基調報告(3)


(1)はじめに
(2)全朝教大阪(考える会)運動の過去と現在
 @出発点の原則とその評価
 Aこの10年間の成果と失敗

(3)課題ごとに見た過去と現在
 @教育内容
 A民族学級・民族クラブ・民族の集い
 B民族学校
 C大阪市「指針」と大阪市外教、 大阪府「指針」と大阪府外教、
  そして2001年7月の大阪市「方針」

 D進路保障
 E全朝教問題
 F民族教育ネットワーク
 G新たに渡日した生徒の教育の問題
 H理論的問題

(4)全朝教大阪(考える会)の組織方針
(5)現在の実践課題の検討と再評価、日本の教育の未来のために
(6)おわりに



D進路保障
 

<就職差別との闘い>
 1980年代、朝鮮人に対する就職差別は、まだまだ当たり前のことでした。かつて兵庫解放研から、進路保障協議会として各地に波及した運動は大きな支えでしたが、まだまだ多くの学校では朝鮮人生徒をそれとして把握することすらできず、放置されていたのが実態です。大多数の生徒が就職し、多数の朝鮮人生徒を抱えた大阪市立の商業高校などでは、毎年年度末まで残る就職未定者のほとんどをしめる朝鮮人生徒の問題は、隠れた関心の的で、それをどううまく就職させるかが進路担当者の腕の見せ所であり、足でかせぐ進路開拓の時期でした。
 八尾トッカビ子ども会を中心に起こった郵便外務職の「国籍条項」撤廃に向けた運動が、郵政省を動かして外国人採用を認めさせたのは、1984年のことです。採用開始後、朝鮮人高校生の学習会に協力する教員の地道な活動が続けられました。1987年の(事件は1985年)府立東淀川高校生徒をめぐる沖電線就職差別事件糾弾闘争は、勇気ある教員の決断によって、朝鮮人生徒の就職差別を正面から課題とした最初の例となりました。また、府立八尾北高校がサンエスなどの就職差別を明らかにし、その結果、改善が進みました。
 こうして、1990年代に入って、いくつかの先進的な学校では「朝鮮人を採用してくれますか」という進路開拓を積み重ねて、進路実績のある職場を広げていくところから、ようやく「どこでも受けてみよう」という指導に進みつつありました。就職差別があることを前提にした指導から、就職差別を許さない指導のあり方への模索がなされつつあったのです。しかしまた、他方、朝鮮人であることを無視して日本人同様に扱って問題はないとする進路指導もありふれたことでした。また、運動団体中心の就職差別撤廃運動を日本人側が十分支援できず、そもそも「支援」という形でしか関われなかった状況も、その後に問題を残しました。 

<いわゆる「あてはめ指導」をめぐって>
 就職差別との闘いは運動団体を中心として続き、私たちもそれに参加しました。反面、学校毎の進路実績の確保のために進路情報が十分公開されなかったこともあって、運動側は「学校が就職差別を隠している」「就職差別をそのまま合理化し、就職差別と闘うことを避けて、朝鮮人生徒を採用するところにだけあてはめる指導している」と批判しました。当然、「あてはめ指導」はやめて、自由にどこにでも受けさせるのが正しいとの主張も生まれました。
 私たちは、その指摘の背後にある朝鮮人側の意思と、その最終結論の「正しさ」を支持しつつも、むしろ「あてはめ指導」をしてきた学校は朝鮮人生徒とそれなりの対話を踏まえて指導してきた先進的な学校であること、日本人生徒を含めて多くの高校では皆自由にどこでも受験できるわけはなく、きちんとした就職指導をする学校では「求人」リストの中に(求人が少ないときには当然)生徒をある意味で「あてはめ」ていること、朝鮮人生徒の進路として、たとえ本人が最初いやがるとしても、進路実績があって朝鮮人の先輩がいる職場、あるいは同胞企業を勧めることが必ずしも間違っているとは言えない場合もあること、その意味での「実績企業リスト」も必要であること、さらにまた、逆に「あてはめ指導」をしてはならないと表面的に決まってしまえば、それでなくても消極的な現場では、積極的に朝鮮人生徒の進路に関わってあれこれ言って非難されるよりは、だまって生徒の勝手にさせ、教師は関わらないのが正しいなどと見なされてしまうこと、等を総合的に考慮して、高校の就職指導現場の現状を十分認識しそれ踏まえた教育の立場から、この問題を受け止めるべきだと考えました。
 こうして、私たちは、実践上は、現場での教師の朝鮮人生徒との関わりをより深いものとするよう努力しました。「あてはめ」か「自由な受験」か、と言うよりも、本当は、「入れるところ」から「すべての企業に」、進路指導のあり方を発展させることが課題でした。どこかで飛躍するポイントが求められていたのです。 

