私と在日朝鮮人教育

 

「国の制度のことなど難しい問題はあるけれど、
それを変えていくのは私たち自身だ。」

という言葉に助けられて

 

                       川口祥子(前池田市立池田中学校)

  池田市での在日朝鮮人教育運動については、この間色々な形で本誌「むくげ」に紹介してきましたが、今回は、池田市外教事務局長を務められた川口祥子さんの実践記録を掲載します。(今年9月21日の府立池田北高校文化祭では、はじめて朝文研の発表がおこなわれ、特別出演の池田中学校生徒の演技「サジャの舞」もおこなわれました。)

  なお、本誌前号「池田市最初の民族学級開設」の記事の中で、呉服(くれは)小学校と書くべき所を神田(こうだ)小と誤記してしまいました。関係の方々にご迷惑をかけたことをおわびして、訂正します。(編集委員会) 



 
はじめに

   今年、33年間務めた中学校教員を退職した。在職中、社会科教員として、自分の課題にしていたことはいくつかあったが、その中でも大きなものが在日朝鮮人(外国人)教育であった。

 

 

 最初の勤務先、北豊島中学校で

    大学卒業後の二年間、私は教科書会社に勤務したが、男女均等の待遇で長く働くことのできる職をとの思いから教職を目指し、念願かなって、1969年4月池田市立北豊島(きたてしま)中学校に着任した。

 北豊島中学校は池田市の南部に位置し、伊丹空港にも近く、戦前、空港拡張工事に関わったといわれる朝鮮人が多く居住する地域を含んでいた。当時一クラスに1、2人いたように思うが、本名の生徒、自分の民族のことを明らかにしている生徒はいなかった。しかし教員は誰がそうであるかは書類を見てわかっていた。

 社会科の授業では、地理でも歴史でも、当然「朝鮮」という言葉が何度も出てくる。そのたびに教室にいる在日朝鮮人の子どもの心がゆれているのが感じられた。下を向く子ども、触れてもらいたくない、という反応であった。それが最初の出会いであった。

 二年目に初めて二年生の担任になった。クラスにI(男子)という生徒がいた。保護者との懇談の時、母親が「中学生になってから、友だちを家につれてこなくなりました。家には祖母もいるし、何か気にし始めたのでしょうかね。」という話をされたことはよく記憶しているのだが、その時の私は何をすべきなのかもわかっていなかった。1945年に池田市で生まれ高校まで市内で暮らしていたので、地域の状況については知っているつもりであったが、在日朝鮮人との接点は、大学での書物の上でしかなかったのである。    当時、校内の研究部会の中に在日朝鮮人教育の部会もあり、取り組みも模索されはじめていた。特にこの頃から在日朝鮮人の子どもを頂点とする一部の生徒たちの“荒れ”が深刻な問題となり、生徒指導の対策としても在日朝鮮人問題を考えねばならないという方向になっていった。校区内に朝鮮総連豊能支部があったのでそこを訪問したり、総連の人たちに教員研修会の講師として来てもらったこともあった。その席上「民族学校では“荒れ”とは関係のない充実した教育をしているので、日本の教員のできることは民族学校に連れてくることである」と言われた。しかし現実に起こっている出来事を前にして、私たちみんな頭を抱えていた記憶がある。

 二年生を担任した翌年出産し、その後しばらく担任をすることはなかったが、その頃の私の課題は、“授業中、朝鮮に触れるとき、在日朝鮮人の生徒が下を向かなくてよい授業をしたい”ということであった。そうでなくとも、自分が何者なのかを探し始める中学生という年頃は、ある面ではつらい年頃でもある。重い荷物を抱えて通り抜けねばならぬ思春期の年頃に、在日朝鮮人の子どもだけが更に、人に知られないように、“朝鮮人である”ということを重荷として抱えているのだ。それに対して私の出来ることは、授業の中身しかない。本名を名乗らなくとも、他の日本人の子どもに自分のことを明らかしなくてもいい。授業の中で“朝鮮”のことが出てきたとき「自分たちの民族の歴史や文化はそんなにすばらしいものだったのか」「日本との関係ではそんな事実があったのか」を知ってほしい。そして日本人の生徒にも隣国のことをきちんと理解してほしいと思った。そのためには、まず私自身が朝鮮のことについてよく知らねばならなかった。

