東大阪市立太平寺小学校の
   朝鮮語学級・朝鮮人教育


岡野 克子(太平寺小学校)

(その一)はじめに
 
 1950年1月、太平寺小学校に朝鮮語学級が開設されました。この日、朝鮮語講師の呉文英(オムンヨン)先生が雪の中を長靴を履いて出勤されたそうです。朝鮮人の保護者たちは学校に押し寄せ「先生、わしらの子をちゃんとしてや。朝鮮人をちゃんとしてや」と口々に言いながら、期待を先生にぶつけたそうです。

 この時同時に大阪府内30数校に朝鮮語学級が設置されました。朝鮮人の強い要望を放って置くわけにはいかず「朝鮮語のできる人間を配置した」だけの「教育的」措置をしたのでした。それ以降50年間、朝鮮語学級は日本と朝鮮半島を巡る国際関係に揺り動かされながら今日まで存続してきました。早や、というべきか、やっと、というべきか、50年経ちました。
 

(その二)50年前のようす
 
 朝鮮語学級開設前後の日本と朝鮮半島のようすはどんなのだったのでしょうか。
 1945年8月15日、戦争は終わりました。朝鮮半島は日本の植民地支配から解放され独立しました。「国に帰って国の建設を。そのために役立つ人間に教育しよう」と朝鮮人は日本国内にたくさんの「民族学校(書堂)」を創りました。
 当時の日本はGHQの支配下にありましたが、日本国憲法が効力を持つ前日の1947年5月2日に昭和天皇最後の勅令である「外国人登録令」が出された為に、国籍は「日本」の朝鮮人が外国人登録をしなければならなくなりました。朝鮮人にたいする締めつけがきつくなって来たのでした。

 1948年に4・23には「阪神教育事件」がおこりました。太平寺小学校の保護者の中には、大阪府庁前で射殺された金太一少年と一緒の工場で働いていた人もいました。その人が「朝送り出したのに夕方には死体なって……」と話したことを覚えています。
 これは当時を象徴する事件ですが、このように朝鮮人学校に対しての弾圧は吹き荒れ、朝鮮人学校は次から次へと被害を受けました。1949年には「朝鮮人学校閉鎖令」が出され各地の朝鮮人学校は閉鎖されました。太平寺小学校の保護者の中には、この時朝鮮人学校から太平寺小学校に強制的に転校させられた人もいました。ある人は「私は朝鮮人学校の4年生でした。ある日警察官が学校に入ってきました。そして私達を日本の学校へ引っ張って行こうとしました。私達はスクラムを組んで座り込みました。しかしゴボウ抜きにされ、とうとう太平寺小学校に連れていかれました。その頃は日本の先生方にも差別する人が多く、太平寺小学校ではさんざん差別され、とうとう学校をやめました。ですから私は朝鮮語の読み書きも、日本語の読み書きも不自由です」と話したことを覚えています。

 この頃の日本社会は混沌としており政治的事件や社会的事件が頗発しました。世界の東西対立がはっきりしつつある中で、日本も無関係では過ごせなかったのです。弾圧は朝鮮人団体にまで及び、朝鮮人連盟が解散させられました。日本共産党にも弾圧が加えられました。
 朝鮮半島では南に大韓民国、その後、北には朝鮮民主々義人民共和国が創建され、朝鮮半島の南北分断は明確になりました。その上1950年には朝鮮戦争が勃発しました。3年後には休戦協定が結ばれましたが、世界の冷戦構造下にあって朝鮮半島の南北分断は決定的になりました。

 このような時代の1950年に、朝鮮語学級が設置されたのです。それは朝鮮人学校が閉鎖された後、朝鮮人が朝鮮人に成るための教育を、との強い要求を日本政府にぶつけたからこそ設置されたのでした。
 その2年後の1952年4月28日に「サンフランシスコ講和条約」によって日本は旧植民地の朝鮮半島などを返してGHQの支配から独立しました。しかし沖縄にはアメリカ軍が駐留することになったのです。その時朝鮮人は国籍選択をすることなく一方的に日本国籍を奪われ、「朝鮮」との符号を持った外国人となりました。そして同時に制定された「出入国管理令」と、政令から法律になった「外国人登録法」の適用を受けることになったのです。
 