<就職差別と闘う日本人教職員の課題>
 これに関連して、1993年に府高同研(現在は府立同研)から、高校での在日朝鮮人教育マニュアルとして発刊され版を重ねた冊子『シヂャク』に対して、運動団体からの指摘がなされ、それを受けて「進路保障」の部分などが改定されました。「ひとりひとりの生徒がなんの制約も受けずに、本当に自分の希望する進路を選択できる力をつけ、それを実現させること」(改訂版シ ャク進路保障編抜き刷り前書き1994年)という究極の課題は、バブル期の人手不足の中で表面解決したかに見えました。しかし、「あてはめ指導」をやめたその後に、どのような進路指導のあり方が残ったのかについては、十分検証できていません。学校によってはそんなことに関わりなく、一人ひとりと話し込み、手持ちの求人と対照させて個々の生徒の指導を再開、継続しているかもしれません。今や高校への求人自体が激減し、フリーター・無業者の増加の中で、高校の「進路指導」の中身自体が問われているのが現状です。
 府立外教・府外教が結成された1992年から、1995年ごろまでは、こうして、研究団体、行政、運動団体が一体となって「本名で就職」「就職差別があれば必ず行動」というシステムを構築するチャンスでした。各学校の指導体制を府全体で確立した上で(前述<就職用履歴書と調査書>の項)、ある日新聞で、一斉に「(府立高校は少なくとも1966年以後は入試での外国籍生徒への差別をおこなっていません。受検出願は、本名でお願いします。合格後、どうしても通称名でという希望があれば、教育委員会発行の用紙・手続きによって学校にお申し出下さい。また、)今年から全府立高校は外国籍生徒の就職についてすべて本名で受験させます。外国籍生徒への就職差別に対しては、府立高校あげての抗議行動をとります。各事業主、人事担当者のご理解をお願いします」という大広告が出ることを、私たちは何度夢に見たことでしょう。府立外教では進路指導研究会との連携も模索されていました。しかし、結局、この時には日本人教職員の固有の課題を徹底することができなかったのは残念なことです。 

<就職用履歴書と調査書(続)>
 1996年から改定された新しい様式の就職応募用紙とその運用をめぐっては、その後現場から多くの声を聞きました。例えば、朝文研などで話し合いを重ねた結果、本名で就職をと考える生徒に、他の教員は、差別を受けるかもしれないから通名でと勧めます。いざ本名で受験してうまくいかないと、教員の中では、だから言ったのに、という雰囲気が広がり、本名受験を勧める教員が孤立するのです。差別への対応はきちんとなされるようになってきたけれども、「本名受験」の現状はこの通りです。よほどの場合でないと「本名受験」はむつかしく、「通名」で入ってからどうこうなどは論外で、教師も本人も、トラブルを避けるために「通名」へと誘導されて行きます。「通名」で行っておけば何も問題は起こらないのですから。
 学校で本名にかかわる指導もできず、「通名」で生徒を送っておいて、「差別するな」と言うのでは、まともな企業からすれば学校の方が馬鹿にされて当然です。遅れているのは、「差別」しているのは、職安から指導されるべきなのは、学校かもしれないのです。 なぜこうしたことが通用するのか、それは、「市民的権利」の改善はあったとしても、在日朝鮮人が「民族」としていまなお基本的には無権利状態にあることの反映であり、そのことが根本的な「差別」であることを認識しておく必要があります。 

