便あるいは不利益をもたらされていることから、教育要求が出され、それを受けとめようとした                                              日本人の教職員がいたことを、この記録は伝えている。生徒は13・4歳から18・9歳の少年労働者で、昼間は労働に従事し夜間に学校へ来て「修身」「国語(日本語)」「朝鮮語」「算術」を学習するといったものであった。

 2 「皇国臣民化」を基調とする「同化教育」の時代

 1930年代に入ると、行政当局が、在日朝鮮人対策、つまり教育を受けていない在住朝鮮人の存在が、さまざまな問題発生の一つの要因となっているとの考えから、教育対策を施すようになっていく。1936年に発刊されている『在住朝鮮人問題と其の対策』(2)には、次のような記述がみられる。

「…略…在住朝鮮人特有ノ俗性を矯正シ、生活ノ改善向上ヲ図り之ヲ内地化セシメ、進ンデ至誠報国ノ清神ヲ涵養シ、以テ斉シク体明ノ沢ヲ享ケシムルト共ニ、陛下ノ赤子トシテ邦家ノ隆運ヲ扶翼セシムルヲ以テ根義トナス。‥・略…一言ニシテ之ヲ要約スレバ同化政策ヲ以テ基調トスルモノ…略…」。

 この方針のもとに、朝鮮人少年労働者が、学校夜間部で学ぶ形態を存続させるとともに、昼間においても、未就学の子どもの就学促進と、「同化教育」の実施が課題とされていくようになる。

 1940年代になると、「同化教育」は、戦争遂行の目的を明確にした「協和教育」と名を変え、実施されていくようになっていく。「協和教育」の大阪における実践例が『国民学校における協和教育』(3)という冊子に載せられている。次のものは、その冊子に載せられている『半島人教育方針』という、開国民学校(現在は大阪市立長橋小学校に統合)の実践例である。

「〔教育の最高眼目〕半島人自ら皇国臣民なる幸福と誇りとを感じ常に細大無辺の皇恩に対し衷心感謝を捧げると共に、皇道を実践窮行し以て臣道を完うし得るの皇国民の錬成するにあり。

〔基本的指導原理〕〔国家意識の強調〕国史、国語教育の普及に努め…略…。〔生活と教育の一元化〕…略…実生活に適応する教育、勤労精神の陶冶をなし真剣不撓なる勤労的皇国長の養成…略…。〔生活向上と内地化〕修身、作法教育の徹底…略…。敬神崇祖、礼儀・公衆道徳、感謝報恩、清潔整頓、衛生思想の普及。〔人格尊重〕…略…国家の中に存在する皇国臣民たることに目覚め温い情をもって人格を尊重…略…。」

 ここで述べている〔生活と教育の一元化〕は、子どもたちの認識発達の基礎に、「生活台」を求めるのではなく、勤労奉仕を強調したものであった。〔人格尊重〕といっても、個性を尊重することや、個人の人権尊重をさしていたわけではない。具体的には、『皇国臣民の誓詞』を朗誦させることを指していた。

 また、〔指導上の注意〕には、次のように多面的な目配りをしようとしていた。

1.低学年に於いては情操の涵養に努む。 2.高学年に於いては内鮮一体たることをしらしめ、人格尊重の精神を涵養せしむ。 3.修身、国語、国史、体操、作法の取扱方法について注意すること。 4.共同作業、競技、遊戯、学芸会、遠足、旅行、給食等に際し、共同訓練を施し内鮮一体の実を挙げる。 5.校外生活指導、訓練の徹底をはかり半島人の道徳的行為の向上に努む。 6.家庭との聯格 父兄会、家庭訪問、児童を通じて家庭を教化し家庭を通じて児童を教育す。…略…」。

 この「協和教育」の時代は、戦争が拡大し、日本人にとっても、朝鮮人にとっても非常に厳しくなってきた時代であった。とくに朝鮮人にとっては、母語である朝鮮語の使用が徹底して禁止され、「国語(日本語)」の常用が強制された。それとともに、1939年11月、朝鮮総督府は、「朝鮮民事令」を一部改正して、「創氏改名」を強制した。在日朝鮮人も否応なしに「日本名」に改名させられていった。

 前掲の『半島人教育方針』では、「昨年来続々と内地式呼び名に姓名を変更しつつあることも、精神の上からも型式の上からもいち早く内地化せんとする顕れである」と歓迎するとともに、「以上の事実を徹して見るに、今日の半島人なる者は、過去に於いて往々悪評されし如き半島人とは、全くその質に於いて改まってきていることを認めねばならぬ」と自賛している。これは、「協和教育」という名の同化教育の強制によって、「皇国臣民としての恥かしくない自己を作る」という実があがってきたことを述べているのであろう。

 しかし、「協和教育」の実があがったと言いつつ、そこでは、在住朝鮮人親子の外見的な身休衣服の問題、行動の問題を、彼らの生活史や生活背景の真実に立ち入って理解しようとしていなかった。

 たとえば、日本の植民地政策の結果として、在日朝鮮人から教育の機会が奪われていたにもかかわらず、「半島に於ける教育の現状は内地に比して著しき遜色を呈し…略…教育なるものは余程軽視されてゐるのではないか、…略…教育の不備不振の所に当然正常な文化の発達し得る道理もなく種々なる欠陥の数多く起り得る事を考へさせられる」と述べている。

