基 調 報 告(2)

(1)はじめに
(2)全朝教大阪(考える会)運動の過去と現在
 @出発点の原則とその評価
 Aこの10年間の成果と失敗

(3)課題ごとに見た過去と現在
 @教育内容
 A民族学級・民族クラブ・民族の集い
 B民族学校
 C大阪市「指針」と大阪市外教、 大阪府「指針」と大阪府外教、そして2001年7月の
  大阪市「方針」

 D進路保障
 E全朝教問題
 F民族教育ネットワーク
 G新たに渡日した生徒の教育の問題
 H理論的問題

(4)全朝教大阪(考える会)の組織方針
(5)現在の実践課題の検討と再評価、日本の教育の未来のために
(6)おわりに



 

(3)課題ごとに見た過去と現在 

@教育内容 

<教材作成の最初> 
 1971年当時、同和教育副読本中学校向け『にんげん』に、金達寿さんの朝鮮についての文章がはじめて掲載されたばかりで、ほかに朝鮮について教えるものはありませんでした。本会創設に関わった佐伯重義さん(大阪市立大池、梅南中学校校長)らは、李殷直、 基亨、金東勲さんらの協力を得て、朝鮮資料研究所を組織し、本名を正しく呼ぶための『人名仮名表記便覧(字典)』を編集し、また、教室で朝鮮を教えるための教材づくりに着手しました。やがて大阪市外教で制作が進んだ『サラム』シリーズの単元一つ一つに、教室での実践の試行錯誤と運営委員会での議論が反映されています。

<朝鮮を教えることへの反発>
 こうした教材化と教室での実践がどこでもスムーズに進んだわけではありません。学校や地域の中の反発と闘いながら、じりじりと広がっていったのが実状です。 1984年の豊中市立庄内西小学校で、自主プリントを使用し「白頭山」の歌を教えた教育実践に対して攻撃が加えられました。この攻撃は、校区、市議会から、「北朝鮮偏向教育」として中央の週刊誌にも取り上げられるところとなり、大きな教訓を残しました。白頭山が北朝鮮だけの山なのか、そんなことを聞けば韓国の人々が怒るでしょう。隣国に対する無知の責任を、「彼ら」こそ追及されるべきなのでした。しかし、その「正しいこと」を教えるについてさえ、この問題については順序を踏み、地元保護者との連携、納得、協力を最優先にしなければならない。「朝鮮」とは、日本ではそれほどむつかしいものなのか、というのが実感でした。 ソウルオリンピック以後であればまた状況は違ったのかもしれません。しかし、これは、1980年と現在の「教科書問題」につながる教訓であったということができます。「彼ら」が「朝鮮」のことには全く無知であるか、見て見ぬ振りであるか、のどちらかであって、「彼ら」の最大の弱点が「朝鮮」であるということは今も同様です。そして、私たち自身が、私たちの社会全体の意識の反映として、朝鮮のことに無知でないとは言えないのです。 

<教材の広がり>
 在日朝鮮人教育自主教材作成の動きは、東大阪市や豊中市、吹田市など府内各地に広がり、神奈川や奈良や京都、さらに全国にも拡大して、音楽、劇、地域歴史フィールドワークなど様々な分野で、市販のものも含めて優れた副読本が多数競い合う状況になりました。府立外教で作成され、残念ながら現在試作本のままになっている『大阪と朝鮮』(1996年)や、大阪市立の高校の『サタリ』(1995、1998年)最近の『朝鮮をどう教えるか』(解放出版社、2001年)がその一例です。。 1970年代からの関東大震災時の虐殺調査、朝鮮人強制連行真相調査、さらに1990年代の従軍慰安婦問題でも、事実の掘り起こしと教材化がすすめられました。教科書もそれに応じて改善され、植民地時期の朝鮮と日本の関係は日本の「加害」の視点から少しずつ記述が増えました。他方、韓国との交流の深まり、朝鮮民主主義人民共和国への往来増加、中国東北地方の開放に対応して、衣食を中心に韓国の現代文化が日本でも歓迎され、キムチが普及するようになって、こうした文化要素の教材化にについては選択肢が広がっています。1980年代以来体育祭などの学校行事に日本人生徒を含む学年あげての朝鮮舞踊を実現したり、また最近では、朝鮮人と日本人それぞれの生徒が別々の出し物をおこなって交歓しあったりする活動が行われています。辛基秀さんによって再発見された江戸時代の朝鮮通信使についても、広くその意義が認知され、重要な教材となっています。