 当時、私が学んだ場所が二つあった。一つは1971年に発足した「日本の学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の教育を考える会」の学習会であった。芦原橋の部落解放センターなどで行われた学習会に、一人で、時には同僚と、何度も参加し稲富進・杉谷依子・太田利信等々の発言に耳を澄ましていた。そこから出された数々の冊子は大切な教材となった。

 もう一つは新聞記事で見つけた、芦屋市の在日朝鮮人問題に関する市民講座である。時期は二学期頃で、テーマが設定され何回か続く講座であった。当時のレジュメをもう一度見たいと思うのだが、記憶に残っている講師は、鄭敬・朴慶植・李進煕・チョウ基亨・小沢有作というような人たちであった。「こんな有名な人たちの話を、30人程度の小さな部屋で、ただで聞くことが出来るなんて・・・」と驚きながら話を聞いた。教育に関して岡野克子さんも話をされた。翌年からは案内をいただくことができ、毎年楽しみにして通った。一つの地方自治体でよくあれほど充実した講座が開けたものだと今も思うが、数年続いた。

 

 

  李興さんのこと

  最初の勤務先で忘れられない出会いは『アボジがこえた海』(葦書房、1987年)の著者、李興さんである。この本は、1977年娘の東cさんの担任であった室田卓雄先生(現在、池田市立細河中学校校長)の働きかけで、最初は娘に語るという形で、後には自分で筆を執り、17歳で強制連行され、九州の炭坑での労働とそこからの脱出、解放の日までのことを綴ったものである。何回かにわけてタイプ印刷したものを葦書房の久本三多氏(故人・教科書会社時代の同僚であった)に送ったところ、すぐに出版したいとの返事が来た。北九州に腰を据えて出版活動をしていた久本氏の思いもこめられた、すばらしい本ができあがった。87年6月に開かれた出版を祝う会では、李順子さんに「アリラン」など朝鮮の歌を歌っていただいたことも忘れられない。

 その後も私は在日朝鮮人教育の問題でわからなかったり、迷ったりしたときは李興さんをたずねた。あの本の語り口のように、いつもおだやかで訥々としたお話のなかに、問題解決の糸口がみつかり、励ましをもらうことができるからである。

 私は李興さんが白い民族衣装を着て、故郷の朝鮮の畑で働いておられる姿をよく想像する。もし、強制連行ということがなければ、あの智恵深く、謙虚なお人柄ゆえに、きっと村の長老として慕われ、豊かでおだやかな老後を送っておられるに違いない・・・。歴史で植民地支配の学習をしたあと、生徒に体験を話をしていただいたことが何度かあるが、その存在の重みをどれだけ理解させることができたであろうかと今も思う。

 

 

  転勤して渋谷中学校で Iとの出会い

    1978年に私の母校でもある渋谷中学校に転勤した。ここでも学年に何人かは在日朝鮮人の生徒が在籍していた。何年からか記憶していないが、朝鮮の文化に触れる機会として「民族教育文化センター」から公演に来てもらい、農楽・タルチュム・マダン劇を全校生が鑑賞する催しをもつようになった。この準備や生徒への事前・事後の指導を通して、教職員の中にも在日朝鮮人教育への関心が少しずつではあるが広がっていった。最初の頃は高正子さんが、後には安聖民さんが演じた『ネ ハラボジ(私のおじいさん)』は、子どもの心をしっかりつかんで日本と朝鮮の歴史を考えさせるマダン劇であった。