<公務員、教員採用の国籍条項>
 1974年の朝鮮人の教員採用以来、大阪府・大阪市は文部省の指導を受けながらも、独自の採用を続けましたが、1985年全朝教としても全力で取り組んだ梁弘子さん教員採用問題(長野県)での文部省介入以後、採用はストップしたままでした。1991年の日韓外相覚書で朝鮮人教員の「常勤講師」採用が確認され、その結果次々と朝鮮人教員は誕生しましたが、逆に、従来「教諭」として採用されていた人までが「常勤講師」としての待遇に切り下げられるという不合理が生じました。この問題は現在まで未解決のままです。朝鮮人を日本人と同等な教員(教諭)として待遇せよというのも当然ですが、最低限、「教諭」として採用された人の待遇を「朝鮮人であるから」との理由で変更し切り下げるのは、とんでもない差別で許し難いと言わなければなりません。
 この問題と関連して思い返されるのは1970年代に兵庫解放研の中で起きた「公務員就職」をめぐる論争です。公務員就職が同化や民族内部の分裂につながりかねない危険性を指摘して、日本人教員の立場ではそれから手を引こうとする考え方に対して、朝鮮人を応援して公務員にならせることが権利拡大につながるとする人々もいました。私たちは、「入る入らないは朝鮮人の自由と責任」、「門戸開放は日本人の責務」として、公務員採用での国籍条項撤廃運動を継続しました。自治省から直接の監督を受ける大阪府、大阪市を除いて大多数の市町村では撤廃が行われましたが、採用は微々たるものに過ぎませんでした。1990年代に入って高知県や川崎市から始まり全国府県、主要政令指定都市に波及した国籍条項撤廃は、順次広がって、ついに府・市での撤廃が実現しました。現在では一般行政職でも外国人の採用が始まっています。 このことを、役所でも企業でも学校でもどこでも、外国人を例外として扱わず、その存在を前提にしたシステムに変えていく第一歩にしなければなりません。例えば、さまざまな記名欄・生年月日のありとあらゆる所に元号があふれており、一つ一つ消していったのでは限りがないほどです。 

<朝鮮人生徒、卒業生の実態調査>
 府立外教の設立(1992年)後、1994年にはじめて、府立学校の包括的な外国人生徒についての在籍、進路を含む実態調査がなされました。
  会員校府立216校、1994年3月の全外国籍3423、韓国・朝鮮籍3179、うち本名389(12.3%)、全卒業生55913、外国籍1189、韓国・朝鮮籍1134、うち四大・短大進学269、本名進学確認22(回答人数のうちの比率12.4%)、就職314、本名就職16(回答人数のうちの比率5%)、特に学校斡旋で本名で就職した韓国・朝鮮籍生徒6社7人。「本名で就職する者は非常に少ない。深刻な課題である。」
 また、全府立学校卒業生就職資料には224社244人の外国籍生徒の就職進路先が記載されています。(1994年度府立外教事業報告集)
 在日外国人採用についての状態は、いわば「まだら模様」であり、国際化された多くの企業の実態から見ればむしろ学校の方が遅れていて、また逆に業種などが国内的な事業所では全く昔のままの差別意識のところも多い、というのが実感でした。
 1995年からは、府立学校全卒業生(卒業後4年目)への聞き取り、アンケートによる「在日外国人生徒進路追跡調査」が実施されました。これは、管理職と教育委員会事務局がおこなう「調査」でしたが、4年間の結果は貴重なものです。特に、大学卒業時の就職活動の実態が、多数の資料としてはじめて明らかになりました。
  4年間の外国人卒業生徒総数5257、回答者数2024、有効回答1990人中民族名12.7%、その時期は小学校入学前38.5%、小学校18.4%、中学校10.5%、高校8.8%、進学後18.4%。民族名から日本名に変えた148人、変えた時期は高校が42.6%、高校卒業時に就職した者583人中民族名での就職12.8%、大学卒業時では101人中民族名20.8%等。
  「私は在日韓国人として就職差別がいったいどれほどあるのか見てやろうという気持ちで就職活動に挑みました。そして50社ほど回りましたが、結論から言うと、就職差別は確かにある、がしかし、在日韓国人が日本のいわゆる大手企業に就職することは、不可能ではなく、むしろ思っていた以上にそのチャンスはある、と感じました。このへんは業種や会社の規模などによって違うと思います。」(在日外国人生徒進路追跡調査報告書、大阪府教育委員会、2000年年3月)
 外国人採用についての各企業のこうした実態把握をもとに、本格的に「本名就職」と「就職差別に対する抗議」の公的なシステムづくりへと踏み出す時が来ているのではないでしょうか。民族教育ネットワークの「本名キャンペーン」を進める中で、それへの希望をつなぎ、手がかりを模索したいと思います。 

