この基調報告は、全朝教結成30周年記念集会のもので、
「むくげ」166号(30周年記念特別号)に収録されています。
また、この集会の様子は、「民団新聞」でも、くわしく報道されました。

基 調 報 告(1)

多民族・多文化共生の未来を学校から

宮木謙吉・印藤和寛


(1)はじめに
(2)全朝教大阪(考える会)運動の過去と現在
 @出発点の原則とその評価
 Aこの10年間の成果と失敗
(3)課題ごとに見た過去と現在
 @教育内容
 A民族学級・民族クラブ・民族の集い
 B民族学校
 C大阪市「指針」と大阪市外教、 大阪府「指針」と大阪府外教、そして2001年7月の
  大阪市「方針」

 D進路保障
 E全朝教問題
 F民族教育ネットワーク
 G新たに渡日した生徒の教育の問題
 H理論的問題

(4)全朝教大阪(考える会)の組織方針
(5)現在の実践課題の検討と再評価、日本の教育の未来のために
(6)おわりに


(1)はじめに

  戦後民主主義の「堤防が決壊した」(辺見庸)と言われたのは1999年のことでした。以後、東京都知事による民族差別暴言が繰り返され、天皇制を強調し軍国日本への復古を目指す「つくる会」の中学校社会科教科書が検定に合格し、首相の靖国神社参拝が強行される状況です。外国人に地方参政権を与える法案はたなざらしとなり、逆に定住外国人に対する届け出制による簡易「帰化」制度が検討され、第九条を含む憲法改定に向けた国会での活動も始まりました。「いやなら出て行け」という日本国家の勝ち誇ったような地声が聞こえます。しかし、こうした表面の「国民の誇り」は実はそれを主張する人々自身の「自虐」思想の、もう一方の面にしかすぎないのです。 みじめな「排外主義」意識は、自由で自立した精神から出たものであるはずはありません。アメリカ合衆国の世界戦略に否応なく組み込まれて、韓国や中国に対してすら独自の政策を展開できない日本国家の行き詰まり状況とそれへのいらだちを示すものでしょう。ただ、世界の常識がこうした日本の様子を「鼻で笑う」としても(中国人民日報の記事)、当事者である私たちはこれを冷笑してすますわけにはいきません。1998年の朝中露三国国境協定、昨年6月の朝鮮南北首脳会談に結実したことに見られるような世界の人々の努力から、ますます落伍しかねない日本国家と民衆のありかたを少しでも変革するものとして、私たちの教育現場での実践は少しは意味を持つのでしょうか。 戦後民主主義から出発し、その矛盾を現場で引き受け、それを乗り越えようとする中で、その「国民」の「自由・平等・平和・民主主義」の理念を再検討してきた運動がいくつかあります。1970年代以来の部落解放をめざす教育、障害者差別を打ち破る教育など、現在の人権教育につながる教育運動が進められ、私たちはそうした人々と手を取りあい、「草の根からの国際化」をめざす教育を実践してきました。最近の中身のない「国民の誇り」思想と対決し、ともすればおちいりがちになる「国民(だけ)」思想への後退を退け、口先だけの「国際化」思想からさらに一歩を踏み出して、目の前の子どもたちと共にこれを克服する現実的で根源的な教育実践と教育運動を構想したいと思います。戦後教育の総括が要請されている今日、「戦後民主教育・平和教育」を真に継承して次の時代にふさわしいものに発展させる一つの契機に、この集会を位置づけたいと思います。

 (2)全朝教大阪(考える会)運動の
   過去と現在

@ 出発点の原則とその評価

 1971年7月から9月24日の創立集会にかけて、本会の創立当時に議論された内容を振り返ると、この30年間の時間の経過、変わったものと変わらないものを痛感します。 まず、本会の発足当時、いくつかの教育実践、教育運動上の原則が確認されていました。

 ・「本名を呼び名のる」を、自分の教室から学校へ広げる。
・在日朝鮮人を「祖国を持つ外国人」として見る。
・その彼らの「祖国」に対して「南北統一の視点」を堅持する。教室の中に38度線を引かない。
(本会で「朝鮮」と言う場合には、「韓(韓国)」と全く同じ意味です。「韓国」と言う場合も同様です。)
・「反差別」とともに「国際連帯」の視点を踏まえる。

