青丘笑話(第二回つづき)
印藤 和寛
   1 「檀君の遺骨発掘」「固有民族文字の発見」はなにを意味するか。  1995年
   2 北朝鮮の国境協定締結と人工衛星打ち上げ  1999年
   3 楊靖宇と「朝鮮の戦友」  2000年
   4 「金日成は日本人」「金日成は中国共産党員」  2001年
   5 北朝鮮の電力事情  2001年
   6 チェコ式機関銃と朝鮮独立戦争  2003年


5 北朝鮮の電力事情

  
 ――「日本は朝鮮にダムを、道路を、鉄道を、工場を建設した……」

  「北朝鮮おたく」は言った。
  現在(2001年初め)、南北の外交交渉の焦点は、南から北への電力補給の問題だ。そもそも北朝鮮の「核開発」疑惑が生じたのも、北朝鮮による原子炉建設が始まりだ。これらのことは、一体何を示しているのだろうか。

  北朝鮮へ行くと、とにかく電力事情が悪い。平壌でもたびたび停電になるが、開城のホテルなどでは電気が来る時の方が少ないくらいだ。冬場が特にひどい……。

          

   1924年(大正13)の夏、東京丸の内のビルの一室で、当時参謀本部陸地測量部から発行されたばかりの朝鮮の五万分の一地形図を一枚一枚くわしく眺め、地形をもとに、電力資源を調べている人たちがいた。

   この森田一雄や久保田豊の構想は、朝鮮北部の蓋馬高原を西に流れて鴨緑江に合流する川をせき止めてダムを造り、その水をトンネルを通して東海岸側に導いて落下させ、そ1000メートルの落差を利用して、当時日本国内のどこにもなかったような大発電所を建設しようというものだった。総督府の開発許可をえて、冬の零下30−40度の寒さの中、多くの朝鮮人の労働によって1929年(昭和4)に完成した赴戦ダムは、同時に完成した興南の化学肥料工場(朝鮮窒素肥料株式会社)に電力を供給して、その硫安生産量は東洋一となった。このような事業の中心となったのが、日本の化学工業の草分けとも言える野口遵で、彼の企業グループは、九州の延岡や水俣の工場をふくめて「日窒コンツェルン」と呼ばれた。
   同様の土木工事は長津江などでも、さらに日本が中国の東北地方、「満州」を支配するようになると、国境の鴨緑江でもおこなわれ、巨大な水豊ダムが建設された。また、このような電源開発の手法は、戦後の日本の復興期にも、東南アジアでのミャンマーやインドネシア(アサハン川)でも、反復された。

   朝鮮での事業で大きな富を手にした野口遵は、晩年、朝鮮総督府に多額の寄付を寄せて、日本内地に留学する朝鮮人学生への奨学金とするよう依頼した。当時総督府に属する朝鮮奨学会は朝鮮人留学生を管理し取りしまるための一つの手段とされ、戦争が激しくなる中、朝鮮人留学生を「学徒動員」に日本の皇軍兵士として「志願」させるのも、その大切な仕事だった。その頃、興南の工場は硝酸系火薬などを生産して、日本が戦争を遂行する上で重要な軍需工場になっていた。サイパンからのB29の航続距離の外にあったこの興南地域は空襲を免れ、日本人は特別な住宅に住み、スチームによる集中暖房がおこなわれて、厳冬期も快適な暮らしができたということである。

   1945年朝鮮解放の後、日窒コンツェルンは外地の資産をすべて失い、朝鮮の工場設備は本来の持ち主である朝鮮側に渡った。朝鮮戦争の時の破壊を経て、それは今でも少しは朝鮮の工業に役立っているかもしれない。一方、日本国内では、「財閥解体」によって旭化成・積水化学・チッソなどの会社に分割され、日本の環境問題の戦後の原点となったチッソ水俣工場による八代海の有機水銀汚染は、それが戦後の復興を経て、経済成長を迎えた時期に起こったものである。

