
「小沢有作先生を偲ぶ会」開かれる
12月8日東京神楽坂のラポール日共済で、100人余りの人々が集って、偲ぶ会が開かれた。黙祷と実行委員会から柿沼秀雄さんの挨拶の後、友人代表として稲富進さんが話をされた。1970年代はじめからの協同した歩み、その頃日本で唯一の在日朝鮮人教育全体に関する学者・理論家であった小沢さんと兵庫の解放教育運動や大阪の実践との関係、民族学校と日本の学校を総合的に見る視点と、それをめぐる激論、全朝教運動の創生発展をともに喜んだようすを語られた。(雑誌『解放教育』11月号に稲富さん他の追悼文が掲載されています。)
都立大退職後石神井の「たまり場ねぎぼうず」に集積された膨大なオリジナル資料群・蔵書は、生前からの意向もあって、韓国ソウル大学に寄贈されることになり、ソウル大キムギソプ教授が来られて贈呈式が行われた。その挨拶の中で、日本人が集めた朝鮮民族の資料が本国にこうして戻されるのは歴史上最初の出来事であり、すべての人に公開される形が取られることなどとともに、生前から進められたソウル大学校と日本にある朝鮮大学校との提携にも触れられた。会場には朝大の教授も来られて挨拶をされた。小沢さんの『在日朝鮮人教育論歴史篇』などの著書もすでに韓国で翻訳されている。(実践篇はいつ出るのだという問いに対しては、それは私たち自身が現実の中で書くものだ、というお話でした。)
いつも多様な人々で超満員であったという東京都立大「小沢ゼミ」の関係者による暖かい雰囲気の中で、しかし、岡部達俊さんが口先で心配されていたような「ゼミのコンパ」風にはならないで、小沢さんの小さな遺影の前に酒やおつまみも饗せられて、会はなごやかに進行した。ご自身の経験にもよるのだろう、教育の場から権力的な関係を一切排除しようとすること、被抑圧者の側に立って共に歩む姿勢、自分をくぐらせ肉声で語ること、など、小沢さん生前の言葉が口々に語られた。関東での解放教育運動の草分けの頃からの関わり、障害者差別を克服する教育運動、第三世界の被抑圧民族の中での教育運動と、幅広い「小沢教育学」の根本がこうして人々の口から明らかにされた。その一方で「短期ですぐ怒鳴ってしまう」性格を家族もいつも心配されていた、ということなどもおもしろかった。
岡部さんらの努力で当日冊子『人間(ひと)から学ぶ』が配布されたが、その中の「ぼくをぼくたらしめたもの」には、小沢さんと共産党との関わりも記されている。1965年日韓条約以後の外国人学校法案との対決と「日朝教研」運動の高揚、しかし1970年頃の都立大の学園闘争、封鎖学生の排除をめぐって門の前で座り込んだことにより「全共闘派」と見なされ、八鹿高校事件の際にも「生徒の立場」を主張して、以後日教組教研集会人権教育分科会で政治的な攻撃にさらされたこと、その結果共産党を離れることになったがその後も共産党への思い入れは持続したこと、など。他にも、佐藤勝巳さん、西田秀秋さんとの関係など、小沢さんの言葉の端々から、人間が「インデペンデント(独立、自立)」であるとはどういうことかを考えさせられる。それも、大学という自分の場を確保しているからこそ可能であるという冷めた認識も示されている。
文字盤を使って意思を伝える電動車椅子の人々、夜間中学運動の関係者、黄秀彦さんの「アリラン」、会場全員の「アチミスル(朝露)」の合唱など、この日の会も、また、「おまえもこの世で、堂々として生きていて良いんだと感じさせてくれた」という小沢ゼミも、ともに小沢さんが作り出したユートピアには違いない。教育現場での一つ一つの実践と運動が、こうした教育の根本をふまえたものになるよう努力したいものだ。(印藤)