<日立就職差別裁判>
 こうした在日朝鮮人の進路保障について考える時、その原点として常に想起されるのが、30年前の日立裁判です。1970年に起こった(株)日立製作所戸塚工場(横浜市)従業員採用に伴う就職差別事件が、朴鐘碩さんの日立に対する雇用関係存在確認請求訴訟へと発展したもので、1974年の横浜地方裁判所での朴さん勝訴の判決は、はじめて日本社会において在日朝鮮人を排除する就職差別の存在を認め、また、朝鮮人の主体性の回復に言及した点で画期的なものでした。
  しかし、この後「朴君を囲む会」が民闘連に発展した頃、崔勝久さんは「大阪の日本人教師はこの事件を単なる就職差別事件としかとらえていない。在日朝鮮人の主体形成こそがその意義なのだ」と主張されていました。 確かに、朴さんが新井という日本名で、本籍欄に出生地を書いて提出した履歴書を、日立が虚偽であるとして解雇の理由にしたことが認められなかったことは、「通名」だけの履歴書も通用するのだという教訓として受け取ることが可能です。だから逆に、「日立裁判は負けて欲しかった」、そうすれば「通名」の履歴書は虚偽で通用しないということになったのに、という考えも成り立ちます。
  いずれにせよ、私たちは、「朴君は日本人とちっとも変わらないのに解雇したのは不当だ」という趣旨から出発して、ついには「この裁判に勝訴するか、敗訴するか、それはわからない。しかし、その結果が問題ではない。この裁判を契機として、ぼくは失っていた民族の魂を取り戻し、朝鮮人として生きて行こうと決意することができた。それがぼくにとって最高の勝利だと思う。」(朴さん法廷での最後の発言)ところに至った裁判のすべての過程を総括して、その意義を考えなくてはならないでしょう。私たちは、それをこそ受け継ぎたいと思います。 

E全朝教問題 

<全国在日朝鮮人教育研究協議会の創設>
 1979年8月29・30日、ここ大阪市立中央青年センターに、入場制限をするほどの人々が集まって、第1回全国集会が開かれました。その後数回の集会を経て、1983年4月24日、再びこの場所でついに全国在日朝鮮人教育研究協議会が結成されました。 各地域が互いに助け合いながら、合意した限りでの共同行動を追求する、これが全朝教のやりかたであり、結成期にあらわになった各地の状況の差は、苦闘する少数派同士の配慮によって乗り越えられたと信じられました。
 大阪の在日朝鮮人教育に関わる教職員にとっては、1973年の日教組教研集会での発表を最後に大阪府下の教組教研運動での政治的な排除によって全国的な交流の途を閉ざされて以来、やっと手にした全国の仲間との交流の場でした。だからこそ、考える会と同様に、さまざまな民族団体との連帯を追求しつつ、財政・組織・方針にわたってあくまでも考える会の原則を引き継いで自主性を確保しようとしたのです。 

