KCS(朝鮮文化研究会)の生徒たち  
―15年間をふりかえって―
大阪市立桜宮高等学校
                              新居 幸雄
1.ある同窓会
 
 「ソンセンニム、統一はもうすぐですか。私ハンチョンの京都支部にいるねん。統一のことで活動してるんです。」、「すごいね、ウーン、まだかかるのとちがう。」、「あんた、そんなことよりうちの子供、学校の教師とケンカしてんねん。新居先生どうしょう相談にのってや。」、「待ってや、うちの子供自閉症やねん。地域の普通校に入れるように署名してや。私街頭で署名活動してんねん。」「待ち待ち、うち今度結婚するねん。相手日本人やけど、チマチョゴリで結婚式するねん。新居先生来てや。」・・・元部長が「あんたらええかげんにしいや。ソンセンニムも先生もいっぺんに聞かれへんやんか。ほんまに韓国人はうるさいなあ。」、「言うてるあんたもそやないか。」、「みんなそれより久しぶりに先生の説教聞けへん。先生私らに学生時分のように説教してや。」・・・私は苦笑してしまった。

 今年の7月始めの梅田のスナックでの会話。KCSの同窓会というか、集まりはこれで5回目。私がKCSを担当した15年間の卒業生たちである。相も変わらずやかましく、エネルギッシュだ。私がソンセンニムと相談をして、こういう卒業生の会をやろうとしたのは、もう15年前だった。おかげで彼女たちは上は34歳から22歳まで今でも各自で連絡をとっていたり、相談したり、失業した者の会社の紹介までもやっている。卒業してからも、KCSのつながりは今も強くある。そのような卒業生と会うと、私やソンセンニムまで元気をもらう。みんなあの西高校でのKCSの活動が今でも根っこにあるのだなと思う。
 
 

2.KCSの生徒とソンセンニムから学んだもの
 
 西高校のKCSは今年で25年間の活動の歴史がある。1976年西商業高校(1994年西高校に校名変更)で佐藤(故人)・印藤両先生の時にKCSが創設され、ほとんど同時に「入学時の本名指導」が始まる。文化祭ではKCSの朝鮮舞踊や展示が発表されていた。そのあと私が15年間担当して4年前転勤したが、いまでもKCSは存続している。その間部員が1人や2人の時もあったが、何とか今まで活動が絶えずにきている。私が担当している期間だけでも卒業生は90名近くになる。
 私が印藤先生のあとをうけて西高校に赴任したのは1983年だった。まったく朝鮮のことや在日韓国・朝鮮人のことをを知らずに、校長から「君クラブはKCSと野球部やってほしい」と依頼され、ふたつ返事で「ハイハイ」と引き受けてしまった。今から考えればひどい入り方である。その時部員は4人で在日の子が1人という状態だった。どうすればよいかまったくわからない状態で生徒にひつぱられながら活動を始めた。しかし私にとって幸運なのは、長橋小学校の民族講師のソンセンニム2人がKCSについてもらうことになっていたことであった。

 最初はクラブの生徒の生活態度がひどく、ソンセンニムも「新居先生、朝鮮のことを勉強するより先に生徒指導しましょう」というありさまだった。1学期の終わりになって、3人で活動の総括をして、2学期は人数を集めようとした。過去の顧問の努力を無にしないためにも、KCSを存続させなければという思いでいっぱいだった。昼休みや放課後まで、各教室へ行き、在日韓国・朝鮮人の生徒達を3年生や僕らが呼び出し、勧誘に勧誘を重ねた。今から思えば無茶なことをやったと思う。そしてその年の文化祭には14名で参加することができた。それはほとんどソンセンニムの努力によることが多い。週に3回の活動も曲がりなりにやり、活動日にはソンセンニムと6〜7時まで喫茶店で打ち合わせや学校の先生方にどう理解してもらうかを検討した。あのころ私はソンセンニムやKCSの生徒たちとよく朝鮮舞踊を見に行った。私にとって朝鮮舞踊は「私の中の朝鮮に対する偏見」を大きく変えた。これだけの優れた文化をもった民族を私は過去何も知らなかったという思いと、このことを他の先生方にもぜひ知ってもらいたいという思いでいっぱいだった。私は先生方と飲んだとき、朝鮮のことを暇があればしゃべっていた。 

 もうひとつ私を変えたものは、民族講師のソンセンニムらの「生き方」だった。当時まったくのボランティアで、クラブの生徒らの家庭訪問やいろんな悩みの相談など言葉でつくせないほどの活動をしていただいた。私に対しても、少しずつ「朝鮮」のことがわかるように、またいかにいっしょに活動してもらえるかを考えていられた気がする。本来自分の学校の生徒であるのに私は在日韓国・朝鮮人生徒に関わっているのか、本当に考えさされた。そしてソンセンニムらの生徒への関わり方を見ていると、生徒指導の本質を見たような気がした。「教師はどうあるべきか」、「どう生徒とかかわるのか」を33歳で初めて知った。
 
