全朝教大阪(考える会)30年を振り返って
 
 考える会発足後間もない頃、部落解放センター(芦原橋)で日韓文化交流について話し合った時、キムチ・焼肉・踊りから、鶴橋のことも話題になった。朝鮮奨学会の゙基亨(チョ・ギヒョン)先生も出席して居られて、韓国文化は基本的に静かで、清く美しく、格調高いことを知ってほしいと発言された。その場の若者たちは、そんな考え方は庶民感覚を理解していないと一斉に反発した。゙先生は淋しげな表情を見せて、あとは沈黙を守られた。この時の状況を、今頻りに思い出す。

 大阪の在日朝鮮人教育運動は小中学校が中心であった。組合と協力して、教育委員会と対決しながら、制度を改革していった。本名や生年などで指導要録・証書の様式を改良し、民族学級設置など学校全体で取り組むよう体制づくりをした。それに対して、他県の運動は、小・中よりも高校の教員を軸として、生徒と向き合って悩みや就職問題と個別に向き合う姿が多く見られた。大阪の高校では、多数派組合が朝鮮(韓国)人は民族学校で学ぶべきだという大原則をふり回すのみで、生徒の立場で見ることを事実上抛棄していた。従って、大阪では、外国人教育の公的研究機関設置も小中の教職員や組合の組織的運動に負うところが大きい。

 友人辛基秀氏の寄与も忘れられない。彼が教育現場の教師と初めて接触したのも考える会であった。映画『江戸時代の朝鮮通信史』を撮り終え、編集のために私たちにラッシュを見せて、意見を求めた。その後は学校現場で彼の講演や映画の世話になることが多くなった。その社会的活動が、在日朝鮮人教育問題を深め、行政や教育現場に考える会の存在を定着させる役割を果たしてくれた。教育の国際化の足場を確立するためにも、最近体調を崩しがちな彼の一層の活躍が待たれる。  (高松寛)

167号目次へ


inserted by FC2 system