大阪市教号外(2001.10.16)
<人権無視の「本名を呼び名のる」教育押しつけは許されない
  「外国人教育基本方針」は抜本的見直しを>について
 
「本名を呼び名のる」あたりまえの教育を
すべての学校で実現しよう
 
 昨年夏に発表された大阪市「在日外国人教育基本方針」については、教育現場にもさまざまな意見があります。ほとんどは30年前から繰り返されてきた議論で、いまさらの思いもありますが、若干の新たな問題も含まれるようなので、運営委員会やシンポジウムでの議論をもとに、二点にしぼってまとめてみました。(印藤)
 
(1)在日朝鮮人差別の現状把握について―偏見や差別意識はもうなくなったのか
 
 号外は次のように述べています。
<市教委は「はじめに」の中で……「方針」策定の根拠らしきことを書いています。しかし、”何処のだれの中に”「民族的偏見や差別意識」が「根強い」のかを実証する客観的なデーターを示していません>
<資料「あなたはこれまでんに自分自身が民族的差別を受けたことがありますか」
 ほとんどない28.0%、 まったくない30.5% (在日韓国青年会1994)>
 
 例えば、生徒の半数が朝鮮人で、それでも本名はせいぜい20パーセントだとしたら、それは「民族的偏見や差別意識」とは別のものでしょうか。

 差別事件だけが差別なのではありません。本名を呼べないでいる学校、教員、そして生徒同士のありかたこそが、差別的なのではないのでしょうか。人間の根本的なアイデンティティーの抹殺、それは「差別」などという言葉くらいではとても足りないほど重大なことです。「差別されたことはない」と口では言う在日朝鮮人の子どもたちが自分の心と体に引き受けて、一番苦しんできたのが、ほかならない、この点であることは、真剣に教師をして、少しでも朝鮮人生徒の気持ちを身近に知った者には、自明のことでしょう。

 号外の筆者は、部落差別に関わる問題が現在直面している議論と、在日朝鮮人問題をいっしょにしているのかもしれません。「差別はもうない」「同和教育は終わった」と。かっては、私たちに対して、「部落差別の問題と在日朝鮮人差別の問題を混同している」などと非難する声もありましたが、今日、私たちこそが、部落差別、また人権問題一般と、在日朝鮮人問題の共通点と相違点を、理論的にも実践の上でも、明確にしてきているのです。
 また、もう一つの視点から考えてみます。

 戦争責任も、戦後責任も、差別どうこうも、古い。新しい時代に、いつまでも謝罪では、わずらわしい。こうした一方の風潮に乗って、「新しい歴史教科書」も出現しました。いつまで「在日朝鮮人差別」を言っているのか、もう古い、と言うわけです。号外は、そうした「新しい」風潮と手を結ぼうとしています。しかし、「新しい」教科書も、その本質が「古い」ものであることは周知の通りです。

 この点で、古くからの「朝鮮人は差別されて当然」「本名など厚かましい」という感覚とともに「差別は古い」「戦争責任ももう済んだ」という「新しい」風潮が一緒になって、正確な現状把握そのものをゆがめてしまうことがないようにしたいものです。
 
 
(2)本名を「強制」することと、名前選択の自由について
 
 号外は次のように述べています。
<名のらなくても呼ぶのは人権侵害>
<人の名前は、本人が「名のる」から他者が呼ぶのであって、「呼ぶ」が先に来るなど社会通念上考えられない>
<本人や保護者に意向などにおかまいなく一方的に「本名を呼ぶ」人権無視の運動にはずみがついた。

 本名使用については市教委でさえ明記しているように「個人の意思が尊重」されなければならず、保護者、子どもの人権を大切にしあくまでも教育の条理にもとづいてすすめることが大切です。教育の場で強制などあってはなりません。>
 
 教育を仕事とする者は、教育の条理で考えなければならないのは、号外が言う通りです。しかし、もし号外の言うことが真実なら、日本人もすべて「本名」に関わりなく、「本名」など抹殺して、小学校1年生の本人がそれぞれ実際に「名のる」名前、親がこう呼んでやって下さいという名前を、そのまま教師も呼ぶべきだという主張をすればいいのです。教育の場では「本名」は本名である限り大切にしなければならないのは当然でしょう。「自分」というものが、「自分の名前」「自分のことば」が、そもそもどのようにして発生するのかという教育の問題、教育の条理は、大人の社会の通念とは、違うところもあるのです(この点は、昨今のプライバシー保護をめぐる議論でも同様です)。本人や保護者の意思を尊重することは当たり前のことですが、だからといって教育の場で「本名を呼ばない」ことは、当たり前のことではないのです。