 さらには、「身体衣服の不潔なることはさまで…略…如何に手足が汚ごれていやうが一向にかまふところでない。又だらしない身なりで平気でいることも…略…何等恥とはしない…略…」と、差別による貧しさが衛生的な生活を阻んでいる社会的背景に目をむけていない。「せっかく植えた花園の花はいつしかもぎとられ植木の鉢はこはされてしまってゐる。…略…是はあながち半島人のみにかぎったものではないが半島人中には斯うした傾向の者が多いのではないかと思はれる…略…」と、誰がやったのかわからないことも、偏見で彼らの行為にしてしまう。「…略…恩師へは四季折々の見舞いぐらいは差しあげるのが礼儀・…略…斯うした礼儀を欠く…略…。室内出入りの所作、食事の作法、人と面談する時の態度及言葉遣…略…」など、文字を書くことの大変さ、生活習慣の違いを考えず、自分の日常を基準にして相手を判断しようとしている。「事の如何に関せず自らを卑下して物事を悪様に解釈し、問題にもならぬ事を問題化する。自らを卑下して反省的な態度に出る事はよいが却て反抗的になる。ひが眼で判断する所に誤りの本を作り以て円満を欠き感情を害する」と、在日朝鮮人の日本社会での被差別体験を斟酌せずに、「非」は常に彼らにあり、その責任を、文化が違い、被差別の立場に置かれている在日朝鮮人に転嫁しているのである。

 「協和教育」の時代における日本の学校と、在日朝鮮人との「教育関係」は、教育主体である彼らの生活史や生活背景、そして心底を棚にあげ、「皇国臣民」として日本人化するという視点を明確にした同化教育であったと言える。つまり、朝鮮人を「皇国臣民」として教育する意図で実施された点で、1920年代の在日朝鮮人教育と違っていた。同じ「同化教育」といっても、朝鮮人少年労働者の現実の姿から小学校夜間部に彼らを受け入れた済美第四小学校教職員の教育姿勢と区別しておかなくてはならない。

3  戦後も連綿として続いた「同化」を是とする教育思潮

1945年8月15日の日本の敗戦を経て、在日朝鮮人の祖国は、植民地支配から解放された。この日から、在日朝鮮人たちは、独立国民となり、自分たちの力で「民族学校」を創設し、民族的アイデンティティをもった「同胞」を育てる教育活動に取りくみだした。しかし、この「民族学校」も、朝鮮戦争の前夜に、日本政府と占領軍の強権によって閉鎖された。これが、「阪神教育事件」といわれる民族教育の弾圧である(「民族学校」の創設の経緯、そこでの教育活動、閉鎖されるに至る理由と経過について、また、閉鎖後に始まった大阪市立西今里中学校などの「公立朝鮮人学校」、公立小学校で課外に実施されてきた「民族学級」が設置された経過について、さらに、1955年前後に「民族学校」が再建されていく経過について、省略)。(4)

 そして、「民族学校」が閉鎖される一方で、日本の学校(以下、学校教育法第1条に規定する学校をこのようにいう)は、希望する者の入学を許可するといった「恩恵」として、在日韓国・朝鮮人の子どもを受け入れていくことになる。そして、その教育内容は、「日本人と同じように扱う」(日本政府の方針)というものであった。

 日本の学校は、日本の敗戦を、在日韓国・朝鮮人に対する「教育観」の転換の契機としなければならなかった.しかし、個々の教職員によって例外(1955年頃に活動した「在日朝鮮人教育問題協議会」に集った教職員グループ)はあったが、日本の学校では、日本政府の方針「日本人と同じように扱う」が教育実践指針となり、在日韓国・朝鮮人児童生徒が「日本人らしく生きる」ことを是としてしまったのである。つまり、戦前戦後を通じ、日本の学校は在日靖国・朝鮮人の心底にふれることなく、「同化教育」を在日韓国・朝鮮人教育の理念としてしまったのである。

 その一つの現れが1971年3月の「大阪市立中学校長会差別文書間題」であった。大阪市立中学校長会は、『昭和45年度研究部のあゆみ』のなかに『外国人子弟の実態と問題点』と題した文書を公にした。この文書は、在校韓国・朝鮮人生徒や保護者の生活現実を無視し、生徒の行動の原因を問わずに結果のみを問題にした、いわば「朝鮮人迷惑論」「民族差別」の典型ともいうべきものであった。

 この文書の問題点を、いち早く指摘したのは、教室で「低学力」の克服から、生活の実態に迫り、在校韓国・朝鮮人生徒の進路差別に取りくんでいた大阪市立城陽中学校の教職員たちであった。大阪市同和教育研究協議会や大阪教職員組合なども批判と抗議を重ねた。そして、大阪市立中学校長会は、「自己批判書」を公表することとなった。この過程で判明したことは、問題となった文書の基礎資料が「大阪市外国人子弟教育研究協議会(市外協)」(5)によって作成されたものであったことである。当時、「市外協」に加盟していた学校は、生活指導上、教科指導上のさまざまな問題を抱え、苦悩・苦闘していた。その苦悩・苦闘を、「朝鮮人が多いからだ」という点に責任を転嫁していたのであった。問題となった文書『外国人子弟の実態と問題点』には、そのことが次のよ                       うに記述されている。