<明るい朝鮮と暗い朝鮮>
 ただ、教育実践の経験の中で忘れてならないことがあります。それは、「侵略」の残虐さ、被害を受けた朝鮮側の悲惨さを教えることが、逆効果を生むことがあるという点でした。1970年代、「朝鮮」を教室の中で話題にすることすら難しかった状況を前提として、「明るい朝鮮」を教えることと、「暗い朝鮮」をどう教えるかについての議論が行われました。朝鮮についての肯定的なものがまず最初にあってこそ、それを破壊した侵略の非道さが認識できる、歴史で言えば「朝鮮の自主的発展、日朝の平等な交流」次に「侵略」という「順序の大切さ」については、1984年の梶村秀樹さんの講演を聞いて学んだことでもあります。 そもそも最初、この集会は9月1日に予定されていましたが、なぜ9月1日にこだわったかと言えば、それは30年前の発足直後、「朴君を囲む会」、後の民闘連や本会を中心に毎年のように開かれた「関東大震災と朝鮮人虐殺」を考える催しの中での問題意識を、今日どう受け継ぐかを明確にしたかったためです。 教員になった私たちは、事実を知り、衝撃を受けました。自分の中学、高校時代には、そんなことは聞いたことも習ったこともなく、当然、教科書にもそんな記載はなかったのです。しかしいざ「虐殺」の事実を持ち込んだ時、教室は静まり返るだけで、今から考えると、それは私たちの側に、この事実をどうとらえるかについての認識の深まりがまだまだ不足していたことの反映でした。 1923年9月の出来事について、当時の日本帝国全体を理解する中から、隠された政治の文脈(1920年10月の朝鮮独立軍との激突)をたどり直し、現在にまで至る「差別」の根源として認識できるようになった今日、私たちはようやく、朝鮮人虐殺を本当に教えることが可能になりました。朝鮮を被害者側としてだけとらえるのではなく、朝鮮独立運動の強烈さ、日本支配の正統性のなさ、日本帝国の弱さとして、「明るい朝鮮」とも一体のものとしてとらえることができるようになったのです。ちょうどそれと時を同じくしてそれを抹殺しようとする「新しい教科書」運動が起こったのも、必然かもしれません。(しかし、アメリカ合衆国で朝鮮戦争についてカミングスが行ったような総括的研究も、日本では朝鮮植民地支配についてはなされぬままで、朝鮮研究そのものが圧倒的に貧弱です。私たちの教育内容が、それを前提にして作り上げなければならないという弱点を、銘記しなければなりません。)  