(その三)朝鮮語学級との出会い
 
 私は1970年4月に太平寺小学校に赴任しました。赴任して暫くの間、太平寺小学校に朝鮮語学級が設置されていることを知りませんでした。理解できるように説明されていなかった、ということです。

 担任した五年生の学級には、隣のチェイ(東大阪朝鮮第二初級学校)から転校してきた子をはじめ、活発な朝鮮人の子ども達が在籍していました。その当時は掃除を放課後にしていましたが、掃除の時にいつも掃除をしない子ども達がいました。しょっちゅうなので不思議に思うと共に遂に「何であの子らはいつもいつも掃除をさぼるのや!」と一人の女の子に怒りを込めて聞きました。その子は「先生、あの子らは朝鮮語学級に行ってます」と教えてくれました。「えっ!朝鮮語学級……」とびっくりした私は、すぐに朝鮮語の授業をしている教室に行き、遠慮がちに教室を覗きました。するとカーテンでしめきった教室で朝鮮人の子ども達は授業を受けていました。「帰化」によって日本国籍を取得し、江波文英と呼ばれていた朝鮮語の先生から朝鮮語を学んでいました。これを見て私は、いっも職員室に座っておられる江波先生が朝鮮語を教える先生なのだと理解すると共に、朝鮮語学級の存在をも同時に理解しました。
 

(その四)在日朝鮮人教育運動の始まり
 
 1971年からの日本の教育界の動向を振り返ります。
 大阪で、というよりも日本でですが、阪神教育事件後、大阪では本庄中学校西今里分校が公立朝鮮人学校として設立されました。生徒は全員朝鮮人。教員は半分が朝鮮人、半分が日本人でした。その中で日本人の一教員が日教組の教育研究集会で朝鮮人教育に関わる報告をしました。それが朝鮮人教育の最初の報告です。その後1960年代の後半になって高槻第六中学校で朝鮮人教育実践が始まりました。それは部落解放教育と相まって、大きく広がりました。

 大阪市の中学校長が在日外国人に関わる「差別文書」を出しました。何故このようになったのか、今後どうすればよいのか、などを考える人々の中から1971年7月に「日本の学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の教育を考える会」(略称、考える会。現在、全朝教大阪・考える会)が生まれました。この教育団体はいかなる団体・組織からの援助も受けないで自力で教育活動・運動を進め今日に至っていますが、私達、朝鮮人教育を推進しよう、と考えている者にとっては何物にも代えがたい教育団体です。又この教育団体が推進役となった結果、今や在日朝鮮人教育は全国に広がっています。

 東大阪市教職員組合では朝鮮教職員同盟の協力もあって、1971年の秋の教育研究集会に在日朝鮮人教育に関わる分科会を持つことになりました。朝鮮人多数校の太平寺小学校と太平寺中学校に報告を求められました。分会で相談した結果、小学校は私の学級実践を、中学校は生活指導に関わる実践を報告することになりました。初めての分科会にもかかわらず、関心の深さを示すごとく、教育研究集会当日の教室は参加者で一杯でした。

 その後暫くして組合の中に「在日朝鮮人教育研究部」がつくられました。この部は教職員組合・執行部の強力な支えによって、又朝鮮人の教職員団体との連携によって在日朝鮮人教育を強く推進しました。その少し前に発足した「考える会」と協力関係にあったことは言うまでもありません。そしてこの研究部が中心になり推進した在日朝鮮人数育実践には目を見張るものがありました。その実践力で市同和教育研究会・在日朝鮮人教育専門部や大阪府同和教育研究会・在日朝鮮人教育専門部をつくるためにも力を注ぎました。
 日本社会にも在日朝鮮人問題を考えていこうとする機運が盛り上がり運動は各地に広がりました。
 