 歴史の授業では、15世紀に世宗大王がハングルを作ったというところも大切な箇所である。「ハングルというのは、母音と子音を組み合わせた文字で、合理的でわかりやすく、世界でも優れた文字なのですよ」と言って“     ”などと黒板に書いて見せて「こんなふうになっているのですよ」と説明すると、関心を持った生徒は「では、○○○はどう書くの?」「△△△は?」と尋ねてくる。にわか勉強の私は「ほかは知らない」と言うしかなかったが、生徒のがっかりした顔を見るのがくやしくて、いつかはきちんと学習したいと思い始めた。

 1989年本名でI(男子)が入学してきた。彼は小学校低学年の時、担任のはたらきかけで両親も本名で通学させることを心に決めた、市内ではじめての生徒であった。私も勤務年数が10年を越えて転勤の時期が近づいていたが、彼が入学するなら担任したいと思っていたらそれがかなうことになった。入学式のすぐあとIの家を訪ねた時、お母さんはこう言われた。「本名で通っているということは“看板”を背負って歩いているようなものですから、そのことで息子がつらい思いをすることがないようにしてください」と。この言葉は私の心にずしんとこたえた。しかしIのお母さんは私に課題を提示するだけではなく、私がクラスや学年で取組みをするときはいつでもできるかぎりの支援をして励ましてくださった。

 最初の仕事は、この中学校に3つの小学校から入学してきているので、他の小学校から来た子どもたちとの関係を作っていくという重要な取り組みであった。当時、無着成恭の本で“自分の名前について考える”という国語の実践を読んでいたので、私はそれを真似て、五月の連休に「自分の名前について親に尋ね、自分の考えを書く」という宿題を出した。全員の文章を学級通信にのせ、それを「道徳(人権学習の時間ととらえている)」の時間に読みながら、在日朝鮮人について考える入り口とした。多くの子どもは自分の名前に親のどんな願いがこめられているか、自分はこの名前についてどう思っているかを書いてきた。

 Iはこう書いている。「ぼくの国では儒教の精神が根付いているため、女の人は結婚しても姓を変えないので父と母の姓がちがいます。日本のように親の名前の一字を取ったりすることはせず、兄弟で一字同じ字をつけることがよくあります。ぼくの名前は韓国読みしているので日本ではめずらしいと思います。自分の名前についてぼくは普通に思っているし、みんなもそう思ってほしいです。でもこの名前は大事にしていきたいです。」

 文化祭のクラス合唱では「      (故郷の春)」を歌ったり、新屋英子さんに来てもらって『身世打鈴』を鑑賞したり、Iがいることによって学校での取り組みを広げることができた。本名の子どもと学ぶことは、日本人の子どもにとっても異なる文化に触れる機会が増え、視野が広まることになったのではないかと思う。

 

 

  在日朝鮮人教育の広がり

   学校での在日朝鮮人教育は、池田市や大阪府の様々な教育運動とつながりをもって広がっていった。池田市では池同研(池田市学校同和教育研究協議会)の中の在日朝鮮人教育部会が中心となり、各校園での取り組みを交流し深めていった。とくに在日朝鮮人の家庭訪問を丁寧に行い、保護者と話をする中で保護者の願いを聞くという取り組みを大切にしてきた。ほとんどが通称名の家庭であるので、通り一遍の家庭訪問では「日本の子どもと同じにしてもらえればそれでいいです。」と言われるが、教員の姿勢が伝わると、民族についての親の思い、どうして「在日」することになったのかなどを聞かせてもらえるようになった。そして在日朝鮮人教育の取り組みをする時には様々な協力をしてくださる保護者が増えていった。

 池教組(池田市教職員組合)の活動の中にも在日朝鮮人教育はしっかりと位置づいていた。チャンゴを購入して練習をはじめたのも教組運動からであった。大阪教組ができるまでは、大教組の中の15単組が年一回「在日朝鮮人教育研究集会」を行っており、そこで先進的な市の取り組みから学ぶことも多かった。