A民族学級・民族クラブ・民族のつどい

 <日本人教職員の課題としての民族学級の始まり>

 子どもたちの教育保障について「国民教育」を「解放教育」へと発展させ、徹底して考えていく中で、日本人だけではない、目の前の朝鮮人の子どもの教育保障とは何かの問題に突き当たるのは当然のことでした。 1970年代はじめ、日朝協会の活動のもとで、特に高校では、府立清水谷高校での朝文研活動、大阪市立汎愛高校での入学時の本名指導など先駆的な実践がなされていました。そこに「解放教育」の視点から新しい動きが生まれたのです。兵庫解放研で、一斉糾弾から年月を経た日々の日常の中でめざされていたものも、学校のクラブなどでの民族的な教育のあり方でした。高槻六中での壮絶な卒業集会を経てその後に模索されたのも、同様でした。1972年、大阪市西成区の同和地区を校区とする長橋小学校で民族学級がつくられたのも、「ウリマルを返せ」の朝鮮人生徒の要求、保護者の要求とともにそれに呼応する教育労働者の運動があったためです。折からの「7・4南北共同声明」を背景に、生徒を含めて徹夜で繰り返された行政との交渉の末、一旦は行政も決断して認めた民族学級は、当時唯一の南北の協同団体であった(財)朝鮮奨学会からの講師派遣という形式にもかかわらず、一転各方面の団体からの抗議と妨害の中で消滅するかに見えました。しかし、この運動は、実に少数の民族講師の犠牲的献身とそれを支える現場教職員の堅い連帯によって、かろうじて維持され、東住吉区矢田南中学校、東成区大成小学校など市内各地、東大阪市や八尾市などにじりじりと広がっていきます。それは、当時周囲の日本人教員の無理解の中で、それぞれの民族講師の犠牲的献身によってかろうじて維持され続けていた1950年以来の「覚書民族学級」の状況とも、みあうものでした。 その頃、学校とは別に、地域活動の中で在日朝鮮人教育を実践する運動も始まっていました。高槻六中の卒業生がもとになった高槻市成合地区を中心とする高槻むくげの会や、八尾市安中地区を中心とする八尾トッカビ子ども会などがその代表的なものです。いわば、地域の「民族学級」として始まったその運動は、高槻では各学校に「子ども会」を設置して民族指導員を社会教育の一環として配置する方向に発展し、八尾でも各学校での民族学級実践につながっていきます。 また、小・中学校での教育運動は部分的には高校にも波及し、府立今宮工業高校(定時制)、西成高校、長吉高校などでの朝鮮語授業、浪速女子(現金光藤蔭)、浪商や樟蔭東高校などでの朝文研活動が始まります。

 <「つどい」を軸にした民族学級の拡大>
 こうした各学校の個々の実践が新しい局面を迎えるのは、学校をつないで年に何回かの「つどい」行事を設定することが始まった時でした。既に大阪市生野区の中川小学校では、1975年から朝鮮人生徒のサマー・キャンプをおこない、それが他校の民族学級とも合同の大きな行事に発展していました。豊中市では早くから少数地域での取り組みとして「ハギハッキョ」がはじまりました。大阪市外教の子ども民族音楽会も定着拡大していきました。1980年代から、八尾市、東大阪市、大阪市内、そして府下各地域で次々に「つどい」等が取り組まれ、それを目標にして各学校での民族学級・クラブ設置の動きも促進され、教員や生徒、保護者の結集軸が設定されたことにより各地域での草の根の動きに拍車がかかりました。そうした生徒たちが高校に入って、朝文研をつくり、担い、各種民族団体に参加し、朝鮮奨学会の行事に結集していったのです。

 <民促協の成立と新しい民族学級の制度化>
 1984年12月、生野区のKCC会館でもたれた在日韓国・朝鮮人大学教員懇談会主催のシンポジウム がきっかけになって、民族教育促進協議会が誕生しました。大阪市内、府下各地で日本の学校と連帯して民族教育を進めようとする民族講師たちが、はじめて合同して、自分たち自身の声をあげることのできる組織を持つようになったのです。その力は、1950年以来の府知事・朝連代表覚書に基づく民族学級を順次閉鎖しようとした大阪府の行政に方針変更を迫り、常勤講師待遇による民族講師の新たな配置を実現させました。また、大阪市内の関係団体総掛かりの大運動がついに大阪市を動かして長橋小学校民族学級の公認と民族講師配置、さらに大阪市内民族講師の総括指導員制度などを実現しました。その間、東大阪市や八尾市など府下自治体でも民族学級設置が広がり、特に東大阪市では、太平寺小学校の後任民族講師問題をいち早く市独自で解決し保障する中から、「朝鮮語学級(行政上は母国語学級)」を拡大し、「朝鮮文化に親しむ東大阪子どもの集い」とあいまって大きな前進が勝ち取られました。現在、大阪市内88校、大阪府内160余校で民族学級・クラブが実践される状況に至ったのです。もちろん、民族講師の待遇など、不十分な点は今後の課題として残されています。しかし、制度的な枠組みがとにかくにも確立してきたことの意義は大きなものがあります。