(その五)学校全体の実践に
 
 太平寺小学校の朝鮮人教育は、朝鮮語学級と朝鮮人教育部とが深いつながりを持って進めたからこそ実践に深まりを持ちました。次にこれをまとめます。
 太平寺小学校での実践のとっかかりは、1950年から続いている朝鮮語学級のことを朝鮮語の江波先生に聞くことからでした。設置された1950年当時の様子、その後の子ども達と保獲者の様子、先生に対する府教育委員会の待遇、東大阪市教育委員会の態度、1950年に一緒に採用された他の先生方の様子、民族団体とのつながり、朝鮮半島と日本の国際的な移り変わりの中での苦労とやりがい、そして何よりも一番身近な太平寺小学校での教職員の様子と学級の位置付け、などを時間の許す限り聞きました。そのうち、朝鮮語学級は江波先生の並みたいていでない苦労の上に続いてきたのだ、と理解しました。しかし理解だけに終わらせてはいけない、朝鮮語学級への入級者が一人でも増えること、朝鮮人教育実践が僅かでも進むことを願い、家庭訪問を繰り返しながらさらに話を聞きました。
 そのうち学校の中に在日朝鮮人教育を推進しようとの機運が起こり、この話があちこちで聞かれるようになりました。
 

<校内の朝教部を中心に>

 1970年代半ばには、校内に朝鮮人教育部(略称・朝教部)がつくられました。これは太平寺小学校では朝鮮語学級の実践を支え推進する中から、必要に迫られて生まれたものです。この時点で学校教育推進組織としての朝教部は東大阪市では勿論最初ですが、大阪
府内に於いても非常に早いものでした。その後この朝教部を中心に、太平寺小学校の在日朝鮮人教育は広がり深まっていきました。
 朝教部が出来たとはいえ、東大阪市には外国人教育方針がないばかりか学校にも方針がありませんでした。すべてのことが手探りでの実践でした。しかしそのほとんどが目新しい取り組みだったこともあって、結構他からは注目されました。今、当時を振り返って言えることは、太平寺小学校の教職員は誰もが教育実践に一生懸命に取り組んでいましたので在日朝鮮人教育にも一生懸命に取り組んだ、ということです。

 朝鮮語学級のことは江波先生に開くことから始めましたが、保護者の意見を聞こう、と朝鮮人保護者からも聞きました。次いで日本人保護者からも聞きました。子ども達の気持ちや考えも聞きました。そして子細なことでも朝教部に報告や相談をしよう、と共通確認して進めました。
 朝鮮語学級が設直されていても、その学級で指導する教育内容についてはどの機関も、どの人達も無関心でした。見本にする教材はありませんでした。教材は江波先生が一人で作られていましたので、それを朝教部で検討することにしました。その頃に知ったのですが、教材教具をはじめ朝鮮語学級に関わる必要経費がどこからも出ていませんでした。これは大変だと急遽事務用品の予算を学校で計上してもらいました。

 朝教部が出来てからは朝鮮語学級の入級者も徐除に増えていきましたが、当時は高学年だけを入級させていたのですが100%ではありませんでした。高学年の担任は、どの子も朝鮮語学級に入るようにと実践を通して朝鮮語学級への入級を勧め、子ども達が次から次へと入級するようになりました。すると、中学年や低学年も入級させたい、と声が出て来ました。
 朝鮮語学級が設置された当時の設置者の考えと江波先生自身の考えからそうなっていたのでしょうが、高学年だけが朝鮮語を学んでいました。しかし保護者・子ども達、そして教職員からも、民族的な学びは学年に閑係がないのではないか、できれば入級学年を下げたらどうか、と意見や要望が出されました。話し合いの結果、1年毎に1学年づつ入級学年を下げることにしました。
 

<保護者会がささえに>

 家庭訪問は続けました。すると表面的な話し合いから一歩突っ込んだ話が聞けるようになりました。保獲者の生きてきた過程は日本と朝鮮半島の歴史であり、保護者の思いは日本社会と学校の矛盾点を指摘するものでもありました。少し知るともっと知りたい、と誰しもが考えました。教職員は一層家庭訪問にカを入れました。そのうち保護者との信頼関係が深くなってくると本名の話もし易くなり、本名についても相当突っ込んだ話し合いをしました。それがあってでしょうが、本名で学校生活を送る子が増えてきました。