<天理大学民族差別暴行事件と全朝教>
 それが、1995年1月になって、私たち自身が努力した「強化された事務局体制」によって、逆に「排除」される結果になったことは、私たち自身の運動の実態に対する認識の甘さと実行力の弱点として自己批判的に総括するほかはありません。大阪や全国の仲間のみなさんに謝罪したいと思います。
 この「排除」の問題は、その年から次々に起こった「全国民闘連」から「在日コリアン人権協」への「組織移行」問題、東京での組織問題などと一連のものなのかもしれませんが、全朝教の組織問題は、直接には、天理大学民族差別暴行事件の糾弾闘争にともなって起こったものです。
 天理大学問題は1992年から全朝教の課題となり、共闘会議が組織されて、1993年には大学(のち天理教幹部)に対する事実確認、糾弾集会が奈良県天理市で繰り返されました。大阪でも私たちが集会を開きました。この大阪での集会を、あくまでも日本人の教育の課題として位置づけ、共闘会議からの発言を日本人教員に依頼したことが問題の発端になりました。共闘会議の事務局長であった徐正禹さんは私たちとの決裂を一方的に通告、以後これに同調する共闘会議の日本人たちも私たちへの攻撃に転じました。それまで共闘会議と共同戦線をつくって大学内で闘っていた内山一雄さんら天理大同研の教員に対しても、攻撃が向けられました。 
<全朝教事務局と私たち>
 こうして、1994年春の全朝教運営委員会では、天理共闘会議のメンバーであった奈良・兵庫・京都の人々が、民族学校生徒への暴行問題にどう対応するかなどをさておいて、内山会長への辞任要求を繰り返すに至ったのです。私たちは、大学の教育体制の中味にまで踏み込んだ変革を目指す内山さんらの意思を支持していましたが、それは、自らの拠って立つ教育の場を差別的状況から変革することこそ固有の課題であるからでした。
 その後、全朝教では1994年夏の広島大会で稲富事務局長から金井事務局長に交代し、秋にかけて会計などの引き継ぎをおこないました。その新たに強化された金井事務局体制のもとで、その秋になって内山会長退任・藤原会長選出が強行され、ついで、1995年2月、全朝教大阪運営委員間の連絡文の言葉を取り上げて、今度は一方的に排除が通告されたのです。
 私たちは、全朝教運営委員会での事実を極力オープンにする一方、全朝教運動全体の保持を最優先にして、全朝教事務局との争いは避け、自重しました。それ以後、全朝教事務局と運営委員会から排除される状況が続いています。
 今年になって、私たちは従来の対立をおいて全朝教運動を盛り上げるために、この夏の神戸大会への大阪からの発表を提起しましたが、全朝教会長はこれを断ってきました。依然として全朝教という場では、大阪の実践が全国とつながらない状況が続いています。全朝教創設以来1994年まで全朝教の会長、事務局長、会計、通信編集等の任務を果たしてきた当のメンバーが、新事務局体制に変わるやいなや逆に排除されたことを、今や冷静に総括しなければなりません。 

