青丘笑話(第二回)
印藤 和寛
日朝の国交交渉と在日朝鮮人教育
―韓国(朝鮮)独立戦争の再評価と植民地支配の法的有効性をめぐって―
 
 まもなく、「義兵闘争」から「青山里戦闘(間島出兵)」に至る朝鮮独立戦争の真実の過程を本誌で取り上げる予定ですが、今回は、そのまえおきとして三題噺を紹介します。
 
   1 「檀君の遺骨発掘」「固有民族文字の発見」はなにを意味するか。  1995年
   2 北朝鮮の国境協定締結と人工衛星打ち上げ  1999年
   3 楊靖宇と「朝鮮の戦友」  2000年
   4 「金日成は日本人」「金日成は中国共産党員」  2001年
   5 北朝鮮の電力事情  2001年
   6 チェコ式機関銃と朝鮮独立戦争  2003年

3 楊靖宇と「朝鮮的戦友」    

    
中国通化の楊靖宇墓所に立って

 最近久しぶりに会った知人の「北朝鮮おたく」から聞いたところを、まとめてみた。

 中国東北の遼寧省通化市は、かつての「満州国」通化省の省都である。当時は西の安東省、東の間島省とともに大日本帝国の属領朝鮮と隣り合っていた。現在は観光コースからはずれ、沿海部の工業発展からも取り残された地方都市に過ぎないが、かつて、第二次大戦終結後に残留していた日本軍人による軍事行動「通化事件」の悲劇が起こったことにも見られるように、朝鮮と中国東北地方の中心地を結ぶ中間にあって、軍事的政治的な重要拠点であった。

 この通化市の郊外に、抗日連軍司令楊靖宇将軍を祀る「楊靖宇陵園」がある。
 きれいに整備された記念墓地だが、そこに安置されている遺骨のうち、野副昌徳を司令官とする日本の関東軍部隊、岸谷隆一郎の率いる通化省特別警察討伐隊によって1940年に射殺後切り取られ、さらしものにされた彼の頭部の様子は、沢地久枝の『もうひとつの満州』(1982年文芸春秋社。現在は文春文庫)に紹介されている。その頭蓋骨は日本敗戦後の混乱の中、地下の共産党組織の手で探し当てられて、密かに長春の医科大学から回収、ハルビンに運ばれ、解放後はそこの東北烈士紀念館に置かれた。その後、1957年にいたってこの通化で胴体部の遺骨と一緒にされ、ここに安置されたのである。

  その棺を囲むように並べられた花輪には、毛沢東、朱徳、劉少奇、周恩来らの署名のリボンをつけたものに混じって「朝鮮的戦友」のリボンをつけた花輪がある。金日成も『回顧録(世紀とともに)』の中で、花輪を送ったことに触れている。それは、1958年の楊靖宇将軍公祭安葬大会の時のことである。

  「献給 中国人民的優秀児子熱烈共産主義者和英勇的抗日闘士−故楊靖宇同志」
  「朝鮮的戦友 金日成 崔庸健 金一 金光侠 崔憲  敬贈」

  金日成の名が一番右(先頭)にはあるが、五人の署名はみな肩を並べて記されている。

   1939年4月7日の「関東軍司令官命令」(関作命第1483号)と「昭和十四年度関東軍治安粛正計画要綱」(同付件)によれば、特別な捕殺対象として「周保中、楊靖宇、金日成」はその先頭に挙がっており、中でも第一、第二軍管区司令官は通化警察庁と連携して楊、金の捕殺を最大任務とするよう命令されている。
  満州国軍治安部の抗日聯軍及び抗日軍の幹部に対する捕殺賞金規定(4月14日、満作命13号付表)には

  「楊靖宇 総司令 第一軍軍長 一万元、……金日成 朝鮮独立革命軍長 一万元、……周保中 二路軍軍長 一万元、…」 などとあり、13人が一万元の最高の賞金をかけられている。

   金日成がソ連領に脱出した後に自ら中国共産党組織の報告書として書いた「抗聯第一路軍略史」(金日成の少し下手な中文で書かれている)には、1932年の磐石県での遊撃隊創設から始まり、人民革命軍時期と「民生団事件」を経て、以後抗日聯軍第一路軍の活動経過が述べられている。

  「抗日聯軍第一路軍時期(一九三六−一九三八) 第一路軍総司令楊靖宇、副司令王徳泰。第一軍軍長兼政委楊靖宇、…第一師……、第二軍軍長王徳泰、……第六師師長金日成、参謀長林水山、人員共五百余名、活動区:朝鮮、長白、臨江、安図、和龍。 