 朝鮮語学級の参観と懇談を持つことになりました。保護者は初めての参観日に我が子の様子、江波先生の様子そして後ろに立っている日本人教職員の様子をじっと見ていました。懇談では在日一世が多い当時のこと、朝鮮語を話せる保護者も多く、懇談会は朝鮮語で進められたこともありました。参観と懇談を重ねる内に朝鮮語学級保護者会が欲しい、との意見が出てきました。丁度その頃江波先生は学校の運動場を借り、スポーツ少年団を結成して子ども達にサッカーを指導されていました。そのサッカーチームに子どもを入れている朝鮮語学級の保護者が中心となって朝鮮語学級保護者会を結成しました。当時は朝鮮半島の南北分断のきつい頃です。会長が朝鮮籍なら副会長は韓国籍の人に、との配慮は忘れませんでした。保護者会が出来てからの江波先生は何かにつけ保護者会に相談をされていました。
 

<はじめての朝鮮語学級公開授業>

 何年かが経ちました。東大阪市の教職員組合や同和教育研究会に属する教職員達から、是非とも朝鮮語学級の授業参観をしたい、と希望が出ました。江波先生自身も東大阪全体の流れを把握され、その必要性を納得されていました。朝教部で話し合い、朝鮮語授業と朝鮮文化の発表を公開することにしました。
 その日、特別教室で朝鮮語授業と体育館で朝鮮文化発表を市内の教職員に参観してもらいました。殆どの人は初めて見る朝鮮語授業に驚きと関心を示し、体育館でチョゴリを着た子ども達が踊るオッケチュム(肩踊り)に目を光らせながら、これは朝鮮文化の一つなのだと納得したようでした。この踊りについては、江波先生一人で指導されたこともあり、昔から朝鮮半島では事ある毎にそこに住む人々がごく自然に踊るオッケチュムになったのでした。江波先生は自分が生まれ育った朝鮮半島での数々を思い出すように毎日指導されていました。この踊りは華やかさや勇壮さはありませんが市内の教職員にとっては初めて接する朝鮮文化でした。この発表は後の「朝鮮文化に親しむ東大阪子どもの集い」につながったのは言うまでもありません。

 この頃PTA役員を朝鮮人にも、との考えは日本人保護者や教職員にはまだありませんでした。朝鮮人が多数在籍し、教員加配のある学校にもかかわらず、PTA役員は全員日本人でした。しかしその不合理さに一部の教職員と朝鮮人保護者会は気付いていました。そこで朝鮮語学級保護者会はPTA役員会と話し合いをしました。その結果、PTA役員や学級委員に朝鮮人を積極的に登用することになりました。そこで副会長二人のうちの一人を朝鮮人に担ってもらうことになり、まず朝鮮語学級保護者会副会長にPTA副会長を担ってもらいました。
 

<本名指導と小中連携>

 この頃既に学校では、朝鮮人教育に関する学校方針を作っていましたので、次の課題は現在学校でしている実践を朝鮮人だけでなく日本人保獲者にも理解してもらうことでした。それは朝鮮語学級に入級する児童が一人でも増えること、本名を名乗る子が一人でも増えることは日本人との関わりが大切だと考えたからでした。一方、新一年生の保獲者に対して学校生活全への説明が必要だとも感じていましたので、合わせて新入生保護者への説明会を持つことにしました。
 その結果でしょうか、入学式当日の組分け発表は朝鮮人も本名で発表することになりました。朝鮮語学級入級者が増え、本名で学校生活を送る子どもが増えてきましたが、本名生活に抵抗を示す保護者もいました。しかしせめて卒業式にだけでも、と本名生活を送れなかった子でも殆どの子が卒業式には本名を呼ばれて卒業していくようになりました。

 この頃中学校の入学式当日の組分け発表は本名ではありませんでした。これに象徴されるように小学校と中学校が足並みを揃えての段階には至っていませんでした。小・中学校の話し合いがなかったのです。しかし語合いの必要性を前前から感じていましたので、太平寺中学校にそれを申し入れました。中学校でも小学校との話し合いの必要性を感じていたようでしたので、小・中の話し合いはすぐに実現しました。中学校も入学式の組分け発表は本名になりました。しかし当然のことですが、中学校の場合は保護者との話し合いだけで本名発表はできません。入学してくる生徒一人ひとりへの説明もした上での結果です。このように小・中の懇談会を定期的に持ちました。すると太平寺小学校の朝鮮人教育実践はよりし易くなりました。勿論太平寺中学校も同じだったでしょう。