 1989年1月8日、共同利用施設井口堂会館で第1回「在日朝鮮人親子と教職員の集い」が池教組の主催で行われた。西村猛執行委員(現委員長)が中心となって準備をし、初めて在日朝鮮人のなかまが集まる場が作られた。前年から自粛強要の動きがある中、直前に天皇の死という出来事があり、施設の関係者からも「今はどんな時かおわかりですね」というような言葉を言われたが、みんなでチャンゴをたたいて会の発足を喜び合った。この会は年2回7月と1月に開かれ、市外教に受け継がれている。

 1992年府外教が創設され、府内各地で運動が進む中、多くのひとびとの尽力で翌1993年7月1日池田市在日外国人教育研究協議会が発足した。会長に土橋巌北豊島中学校長、副会長に室田卓雄石橋中学校教頭、東元順子北豊島幼稚園長、西村猛池教組書記長が就任し、実際に事務局を担当したのが太田静賀(秦野小)河村恵子(石橋南小)大上一枝(北豊島小)と事務局長の私の4人であった(池同研・進保協の事務局からもつながりをもつ意味で代表が市外教事務局に加わっていた)。

 私は在日朝鮮人教育に関心はあったものの、組織や運動との関わりを持った経験もなくただ右往左往していた。公的な組織となっても時間的な保障は何もなく、しかもその年、細河中学校に転勤したばかりでもあった。しかし細中は同推校であったので、同担はじめ教職員の理解があり、出張も多かったが気持ちよく活動ができたことはありがたかった。 その頃池田でも中国やフィリピンなど「新渡日」の子どもの課題も増え、よく夜遅くまで事務局会を開いた。時間的な持ち出しは組合の執行委員をしていると思い、仕事の中身は「道のないところを歩いている」と考えれば、府外教や他から学ぶことが多いのだから、やりがいのある仕事だとみんなで言い合った。

 その年11月に広島県福山市鞆の浦に一泊の設立記念研修旅行を行った。講師として来ていただいた印藤和寛さん(府立外教事務局長)にはその後も何かとお世話になることとなった。翌94年は近江路の雨森芳州庵と石塔寺、95年は京都方面の丹波マンガン記念館・高麗美術館・東柱詩碑(同志社大)、96年は和歌山に李梅渓の墓と岬町の強制連行跡、97年は三泊四日で韓国へ、98年尼崎の錦繍文庫、99年高槻のタチソと交野の強制労働跡、00年京都東九条と広隆寺、01年は一泊で対馬へ、02年は夏に御幸森小学校で民族講師の李 紀さんに話をしていただいた後コリアタウンのフィールドワーク、10月には一泊で岡山県牛窓の唐子踊りを見に行く予定である。毎年の研修会は、高校の先生や保護者の参加もあって、企画する事務局にとっても楽しい催しである。

 

 

 民族学級の必要性

   1994年1月から、これまでの「在日朝鮮人親子と教職員の集い」は市外教が主催することになり、この時は午後に車千代美さんとニューコリアアカデミーのコンサートを鑑賞した。7月からは会の名称を「池田オリニモイム」と名付けるとともに、民族講師を招くことにした。これまで、在日朝鮮人のこどもたちが「なかまに出会い、民族の文化にふれる場」を作ってきたが、さらに「ソンセンニムに出会う場」が必要だと考えたからである。安聖民・李 紀・姜孝裕・洪薫子さんたちが来てくださった(毎回二人ずつ)。子どもたちの顔には、日本人教員に見せるのとは少し違う、信頼と喜びの表情が表われているように見受けられた。運営に関わる教職員も新しく質の高い教材に出会い、自分のクラスに生かすことができるようになった。