1.生活指導 A観察指導の観点より(1)家族から受ける社会観、道徳観の影響はきわめて大きく、ものの見方、考え方に差があり、…略…。(2)一般的に利己的、打算的、せつな的、衝動的な言動多く、それが情緒不安定、わがまま勝手、ふしだらな傾向、実行のともなわないみせかけの言動・‥略…。(3)罪悪感に欠け、性的早熟、自己防衛的で、その場限りのウソも平然…略…。(4)しつけや社会ルールについても異なり、基本的な生活習慣がついていない。(5)…略…。(6)能力のある児童・生徒ほど高学年になるにつれて民族意識がたかまり、他の児童・生徒・教師を批判的にみる。(7)反面、外国人ということを卑下し、…略…無気力になったり、荒々しくなったりする。(8)〜(9)…略…。

B生活指導の現象面より(1)〜(4)…略…。(5)ものの扱いは乱暴、公徳心、連帯感、責任感に乏しく…略…。(6)非行グループといえば、必ずその主役的な役割を果たし、日本人生徒は従的な存在となってあらわれる。(7)〜(9)…略…。

 2・家庭環境(1)一般に貧困家庭が多く、生活におわれ家庭教育にまで手がでない、また経済的に余裕のある家庭でも放任され、事実上家庭教育は能力的に不可能である。

2)〜(10)…略…。  以下、省略…」

 この文書『外国人子弟の実態と問題点』と「協和教育」の時代の前掲の『半島人教育方針』とを比べてみると、「皇国臣民」としての教育するという点が抜けているだけであまりにもー致している点が多い。

 第1に、在校する生徒に対して、否定的な評価しかできていない点である。このことは、生徒の人間的価値までも否定することにつながるものである。

 第2に、日本社会にある在日韓国・朝鮮人差別の現実と意識を肯定した上で、当事者の生徒をみている点である。

 第3に、在校韓国・朝鮮人生徒を、学校教育を妨害する者とみている点である。学校秩序を維持し、生徒を管理する発想からは、生徒や親の生活史、生活背景を知ることがありえないし、心底にふれることもありえない。学校教育の主体である児童生徒の立場に立って教育を創造していくことはありえない。当然、「同化と排除」に気づくこともありえなかったのである。

 この『外国人子弟の実態と問題点』は、在日韓国・朝線人親子の生活の願いや生活の真実をみようとしなかった点、また、「日本人らしく」教育しようという点では、戦前の教育が、戦後も続いていたことを明らかにするものであった。「同化教育」といっても、「協和教育」以前の時代、「協和教育」の時代、戦後の時代、それぞれ微妙に変様し、趣を異にしてきてはいる。しかし、その根っこのところで「同化」を是とする教育思潮が連続していたことを、《在日韓国・朝鮮人教育》の歴史にみることができるのではなかろうか。

2)1970年代から1980年代中頃まで

 1 生活の真実を基盤とした教育連動

 ところで、戦前戦後を通じての「同化」の思想をもった在日韓国・朝鮮人の教育の歴史を振りかえる契機を与えたのは、『外国人子弟の実態と問題点』という文書であり、それを批判的にみることができる「教育観」が大阪市の教育界に育ちつつあったからである。1965年に同和対策審議会答申が出され、大阪市においても、同和教育が進展していた。同和教育が進展していくにつれ、児童生徒の生活史や生活背景に眼を向け、そこから真実を発見し、教育活動に取りくまねばならないという教育実践が生まれてきていた。

 『外国人子弟の実態と問題点』という文書に現れている「同化と排除」の思想を、最初に問題にした教職員たちは、当時、生活指導に明け暮れる状況から脱却するため、生徒の「低学力」の克服に向けての促進学級の開設を含めた授業の改善、また、生徒の自治意識・自治能力を育てるための集団活動などに、一定の成果を積み重ねていた。この過程で、生徒たちの心底にふれていくことになった。教職員個々の恣意的な教育を許さず、教育主体である生徒の生活史や生活背景をみつめることのできる確かな眼を育てていた。こうした眼を育てていた教職員たちは、ある朝鮮人生徒の告発に出会うことになった。(6)

「…略…きょうはみんなに、どうしても聞いてほしいことがあります。…略…この三年間、私たちはクラスや学校のなかでの生活のいろいろな問題や、社会のなかの差別問題などをみんなで話し合い勉強してきました。それは私にとってこれからの生き方を考えていく上でたいへんよかったと思います。…略…私は朝鮮人です。この城陽中学校には私と同じ朝鮮人がたくさんいます。日本人の友だちとはふだん仲良く勉強も運動もいっしょにやっています。だけどけんかになると日本人はすぐに“チョーセン”とか“朝鮮人のくせに”とかばかにした言い方を投げつけます。…略…これは差別だと問題にしましたが、その時の話し合いはなぜかあまり活発でなかった。発言するのは私たち朝鮮人ばかりで日本人はだまってしまいました。…略…私は今、進学する問題でたいへん悩んでいます。…略…でも朝鮮人である私は、日本人と違う大きな悩みがあります。…略…