 <民族学級をめぐる議論>
 こうした学校での民族学級実践・地域での民族子ども会実践に対しては、かねてから批判、自己批判もありました。そのような実践が進路保障とつながらないのではないかというものです。「着せ替え人形」ではだめだという指摘が行われたのは1988年のことです。一着のチョゴリを見せる、着せるに当たって子どもの意識をどうとらえるかは、長橋小学校などでは既に当然の課題でした。「進路も保障されていないのに本名を名のらせて、それで責任がとれるのか」「学力保障だけやってくれ」という父母の声を胸に受けとめ、批判や指摘を生かしながら、私たちは民族学級の内容を深め、学校の中から一歩一歩前進する実践上の道筋をたどることになります。
 1990年代に入って、「民族」はもう古い、民族学級よりむしろ日本人の子どもとともに生きるための集まりが重要だという指摘もなされました。反面、高校では、「いいかげんな日本人には朝文研に入ってほしくない」という生徒間の議論も続いており、これは、高校での本格的な自主活動が始まる時に経過することの多い問題でした。「日本の学校のクラブなのになぜ日本人が入っていけないのか」「朝鮮人は民族主義がきつい」という疑問の声、排外につながる声も出てきます。 民族教育権の確保に向けて日本の学校の中で私たちがかろうじて保持することのできる民族学級は、まず可能な限り確立しなければなりません。「日本人とともに生きる」教育実践は、教育課程内の実践としてもっときちんと位置づけるべきであり、それを課程外のの民族学級と対立させて論じるのは、日本人教師にとっての課題を何でも民族学級に押しつけてしまうことになりかねません。
こうした基本を踏まえて、私たちの結論は、実践上は柔軟に対処しつつ、「両方とも大切だ」ということになります。「ともに生きる」場を教育課程内のありとあらゆる場に設定することは日本人教職員の(「国民教育」の立場からも当然の)課題です。また、それとともに、それをさらに深めた朝鮮人の「民族教育」の場を、できる限り結晶させる(「国民教育」の中から他国民の「国民教育」を含む場を生み出すという、実践上きわめて困難な)課題も決して後退させてはなりません。ましてやそれを否定してはなりません。「ともに生きる」場と並んで、私たちはその「民族教育」の場をさらに推し進めようと努力したのです。
 今日、子どもの数の減少と在日朝鮮人の「多様化」によって、民族学級運動も過渡期を迎えています。多くの学級では、むしろ朝鮮にルーツをもつ日本籍の子どもたちが(「本名」ではなく「民族名」で呼ばれる)主流になっています。「ともに生きる」場から逆に「民族」について考えるというケースも当然あります。民族学級の存在自体が大きな「人権教育」であることは言うまでもありませんが、その民族学級内部の「人権教育」のあり方もまた検討されるべき問題です。私たちは、こうした民族学級の内容についても、それを普遍的なものに高めるべく、府民族講師会の教研活動に連帯して研究を進めなければなりません。

 <中学校夜間学級と社会教育の課題>
 1995年の大阪市立天満夜中(現管南夜中)での教員による民族差別事件への抗議運動には、夜間中学に学ぶ多数の朝鮮人が参加しました。その後、夜中には朝文研がつくられ、「日本語読み書き」の保障とともに「朝鮮語読み書き・朝鮮文化」の保障が目指されています。また、長年続いた朝鮮人多住地域での自主夜中の実践は、1997年に東生野中学校夜間学級の創設をなしとげ、また、東大阪市立長栄夜中太平寺分教室が拡充され太平寺夜中として独立するなど、着実に前進しています。 植民地支配と皇民化教育、また、それを引き継いだ日本の戦後教育によって奪われた「朝鮮語読み書き・朝鮮文化」の教育、渡日後も放置され戦後1952年から1965年までの間日本の学校に入学する法的根拠がなくなったことによって奪われたれた「日本語読み書き」の教育を、二つながら今このような形で、取り戻す活動が続いています。それは、自ら主張し発言する「ハルモニたち」の姿によって、逆に、子どもたちの教育の根本的な課題を照らし出しています。こうした夜間中学も、あるいは公民館の講座、「日本語教室」であってさえ、運営の仕方によっては一つの「民族学級」としての性格をもつのです。多くの夜中で中国をはじめ多くの国々からの人々が学ぶ現状の中でも大切な視点です。 夜間中学の卒業生がさらに定時制・単位制高校へ、大学へと学び続ける姿がいたるところに見られます。各学校も、地域に開く形でさまざまな教育の場を提供することができます。 社会教育の分野で「朝鮮語教室」などがどこの自治体でも設置されて当然です。1990年の寝屋川市での民族差別事件への抗議行動から、寝屋川市の教育方針や「ハングル講座」が実現しまた。私たちは、ありとあらゆるところで、「日本語教室」とともに「朝鮮語教室」「母国語や母語の保障」をめざしたいと思います。  