 
3.文化祭でのKCSのスピーチ
 
 1983年の文化祭での発表はKCSにとって歴史に残るものだった。クラブの3年生の一人が1000人近くの全校生の前で在日韓国人である自分のことを話たいと申し出てきた。私はどうしていいかわからなかったが、ソンセンニムが本人を支えてくれた。スピーチの最中、ほとんどの生徒がそれを聞いて泣き、先生方も泣いていた。私は舞台そでで聞いていて、震えるものがあった。どんな同和教育より日本人生徒の心を変え、在日の生徒たちの気持ちを代弁するものかが、スピーチが終わってからわかった。クラブに参加していない在日韓国・朝鮮人生徒が舞台裏に泣きながらきて、スピーチをした生徒に抱きついた。「先生、この先輩は私といっしょや。」「私こんな感動したはじめてや。」と。

 それから15年、毎年スピーチを行った。しかし生徒が在日としてどう思ってきたかをたどることは本人にとってつらく厳しいものだった。少数の友達だけでも自分のことが言えない生徒が多いの中で、文化祭前のスピーチを書く作業は大変だった。生徒とソンセンニムと私ら顧問とで、何回も何回も文を書き直し、スピーチする生徒はいつも文化祭前は寝ていなかった。それだけにクラブに加入していない在日韓国・朝鮮人生徒には、心を揺さぶるものがあったのではとないかと思う。先生方も自分のクラスの生徒が、実はこんなことを悩み、考えていたのだということを理解してくれだした。私がすこしでも在日朝鮮人のことを考えてほしいと先生方と話をするより、数段先生方を変える力になったと思う。
 
 
4.学校改革と「朝鮮語」講座
 
 私KCSと何年か付き合ううちに、クラブに参加していない在日韓国・朝鮮人のことが気になりだした。西高校は多いときで50名少ないときでも40名程度の在日韓国・朝鮮人が在籍していた。クラブに参加している生徒はまだ自分のことを言えるが、そうでない子はどうしているのか。

 もう10年も前こういう生徒がいた。情緒不安定で、担任といつもケンカし、すぐに学校を飛び出していく女子生徒がいた。彼女は在日韓国人で運動部に参加していた。小さい時に親から離れて暮らし、大きくなって親と暮らした生徒である。私が相談室の係の時にこの生徒と関わり始めた。カウンセリングを始め、足掛け6年間付き合った。当然卒業してからも相談にのっていた。いろんな相談にのりながら、朝鮮のことを話し、朝鮮舞踊もいっしょに見にいった。彼女の根っこにはこの問題があると思ったからだった。

 2年間付き合ったある日、授業の直前階段で「先生、握手してや」と言ってきた。変なこと言うなと思いながら握手したが、いざ授業を始めると突然「先生、授業ちょっと待ってや。みんなに言いたいことあんねん。」と。私はピンときて、その生徒に教壇をゆずった。その生徒はそこから「私は実は在日韓国人なんや。みんな今までだまっててごめんな。・・」と話始めた。自分の生い立ちや自分の悩み、自分の本名について30数分泣いたりつまったりしながらしゃべった。それが終わったあとさざ波のような拍手がクラス全体からおこった。私はどうしていいかわからずただ呆然としていたが、このクラスの生徒の優しさや在日韓国人生徒の思いが伝わってきた。このようなクラブに参加していない生徒ほど話なければならないと思った。それから15年間で10数人と関わりをもつことになる。

 いつも在日韓国・朝鮮人生徒は私に語りかけ、私を変えていく。私は特別の人間でもないし、また在日朝鮮人教育に燃えてるわけでもない。ただ自分の学校に在日朝鮮人生徒が多くいて、何かしらの悩みをもち、自分の本名を普通に言えない現状があり、それについて生徒やソンセンニムにつき動かされつつ今まできたと思う。西高校のなかで自分は何ができるのかということばかり考えてきた。無理せず、自分ができることを追求していたように思う。その中で考えたことは、「継続は力」ということだった。「継続は力」ということは、何とかクラブを維持すること。15年間の関わりはその一点につきる。西高校に入学した在日韓国・朝鮮人生徒が集まれる場所をいつも確保したいという思いである。 
 西に来て10年がたったころ、私が転勤してもなんとか在日外国人教育をする方法はないかと考えていた。民族講師からいつも言われていたのは「新居先生は次の若い先生を育てていない。次の顧問や関わる人を見つけて」というものだった。小・中学校では中心の顧問が転勤すると民族クラブも休部になるとよく聞いていた。

 そのような時に「学校改革」が始まった。西高校では1988年ごろから「学校改革」の会議がはじまり、足掛け6年かけて「総合制高校」に変わった。その改革中に私は偶然教務主任をしていた。いろんな先生方と議論をするなかで、西高校の教育目標を「情報化」と「国際理解」に決めた。特に「国際理解教育」は西高校の教育の根幹にしようと、私だけではなく他の先生も賛同してくれた。それは長いKCSの歴史がそうさせたと今でも思う。在日朝鮮人教育という大それたものではないが、コツコツと過去の生徒たちがやってきてくれたことを先生方がみていてくれたと思う。