 
<「おーい、チョーセン」から
         朝鮮学校との交流へ>

 ある日、太平寺小学校の校舎三階から太平小学校の子どもが、下を通って東大阪朝鮮第二初級学校(略称・チェイ)に通う子どもに唾を吐き「おーい、チョーセン」と罵声を浴びせました。今までにも同じようなことがあったそうです。もう我慢できないので指導してほしい、とチェイの学校と保護者から学校長に申し入れがありました。私達は真剣に受けとめ、朝教部で、さらに職員会議で話し合い、この行為は朝鮮人に対する差別行為だと考えました。そしてまず教職員が謝って、子ども達を指導しよう。又二度とこのようなことを起こさないように指導するためにも一番近い、しかも被害を受けたチェイを知るために教職員同士の交流会を持つように申し入れをしてはどうか、と学校長と担当者がチェイを訪れました。そしてそれ以降教職員同士の交流会を毎年持っていました。交流会の一つであったチェイの授業参観を通して、朝鮮学校の教育内容と学校での子ども達の様子を知ることができました。民族教育の大切さも理解しました。
 

<学習から実践へ>

 実践を推進するには教職員自身の学習が必要です。まず日本と朝鮮の関係史を学習することから始めました。朴鐘鳴先生、鄭早苗先生など朝鮮人の先生から聞く関係史で多くのことを学びました。とりわけ歴史的事実を事実として知ることが日本人の教育関係者にとっては大切なのだと理解しました。さらにPTAと共催の講座も開催しました。中でも、映像文化協会の辛基秀先生には講演と共に先生ご自身が撮影された、新潟港から北朝鮮に帰る出港間際の帰国者を撮影した記録映画を見せてもらったのですが、これは今でも忘れられないことです。歴史ばかりでなく在日朝鮮人教育をテーマに学習をしたことはいうまでもありません。学習をきっかけに実践は深まりました。
 冊子に実践をまとめ記録することも始めました。それまでは各教職員の今までの生き方歴史観や価値観の違い、朝鮮人との出会い方の違い、などによって朝鮮や朝鮮人に対する見方に大きなずれがありましたが、冊子を作り始めた頃にはそのずれは随分縮んでいました。ですから朝鮮や朝鮮人のことを大っぴらに言える雰囲気ができていました。朝鮮人教育の必要なことをほば共通認識できたのでした。

 太平寺小学校のように在日外国人が多数在籍している学校には、朝鮮人在籍数と在籍率によって加配教員が配置されています。本来在日外国人教育推進の為の加配だと考えるのですが、実態は実態はそうではありませんでした。そこで太平寺小学校の在日外国人教育加配を有効活用するにはどう位置づけるべきか、なども議論しました。
 朝鮮語学級を支える中から在日朝鮮人数育実践が生まれ朝鮮人教育部が創部されました。そして朝教部が創られてからは在日朝鮮人教育実践は個人的なものでなく組織的実践として学校にしっかり位置づいていきました。しかし太平寺小学校だけで十分な実践はできません。多くの学校や団体に教え、教えられて進めました。実践に落ち着きと自信を持った頃に気になって来たのは、江波先生の処遇についてでした。

 江波先生は在日朝鮮人の全てが「日本国籍」を所持していた1950年1月、呉文英朝鮮語講師先生として太平寺小学校に赴任され、常勤で勤務されていたにもかかわらず待遇はそれほど改善されてきませんでした。この不合理さに気付いた府の教職員組合・執行部が対府教育委員会交渉をしました。その結果教諭職の給料表が適用されることになりました。同じ年齢の教諭職の賃金に比べると少し低かったのですが、私達はほっと一息つきました。設置されて以来既に20数年、実に30年近くの歳月が経った1970年代半ばのことでした。
 

(その六)南北対立の中で
 
 1965年の日本と韓国との間に結ばれた「日韓条約」によって、日本政府は、韓国籍で一定の条件を満たす人に対しては「協定永住権」を与えることになりました。その締切日の1971年1月16日が近づくと校区のあちこちでそれに対する意見を耳にしました。朝鮮人保護者から聞く話の数々は朝鮮半島の南北分断とその朝鮮半島と日本政府の政治的かけ引きの数々を余すところなく伝えるものでした。

