全朝教大阪(考える会)2001年度第2回シンポジウム        2001.11.12
 
総合学習と在日朝鮮人教育
 学校現場の視点から
 
                       宋英子(大阪市教育センター)
 
 最初に運営委員の太田利信さんから、一昨年(99年)以来の「教育改革と在日朝鮮人教育」連続シンポジウムの経過説明と問題提起があり、その後、講師の宋英子さんは、持参のノート・パソコンのプレゼンテーション・ソフト「パワーポイント」とプロジェクターを使って、話を進められた。本音と危機感をたたかわす中から、各学校でいよいよ始まる実践への多くのヒントが出された。
(画面を印刷収録した当日の資料はまだ少し残部がありますので、ご希望の方は事務局へお申し込み下さい。ここでは、お話の中から編集委員会で要約して一部を紹介します。以下、文責は編集委員会にあります。)


 第1回(1999年7月)「”生きる力”と本名」
            乾 啓子さん(大阪市生野区勝山中学校)
 第2回(1999年9月)「”学校文化”の変革と民族学級」
            イ・ミンギさん、光井栄雄さん(生野区北巽小学校)
            チョン・キミさん、大星なるみさん(八尾市桂小学校)
 第3回(1999年11月)「総合学習と在日朝鮮人教育」
            カン・ヒョユさん(守口市守口第二中学校)
            カン・チジャ、磯部和代さん、臼井 淳さん
                      (大阪市東淀川区西淡路小学校)
 第4回(1999年12月)「地域の連携と外国人保護者」
            イ・キョンエさん、キム・ジナさん、キム・チジャさん
                           (同胞保護者連絡会)
 第5回(2000年11月)「地域に開いた学校づくり」
            谷 博さん、カン・ソンニュルさん(府立桃谷高校)
 

問題提起
(太田)

 来年度からいよいよ開始される学校週五日制と新教育課程実施に向け、この間の「教育改革」の中で、いくつかのキーワードがあります。その中で「生きる力」「学校文化」「総合学習」「地域との連携」の四つをテーマにして、検討してきました。

 第一回は、「在日朝鮮人として日本で生きていく」その「生きる力」が問題となりました。新生野中学校で「ハヌル」という新聞に載った生徒の作文を中心に、朝鮮人生徒がどのようにして「生きる力」を育んでいけるのか、その筋道を議論しました。

 第二回は、民族学級の存在が日本の「学校文化」をどのように変えることができるのかが問題となりました。チマチョゴリ、パジチョゴリの民族講師が日常的に学校にいることによって、日本の学校が大きく変わる可能性があることについて議論されました。「日本国民を教育する」学校から「多民族・多文化」の学校へという課題です。

 第三回は、教育課程内の「総合学習」の実践の中で、日本人の生徒たちをどう変革していけるのか、実際の実践で達成されたものをもとにして、課題が議論されました。

 第四回は、いわゆる「地域」の中に果たして外国人が含まれているのかが問題となりました。保護者が学校に対して、民族学級設置や外国人教育実践を要望しに行った時、必ず言われることが「地域の理解が得られない」という言葉です。本名を名のったら、日本人の方が構えてしまう、というこの状況は、「学校が変わるのに10年かかるとすれば、地域が変わるにはその倍以上かかるかもしれない」、しかし、「同胞の内部からも」変えていかなければという保護者の決意は、大きな衝撃でした。(第五回については「むくげ」163号の参照をお願いします。)

 今回は、第三回に続いて、課程内の「総合学習」の課題を中心に、小学校で週三時間、中学校で週四時間の学習の組立てをどうおこなうかの問題を念頭に置き、ソン・ヨンヂャさんのお話を聞いて、全体のまとめの討議を行います。
 
講演(宋)

 各学校の年間指導計画や、各学校からのアンケート結果を見て、民族学級が各学校の意識の中に浸透しているか、というと、そうは言えない現実がある。多数在籍校だから、あるいは民族学級が既にあるからといって、学校や生徒全体の意識が高まり実践が進むかというと、必ずしもそうではない。アンケートなど、担任の目を気にしながら白紙で出していたり、「お母さんが言っていた」というようにぼやかして書いていたり、子ども自身が「郷にいれば郷に従え」の気持ちを持たされている。