 1994年に大阪市立高校では初めて第2外国語を教育課程に入れた。最初の年は選択で4単位。「韓国・朝鮮語」と「フランス語」と「中国語」の選択。西高校では専門学科が3つあるが、すべての生徒が選択できるようにした。当然「韓国・朝鮮語」には在日朝鮮人の先生がつくことになり、職員名簿に初めて朝鮮人の名前が掲載された。これで学校に在日朝鮮人教師が常駐することになり、生徒も先生方もその先生に関わるだろうと思った。そして私が転勤しても何とか相談できるだろう。そしてKCSには民族講師がいる。高校に2人の在日韓国・朝鮮人の教師がいることは大きなことだと思った。

 また同年英語科の入試では帰国生徒枠が設定された。最初に入学した帰国生徒が、偶然韓国からの帰国生徒であったのも、何か因縁めいたものを感じた。そのころ(1994年当時)学校はこういう雰囲気であった。KCSの生徒が私に用事があるとき、職員室で「アンニョウハセヨ、新居ソンセンニム」と大きな声で堂々と入室してくるようになっていた。昼休みになると、韓国からの帰国生徒がALTに韓国語を教え、そのかわりALTから英語を教えてもらう風景があった(この生徒は全国帰国子女国際理解のスピーチコンテストで外務大臣賞をとった)。何か大きく学校が変化していってるなあと感じた。このような「朝鮮語」の講座ができるのも、長いKCSの歴史があるからだと思う。そして西高校では今年韓国への修学旅行に行く。これは当該の学年主任がKCSをみて、大きな影響を受け、「国際理解はアジアの理解から」と企画してくれたものだ。
 
 
5.変わったものと変わらないもの
 
 ここ19年間で在日朝鮮人生徒の状況は私の周りでも大きく変化した。まず大阪市が変化した。19年前では私やソンセンニムが大阪市立の高校でシコシコやっていたころは、大阪市や管理職は何もフォローがなかった。まあ勝手にやっとけみたいなところがあった。特に高校ではそうだった。またこのことについて自分の悩みなどを他の市立高校の先生に相談ほとんどできなかった。しかたがないから市同教や市外教の集会に参加して、小学校や中学校の先生の実践報告を聞いて元気をもらおうとした。

 しかし10数年前ほどから日本が人権関係の国際条約を批准し、大阪市でもそれをうけて、「在日外国人生徒の教育」などの冊子を立て続けに出すようになった(これはいろんな民族団体の交渉があったからであるが)。現場で孤立していた自分にとってこれは大きなバックアップであった。教育委員会も現場の管理職も一応「入学時の本名指導」をしなさいとか(実際に実施することとはまた別の話)、民族クラブの活動に予算をつけよとかの指示があるとか。特に私が教育委員会のメンバーと話すときに、今までは朝鮮文化研究会などの話は無視されていた(一部にはよくわかってくれる人もいたが)のが、西のKCSの活動を大阪市の高校あげて見学にくるとか大きく変化した。新任研修でも若い先生方は「在日外国人生徒の指導について」の研修を受けるという状況になっている。渡日の生徒についての指導もあり、国際都市大阪というか、何かめざしているなあという感じはある。
 5年前韓国に旅行したとき、サムルノリの公演を聞いたが、その時日本の女子大生が「キャアキャア」言って、その演奏者に声援を送っているのを見て、若い人々はすでに朝鮮に対する偏見が少なくなっているのかなあを感じたことがあった。私みたいな年寄りにありがちな、朝鮮に対する変な同情や屈折した気持ちがないのかなあと思うこともある。しかし本当に在日韓国・朝鮮人に対して偏見や差別感はなくなったのだろうか。
 
  クラブの卒業生のひとりがいみじくも私に言った。「先生、胸張って韓国人やってられへん。私今度結婚するねんけど、相手日本人なんや。それで彼氏の親にものすごい反対されてん。それはすごいねん。私すごいつらかったし、私の親もきついこと言われてん。そやけどもう結婚するしかないねん。・・・」これは2年前の話である。もう少し早く相談してくれたらと思わないでもなかったが、果たして早く相談されても私に何かできるだろうかとも思った。もうひとりスナック経営している卒業生の話。「先生、学校で韓国や朝鮮いうても社会でたら、ひどいで。私いろんな客くるからわかるねん。民族の誇りや何や言うても、要は生活やねん。私も時々ひどい(差別感もった)奴がきたら追い出すけど、やっぱり生活やねん。」と。
 まだ日本の社会はこのような状況だ。相も変わらず就職のことで悩んでいる在日韓国・朝鮮人生徒がいるし、結婚で悩んでいる卒業生がいる。私は毎日の学校の中で、このことをどう考えるのか。このことは私の心のなかに檻のように存在している。しかしだからこそ卒業しても何かの集まりが必要だと感じる。
 最後に西高校で15年間まがりなりにもKCSと付き合っていけたのは、歴代9名の民族講師のソンセンニムたちや生徒のアボジやオモニたちをはじめ西高校の先生方のバックアップがなければむずかしかったと本当に思う。新しい学校でまた一からと思うとよけいにそれを感じる。

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