 1972年7月4日には、朝鮮半島で「南北共同声明」が発表されました。「これで南北の統一が近い!」とこれを心底から歓迎し、朝鮮人保護者や江波先生と一緒に喜びました。朝鮮人保護者の中には喜びの余り「統一したら国に帰る」と抱負と希望を公にする人も少なくありませんでした。しかし事態はそれほど甘くはありませんでした。朝鮮半島の南北両政府の距離が縮むことなく統一は遠のいて行きました。そしてそれは学校にも陰を落とすようになり「朝鮮・朝鮮人は北を指す言葉だ」から始まり、事ある毎に「北か、南か」を迫られました。「在日」や「日本の学校」に対しても容赦はありませんでした。ですから朝鮮語学級にはもっとストレートでした。一万の政府を支持する人々が「この政府を支持せよ」「朝鮮語学級の教育内容を明らかにせよ」「朝鮮語学級は北の学級か」「………」などがありました。朝鮮人保護者も否応なしに南北に分断されていきました。

 当時太平寺小学校の卒業生で韓国に母国留学した学生が「スパイ容疑」をかけられ韓国で逮捕・拘留される事件もありました。このように世界の東西冷戦下で朝鮮半島南北の冷え切った関係は在日朝鮮人に重くのしかかりました。学校での実践も「北に配慮・南に配慮」することに神経を尖らせての実践でした。私達は疲れましたが江波先生の疲れ様は尋常ではありませんでした。江波先生は戦後暫くの間、朝鮮人達盟に関わっておられましたが日本国籍を取得した後は、民族団体や他の民族講師達とは一定の距離を置いて社会生活を送り朝鮮語学級の実践をされていましたので、江波先生にとって「祖国」の動向に左右されることは心底疲れることだったようでした。
 

(その七)朝鮮語学級の存続へ
 
 1980年3月26日の朝でした。江波先生から「相談したいことがある」と電話がありましたので、急いで学校に駆けつけました。江波先生は突然「今から学校長に退職願いを提出する」と言われました。驚いた私は、理由は何であれそれは困ると思い、強く引き留めました。しかし江波先生の決心は固く、引き留めることはできませんでした。とうとう、3月31日付けで退職されました。
 江波先生が退職されたのに、府や市の教育委員会からは何の連絡もありませんでした。放って置く訳にはいかないので、4月1日を待って市教育委員会に、朝鮮語学級存続の要望を学校長が伝えました。しかし返事をもらえなかったので、始業式の後に市教育委員会教職員課に学校長と出向き、再度要望を伝えました。市教育委員会教職員課は、「府が設置したのだから府教育委員会に伝えてあります」を繰り返すばかりでした。さらに待ちましたが朝鮮語学級の存続に関して府・市両教育委員会から何の連絡もありませんでした。私達教職員は、一体どうなるのだろうかと不安になってきました。子ども達も「何時から朝鮮語学級が始まりますか」と尋ねるようになりました。朝鮮人保獲者の中にも、朝鮮語学級はどうなるのだ、と不安を持つ人が多くなり、学校への問い合わせも増えてきました。

 4月も半ばになりました。市教育委員会から、「府教育委員会は1950年に設置した朝鮮語学級については、朝鮮語講師の退職に伴って存続を希望した学校は今までなかったので全て閉級にしてきた。そういう訳だから東大阪市だけに特例として認めることはできない、と返事があった。このようなことなので東大阪市としてはどうすることもできない。府の言うことに従いたい」と返事がありました。言い換えれば朝鮮語学級をなくす、ということです。しかし子ども達のことを考えれば考えるほど<閉級>は納得できませんでした。そこで要求活動を始めました。嘆願書を作成し、教職員の署名を添えて、市教育委員会教職員課に提出しました。朝鮮人保護者も独自に嘆願書を作成し、署名を添えて提出しました。PTA役員が理解を示し、日本人保護者も朝鮮語学級存続には協力的でした。しかし市教育委員会教職員課は「府に強く要望します」を相変わらず繰り返すだけでした。