  これらは、客観的に正しいかどうかより、むしろ実践・運動上の必要から生まれたものと言うことができます。その後何度も批判され、今も様々な意見があります。その当否は今後もさらに深く検討されるべきでしょう。またさらに、次のような組織上の問題も、これらの原則を守るためにこそどうしても必要であったことがわかります。それほど、この「朝鮮」という問題は、当時一般には見捨てられていながら、手を出す者を益々困難に追いやる微妙で危険な要素を持っていたのです。
本会は、そこに踏み込み、課題解決を楽しみながら、進んできました。

 ・すべての活動を運営委員のカンパ、自主財源によって支え、運営委員会での討議によって行動する。
・広く連帯・共闘を呼びかけることはあっても、他の団体の傘下にはいることはしない。教組、同研、行政、その他いかなる組織とも協力関係を作りつつ、組織にとらわれずに個人としての、自分だけを代表する発言を原則とする。
・運営委員会、シンポジウムなどでの、自由な発言を保障する。どんな意見も、実は自分自身の中の一面であり、一つの現実である。
・方針や原則は、討議と実践の中から自ずから導き出されるもので、それを他者に押しつけることはしない。賛成する、反対するも、参考にするも無視するも、自由。
・自分の実践に基づいて話し、実践から出て実践に帰る。私が正しい、ではなく、私はこうしてみたらこうだった、と互いに語り、互いに参考にしあって、共有財産に高める。
・「優れた教師」がすすめる「すばらしい実践」を参考にしつつも、誰でもできる、教職員集団を基礎にした「下手な教師」の「普通の実践」を重視する。

  これらの原則は、そのまま現在に通用し、インターネットの世界にも見合うような普遍性を持つものです。韓国をはじめ世界のどこのNGOと交流する上でも、同様です。私たちは確信を持って前進することができると思います。
 こうして、1971年の「大阪市立中学校校長会差別文書」、1975年の「東成区深江小学校校長差別発言」など、周囲で続発する差別問題が、決して他人の差別糾弾で終わる他人のことではなく、私たち教職員自らの中にある、自分の学校体制の中に現にある差別体制とつながっていることを自覚するがゆえに、私たちは根本的にそれを作り替える努力を開始したのです。 なぜ、特定の朝鮮人に付き従う運動ではない、始めから日本人教職員による自立的な在日朝鮮人教育運動が大阪で成立したかについては、ここでは触れません。ただ、そのような自覚は一貫して受け継がれてきたものです。 

Aこの10年間の成果と失敗

  それから30年。しかし、この最近の10年間を振り返ると、大きな成果とともに、失敗についても確認せざるをえません。府外教の設立と民族学級の制度化という大きな成果があった反面、全朝教問題と進路保障などでは大きな課題がそのままになっています。

<府外教の設立と強化> 
1980年代後半、在日朝鮮人自身が立ち上がった指紋押捺拒否、外国人登録法改正要求運動は、16歳での外国人登録に直面する朝鮮人高校生の行動を生みだし、教育現場でも、否応なく対応が迫られていました。また、1988年ソウルオリンピックと民主化運動の結果、韓国の国際的立場も強まり、在日朝鮮人教育を取り巻く環境、とりわけ行政の姿勢が大きく変わりはじめたのです。各地で実施されはじめた「集い」「ハギハッキョ」には、予想を上回って子どもたち、親たち、教師たちが集まり、ボランティアの民族講師たちもひっぱりだこの状態でした。大阪の教組運動の中では、1981年から9回の「15単組在日朝鮮人教育研究集会」が積み重ねられ、1989年の大阪教組再建とともにその教研活動に受け継がれました。日本の「国際化」のかけ声のもと、民族団体も行政も組合も同研もこの問題に対する関心を深めました。日韓外相覚書を受けて1991年6月に開かれた「日本人の課題としての在日朝鮮人教育を実現する大阪教組集会」が、その画期となりました。 こうした教育運動を背景として、長年の間、考える会・全朝教から部落解放府民共闘会議・大阪教組へと引き継がれた行政交渉の結果、ついに1988年に待望の大阪府教育指針が、次いで1992年に大阪府外教の設立が、実現しました。私たちのかねてからの「夢」の一つがこうしてかなったわけです。 府外教設立以後の本会の存在意義をめぐっては、運営委員会で討論がおこなわれました。その結果、「市外教・府外教では覆うことのできない領域をあつかう」教育労働者を中心とした自主的な教育研究、実践交流、教育運動組織としての展望と、在日朝鮮人教育の成果にふまえて「多くの他の外国人の子どもたちの教育にどう率先して取り組むか」という問題意識の下で、22周年記念集会が開催されました。