私立高校は朝鮮人だとわかると受けさせてくれない学校があるそうです。…略…これは差別の問題と違いますか。私たち朝鮮人にとって一番身近にある差別の問題だと思います。…略…先生は私たちにとって身近なそして大きな差別の問題を、(どうして)みんなに教えてくれなかったんですか。…略…」(6)

 この生徒が告発したことは、当時の教育界の体質であったし、この差別事象に気づかない教員は誰もいなかったといってもよかった。けれども、この差別事象に対する問題提起や差別撤廃のための行動は、どこにもなかった。しかし、この生徒の告発が、多くの教職員をつき動かしていくことになる。そして、具体的に私立学校の体質をあらためさせる成果をもたらした。

 だが、一つのことが改善されたからといって、この生徒の告発した本質的なこと、つまり、在日韓国・朝鮮人差別は、根本的に解決されたわけではなかった。社会意識としての差別観念は観念にとどまる問題ではない。常に具体的な事実として現象する。同和教育運動から生徒の問題行動や学習不振の原因に差別があると気づかされた大阪市の教職員たちは、必然的に在日韓国・朝鮮人児童生徒や親たちが心奥深く秘める民族的・人間的な悩みに近づき、そこから教育実践を考えていくようになっていった。

 2  差別へのたたかいから始まった民族教育の実践

 同じ頃、大阪市立長橋小学校の教職員たちは、同和対策的な教育を自己点検し、被差別の立場に置かれている児童や保護者の願いにもとづいて同和教育に取りくみ出していた。長橋小学校の全校区は同和地区に指定されている。校区の住民は、部落差別、韓国・朝鮮人差別等々、日本社会のなかで、被差別の立場におかれている。しかし、そこには、分裂させられ、反差別の共有ができずにいる姿があった。次の作文は、そのことの一つの現れであった。(7)

「私は、考えても考えてもわかりません。どうして差別するのか、同じ人間、ただ生まれた国(注:国籍のこと)がちがうだけなのに。私は、朝鮮人です。…略…日本人だって差別されるのがいやなのに、どうして差別するの。…略…はやく、差別のない国になってほしい。…略…友だちが『どうして、ほじゅうへはいらないの』と言ったとき、うそをついてしまいました。それは、はずかしいからではありません。ただ、言いたくなかったからです。私は、日本を差別のない国にしてほしい。差別をなくして、すばらしい国にしてほしい。…略…」

在校韓国・朝鮮人児童や保護者たちは、在日韓国・朝鮮人差別を肌で感じていた。その典型として受けとめていたのが、課外で行われていた同和対策による「学力補充」であった。「長橋小学校では、部落差別についてよく言われるが、朝鮮人差別のことを忘れている。補充を受けさせないのは、朝鮮人差別をしているのではないか」という気持ちをもっていた。長橋小学校の教職員も、すでにその矛盾を感じ、その解決のために模索をはじめていた。同時に、‘韓国・朝鮮人児童たちに民族的自覚を”日本人児童に正しい朝鮮認識を育てることを”目的とした教育実践をはじめていた。

 こうして、在校韓国・朝鮮人児童や保護者たち、教吸員たちの矛盾解決に向けての熱意が‘課外に同和補充学級と並行し、朝鮮人の民族学級を設置する”ことで、具体的に動きだしたのである。1972年11月、長橋小学校の「民族学級」は開設された(9)。

その後、この民族学級は、さまざまな政治的な動向によって、当初の様相を変えながらも現在まで続いている。

 長橋小学校の民族学級の開設には、大きな意義があった。

 第1は、朝鮮戦争前夜、全国に六百近くあった「民族学校」が閉鎖されて以降、日本の学校へ就学を強制され、「同化教育」体制下に置かれていた在日韓国・朝鮮人児童生徒や保護者たちの教育要求を掘り起こす実機となったことである。「在日」であることの意味を考えつつ、「同化教育」を拒否し、人間としての教育を要求することの重要さを、多くの在日韓国・朝鮮人にも日本人の教職員にも明らかにしたのであった。

 第2は、民族学級の開設は、戦後比較的早くから「同化教育」の問題性を指摘し、民族教育運動に関心を示してきた日本教職員組合の、この教育課題の方針に転換をもたらしたことである。日教組第14次数研において、「基本的には、朝鮮子弟に対して外国人である日本人教師が愛国心や民族的自覚を育てることはできない。労働者の国際連帯性をふまえた指導はできても、それは民族教育と一つでない」「日本人教師の任務は、朝鮮人生徒を朝鮮学校の戸口までつれていくことである」(6)と確認していた。この確認は事実として、多くの日本の学校の教職員たちの在校する韓国・朝鮮人の児童生徒への教育実践を停滞させてしまった。民族学級の開設は、《在日韓国・朝鮮人教育》に対する教育実践の方向を示し、停滞を打開するものであった。

 第3に、在校する韓国・朝鮮人児童生徒たちの韓国人・朝鮮人として生きる権利や、教育が奪われていることを根本的な問題であるとし、在校韓国・朝鮮人児童生徒の「民族的自覚」を促すと同時に、日本人児童生徒がすでにもたされてしまっている歪められた「朝鮮観」「朝鮮人観」の転換を促そうとする教育実践がはじまったのであった。それまでの1960年代前半に頻発した日本人高校生による朝鮮学校学生に対する暴行事件が契機ではじまった「日朝教育交流」「朝鮮を正しく教える」教育実践では、在校する韓国人・朝鮮人児童生徒たちが心奥深くいだいている悩み“在日をどう生きるか”に応えることにならなかった。それに応える教育実践を生み出そうとしたのであった。