B民族学校

 <日本人教員と民族学校の関係>
 1948年の民族学校閉鎖令後、いったん大部分が壊滅した民族学校は、やがて朝鮮民族独自の力によって再建されましたが、それら自主学校は日本政府によって「各種学校としても認可すべきではない」日本の公益に沿わないものとされ続けてきました。(これは、美濃部東京都知事による朝鮮大学校の認可によって打破され、1998年に至って、政府自身によっても、もはや失効しているとされたようです。)1972年当時、日朝協会が中心となって朝鮮学校との交流行事をおこない、日教組運動の中では生徒を「民族学校の門まで連れていく」ことが正しいこととされていました。朝鮮人生徒に「日本の学校に来るのは間違っている。民族学校に行くべきだ」と説教する高校教師もいて、それが先進的なこととされる状況でした。 目の前の朝鮮人の子どもたちの教育保障を「南北統一の立場」から取り組みはじめても、冷戦構造のもとでの厳しい南北の対立の現実もあって、たちまち「北の手先」と民族学校に敵対する「南の手先」という両方からの非難妨害を受け、また日本人教師や一部の朝鮮人からも、「日本人のくせに」朝鮮人の民族教育に手を出すと非難されました。私たちは、「日本の学校に在籍する」という限定を会の名称につけることによって、日本人教職員の課題と民族固有の教育権との関係を明確に整理し、民族学校での民族教育を尊重する立場から、実践の中で民族主体の理解を待つ努力を続けたのです。もちろん、私たちの仲間には民族学校の日本人教員もいます。また、私たちに協力助言して下さる多くの民族学校の教員の方々があり、民族学校卒業生が民族講師として活躍する場合も多かったのです。

 <民族学校への支援>
 1990年6月、高体連への朝鮮高級学校の加盟問題では大阪府高等学校教職員組合桃谷高校分会が先頭を切って署名運動に乗り出し、大阪の高校教育界あげての支援運動から日教組の全国運動へと拡大しました。金剛学園、白頭学院(建国)、朝鮮学園各地初中級学校との交流活動も盛んに行われています。その中で、民族学校生徒へのJR通学定期券の差別の問題も1994年には運輸省の「割引範囲の暫定的拡大」の指示で解決を見ました。ただ、部落解放共闘・大阪教組の交渉を通じての民族学校への援助の増額も大きな成果ですが、「一条校並」にはほど遠い現状です。
 こうした草の根の努力にもかかわらず、1994年のいわゆる「北朝鮮核疑惑」と警察による民族団体への強制捜査、京都の民族学校に対する違法捜査の中で、民族学校生徒に対する暴行事件が続発し、チマチョゴリの制服での登下校が難しくなる状況が生まれました。私たちは全力でこれに抗議し、民族学校を守る手だてをつくそうとしましたが、多くをなすことができたとは言えません。しかし、1995年の阪神淡路大震災の不幸に際して、東神戸初中級学校に見られたような朝鮮人と日本人の協力は多くの人を感動させ、民族学校に対する支援の輪を大きく広げることになりました。私たちは、神戸の民族学校再建のための募金活動や支援活動に努力し、再建の実現をともに喜びました。再建に際しては大蔵省が「震災時に限り」一条校並の半額助成を決定しました。
   朝鮮高級学校などの民族学校が各種学校でしかないために、卒業生がそのままでは国公立大学の受験資格がないという問題は、以前から府立桃谷高校通信制課程に通う朝高生の問題として議論されてきました。大検受験資格に関しての制限がようやく撤廃され、一部大学院で受験が認められるなどの動きはありますが、入試センター試験受験志願書の生年月日が元号でしか書けない制度と相まって(府立外教事務局から入試センターには口頭で抗議し、本会での署名運動も実施しました)、昨今の国立大学の制度改変でどう変化するのか、将来の日本の大学の未来を占うポイントとして見守りたいと思います。 今年度からセンター試験外国語に「韓国語」が加えられることは、もちろん高校での朝鮮語学習の広がりをめざす私たちを励ますものですが、民族学校生徒にとってどのような意味をもつのかはまだわかりません。(1994年、府立外教で、センター試験を含む大学での朝鮮語入試を各大学や国立大学協会・入試センターに提起、要望しましたが、その後、これが韓国の対日要望項目に加えられました。) 