  「第一路軍方面軍時期 第一路軍総司令楊靖宇、副司令兼政治主任魏民生、……人員共五百余名、……第二方面軍指揮金日成…人員共三百五十余名……」

    この報告書を読んでみると、金賛汀も言うように、「高麗人」の民族性を強く意識した記述が目立つ。しかし、第六師の活動区に「朝鮮」と書くその背後に、そのたった二文字の裏に、どれほどの現実の苦難があったかを思えば、その「民族性」なるものは単に好みや性格の問題ではないことが理解できる。(手元の下記資料で「○○○」となっている部分を、金賛汀の指摘に従って「金日成」と置き換えた。)

  楊靖宇陵園にはさまざまな資料を展示する建物もあるが、そこで特徴的なことは、抗日聯軍の「中韓民族の連帯、結合しての抗日」の呼びかけの基調である。 展示された写真の説明の中には次のような言葉もある。

  「中朝の共産主義者と革命戦士が肩を並べて戦い、共同して日本侵略者に立ち向かう。みな中朝青年女性戦士が一緒に写っている。」

  説明が書かれたのは、多分朝鮮戦争のあともまだ生々しい頃のことなので、今は置くとしても、楊靖宇の遺作として掲げられた「中韓民族聯合起来」という歌詞には

  「聯合起、中韓民族! 還要援助韓国革命定把完成。実行少数民族自決中韓共幸福。」 
  (ともに立ち上がろう、中国・韓国両民族! それによって韓国革命を援助して必ず完遂させ、少数民族自決を実行して中国韓国両民族の幸福につなげよう。)

  という1930年代当時の語句が見える。「韓国革命」とはもちろん「独立」のことであり、内容からしていわゆる「民生団」問題が克服され八・八宣言がなされて以後のものであることがわかる。

   現在なお、この地域での「朝鮮族」の問題は中国では微妙な問題をはらむ。また、抗日聯軍の最後の生き残りの人々そのものが少数で、実際にその中で「韓民族」と「朝鮮独立」の問題がどのように扱われたかについては、最大の当事者である金日成の回顧録以外に客観的な記録など残りようがなかったのだろうが、また、だからと言って、当時、金日成が朝鮮独立運動ではなく単に中国共産党の中国革命にのみ力を尽くしたと言うのは、逆の意味で正当ではないだろう。1928年のコミンテルンによる「一国一党」の原則によれば、表面上それ以外の可能性は存在しえなかった。一方で、実際に抗日聯軍第二方面軍主力は朝鮮人で構成されていた。当時この地域で工作にあたっていた満州協和会青年行動隊の佐藤公一は、「第二方面軍金日成の朝鮮人部隊」と1940年当時の言葉で記録している。

  通化から北へ、鉄道で数駅戻ったところには、三源浦があり、韓国併合時に李相龍らが亡命移住して耕学社(後に扶民会)を組織し、以来西間島の朝鮮人居住地の中心地となった。ここは現在も「朝鮮族鎮」である。併合直後には鄭寅普が、また、1920 年には『アリランの歌』の主人公金山(張志楽)が訪れ、金日成も吉林の中学生時代から何度もここに来ている。また、周辺や東方の山間部は、白頭山を経て北間島へと続く地域で、1910年代には新興武官学校など朝鮮独立軍養成所や秘密根拠地が設営され、1930年代にも抗日聯軍の根拠地、遊撃地区があって、日本側の討伐軍との間に激戦が交わされた。楊靖宇が追いつめられて射殺された場所、現在は靖宇の名を冠した旧蒙江や、金成柱(金日成)が小学生時代を過ごした撫松県城も近い。

  金日成らは、こうして、楊靖宇からする「抗日戦争」の「朝鮮の戦友」であった。彼らの戦いは、中国共産党の指導の下での、中国革命のための戦いにすぎない、と言う人は日本に(在日朝鮮人研究者の中にも)多い。
   しかし、今のわれわれの今日的「常識」にもとづく視点を多少でも疑えば、それを朝鮮独立のための戦いでもあったと見なすこともできる。逆の立場から、日本の「満州事変」の主要目的の一つが朝鮮独立運動の根絶にあることはその当時に石原莞爾も明言していたし、満州国軍が金日成を「朝鮮独立革命軍長」と記録していたのも事実なのである。

  かつて終戦直後には、日本にも、自称天皇が何人もいた。それ忘れたかのように、「金日成」が何人もいた、金日成はにせものだという、韓国でも見捨てられた議論をいまだにもちまわる日本人がいる。これがお笑いでなくてなんだろう。

(参照)『金日成回顧録 世紀とともに』雄山閣、1992-97年
         『東北抗日聯軍資料』中共党史資料出版社、1987年
         『東北「大討伐」』中華書局、1991年
          金賛汀『パルチザン挽歌』お茶の水書房、1992年
          佐藤公一『長白の嶺にかける夢』謙光社、1974年 


     (参考リンク) 「金日成与楊靖宇的戦友情」  一業(張亜) 2000.9.8 (中文)
             「Kim Il Sung's Soviet Image-Maker」  Anatoly Medetsky (ロシア・英文)
      不屈の革命家・金山(張志楽)の直筆遺稿、初公開2005.05.06 

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