 返事はその後もありませんでした。ところが6月に入ったある日、太平寺小学校・中学校、柏田小学校、長瀬中学校(その後分離して柏田中学校)4校の学校長と在日外国人教育責任者が市教育委員会指導室から招集されました。そしてその場で「6月1日付けで4校に朝鮮語学級(正式名称は母国語学級を設置する。それは市の費用で賄う」と説明がありました。すなわち市議会で予算化された市独自の朝解語学級を設置する、ということなのです。最初は「えっ!」とびっくりしましたが、時間が経つほどにそれは喜びに変わり笑みが浮かんで来ました。

 その場で朝鮮語学級運営委に関わる原則を確認しました。確認事項は以下の通りです。
(1)朝鮮半島南北統一の立場を堅持する。
(2)朝鮮語を中心に指導する。歴史・文化・芸能なども指導する。
(3)設置された学校の教育方針に従って運営する。
(朝鮮語講師は、南北の統一的教育団体の「朝鮮奨学会」にお願いする)……(ただし当分の間、太平寺中学校については地域の朝鮮人が推薦した人を講師としましたが。)
 朝鮮語講師の待遇は「市の設置」ということもあり以前とは比較にならない程悪いものでした。しかしこのような悪条件にもかかわらず朝鮮奨学会は、大阪市の長橋小学校での経験を大切に東大阪市の講師派遣も引き受けてくれました。
 太平寺小学校では朝鮮奨学会から派遭された朝鮮語のソンセンニムを喜んで迎えました。チョゴリ姿のソンセンニムに教職員も子ども達もすぐに馴染みました。ソンセンニムは朝鮮語学級に、既にあった教材に目を通され、それを土台に新しい教材を作り実践されました。その実践は確かで、周りの者に安心を与えました。

 これらのことは、既にあった上に継続しての設置を待ち望んでいた太平寺小学校にとっては何の違和感もありませんでしたが、初めて設置された3校にとっては不安が先立ち戸惑いを隠せなかったようでした。ですから4校では朝鮮語学級担当者合同会議を持ちました。会議では、4校の職員室にソンセンニムの机を置くこと、更衣室にソンセンニムのロッカーを置くことをまず確認したことを覚えています。これは学校に朝鮮語学級を位置付けるためにはソンセンニムを教職員の一員に位置付けることが何よりも重要だと考えたからでした。4校の足並はなかなか揃わなかったのですが、それぞれに工夫しながら朝鮮語学級を学校の中に位置付けていきました。子ども達が朝鮮語学級を自然に受け入れられるように実践を進めながら、朝鮮人保護者は勿論のこと日本人保獲者にも理解と協力を得るための機会をも設けました。

 教育条件は極めて悪い中にあっても、朝鮮語講師ソンセンニムの「献身的」と表現できる熟心な教育活動に支えられ各校の朝鮮語学級は土台が出来ました。その朝鮮語学級実践は在日朝鮮人教育実践と連動し、在日朝鮮人教育をより進めました。今も昔も在日朝鮮人教育には様々なやり方がありますが、例えば柏田(かしだ)小学校では、柏田小学校の子ども達とチェイの子ども達との文化交流を始めました。この交流会は柏田小学校に一番近い外国人学校のチェイと国際交流をすると始まったのですが、東大阪市で初めての取り組みだったこともあって注目されました。又太平寺中学校や柏田中学校でもそれぞれにふさわしい行事を開催しました。

 4校に設置された翌1981年には、同和教育推進校に朝鮮語学級が設置されました。その後設置校は年毎に増え、現在は24校に設置されています。又朝鮮語講師の賃金も僅かづつですがアップされています。たとえ不十分な教育条件だとしても、朝鮮語学級を必要と考える人々とソンセンニムに支えられて年月を重ねてきた役割と成果は軽視できないものです。
 
 

(その八)地域、府内への広がり
 
 1980年代になると大阪府のあちこちで在日朝鮮人教育に関する教育方針のことが話題になって来ましたが東大阪市も例外ではありませんでした。市の教育委員会もそれの必要を認め、教育委員会は教育関係機関の代表者や現場代表者と論議を重ねました。その時の議論が指針の基鍵となり、やがて東大阪市の教育委員会は「在日外国人教育指針」を出しました。これは「方針」でなく「指針」ですが、在日朝鮮人教育を中心に在日外国人教育の推進に大きな役割を果たしています。
 「朝鮮文化に親しむ東大阪子どもの集い」(略称「集い」)が始まりました。今では考えられないことですが、最初は出演校があるのかさえ心配したほどでしたが、早くも今年は19回目を迎えます。