 3  同和教育運動が促した在日韓国・朝鮮人教育観の転換

1970年代の同和教育運動が転換を促した在日韓国・朝鮮人教育観を、当時の時点で、次の4点に整理することができる。

 第1は、在校韓国・朝鮮人児童生徒が、韓国人・朝鮮人であることを隠さざるを得ないところに、根本的な問題がある。すでに、子どものうちから、韓国人・朝鮮人であることがわかれば差別される現実があるので、通名(日本ふうの名前)を名のり、日本人らしく必死になって生きている。そうせざるを得ない人間関係が、日本の学校や地域社会にある。そうして、隠そうとする姿勢から、さまざまな人間的歪み、行動の歪みがでてくる。韓国・朝鮮人であるという自己認知と、日本人として生きようとする志向、ここにこそ、在校韓国・朝鮮人児童生徒の生き方における根本的矛盾がある、同化をすすめ、韓国人・朝鮮人であることを隠したいという気持ちを強めさせることは、この矛盾を深めさせるばかりである。

 これに対し、韓国人・朝鮮人として公然として生きることの選択と決意を促し、励ましていくことが、在校韓国・朝鮮人児童生徒にとって、矛盾をなくし、人間的解放へ到る道である。そこから、本名を呼びあい、名のらせていこうとする教育実践がはじめられた。これを“本名を呼び、名のる”教育実践といい、在日韓国・朝鮮人教育実践の出発と位置づけると同時に、到達点に位置づけたのである。

 この意味から、1974年に大阪市教育委員会が、「児童生徒指導要領」など公簿に本名を記載せよという通達を出したことは、重要なことであった。在籍している児童生徒の誰が「韓国」「朝鮮」などの国籍をもつ外国人であるのかを、教職員が知ることのできない実態があったからである。当然のこととして、その児童生徒の生活史や生活背景、心底を考え教育実践をしていこうという前提が失われていたからである。

 第2は、隠していることの当然の結果として、お互いがそうだということを知らないという現象がおこり、在校韓国・朝鮮人児童生徒同士がバラバラになり、孤立してしまうことがある。                              

 人間は、人と人との〈つながり〉なかで育っていくものである。在校韓国・朝鮮人児童生徒が自らの「肯定的自己概念」を育てるには、韓国人・朝鮮人であることを隠すことなく歩み出すことのできる‘自分たちの場’をもたせることが不可欠となってくる。人と人との関係のなかで、韓国人・朝鮮人として生きてみようとする内発力が引き出され、強められていく。こうした意味で、「民族学級」「民族クラブ」「朝鮮(韓国)文化研究会」「子ども会」など、在校韓国・朝鮮人児童生徒の組織化が大事にされたのであった。朝鮮文化研究会で活動していた生徒が校内の文化祭で発表したときのことをつづった次の作文は、そのことを教えてくれる。

「…略…カヤグム(朝鮮琴)の演奏ができたということは、何か一つの壁をのり越えられたみたいに思う。朝鮮人としての自信、団結する力というものが身についた。自分のなかでゆらいでいた何かがガチッと固定できたように思った。後輩にも、ずっと受けついでもらって、もっともっとよいものにしていってほしい。…略…

 私も、これから高校生になるけど、たぶん、いままで以上にイヤな思いや差別を受けるだろうと思う。でも、それは覚悟している。差別されても、その相手にちゃんとした理論でもって「それはまちがっている」と言えて、理解させることのできる朝鮮人になりたいと思っている。まだまだ、私にとっては、難問があるけれども、がんばって、本当の朝鮮人になろうと患う。」(8)

 この作文は、朝鮮文化研究会という‘自分たちの場’で、お互いに励まし合い、支え合い、朝鮮人として出発していった教育実践が生み出したものである。

 第3は、韓国人・朝鮮人としての誇りをもつことのできない教育内容が、日本の学校では支配的である。そのもとで、在校韓国・朝鮮人児童生徒は、韓国人・朝鮮人であることを否定的になるよう仕向けられる。それは、人間としての誇りをも失っていくことを意味する。韓国人・朝鮮人としての「肯定的自己概念」を育てることのできる教育内容の創造が不断に求められる。

 在校韓国・朝鮮人児童生徒が韓国人・朝鮮人としての「肯定的自己概念」を育てにくくする教育内容(教育内容だけでなく、広く教育環境も含めて)は同時に、在校日本人児童生徒の認識と行動をも歪めてしまう。次の日本人生徒の作文は、そのことを示している。

「…略…これまで私は「朝鮮人は日本に住んでいるのだから日本人のなかま」と軽く考えていました。また『朝鮮人』と言ったら、なかまはずれにすることだと思っていました。クラスで日本と朝鮮の歴史を勉強しました。がっかりしたことは、日本の国が朝鮮を侵略してたいへんな苦しみをあたえたこと、いまもなお差別があるということです。これは私たちにとってとてもはずかしいことです。朝鮮について勉強するにつれて『朝鮮はこわい』『がらが悪いし、やることがきたない』といった考えをもっていた自分を許せない気持ちになりました。」(8)

