(そのとき きみは私を呼びとめはしたが)
岸田美智子詩集『夏の精に』より
 
田宮美智子さんを追悼する
 
 5月25日、栗田珠美さんと一緒に枚方市楠葉のお宅へ弔問に行った。おつれあいの田宮久史さんにもお会いするのは初めてだった。「むくげ」の(第66号までガリ版印刷だった頃は、枚方市役所で作られていたと聞く)初期の様子にかねがね関心があったが、美智子さんの、まだ署名もされていない絵の大作が掛かった部屋で、22日に突然の病気で亡くなった前後の事を、信じられないとつらそうに話される様子に、とても昔のことなど聞けなかった。

 田宮さんは、最近は絵画創作(抽象画)に打ち込まれ、個展も開かれていたが、案内をもらっても一度も行かずじまいだった。「読んでいただけるなら」といただいた岸田美智子詩集も何冊かあるが、芸術的感覚に欠けた自分には猫に小判でしかなかった。1983年だったかに、考える会の人々が中心になって詩集発刊のお祝いの会が開かれたことがあって、その時末席にいて頂いた『夏の精に』の奥書を見ると、「1936年生れ 島根県隠岐出身、1975年第1詩集、詩誌「阿礼」同人」とある。「阿礼」は、読んでもわからないのに、梅田の紀伊国屋で何度か見かけて買ったこともあった。


 
 長い間本誌「むくげ」の編集を担当され、67号以降本格的に印刷するようになった時にその誌面を作られたのが、稲垣有一さんと田宮さんだった。松屋町の印刷所に通って一緒に校正作業をした時には、厳密な一字一字へのこだわりと、筆者に返送しての確認に、教えられることが多かった。寺田町の事務所での発送作業やその後の食事の席で、話したことも忘れられない。

 「生徒集会でも、男の教師は全然だめね。生徒は聞いていないもの。うわべだけの言葉をよく見ているわ。朝文研の生徒がしゃべったら、どんなにたどたどしくても、それが本当の言葉だから、真剣に聞くのよ。」

 「私など、自分のことを言われているようで、だめな教師ですみません。」

 卒業生一人一人に詩を書いて渡すことなど、そんな様子もうかがった。

 東大阪市の樟蔭東(中学・高校の女子校)朝文研については、民族講師に依頼したり、いろいろ試行錯誤もあったようだ。しかし、小学校などの民族学級と高校の活動との違いは、指導のありかたとして重要な問題を含んでいる。田宮さん、吉田和子さんが協力しあって自主活動を育て、生徒たちは膨大な李珍宇書簡集を読んでそこに自分たちの気持ちを重ね合わせて行った。その朝鮮人生徒たちが全く自主的に企画運営した放課後の集会が開かれた。映画「絞死刑」(大島渚監督作品)が上映され、朝文研の訴えがおこなわれたその集会室は、生徒たちであふれんばかりだった。
 

 
 「自分が不合理だと思ったことにぶつからざるをえないだけ。」田宮さんはいつも言っていた。「死にたい」と作文に書いてくるのは、朝鮮人と被差別部落の生徒たち、ということも。ジャーナリズムの世界から学校現場に入り、国語の教員として「不合理」に直面し、学校の理事者と対立して圧迫を受け、担任をはずされたことに抗議して座り込み、ついに学校の中での自分の立場を確立した、その間のことも、詳しくは聞かずじまいだった。ただ、その間、学校の仕事がなかった時に、だから「むくげ」編集を担当するようになったと聞いて、何か納得したのだ。
 1979年の第1回全国研究集会から1983年の全朝教組織結成にかけて、田宮さんは常に大勢の人たちが押しかける実践報告の大阪のスターだった。広島の松谷さん、奈良の伊勢さん、京都の赤峰さんなど、各地域にそうした人々がいたものだ。
 「きれいなものはきれい。醜いものは醜い。美人を美人と言ってどうしていけないの。」(記憶違いがあるかもしれない。田宮さん許して下さい。)
 「生徒は変わるのよ。それを見ることができるから教師は楽しい。」
 人の心の真実に根ざし、マイナス(と思われている)のものが、ある時、劇的にプラスのものに転化するダイナミックな教育への視点は、「醜いアヒルの子から白鳥へ」の実践記録の表題にも現れている。それは、類型的な「差別反対」とはひと味違う自由な精神から出たものだろう。
 「むくげ」編集でも、個人執筆の原則で、自由な討論と責任を明確にされた。また、兵庫解放研に見られた「日本語縦書き」への固執には距離を置き、中野重治に傾倒するようなある種の文学趣味とも無縁だった。
 そのころの一夏、田宮さんに「中島敦を読んで、朝鮮との関係を調べてみない?」と言われて、全集を買い込んだ。参考にしてもらうのを楽しみにしていたら、さっさと自分で「むくげ」に書いてしまわれてちょっと残念だった。その後運営委員を退かれ、樟蔭東を退職された後も、折に触れて「鄭判秀裁判についてのあの文章はよかった」などと「むくげ」の感想をいただいていた。それがどれほど担当者の励ましになったことか。


 
 昨年の30周年集会の後、パーティー会場で、白髪の田宮さんが受付に座っていた。話す余裕もないままに終わって、帰り際、遠くから手を振ってあいさつされた。こちらも遠くから軽く会釈して、それだけだった。

 さようなら、そして、ありがとうございました、田宮さん!
                         (印藤和寛)

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背景は、田宮さんが育った島根県の隠岐諸島の地図。

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