 「集い」が始まった翌年、柏田小学校を会場に柏田小学校朝鮮語学級を中心として朝鮮語学級の合同「サマースクール」が始まりました。最初は朝鮮人の子ども達が集まるのだろうかとあれこれ考えましたが、今では朝鮮人の子ども達が自分の将来を仲間と一緒に考える大切な行事となっています。
 大阪府下には民族学級(東大阪の朝鮮語学級と同じ)が次から次へと設置されました。課外との位置付けからは抜け出ていませんが、この学級は朝鮮人の子どもにとっては人生を学ぶ場であり、設置された学校に在籍している日本人の子ども達にとっては、外国や在日外国人を身近に感じ、国際的視野で物事を考えるきっかけを与えられる場ともなっています。

 1950年に設置された朝鮮語学級講師の退職に伴う「後任講師」の任用要求が起こりました。在日朝鮮人の民族団体は、強く対大阪府教育委員会交渉を続けました。朝鮮語学級には1950年から続き、それを今も必要としている子ども達がいる、そのことが府教育委員会を動かした大きな理由だったようですが、国際的な人権条約の批准や日本と韓国の関係変化など様々なことが影響しあって再任用されることになりました。考えてみれば1950年も今も朝鮮人民族団体の要求運動の成果なのです。まず大阪市立北鶴橋小学校に後任講師が配置され、やがて太平寺小学校にも常勤の後任講師が配置されました。そして今日に至っています。

 大阪市外国人教育研究協議会は1960年代後半に設立され、幾多の試練を経て今や在日外国人教育の推進になくてはならない存在です。東大阪市でも在日外国人教育研究機関の設立要求を続けて来ましたが、1990年代に入ると大阪府にも同様の研究脇議会の設立を要求する声が高まってきました。その流れの1992年10月、大阪府在日外国人教育研究協議会が設立される少し前に、東大阪市在日外国人教育研究協議会が設立されました。振り返れば太平寺小学校に朝鮮語学級が設置されて42年、東大阪市教職員組合に朝鮮人教育研究部がつくられて20年、太平寺小学校に朝鮮人教育研究部がつくられて20年近くが経っていました。この長い歳月にあった数々を思い出しながら感慨にふけったこともありました。

 世界の冷戦終結後の2000年近くになり、朝鮮半島の情勢と朝鮮半島を巡る国際情勢は大きく動きだしました。そして2000年6月に朝鮮半島南北政府の両首脳会談が行なわれ「南北共同宣言」が発表されました。この宣言文には「朝鮮半島南北の統一」が高らかに歌われています。又米国と北朝鮮との関係改善も足早に進んでいます。いずれ日本と朝鮮半島の関係も改善されるでしょう。この間の出来事は朝鮮半島に住んでいる人々には勿論のこと、在日朝鮮人やさらに朝鮮半島と日本の関係を意識している日本人にも希望を与えています。

 太平寺小学校に朝鮮語学級が設置されて50年。この学級は、その時々の日本と朝鮮半島を巡る国際情勢や朝鮮半島政府の動向の影響を受け、喜びや悲しみを刻みながらも、朝鮮人と日本人の知恵を合わせて教育活動を行うことにより存続してきました。朝鮮語学級に思いを寄せて私達が願うのは、朝鮮半島の南北統一と在日朝鮮人を初め在日外国人がゆったりと過ごせる日本社会になることです。異なった文化を持った異なった民族の人々と、この社会で一緒に豊かに過ごせるようになることは、外国人だけではなく日本人にとっても幸いなことなのです。太平寺小学校の朝鮮語学級が国際的視野を持って今後も発展することを期待します。

(ここで使用している朝鮮は朝鮮半島を総称しています。朝鮮人・在日朝鮮人は韓国籍、朝鮮籍、そして日本国籍で出自を同じくする人を総称しています。)
 
*小見出しは編集委員がつけたものです。

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