 それに、ここで号外の筆者は「本名を呼ぶことが人権無視につながる」と自分で言っておきながら、そのこと自体のことがらの異様さには気づいていないようすです。「本名を呼ぶことが人権無視」とは!「本名を呼ばないことが人権無視」ではないのでしょうか。

 在日朝鮮人でなくとも、「本名を呼ぶ」などという当たり前の、何の疑問もないはずのことが、なぜか、はばかられるというのは、日本という国の、きわめて特殊な、国内的な特異性であって、少しでも国際的な感覚があれば、それがスキャンダルであることは自明のことです。「本名を呼ぶ」ことが「強制」だというのは、どういうことでしょう。このこと自体が矛盾した言葉と事柄です。

 もちろん、どういう場合でも、例外はありえます。学校は本名を呼ぶという原則が確立すれば、例外の場合は教育委員会で受け付ける、などのシステムが必要かもしれません。
 
 号外はまた次のように述べています。
<教育行政が施策としての援助をおこなうことがあっても、行政が「民族的アイデンティティーを確立する教育を勧める」ことがあってはなりません。市教委は、民族自決権を侵す過ちをただちに改めるべきです。
 「在日外国人」の子どもが、日本社会で「生きていく力」をつけるために学校教育が果たさなければならないことは、「学力」をつけることです。>
 
 大阪市内の朝鮮人小・中学生が教室で当たり前に本名を呼ばれ、本名で卒業するという最低限のことが実現すれば、その時、この号外の議論も考慮に値するかもしれません。しかし、だいたい、「民族的アイデンティティーを確立する教育を勧める」ことは、国際人権条約の上からも、今や当然のことではないのでしょうか。行政は、日本国籍の中での民族自決権を侵してはならないし、また、外国籍住民の民族自決権を優先して確立すべきなのです。

 号外のように、民族自決権と個人の自己決定権を混同しては話が混乱します。また、自己決定権の美名に隠れて教育の前提となる格差を容認してはならないことは、現在の教育改革の中でのもっとも重要な論点であることは周知のことです。「朝鮮人としての教育を受けたければ民族学校へ行け」という言葉がどれほどひどいことかは説明する必要はないでしょう。
 さらにまた、「生きていく力」、「学力」の一番根っこに、自己への少しの肯定が欠かせないことは、多少でも教育の場の経験があれば、自明のことです。

 「本名」の問題は、このような教育の根本に関わるがゆえに、大切だと認識されてきたのです。民族学校に行っていようが、日本の学校に通っていようが、すべての朝鮮人の子どもにとって「本名」が大切です。「学力」のためにこそ「本名」が重要です。「荒れる」生徒の行状を前にして、うわべの「学力」だけを言うことがいかに空しいものであるかを私たちは徹底的に体験してきたのです。「本名を呼び名のる」教育は、そうした中から必要に迫られて生まれた教育運動です。
 
 上記(1)(2)を総合すれば、号外の筆者は、「差別はもうないし、朝鮮人はずっと通名で呼べばいい」「朝鮮人は勝手に好きで通名を名のっている」と主張しているように見えます。「本名を名のらないのは、朝鮮人が勝手にしていることだ」とも。しかし、もしそれが本当だとすれば、「わざわざ本名を名のる」人は、どうなるのでしょう。「勝手に好きで本名を名のっている」から、さらに、「民族へのこだわりが特別に強い朝鮮人、そんな朝鮮人がわざわざ何もないところに波風を立てる。」 号外の言う現状認識は、そういう逆立ちした意識のありかたまで、もうすぐではないでしょうか。

 私たちは、かつての日朝協会、日朝教研の運動の達成成果、清水谷や汎愛高校での教育実践成果などから謙虚に学び、それを発展させてきました。最近では、扶桑社中学教科書をめぐる運動での歴教協に結集するさまざまな立場の人々の活動にも、敬意を払ってきました。市教の号外の筆者にも、ためにする議論をやめて、自分たちの仲間の過去の実践と現在の運動をしっかり検討することを勧めたいし、目の前の児童・生徒たちの未来の新しい可能性を少しでも切り開くために、ともに努力することを呼びかけるものです。

 せめて、朝鮮人児童生徒を朝鮮人として尊重しよう、フランス人児童生徒がいればするように。私たちの意図することは本当にささいな、当たり前のことにすぎません。大阪市「在日外国人教育基本方針」もまた、私たちの社会の、そうしたささやかな一歩なのです。

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