<民族学校との共同行動>
 こうした民族学校との連帯活動と「覚書民族学級」民族講師後任配置問題の発展的解決によって、私たちの「民族学級」運動は南北双方民族団体の理解を徐々に広げ、共同行動への模索が始まりました。全朝教大阪(考える会)と民族学校が協力して実現した1997年4・24集会では、朝鮮学校の問題を中心テーマにした「日本人社会と在日朝鮮人の民族教育」シンポジウムを実現し、清水澄子参議院議員のJR定期券と震災時の朝鮮学校復興問題での活躍が感動を呼び、高賛 さんや若一光司さんの30年前の大阪の学校での体験にもとづくお話が共感を広げて、朝教同、朝鮮学校との連帯を確かなものにしました。この頃朝鮮学校側は、ついに、日本の学校の中にある「民族学級」を「自主学校」と「並ぶ」民族教育の柱として位置づけることになりました。それが翌年の「民族教育ネットワーク」の実現へと発展していきます。  

C大阪市「指針」と大阪市外教、 大阪府「指針」と大阪府外教、そして2001年7月の大阪市「方針」 

<大阪市の指針と市外教、高校入試>
 1970年から大阪市学校教育指針には「在日外国人」の項が立てられ、徐々に充実していきました。その過程は、大阪市外教の再生・発展や私たちの在日朝鮮人教育運動の進行と平行するものでした。「本名を呼び名のる」教育運動が始まって、1973年からは市立の高校では入学時に必ず「本名にするかどうかを聞く」よう、また指導要録は必ず本名で、発音通りのふりがなを振り、通名と国籍を備考欄に記入せよと指示がおりました。この時『人名仮名表記便覧』も配布されました。西商業高校などで1975年から、合格者登校時に朝鮮人合格者・保護者を集めて「本名」について学校からの話をするようになったのは、これにもとづくものです。
 府下の自治体では1980年に豊中市で、1982年に高槻市(指針は73年)で、いち早く「教育方針」がつくられ、「ハギハッキョ」や各学校の民族「子ども会」が着実に根付きました。しかし、府立学校(高校、養護学校など)や府内多くの地域では、一部の先進的な解放教育の実践校を除いて、まだまだ有志の教員による自主的な在日朝鮮人教育の活動しかない状態が続きます。そこでは、指導要録の本名記載さえ不十分だったのです。それは、1965年までの法的状況(日韓条約法的地位協定で、在日韓国人・朝鮮人には恩恵として日本の学校への就学を認め、日本人と同様に扱うように文部省から通達があった。1952年以来それまでは、在日朝鮮人が日本の学校へ入学する法的根拠がなかった)が明確には転換されぬままだったことによるものです。 高校入試で1965年まで当然のこととして行われていた朝鮮人に対する差別も、なしくずしに消滅していったと思われますが、「高校入試で差別はしません」と明言されたこともなく(そう言うと、それまでの差別がはっきりしてしまう)、転換の遅れた一部の私立高校や大学が目立つ結果になったのです。「高校入試で差別される」というのは今なおかつての記憶を持つ朝鮮人の親の普通の感覚です。 