 この作文を書いた生徒の場合、「どうして韓国・朝鮮人が日本にたくさん住んでいるのか」という疑問にも答える“日本と隣国の歴史”を学び、「どうして在日韓国・朝鮮人のなかには二つの名前をもっている人がいるのか」という疑問にも答える“同化政策の歴史”と“差別の現実”についても学ぶことによって、自らの認識と行動を正そうとしている。                                                       

                                           

 在校韓国・朝鮮人児童生徒に韓国人・朝鮮人としての「肯定的自己概念」を育て、生きることを励ます教育内容を、教科教育活動や特別教育活動において創造していくことである。ただし、こうした教育内容を創造していくには、日本の学校がもっている「同化」の論理を見直し、韓国・朝鮮文化に関する、あるいは日本と隣国の 歴史に関する知識の体系を点検することが必要になってくる。

 第4は、「同化」を強いる日本の社会構造のなかで、在校韓国・朝鮮人児童生徒の多くは、韓国人・朝鮮人としての生活圏や教育圏から切り離され生活している。だから、在日韓国人・朝鮮人として活動している「世界」と接する機会を多くしていくことは、在校韓国・朝鮮人児童生徒が韓国人・朝鮮人として生きるよう励ます力になる。

 このような意味で、「民族学校」「民族クラブ」や、地域で教育活動に取り組んでいる在日韓国・朝鮮人グループでの活動、そのグループとの交流が大切になってくる。例えば、大阪市外国人教育研究協議会(以下「市外教」)(7)が主催する「民族音楽会」や「市外教」も実行委員会に入り各地で取り組まれている在日韓国・朝鮮人児童生徒たちのさまざまな一集い,参加したことによって、韓国人・朝鮮人として生きてみようとしだした児童生徒たちの事実が報告されている。

 4 「教育内容」に関する〈在日韓国・朝鮮人教育〉実践の模索

1970年代の同和教育運動が在日韓国・朝鮮人教育観の転換を促し、貴重な《在日韓国・朝鮮人教育》実践を生み出し、数多くの学校へとその実践を拡げていった。特にそれらの実践をもとにして「市外教」が編集した副読本『サラム』シリーズは、《在日韓国・朝鮮人教育》実践にとって欠かせない学習材として用いられるようになり、いっそう各学校の教育実践を確かなものとしていった。また、「民族学級」「民族クラブ」を設置する学校が増加するとともに、「市外教」が主催する在日韓国・朝鮮人児童生徒たちの活躍するさまざまな“集い”が催されるようになり、年ごとに参加する児童生徒                 も増加していった。前節において整理した4点が、不均衡ではあったが確実に進展していったのである。

 ところで、1970年代から80年代前半にかけての《在日韓国・朝鮮人教育》実践をめぐって、今日の課題を整理するため振り返っておかなくてはならないことがある。

 その一つが、教育内容をめぐってである。

 1960年代の日本人高校生による朝鮮学校学生に対する暴行事件を契機に取り組まれ出した「朝鮮を正しく教える」教育実践の延長として、1970年代も歴史学習が実践されていた。その歴史学習では、1876年の「江華島条約」から韓国併合」に至る朝鮮侵略史、「土地調査事業」「三一独立運動弾圧」「産米増殖計画」「大陸侵略の兵站基地化」「創氏改名」「強制連行」など朝鮮植民地支配の歴史的事実が教材化されていた。この教材化の意図は、国際友好関係を築いていくうえで、日本の隣国に対する加害の歴史を直視させようとするものであった。

 しかし、このような歴史学習は、実践者の意図に反し結果として、児童生徒に「朝鮮民族は受難の民族」というイメージをもたせてしまうことを往々にして現象させた。日本人児童生徒に「日本はなんてヒドイ国なのだ」「日本人であることがイヤになった」といった情緒的贖罪感に陥らせるか、反発を感じさせるかであった。在校韓国・朝鮮人児童生徒には「日本も日本人もキライ」「祖国はなんて弱い国だったんだ」といった和解なき感情を醸成させるか、日本社会の差別の現実と絡まって否定的な「自己概念を形成させてしまうかであった。朝鮮侵略・植民地支配の歴史学習がすべて、このような結果になってしまったわけではない。このような結果になってしまった主な要因は、日本近代の歴史学習と有機的な連携をもたせず、朝鮮侵略・植民地支配の歴史的事実だけを突出させて教え込んでしまったからである。当然と言えば当然の結果であった。1970年代の後半になって、「明るい朝鮮に出会わそう」という合言葉で、韓国・朝鮮の文化、例えば、昔話・音楽・踊り・言葉・衣装・料理などを教材化した実践がなされるようになった。朝鮮侵略・植民地支配の歴史、在日韓国・朝鮮人に対する差別の現実を学ぶことによって「暗い(?)」イメージをもってしまったという表面的な反省からであった。前段階の歴史学習の欠陥が何であったのかを明確にしないままに、表面的な「明るい(?)」イメージを追い求めたのであった。教育内容に関する「明るい」「暗い」という抽象的な評価は、前段階の歴史学習の欠陥を覆い隠し、歴史学習の重要性を忘れさせてしまうことになる。昔話・音楽・踊り・料理など、文化についての体験的な学びは、異文化を理解していく上で重要なことである。しかし、それらの文化を培ってきた人間を切り離して学ばせることになれば、それらの知識を単に与えられるか、嗜好を満足させられるかに終わってしまう。例えば、韓国・朝鮮の代表的な漬物「キムチ」を食べながらも、否定的なイメージの韓国・朝鮮観」を払拭できない場合がままあったからである。