 大阪市内にも、府下にも、民族学級・民族クラブの制度がある。また、帰国生徒などについては、大阪市内で小学校4,中学校4のセンター校があるが、その中からも、「日本語適応教育」だけでよいのかという疑問の声が上がっている。従って、学校・学年・学級と民族学級・クラブとの連携、また、帰国・来日等の子どもたちの教育センター校との連携が重要になる。母語・母文化の保障、そのためのゲストティーチャー配置や学習メディアの整備が重要だ。

 市岡中学や瓜破中学のように、さまざまな渡日生徒に対して母語・母文化の保障の視点を持って実践されているところもあるが、まだまだだ。韓国・朝鮮に関わる国際理解の授業を展開しようとして、「しらべ学習」の本をどこで仕入れるのか、ゲストティーチャーをどういうシステムで入ってもらうのかといったことも含めて、民族学級・日本語学級をどう学校全体のカリキュラムの中に位置づけるか、このカリキュラム創造を学校でどのようにやるかが、大切なのだ。

 その際、根本的な教育目標を、抜け落ちぬようにしっかり確立する必要がある。

 日本人の子ども、在日韓国・朝鮮人の子ども、帰国・来日等の子どもがともに学ぶ状況を踏まえ、大阪市の新しい「在日外国人教育基本方針」にもとづいて、違いを違いとして認め合い、互いの人権を尊重しあえるためのカリキュラムの創造が求められる。そうした学校全体のカリキュラムに位置づけて、教科・道徳・特別活動とも関連を図りながら、総合的な時間の学習のカリキュラムも設定しなければならない。

 内容としては、すべての子どもが自らのアイデンティティーを豊かに育み、自己と他者の尊厳について学ぶこと、多文化共生社会の実現をめざし、国際化社会に対応する資質や能力を身につけ、多様な文化・習慣の違いを認め尊重し合う態度を育むこと、人権を侵害するような不合理や矛盾に気づく感性を育て、主体的に解決しようとする知識・技術・態度を育成すること、これらのことが重要だ。

 従来の在日朝鮮人教育を生かし、子どもの意識の流れの連続と発展を見取りつつ、カリキュラムの構造化を通して「知の総合化」と「学びの共有化」を図らなければならない。具体的な「育てたい力」として、民族・文化・歴史に関する知識、コミュニケーション能力、自己の尊厳、今日的な課題に対する関心、これらを獲得が大切な課題で、それを、子どもが学習の主体者となって、課題の把握→課題設定→追求→解決→高まり→意欲→さらなる追求、と、子どもの意識の流れに沿って、その連続と発展を見定め、それによって総合学習のカリキュラムを一年から六年まで組み立てる必要がある。

 民族学級がある学校では、日本人の子どもたちの目や耳に、とにかく色々なものが入るし、触れることもできる。これを生かして、この「日本人の子どもをどう育てるのか」を一つの軸にして、表面的な国際理解ではない教育を進める。その際、生徒の意識を大事にして、その意識の流れの中で、民族学級と原学級、学年を越えた教育を実現するようにしたいものだ。

 民族学級・クラブも、見ようとしなければ見えないままですんでしまう。学校全体の教育課程の中に、「とにかく入れてしまう」くらいの姿勢を持つべきだろう。

 総合的な学習の時間については、従来の総合学習を発展させて、新しく、小学校三学年以上では教育課程の中に週三時間設定されることになる。低学年では、生活科を大事にして、その中に総合的な学習の要素を加味していくことが必要だ。

 文部科学省が近々総合学習の補助資料を出すことになっている。そこでの英語の扱いが焦点になる。上から降りてくる前に、大阪独自の英語学習のプランを提出したいものだ。
 
 (この後、大阪市生野区の小路小学校の、講堂にコーナーを作って、民族学級でやっていることを学校のみんなが体験する機会を作る実践、西成区長橋小学校の、家族についての調べ学習、生野区新生野中の、必修の英語の時間に民族学級に行っている子どもがホームページを作る中でどんなこだわりを大事にするかの視点、北巽小学校のソゴチュムと和太鼓のセッションなど、色々な例が具体的に紹介され、最後に、次のように強調された。)