  市外教が発足する少し前から、山本有美子・谷田真知子・渡辺由佳・越智弘子・皇甫康子さんら教職員・保護者がチャンゴを練習する会を作って活動をはじめていた。そのメンバーが中心となり、子どもたちの出会う場が年二回のオリニモイムだけでは少なすぎるということで、月一回第二土曜の午前中に子どもたちが集まりチャンゴの練習をする場を作っていった。その子どもたちの会は「ケグリの会」と名付けられ、93年8月には民族衣装を着て市民カーニバルに繰り出し、95年には府外教豊能大会でも練習の成果を披露するようになった。そのような活動を続けていくうちに、子どもたち・保護者は、チャンゴだけではなく言葉や文化など幅広く学びたい、そのために民族講師のソンセンニムに来てもらいたいと願うようになっていった。

 私が最初の勤務先にいた頃(1970年代)、池田市に民族講師が一人おられた。池田小学校の名簿の中に、姜・・という名前があり、市内の研究集会の在日朝鮮人教育分科会に講師として参加されていた記憶がうっすらとある。どんな仕事なのかなと思ったことはあるが、その先生がいつからおられなくなったのか、そのとき組合などでなんらかの動きがあったのかは記憶にない。後になって1948年「阪神教育闘争」について知り、その先生が「阪神教育闘争」後の覚え書きによる朝鮮人教員の一人てあったことを知った。先輩たちに、なぜ池田の籍がなくなったのか聞いてみたが、答えは様々であった。言えることは、私も含めてそのときの教員には、在日朝鮮人教育に関する視点が欠けており、そのソンセンニムと手をつなぐことができなかったということである。もし現在、池田に常勤の民族講師がいたらどんなにすばらしいことであろうか。池田だけでなく豊能全体をもカバーしてもらえたであろう。

 しかし、過去の失敗にこだわっていてもどうしようもない。“「ケグリの会」を民族学級に”、と市外教の方針に掲げ続けているが、市の教育行政は民族学級の視点はもっていなかった。子どもたちのために早急に何とかしなくてはと組合に支援を求め、ようやく97年9月から、姜孝裕さん(守口2中民族講師)に月一回来てもらうことになった。実現した時の子どもと保護者、日本人教員の喜びはとても大きなものであった。それからもう5年、姜孝裕さんは民族講師会の代表をはじめとして様々な役職をかかえながら池田に通い続けてくださっている。幼稚園から中学生までの、さまざまな個性を持つ子どもたちに対し細やかに寄り添い励ますとともに、保護者にとって信頼できる相談相手にもなってくださっている姜孝裕ソンセンニムに対する感謝の気持ちはことばでは表し得ない。ただ、池田の教職員が力をつけて在日朝鮮人教育を発展させる以外にはないのだ。

 

 在日朝鮮人の子どもたちが集まる月一回の「ケグリの会」にソンセンニムが来てくださるようになったので、「池田オリニモイム」は1999年10月31日の石橋南小での第12回から”子どもたち(主には日本の)が朝鮮の文化に触れる集い”に性格を変えることになった。市内の幼・小・中全員に案内を配布したところ、250余人の参加があり、うれしい悲鳴をあげた。午前中は、ことば・楽器・遊び・工作・チョゴリを着て写真を撮ろう、の5つのコーナーを選んで参加し、午後は体育館に集合してポドルフェ(柳会

)の李沙羅さんの舞踊を鑑賞した。00年度、01年度には箕面セッパラム劇団に来ていただき「不思議のチャンゴ」と「チャンマ・イヤギ(雨よ降れ降れ物語り)」を鑑賞した。

 

 これまで「集い」から市外教の設立など、池田の運動を記してきたが、このように運動が発展することが出来たのは、子どもたちの民族的自覚を育てたいという保護者の方たちの熱い支援があったからである。保護者と一緒に歩んできたという思いがする。