<全朝教問題のとりあえずの総括>
 「批判し排除しない」者と「批判し排除する」者との関係は、政治力学だけを考えた場合、勝敗は明らかです。私たちは、この組織問題に、「政治」として正面から関わることはできませんでしたし、いまもしていません。会そのものの性格からくるこの弱点についての批判は甘受したいと思います。
  私たちは、私たちを排除した人々とも、仲間としての可能な連帯を求めます。ただ、私たちは「在日朝鮮人教育」を閉じた狭い世界の問題ではなく、広く教育一般の議論の中で進めたいという希望を捨てておらず、最低限問題を積極的にオープンにして、広く教訓にしようとしたのです。
 総じて、この決裂、排除の問題は、日本人の運動が在日朝鮮人からは信用されにくい、というところに問題の根本があると総括できます。 朝鮮人側からは、同伴者しか見えない。その関係の背後には日本人側からする「弱い」「少数者の」朝鮮人という同情、言い換えれば、根本的な朝鮮、朝鮮人に対する過小評価、それ自体「差別」意識がつきまとい、日本人ばかりでなく在日朝鮮人自身もそれにとらわれます。「大学生」の朝鮮人に「寄り添え」などという主張がまかり通るのです。その閉じた関係の中では、「被差別者」朝鮮人が「同伴者」日本人に対して絶対的な権威を持ってしまいます。朝鮮人から見れば同伴者をどう獲得するかが目標となり、日本人自身の運動などは当てにも頼りにもならず、利用するだけの存在でしかないというわけです。日本社会の差別構造がそこに現れています。差別される在日朝鮮人への同伴運動は眼に見えても日本人自体の差別構造と正面から取り組もうという運動は、とてもすぐには頼りにできないからです。そのことは、昨今の教科書問題で聞く「なぜまた在日韓国人が矢面に立たなくてはならないのか」という声にも通じ、また、現在各学校現場でともすれば孤軍奮闘しがちな民族講師と周囲の日本人教職員の関係においても、例外ではありません。
 「寄り添う」ことが必要な時と場合も確かにあるでしょう。しかし、一方で、私たちは三十年間かけて、日本人自身の在日朝鮮人教育に関わる運動と論理を作り上げようと努力してきました。この点で、私たちの成果は全く不十分であると言わざるを得ません。築き上げようとしたものが、できた、これで行ける、と思ったとたんに足元から崩される、そのような感覚に、幾度とらわれたことでしょう。それこそが歴史のひとつの限界かもしれないことを今は認識しつつも、私たちは努力を続けたいと思います。 

<教組教研活動>
 現在、大阪の在日朝鮮人教育を発信し全国の実践と交流できる機会は、日教組教研をおいてはありません。私たちは、1990年から改革して設けられた日教組の「国際連帯の教育」分科会、大阪教組の「在日朝鮮人・国際連帯の教育」分科会に積極的に関わり、議論を盛り上げるために努力してきました。例えば、1999年第46次全国教研に発表された「民族文化の漂う町で――私たちの教育実践」は大阪市教組中川小学校民族学級を中心とするもので、1973年の「民族と人権」分科会に発表された長橋小学校以来の実践の到達点を示す一つの例です。今後も、府外教、市外教への関わりとともに、その場を大切にしていきたいと思います。  

F民族教育ネットワーク 

<南北の溝を越えて>
 1998年4月25日、阪神教育闘争50周年記念集会がメルパルクホールで開かれ、「民族教育権利宣言」が採択されて、同年末には「民族教育ネットワーク」が発足しました。この名称には日本社会の「常識」を打破したいという当時の共同代表のひとり若一光司さんの思いがこめられています。
  朝鮮人と日本人が共同して運営する中で、「民族」「同胞」などの言葉一つとっても生じるズレや齟齬を克服しながら、大阪教組や大阪市教組の全面的な支援を受けて前進しています。「本名キャンペーン」の敢行はその大きな一歩です。 長年の大阪での「南北統一」の立場での運動の到達点として、広い範囲の在日朝鮮人の参加のもと、文字通り「南北統一」を実現したこのゆるやかな組織は、しかし残念ながらまだ民族学校の組織的参加を見るには至っていません。しかし、その重要性を一致して確認する中から、連帯・共同行動を追求していきたいと思います。私たちも、日本人と朝鮮人の立場の違いを常に踏まえつつ、その一翼を担って努力します。  