 「危機感を感じてほしいのです。総合の時間で、今までのさまざまな実践の保障ができるという有利な場合もあるでしょう。しかし他方、別のものに流れていってしまうおそれもある。だから、学校のカリキュラム編成の中に、柱として在日朝鮮人教育をきちんと設定できるかどうかが根本なのです。それができれば、小・中・高と、カリキュラムの中に民族学級、クラブの実践を踏まえて、これだけはというものが残って行くでしょう。」
 

討論
(会場からの意見)

・総合学習の予算をどう確保するかが問題。地域の人材バンクから人を呼ぼうとしても、予算がない。活性化事業、研究指定校、研究発表など色々利用して最高20万円程度のお金で、それでも「子どもが元気になる瞬間」を少しでも多く設定したいと思ってがんばっている。大阪市基本方針を利用して、予算化を図ることはできないだろうか

・学校予算自体が削られる中で、国や文部科学省のレベルでは、すべて英語に流れていっているのではないだろうか。神奈川ではALTとして在米コリアンを採用し、横浜の学校に配置されていると聞く。

・民族学級でキムチ作りをする時、民族学級の子どもだけから、日本の子もいっしょに作るとなると、また輪が広がる。それに呼応してくれるような教員があるかどうかが重要だ。

・朝鮮にルーツを持つ子どもたちに「自分のことをより深く知ろう」という実践をやっているが、そうした民族学級でやってきたことを総合学習でもやれないだろうか。教育課程内でも、生徒を分けて課題別にしてしまうと、日本人は担任、朝鮮人は民族講師におまかせ、となってしまう。設定の仕方にむつかしさがある。

・最近、中学から高校への願書が「通名だけでかまわない」となったのだろうか。中学から、「この生徒は通名で行きたい」と教師が高校へ電話をしている状況だ。

・教育研修会に5年生がプンムルで参加することになって、その練習をしようとしても、園芸の水やりなどが優先されて、練習への参加が難しいときがある。教育課程の外の民族学級はどうしてもしわ寄せを受け、一方、課程内では生徒を分割せざるを得ないという議論にもなる。学校教育方針の中、教育課程の中での位置づけの不十分さを、集中実践で打破していこうとしているが、教員自身の中には同和教育に対する偏見や誤解、民族教育に対するアレルギーもあって、実践を支える教職員集団作りは一朝一夕にできることではない。

・朝鮮人生徒は民族講師が必死になって指導している。一方、日本人生徒は各担任にまかされている。そこで、連携した国際理解教育をどう展開できるかが問題だ。

・『にんげん』実践はしなければならない、外国人教育も、それに学校の研究紀要も、という時に、みんないっしょにして、総合の時間を人権学習をテーマにすえて設定した。6学年のうち2学年が外国人教育に関わって展開し、グループで文化の内容を調べたり、音楽や家庭でもトラジをあつかったりした。また、全校で韓国・朝鮮の文化に触れる集いを開き、民族クラブの内容発表や本名の紹介をして、各クラスの子どもたちの応援を受けた。これまでやってきたことを、こうしてひきついで、発展させたい。
 

まとめ(宮木)

 「71年以来、私たちがこだわり続けてきたものを、総合学習の中に位置づけていこう。民族学級を、そのまま教育課程内に位置づけるのがよいのかどうか、それによってきちんと学校全体の中に位置付くかどうかについては、もう少し課題の整理をする必要がある。しかし、民族学級実践の内容を教育課程内にも入れ、日本人もいっしょにすすめる機会を作ることは、どんどん追求しなければならない。そうして学校全体で民族学級が受け入れられた時、安心するのは、朝鮮人の親が一番なのだ。そのように学校の雰囲気、学校そのものをどう変えるかが、最大のテーマではないだろうか。」

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