<大阪府の指針>
 1988年、大阪府ははじめて「在日韓国・朝鮮人問題に対する指導の指針」を定め、これと前後して、多くの自治体でも指針、方針が策定されました。日韓条約から約束の25年が過ぎ、1991年の日韓外相覚書によって定住外国人の指紋押捺が廃止され、民族学級が公認され、朝鮮人への就学通知が行われることになりました。1992年の府立外教、府外教の設立と相まって、「本名での就学通知」から「本名での卒業・就職・進学」に至る日本の学校での最低限の指導の基礎と、それに対応する指導要録など公簿の整備が実現するかに見えました。しかし、現実は、不十分な結果も多かったと言わざるを得ません。 最初に問題となったのは、府立高校入試受検での朝鮮人の名前の取り扱いでした。府立布施工業高校など一部の高校では従来から「本名受検」を原則としており、他校の目標ともなっていました。しかし、教育委員会の委託業務としての入試では、結局、「志願書」を「本名のみ」か「本名(通名)」のいずれかで書くものとし、後者の場合は高校で「通名を名のりたい」意思表示と機械的に「みなす」、(入学まで「指導」はできない)と指示されることになりました。行政の立場でとにかくトラブルを避けるという一点で論理的整合性を持つ工夫されたこのやりかたは、実際には、現に通名を持って生活している大多数の家庭の子どもたちに通名使用を誘導し、事実上本名での入学を抑える強力なテコになりました。 

<就職用履歴書と調査書>
 次に問題となったのは、就職受験時の朝鮮人生徒の名前の取り扱いでした。これは近畿統一応募用紙改定と関連しています。かつて1960年代後半の部落解放運動の高揚、同対審答申による教育界の意識変化によって、「差別を許さない」就職受験のために統一応募用紙の書式が作られ、以後、高校三年でその意義について学習することは同和教育の定番となっていました。その「履歴書」には「本籍」欄があり、大阪府などと都道府県名を記入することになっていて、従って、朝鮮人生徒の場合、一応「本名(通名)」「昭和を消して西暦の生年月日」「本籍欄は韓国」などと書くだろうとはいうものの、指導要録の本名記載自体を含めて、各学校でさまざまな実態があったのが事実です。
 1996年から改定された「履歴書」では、長年残されてきた「本籍」欄が削除されたほか、多くの改善がなされました。ただ、朝鮮人生徒に関わっては、これまで事実上の国籍欄として使われた「本籍」欄がなくなって、結果的に「通名のみ」「元号の生年月日」で履歴書を書くことが一般的になってしまわないかという懸念が生まれ、本会運営員会では他府県の事情も聞いた上で早くに見解を発表しましたが、その後も深刻な議論が続きました。すべてはこの改定自体の問題ではなく、学校現場における実践のあり方の問題、「スタートライン」に帰ってきたわけです。 その後、近畿高等学校進路指導連絡協議会では、生徒自身が書く「履歴書」はともかく、学校が作成する就職用調査書については「外国人生徒は外国人登録済証明書による氏名を記入することを原則とする。ただし、本人が通称を希望する場合は、その限りではない。」とし、また「生徒が記入し提出する履歴書の該当欄と相違しないように注意する」と説明しています(進学用調査書については指導要録に基づくだけで、例外はありません)。従って、各学校で生徒の書く履歴書の名前が通名であれば、それにあわせて学校が作成する調査書も通名で書くことになり、教育委員会もそれを否定していません。実態は十分明らかにされていません。卒業証書の生年月日の元号表記一つにさえ厳しい枠をはめようとする教育委員会の、この件に関するおおらかな態度の現状は、不可解なことです。しかし、現在すでに学校は外国人登録済証を提出させておらず、この説明自体がつじつまの合わぬものになっています。
 (私たちは、後述の府教委「本名原則」指針に則り、「調査書はすべて指導要録通り」とし、もしどうしてもたって通名を希望する場合には、学校から教育委員会に届けて事情を確認し、通称名の外国人登録済証での確認もした上で、特別に校長が許可を出す、とする方式を提案したいと思います。そうすれば、公文書の信頼性も保てるでしょう。外国人登録済証も手元にない現在、その通名の法的確認も学校としては不可能なのです。進路保障の項参照。) 