 教育内容をめぐって、さらに、課題としなければなければならないことがあった。1970年代後半は、古代日本史の新しい史実が考古学的に発見されたり、歴史学者によって新しい日本古代史像が明らかにされたりした時代であった。これらの研究成果を取り入れ教材化が試みられた。特に、日本の古代国家の形成に果たした朝鮮半島からの渡来人に関する遺跡が大阪には数多くあることから、地域に根ざした学習ということで、実践されたのであった。また、この時期に、江戸時代の「朝鮮通信使」の史実が掘り起こされ、日本と隣国との近世・近代の時代の関係を学び、国際友好について考えるために、この歴史的事実の教材化と学習活動がすすめられた。

 これらの教育実践は、朝鮮半島が、近代以前において東アジアのなかで相互に影響し合いながら独自の文化を発展させてきた地域であったこと、日本と朝鮮のつながりの深さを知らしめる成果をもたらした。しかし、それらの知識が、今日の韓国・朝鮮の理解に結びついた歴史認識を培わせるに、十分役立ったとは言えない弱点をもっていた。なぜならば、今日の課題=在校韓国・朝鮮人児童生徒の人権を尊重する教育課題に、それ らの歴史学習がどのようにつながっていくのか、教材化をめぐって課題を残したのであった。

 5 「民族的自覚」に関する〈在日韓国・朝鮮人教創案践の模索

 今日の課題を整理するため振り返っておかなくてはならないことの二つめに、在校韓国・朝鮮人児童生徒の「アイデンティティの保持」に関する課題がある。1970年代以降、《在日韓国・朝鮮人教育》実践において、在校韓匡巨朝鮮人児童生徒の「アイデンティティの保持」を問題にし、「民族的自覚」を教育課題としてきた。それでは、教育課題とした「民族的自覚」とは、どのような概念であったのだろうか。

 この「民族的自覚」という概念には、同和教育実践・運動のなかで教育課題とされていた、部落差別とたたかい部落解放運動を担っていこうという部落出身者としての自覚と、同じ意味合いを含んでいたのではなかったか。1970年代、校区に同和地区を含む学校では、被差別部落出身の児童生徒の生活自律・「低学力」克服と、部落解放運動への参加とを関連づけ、教育課題の一つとして「解放への自覚」をあげていた。第2節で述べた長橋小学校の場合「民族学級」を設置した当時、日本人の児童は「補充学級」で「解放への自覚」の促しと「低学力」の克服を教育課題に、韓国・朝鮮人児童は「民族学級」で「民族的自覚」の促しと「低学力」の克服を教育課題に、教育活動を推進していた。「解放への自覚」の促しも、「民族的自覚」の促しも、ともに「差別をなくすため」「自分(たち)を解放するため」に教育課題としていた。事実、この時代にたたかわれていた在日韓国・朝鮮人の生活権・労働権・教育権など人権をめぐっての運動のなかで、“本名を名のる”ことを含めて「民族的自覚」が問題にされていた。(9)

 そして、「差別をなくすため」「自分(たち)を解放するため」の教育課題には、根本的に次の思潮があった事実もいなめない。戦前において、朝鮮人は一貫して反植民地主義を掲げ、民族主義(ナショナリズム)を原動力とする自覚をもって、日本の植民地支配とたたかってきた。戦後において祖国が分断されても、韓国人・朝鮮人は「ワン・コリア」という理念で、民族主義でもって日本と対峙してきた。在日韓国・朝鮮人にとっては、祖国の戦前戟後の民族主義と歩調を合わせるとともに、一方で日本政府・日本国民の差別と闘い、「民族」としての自覚を高めてきた。つまり、1970年代以降の《在日韓国・朝鮮人教育》が教育課題としてきた「民族的自覚」とは、民族主義にもとづく運動と反差別運動のなかで促される自覚である、と言えるのではなかろうか。

 ところで、「アイデンティティの保持」というところのアイデンティティは、社会的承認、他者による承認があってこそ成立するものである。「民族的自覚」を促す反差別の闘いは、アイデンティティが強制されることからも自由を求める実践でなければならない。また、アイデンティティの回復・確立が「異化」を意味するならば、「同化」圧力に対抗する一方、差別構造に組み込まれないよう、無限に「異化」を進めなければならない。在校韓国・朝鮮人児童生徒にとって、「アイデンティティの保持」とは、自分がどうありたいのか、自分がどこに所属したいのか、誰を仲間として選ぶのか、それを「自己決定」する過程のはずである。そして、在日する韓国人・朝鮮人であるという社会的存在であることを、自他ともに認めることを必要条件とするのである。