G新たに渡日した生徒の教育の問題 

<在日朝鮮人教育の経験を基礎に>
 重要なポイントは、ただ一つ、母語と原文化の保障ということです。 私たちは長年の在日朝鮮人に関わる教育の中で、それが「教育」そのものの本質と関わる点を学んできました。「学習」「教育」の場がそもそも成立するために何が必要なのかということがその根本です。生徒があるがままのものとして尊重される安心感、教師・学校に対する信頼感、そして何よりも、生徒の自分自身や家族に対する少しの肯定(在日朝鮮人などでしばしば言われる「誇り」)がそうした要素として考えられます。朝鮮人の子どもであり、朝鮮の名前を持ち、韓国に親戚がおり、……それらを隠したり、否定したり、嫌悪したりする生徒と、無視し、見て見ぬ振りをし、腫れ物に触る態度で接し、まともに教える内容も持たない学校との間で、教育の正統性が成り立たなくなっていることが問題の出発点でした。 例えば中国帰国生徒の場合、何が必要なのかという問題には、あらかじめ大きなヒントがあったことになります。
  私たちは、日本語指導の一方で、生徒の集まりを組織し、中国人民族講師をお願いし、中国語を学び中国での文化を大切にする場をつくり出し、学校をこえた「集い」や中国語コンクールのために努力しています。中国語を保持し、それに磨きをかけることが、平行して日本語学習の意欲を高め、その学習成果をあげることにつながる、というのが実践上の結果です。また、その上で、高校入試や大学入試での「配慮」や「特別枠」要請も、日本国家の「戦後責任」を草の根から果たしていく立場から当然のことです。
 日本入国の際の手続に問題があったなどの理由で、入管当局が親ばかりでなく子どもをも連行し、学校に来れなくしてしまうような事態が1999年に発生しました。本人に落ち度なく、それなのに親の承諾なく本人の希望もないまま、生徒が登校できなくなり退学することを認めるのなら、学校は学校でなくなります。私たちは断固として生徒の教育権を護るという自分自身の仕事をしなければなりません。 中国人、ベトナム人、ブラジル人、……それぞれの国籍、民族、渡日の事情などを的確に認識し配慮をはらった上で、そこで必要とされていることは明らかです。文部科学省の「日本語指導」に関わる措置をも生かしながら、「民族学級」「民族の集い」をいたるところにつくり出し、その上で日本人生徒との大きな交流の場、外国人生徒同士の交流の場などを多彩に組み合わせていけるよう努力したいと思います。  

H理論的問題

 ともすれば古いとされ、否定的に見られがちな「民族」の問題を、新しい「国際化」「多民族・多文化」の流れの中でどう位置づけるのかは、国際的にも「多文化主義」の帰結をめぐって論争を呼んでいるところです。しかし、海外のあれこれの潮流をも参考にしつつ、私たちは目の前の課題に確実に切り込むための理論整理を進めなければなりません。
 一つは、文部科学省との関係が深い「国際理解教育」、二つは、外務省と関係が深い「開発教育」、三つは、人権教育の立場からの「多文化教育」、四つは、国連ユネスコなどとの関係が深い「地球市民(グローバル)教育」「ワールド・スタディーズ」、五つは、日教組教研運動の「国際連帯の教育」、これらそれぞれ固有の課題と相互の関係について、私たちは「現場」と「朝鮮」を基軸にして整理する必要があります。ここ数年のシンポジウムや「むくげ」を通じて、多くの研究者や実践家の教えをいただいて来ましたが、そうした学習をさらに進めたいと思います。全朝教大阪(考える会)の今日の大きな存在意義の一つは、こうした学習を全く自由な立場で推し進めることができる点にあると考えられるからです。
 私たちが、「国民教育」から出発してそれを実践的に乗り越えてきたこと、「解放教育」や「反差別教育」の根本を受け継いでいること、「国際連帯」の視点を忘れないこと、なども、隠す必要はないでしょうが、それだけにとらわれず、広く多くの人々との交流の中からともに学んでいきたいと思います。 この点で、日本だけではなく韓国のさまざまなNGO組織とも接触をもって、互いの交流を深めていけるような活動も今後の課題です。  


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