 少数在籍の地域であるが、本名で通わせている家庭も数家庭あり、保護者たちは全国保護者会や韓国のオリニジャンボリーに参加して、他府県・他市の保護者からも学んでこられた。保護者会を組織し、通信を出したり、中国・フィリピンの保護者と交流を持ったこともあった。お子さんが中学校を卒業したあとも、ケグリの会や池中朝文研の指導をしてくださっている皇甫康子さんは、保護者会の理論的リーダーであり、その存在は大きい。(『むくげ』167,168号を参照)「ケグリの会」の送迎やおやつの世話をはじめ、子どもたちが活動する場にはいつも保護者会の姿があった。

  2002年度から、呉服小学校に「国際理解教室(母国語学級)」が開設されることになった。これも保護者たちのねばり強い働きかけによるところが大きい。今年度は月一回姜孝裕さんが来てくださることになった。6月26日の開講式には8人の子どもと3人の保護者が出席したが、子どもの在籍する学校で、平日に行われることの意義は大きい。この試みが市内の他校にも広がってほしいものである。

 

 

  最後の勤務先、池田中学校で

   2000年4月、池田中学校に3度目の転勤となった。その際、池田市外教の事務局長を谷田真知子さん(五月丘小)と交代して、事務局員に加わることとなった。この学校は20年以上も民族学校(今は北大阪朝鮮初中級学校)との交流の歴史があり、毎年種々の形で生徒や教員の交流を行っている。本名で通う在日朝鮮人の生徒もここ数年続いており、中国・フィリピンの生徒も在籍している。従って、管理職や教職員は在日外国人教育に対する意識も高く、学校行事やさまざまな場面で取り組みがおこなわれている。朝鮮文化研究会は生徒がいないときもあったが維持され、現在では在日朝鮮人のP(男子)を部長にチャンゴやプチェチュム(扇の舞)、サジャチュム(獅子の踊り)の練習を行い、地域の行事にも参加している。

  2000度、私は3年生選択履修を持つことになったので、前任校でもやったことのある「朝鮮の文化にふれる講座」を開くことにした。本名の生徒のいる学校で、朝鮮の文化に関心をもつ生徒が少しでも増えてほしいと考えたからである。内容はハングルの読み書きと簡単な会話を中心に、時事問題・調理実習・歌・チャンゴ練習などといったものである。チャンゴの指導には山本有美子さん(神田小)にきてもらった。選択の時間のせいか生徒の意識は高く、高校生になったらラジオ講座でハングルを勉強したいという生徒もできてうれしいことであった。この講座でチャンゴを経験した生徒たちが、文化祭でのチャンゴ演奏の中心になってくれた。2001年度も同様に行った。

  2001年度は3年生の担任となった。前年度2年生で歴史を教えた生徒たちである。歴史の中で日本と朝鮮との関係については古代からのつながりとともに、近現代のところでなぜたくさんの在日朝鮮人がいるのかを理解できるように努めてきた。学年には二人本名の生徒がいた。3年では基本的人権のなかで、在日朝鮮人の人権についてしっかり学ばせたいと思ってはいたが、私の中に次のような疑問が芽生えていた。「知識として注入することは簡単であるが、残るものはほとんどないであろう。幸いにも本名の生徒と学ぶ機会に恵まれた日本人生徒が、在日朝鮮人の問題はともに学んでいるPやKに関わることであり、日本人である自分自身の問題であると考えることが出来るようにするには、どのように授業を組み立てたらいいのだろうか。」ということであった。一学期・二学期の憲法学習では、戦後補償や参政権なども新聞などの資料を使った学習をするしかなかった。悩んでいるうちに二学期も終わり近くなり、12月に、学年の人権学習の取り組みの一つとして、池田市役所で本名で働いている、金輝美さんの話を聞く機会があった。20代半ばの金輝美さんのしっかりした生き方に、生徒たちは深い感銘を受けた。