 しかし、学校教育の場で、「民族的自覚」を促しているかどうか、「アイデンティティを保持」しているかどうかの指標としてきた“本名を名のる”教育課題を論議する時民族主義にもとづく運動と反差別運動に主体的に関わる社会的存在であることや、「自己決定」する過程が軽視されてきたのではなかったか。そうしたことから、教員の善意による“本名を名のる”働きかけであったとしても、「小学校まで通名を名のっていました。学校で『自分の名前に誇りをもて』と担任の先生から指導されて、本名を使うことになりました。しかし、その無理やりな指導に腹が立ちました。今でも、出会った人が教師だとわかると顔がひきつりそうになります」と告発しているように、学校から押しつけられたといった問題が一部に生じていたのである。

 

「注」および「引用・参考文献」

(1)『朝鮮人労働者の教育施設』1924年。『近代民衆の記録10 在日朝鮮人』新人物往来社 に所収されている史料。

(2)『在住朝鮮人問題と其の対策』 雑誌『解放教育』98号のP124より孫引。

(3)『国民学校における協和教育』 財団法人中央協和会が編集し、1941年に発行さ れた冊子。

(4)「阪神教育事件」に象徴される民族学校の弾圧の歴史的事実、「公立朝鮮人学校(大阪では西今里中学校)」「公立小学校で課外に実施の民族学級の設置」の経緯、そこでの教育実態、および1955年前後の「民族学校」再建の運動については、省略している。詳しくは、小澤有作著『在日朝鮮人教育論』亜紀書房 を参照していただきたい。

(5)「大阪市外国人子弟教育研究協議会」は、「日韓条約」締結目前の1965年2月、在日韓国・朝鮮人児童生徒多数在籍校52枚が、在校韓国・朝鮮人児童生徒の教育上の諸問題を協議研究する目的で結成した大阪市教育委員会の研究委託団体である(略称は「市外教」)。1971年3月に、大阪市立中学校長会の『研究部のあゆみ』の「外国人子弟の実態と問題点」が問題となってから、その基礎資料を提供した「市外協」の組織自体が問題となった。1972年に改組され、「大阪市外国人教育研究協議会」(略称「市外教」)と改称した。以後、副読本の「サラム」シリーズの編集や、その副読本を活用した教育実践の進展。「民族音楽会」の開催など在日韓国・朝鮮人児童生徒の民族的自覚を高める目的をもった“集い”の主催。また、新しく渡日・来日した外国人児童生徒の教育活動に寄与する研究を進めるなど、現在に至っている。

(6)生徒の発言およびその告発に至る大阪市立城陽中学校での教育実践の経緯、その後の 私立学校の差別体質改善に向けての運動については、『ムグンファの香り』(稲富進著 耀辞舎発行)に許しい。

(7)大阪市立長橋小学校での「民族学級」設立の経緯と、その年度の運動・実践については、『ウリマルを返せの要求に応えて』(大阪市立長橋小学校編集・発行1972年)に詳しい。

(8)『部落問題資料と解説』(部落解放研究所編集解放出版社発行)の初版本の、在日朝鮮人教育に関する項目に、資料として載せられている。

(9)1960年代頃まで、多くの日本の企業は、国籍による差別や、就職するときに日本名や日本国籍取得をすすめるなど、就職差別をおこなっていた。1970年代になり、こうした就職差別などの民族差別をなくそうという運動が、本格的にすすめられるようなった。その代表的な運動が、「日立就職差別」へのたたかいである。

 1970年、朴鐘碩さんは、日本名で就職試験を受け、一度、採用の通知をもらったが、韓国人であることがわかると、就職を断られた。朴鐘碩さんは、多くの日本人や在日韓国・朝鮮人に支えられ、日立製作所を相手取って、横浜地方裁判所に訴えをおこした。裁判のなかで、なぜ日本名で受験せぎるをえなかったのかについて、日本社会の在日韓国・朝鮮人に対する差別の実態と、同化教育の実態を訴えていった。そして、この裁判を契機に朴鐘碩さん自身が本名で生きていくことを周囲に明らかにしていった。また、裁判と同時に、支援者たちによる日立製作所に対する抗議運動も、日本全国はもとより、国外にも大きく拡がった。1973年、裁判所は朴鐘碩さんの主張を認め、日立製作所も民族差別を認めて謝罪した。こうして、朴鐘碩さんは、日立ソフトウエア戸塚工場に就職することになった。この運動がきっかけとなり、現在、多くの大企業が在日韓国・朝鮮人に対して就職の門戸を開いている。

 また、金敬得さんのたたかいも、大きな意義のあるたたかいであった。弁護士になり在日韓国・朝鮮人への差別問題を解決したいと、司法試験に合格した金敬得さんが、日本国籍でないということで司法修習を拒否された。金敬得さんは、試験に合格したのに司法修習を受けさせないのは職業差別ではないかと、最高裁判所に訴えた。この訴えを支援する運動が朴鐘碩さんの時のように起こり、1977年に、最高裁判所は訴えを認めた。現在、金敬得さんに続いて、幾人もの弁護士が本名で活躍している。

 こうした職業差別へのたたかいは、外国籍をもつ人に、弁理士や税理士の門戸を開かせ、公立小・中・高等学校の教員や国公立大学の教員への門戸を開放させ、さらに、行政職の公務員を採用する地方自治体をも増やしてきた。

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