 <全朝教問題と進路保障の課題、日の丸・君が代>
  会のもう一つの固有の役割が、大阪の状況を全国へ発信し、全国の仲間と交流することです。本会は、1994年には従来の「日本の学校に在籍する朝鮮人児童生徒の教育を考える会」という名称を「全朝教大阪(考える会)」に変更し、全朝教から得られる新しいものを市外教・府外教にも反映させる役割を果たそうとしました。それは、当時の全朝教運営委員会で行われていた、事務局体制改革によって全朝教運営体制を飛躍的に強化しようとする議論の方向とも関連しています。 また、長年不十分のまま過ぎてきた就職差別との闘い、「進路保障」を、はじめて高等学校の全教職員の課題として提起できる条件も、府立外教の設立によって整いつつありました。「バブル」期の労働力の「売り手市場」、企業の急速な国際化展開、1995年の首相の「謝罪」談話を背景にして、千載一遇のチャンスでした。 しかし、私たちは、これらの課題に失敗したと総括しなければなりません。 さらに、「国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導するものとする」とした学習指導要領の実施に伴い、朝鮮植民地支配の清算(国連加盟国である朝鮮民主主義人民共和国を日本国が承認していない、朝鮮籍の生徒がいる、本名を呼び名のることが完遂されていない)を果たさぬまま、互いの国旗国歌を尊重するのが当然という論理だけでは、卒業式などでの朝鮮人生徒の指導ができていない、というのが実状です。「強制」にならないような校内でのシステムづくりも当然の課題として残されています。 

<新しい民族学級の制度化>
 1990年の全朝教第11回研究集会は大阪で開かれ、大阪教組や同研組織の支援によって成功させることができました。この時にあわせて、私たち考える会、市教組、大阪教組は、民促協や同胞保護者連絡会とともに中之島大阪市庁舎包囲(人の鎖)行動をおこない、民族講師の身分保障を訴えました。 こうして、1991年日韓外相覚書に基づいて、民族学級が国からもはじめて認知されました。ついに悲願であった民族学級への新たな民族講師の配置が公のものとなったのです。ボランティアと同和教育予算の枠内でおこなわれざるをえなかった現場での工夫と苦闘が、ついに部落解放の課題から独立した民族教育の課題、他国民の民族教育を保障するという課題として確認され、その第一歩を踏み出しました。そこでは、植民地支配の責任の清算を民衆の立場で草の根から成し遂げようとする考え方ともに、新しい国際的な人権に関わる約束が根拠とされました。この民族学級制度化・民族講師身分保障の課題は、今後さらに発展・拡大させなければなりません。 かつて、兵庫県伊丹市での民族講師解職による民族学級消滅を撤回させることができなかった1990年「鄭判秀裁判」判決の悔しさは、こうして、幾分かは現実のなかで克服され、今やそれの復活をめざして運動を起こす時が到来したのです。

 <政治と在日朝鮮人教育の関係>
 私たちの教育運動は、「差別」を「民衆の差別意識を啓発によって払拭する」だけではなく、「政治による差別」を正面から問題にして教育現場にあって(力不足ではあっても)それと闘い、その中で自らの差別意識と周囲の差別的現状の変革をめざすものでした。その政治と差別の関係は、1994年と1995年の経験からあらためて確認することができます。 1994年初め、朝鮮民主主義人民共和国に対するアメリカ合衆国の戦争発動が目前に迫っていました。朝鮮総連組織や、京都朝鮮学校にも警察の違法捜査が強行される事態の中で、民族学校生徒のチマチョゴリの制服に対する攻撃が多発しました。しかしその後、1995年1月の阪神淡路大震災に際して、朝鮮人と日本人が手を携えて苦難の克服に当たったこと、神戸での国際学校が連帯して復興に立ち上がり、行政もまたその価値を市の重要な構成要素として再認識したことが、私たちに大きな自信を与えました。私たちは「何か起こったらその時は……」という緊張感を抱きつつボランティア・救援資金集めに奔走する中で、関東大震災の当時とは確かに違う、何が違うのか、それまでよく「関東大震災の時の虐殺と同じ差別」だと言われてきたことが何だったのか、について認識を深めたのでした。
  

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