   1960年ごろ、大日電線(株)の尼崎工場長は北朝鮮に招かれて、北京経由で平壌に入り、電線の被覆についての調査、助言をおこなっている。かつて「大陸兵站基地化」政策の下で、規模はどうあれ石炭液化や人造石油など最先端技術をふくめて展開された朝鮮北部の工業と、それを支える水力発電設備は、確かに朝鮮に残された。それらは日本が「日韓条約」交渉の時、また「日朝国交」交渉にあたって日本側の「請求権」――日本側の主張によれば、それは朝鮮側の要求する損害賠償と相殺されることにもなる、の内容となるものだろう。日本帝国が連合国との「戦争」の結果放棄し連合国に引き渡した朝鮮のそれらのものに、日本がいまさら何らかの権利をもつと考えるのも図々しい話だが、それらは日本の国家や経済の根幹をになう人々にとって、一番自慢したい、「栄光の」、戦前戦後を貫く日本の国家事業であった。しかし、それは、解放後はじめて朝鮮で造られたトラクターが、後ろ向きにしか進まなかったという有名な逸話に見られるように、朝鮮人自身の産業ではあり得なかった。

  戦後の復興期に多数作られた日本国内のダムと水力発電が、現在どのような状況にあるかは周知のことだろう。新しい長野県知事の政策提起も話題を呼んでいる。

   そもそも最初赴戦ダムが建設されるとき、一番問題となったのは、厳冬期に零下40度にまでなる地域で、鋼管の中を下り落ちる水が凍ってしまわないかという点であった。これは、表面が氷結したダム湖の底の水を水路に導いて落下させることにより、1度c未満の、氷点よりやや上の水温で可能とされた。70年後の現在の北朝鮮のダム湖の様子は知るべくもないが、日本の状況から類推することはできる。

             

   北朝鮮のエネルギー資源の根幹が、これらの水力発電による電力であったことは知られている。ソ連の崩壊後、石油などの輸入が途絶えても、平壌ではトロリーバスなど電力に依存した方策が試みられていた。しかし、その頼りの水力発電がいよいよ行き詰まろうとするとき、そこでの選択肢は、原子力発電以外に何を思いつくというのか。現在、北朝鮮は、旧ソ連型の原子炉を停止させ、代わりにアメリカ型軽水炉原子炉を建設しようとして、石油を手に入れることをも含めて、アメリカとの国家存続をかけたかけひきを続けている。

  今はもうスクラップと化しつつある旧設備に、国際的に見て相手にされない「請求権」を、朝鮮人も元「日本人」であるという内輪の理由によって維持しようという日本は、こうしてアメリカからも韓国からも何周も後れをとり、独自の路線に固執し、それを貫いているわけである。

   朝鮮は、経済的な意味での「独立」に向けて、今なお闘い続けている。その意味で、独立戦争はまだ形を変えて続いている。北朝鮮の問題は、このように、現在のチェコのエネルギー的自立の問題、チェコとドイツなど西欧諸国との間で起こっている原子力発電所凍結問題とも等価のところがある。

   日本が真に植民地支配の法的有効性をおいて、朝鮮独立戦争の存在を認め、36年間にわたる不法占領支配を謝罪するならば、その瞬間に、朝鮮民主主義人民共和国の現体制はみずから独自の存立根拠の大きな柱を失うことにもなる。逆に言えば、北朝鮮の体制を維持させている根本は、戦前からの「国体」を維持継続している日本国家そのものだということだ。日朝国交交渉は、実にこの朝鮮独立運動の最終決算、独立戦争の形を変えた継続そのものにほかならない。

   お笑い、それは、「北朝鮮」なのではなく、日本の「国体」なのではないだろうか。かつて前首相が「国体」という言葉を使ったからと言ってそれを取り上げたマスコミや野党。自分たちが拠って立つ足元を本当に自覚すれば、対応の仕方も変わっていただろうに。そしてその「国体」がいよいよせり上がってきた時、私たちは我と我が身を笑うしかないのだろうか。 

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