<プライバシーとの関係>
 最後に問題になったのが、個人情報・プライバシーとの関係です。従来先進的に進路追跡調査を積み重ね、中高の連携を図ってきた高槻市での高校から中学への「問い合わせ」の不備の問題は、一部の運動団体側からの「問い合わせ」そのものへの非難ともとれる提起を受けて、理論的混乱を招いたようです。 元来そこに客観的区別自体があるべきではなく、「ないものをあると差別する」部落差別の問題と、法制度上元来客観的な区別がある外国人の「国籍」「本名」の問題とが、また、「運動」「行政」「教育」のそれぞれ固有の論理が、十分整理されなかったためでしょう。
  1998年府の個人情報保護条例制定後起こった行政・学校管理職の混乱によって、とにかくトラブルを避けるためには、「朝鮮人であるかどうか」などを高校から中学に「問い合わせ」すること自体がよくないことであるかのような間違った空気が広まりました。府立高校入試出願の時の住民票・外国人登録済み証明書の提出が廃止されたため、志願書・中学校調査書に通名しか書いていなければ、後で回送される中学校指導要録の写しだけが本名確認の頼りの綱になったわけです。現に、通名だけの中学校調査書も現れています。(1965年以前と同じような高校入試での差別が行われているのか、いないのか、外から見ればわかりませんから、入試時の差別を避けるためにそうしているのかもしれません。)
 従って、高校では、ほっておけば国籍も確認されず、入学後の確認も不十分なままで(大阪府立学校では指導要録備考欄などへの国籍記入は必要とはされていない)、誰が外国籍なのかについて把握せず、「プライバシー」だから聞くのはおかしい、「あてはめ指導」はしてはいけないというので、卒業にあたっても誰でも本人の希望する通り自由にどこでも受験して教師も何も言わず、就職調査書も卒業証書も通名で「希望に従って」素通りという、指導体制、いや無指導体制が、「トラブルを一番招かない方式」として確立しつつあるのかもしれないのです。もしこのままで「韓国修学旅行」にでもなったら、悲劇です。 
  一部の高校では、外国人登録の際の公欠扱いの説明と(財)朝鮮奨学会の紹介が直ちに必要だという教育の論理から、合格者登校時までに外国籍かどうかを中学校にすべて問い合わせて確認し(鄭良二さんを思い出すまでもなく、逆に、民族名だから日本国籍ではないとは言えないのですから)、入学までに学校側が「本名原則」の指導を伝えた上で本人・保護者の「本名」についての意思を確かめるような方式を再確立していますが、全体的な実態は確認されていません。結局、朝鮮人の問題は、例外の、その他つけ足しの、何なら無視してもよい事柄としてしか扱われていないことを痛感します。第一、高校が通名だけの調査書を発行していいのなら、中学校の発行する調査書に本名を必ず、などと言うことにも、自己矛盾が生じます。 中高連絡体制の再構築と高校側での指導体制の再確立、システム作りが急務ではないでしょうか。 

<大阪府「本名」新指針と大阪市の新しい方針制定>
 大阪府教育委員会は1999年には指針をさらに強化して「本名原則」を指示しましたが、「本名を名のる自由」から、学校としての「本名を呼ぶ義務」への道のりは依然として遠いというのが実感です。「多様化した朝鮮人の本人の生き方の自由にまかせ、彼らが本名を名のって民族的に生きたいというなら応援してあげましょう」というのは、確かに日本人にとって魅力あるスタンスであり、現在の日本国家の「良識」に合致していて、それすら「朝鮮人は民族性を主張しすぎる」との反感にさらされるのですから。そのことと「世の中の差別に対して啓発指導しつつ。差別を受けてかわいそうな朝鮮人に日本名を使わせてあげる」行政の論理が対応しています。しかし、私たちはそこからもう一歩を踏み出す努力を30年間続けてきたとも言えるのです。 2001年の状況のもとで大阪市が方針を新しく決定したことは、私たちに「もう一度」という勇気を起こさせてくれます。私たちは、この内容を基礎として、日本の学校の中で当然朝鮮人児童・生徒、外国人生徒がおり、最低限必ず何をしなければならないかのシステムを確立するために努力したいと思います

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