 その中でPはこのように書いている。

 「一番印象に残ったことは、通名で生きていたころ、みんなが在日のことを悪く言っていた、というところ。でも、みんなガキだからわからなかったのだと思った。

 今までの人と違って自分と同じ三世で年も近いからほとんど自分と同じ生き方だと思ったが、最初通名だったというところだけが違った。自分はいつから在日と知ったかは覚えてないけど、ものごころついた頃には知っていて本名も名乗っていた。本当はくらべるのはきらいだけれど、一世、二世のころにくらべると完ぺきとはいかなくても、十分な知識をもった人が増えてきたと思う。だけどそれはまだ一部であって、まだ知識の少ない人もいるから、その人たちに教えていくのはこれから自分たち(知識のある人)がない人にめんどくさがらずに教えていけるような社会をめざしてほしい(めざす)。 俺のまわりにも少しだけ在日の人がいるけど、本名を名乗っていないので、高校生になってからでもいいから本名を名乗ってほしい。

 来年から登録証を持たないといけないから、かなりそくばくされるみたいでいやだ。人に差別されても精神が強けりゃなんとかのりこえられるけど、登録証は形があって、ずっと持っていなくてはならないからいやというよりうっとうしい。

 これは全然関係ないけど、俺はくらべられたりくらべたりするのが大きらいで、おとなたちが、世界の人々はどうこうやのにお前らは幸せやぞとかいわれたことがあるが、そこに行ったわけでもないくせに簡単に言うなとか思ったりしてきていて、そういうときに俺はどっちと考えたことがあって、世界の前に自分の国の中を考えろと思っていた。俺は人のためになるおとなになりたい。(原文のまま)」

 3学期に、 本人の許可を得てこの感想文を使い、この中の外国人登録証明書のことから外国人の人権について考えることにした。証明書とは実際どんなものなのか、外国人登録の歴史(少し前までは指紋押捺もあったこと)、それ以外に基本的人権が保障されていないと思われる事項の復習、自分の考えを書きみんなの感想を読む、という合計4時間の授業を行った。生徒たちは、この問題は一緒に学んでいるなかまが投げかけたことなので真剣に考えはじめた。同じ教室に座っているなかま、同じ学年にいるなかまが“いやだ”“うっとうしい”と思っているものは何なのかを、普段はなかなか授業に集中できない生徒もこの時は緊張して考えてくれた。

 まもなく卒業式。答辞作成委員は3年間を振り返る全員の文章をもとにして答辞を作成していったが、その中にこんな一文がある。

  Pの文の下線部分を引用したあと、「この作文を読んで、日本に生まれ私たちと一緒に学生生活を送ってきた友だちが、国籍が違うというだけでこのような思いをしていることを知った。私たちは、日本と朝鮮・中国などの歴史について学んだり、日本で暮らしている外国人の人権が十分に保障されていないという現実も知った。今のままだと、私たちが20歳になったとき参加できるはずの選挙にも一緒にいけない。そう考えるとつらい。国の制度のことなど難しい問題はあるけれど、それを変えていくのは私たち自身だ。だからこれからも“いろんな立場の人を認めあう、大切にするというのはどういうことなのか”“そのため自分は何ができるか”ということを考え続けていく。」

  Pの感想文に助けられて、私のその年度の課題を少しは果たすことができた。

答辞にこめられたような気持ちをもった生徒たちが成人するのを楽しみにして、私は教員生活をひとまず終えることにしよう。

 

 

  おわりに

   夏の短期講習に続いて秋から再びソウルに行き、韓国語を学びながら暮らす予定である。これまで出会った在日朝鮮人の人間的魅力とその国への関心から生じた夢、「そこで暮らしてみたい」を抑えがたくなったのである。しかし、仕事をする中からこのような「夢」を持ち得たのは本当に幸せなことではないかと思う。そこで得たもの、感じたことを帰国して生かす場があるかどうかはわからないが、まずは朝鮮半島の空気をたっぷり吸ってきたいと思っている。            (2002.9.20)

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